判官贔屓の恋

第六話

 弁木(わけぎ)先輩が僕の背中を押す手を緩めた。
 それでようやく、弁木(わけぎ)先輩という存在にだけ傾けていた意識を、目の前の現実へ戻す。
 顔を上げると、四人の先輩たちが道着にも着替えず、剣道場に立っていた。
 その姿に、妙な違和感を覚える。
(……何、渡してるんだろう?)
 背後にいる弁木(わけぎ)先輩に目を向けると、いつも鋭い一重の瞳が、いつも以上に厳しく細められてる気がして、知らずきゅっと喉が詰まる。

「……辞めるって、何でだ? 三年にとって最後の夏だろう。夏のインターハイまで頑張る、って言ってたじゃないか」
 真田先輩のどうして、と問うような声音に、僕は息を呑んだ。
「大学受験のこと考えると、そろそろ本気で勉強しないとヤバいって言われてさ」
「真田は推薦もらえるだろうから、別に気にしなくてもいいだろうけど」
 うんうんと頷きあう四人の先輩達は、まるで決められた台詞を、ただ口にしているだけのように見えた。
返ってくるであろう真田先輩の言葉を想定して、真正面から受け止めずに、受け流そうとしているようにも見えた。
 僕は固唾を飲んで成り行きを見守りながら、ふと思った。
(――退部届を出すなら、今じゃないか?)
 この状況に便乗して、さっと退部届を出してしまえば、あれこれ問い詰められることはないんじゃないだろうか。

 だって入部して、まだ三週間のペーペーだ。
 もし僕がヒヨコなら、お尻に卵の殻をくっつけたままの存在だ。そもそも期待されるような部員でもないし、僕と四人の先輩、部にとって必要なのはどちらかを考えれば、答えは明白だろう。

 僕は、懐に忍ばせていた退部届に、道着の上からそっと触れた。
(――きっと、今しかない!) 
 目を閉じ、ひとつ深呼吸をした。
 走馬灯のように瞼の裏に現れたのは、竹刀で頭のてっぺんを叩かれ、たんこぶができていないか何度も頭の形を確かめたこと。
 防具が邪魔で足元が見えず、うっかりつまずいて転んで、涙目になりながらも必死に起き上がったこと。

(――ここまで、本当によく頑張ったじゃないか)

 僕は心の中で、自分を大いに褒めてやった。
 そして、意を決して、立ちあがろうと片膝を立てる。
 お尻を持ち上げようとした、瞬間――
 背後から伸びてきた、弁木(わけぎ)先輩の大きな手に肩を掴まれ、そのまま引き戻された。

(――弁木(わけぎ)先輩っ!?)

 しかも、そのまま弁木(わけぎ)先輩が背中にぴったりくっついてくる。
(えっ? えっ!? あっ、やばい、背中が胸に当たってる……! 厚い胸板、プライスレス!)
 内心でパニックを起こしていた僕の耳元に、弁木(わけぎ)先輩が顔を寄せる。
「……凪、分かるけど、ここは口出ししないでおこうぜ。俺らが行ってもややこしくなるだけだろ」
 ぼそぼそと、耳元で囁かれた言葉に、ぞくぞくっとしたものが背筋を走っていく。
 だけどそれ以上に、ヴァニラの甘い香りが近い。
 スンスンと鼻を動かしながら、弁木(わけぎ)先輩の匂いを堪能しまくる。
(……めっちゃ、ヴァニラの甘い、いい匂い〜)
 僕は、すっかり退部届を出すタイミングを失ってしまったのだった。