第五話
「遅くなりました! 失礼します!」
剣道場へ入るときは、立ち止まり、声を上げ一礼してから入ること。
それは入部して、一番最初に教わった礼儀作法のひとつだ。
特に剣道は、礼節を重んじるスポーツで、礼に始まり礼に終わる。対戦相手への敬意を忘れないこと、道具に感謝すること。
そして、その全ての始まりは、入室する時から始まること。
部長である真田からそう説明を受けたあと、実際に弁木先輩がしているのを見たら、ますます身が引き締まった気がした。
僕が剣道場に入ると、一番に探してしまうのはいつだって弁木先輩の姿だ。
でも、いつもすぐに見つかるのは、僕の目が特別だからなのか、弁木先輩が剣道部で一番背が高くて、存在感があるせいなのかは、わからない。
弁木慶次郎。
僕が剣道部に入ることになったきっかけを作った先輩。
二年二組、出席番号三二番。身長一八二センチ、体重七二キロ。
黒い髪に切長の瞳。
前髪は重ためで、襟足は刈り上げていて、月に一度は散髪に行く。店は、高校生割引がある床屋さんで、家から徒歩八分程度の“バーバー狩野“。
髪型は、そこの店主のおすすめヘアであり、弁木先輩がお願いしているわけではない。でも、今更違う髪型にしたい、とも言い出せず、ここ数年同じ髪型になっているらしい。
僕が、そんなどうでもいい情報を羅列したのには理由がある。剣道場の端の方、いつものように柔軟体操をする先輩の髪が散髪したてだったからだ。
髪の毛を切ったばかりの先輩は、いつもは見えない眉毛がチラリと見えるのがポイントの一つでもある。
「――凪、」
片手を上げられ名前を呼ばれた僕は、フラフラと吸い寄せられるように近づいていった。
僕はいつもそうだ。胸に退部届を忍ばせ、今日こそ出そう、今日こそ、と思いながらも、弁木先輩の誘惑に抗えない。
まるで真夜中に光に誘われる蛾、いや、チーズに引き寄せられるネズミに近いのかもしれない。
だけど、でも、それにしたって――どうして、僕はこんなに意志が弱いんだ!
僕は弁木先輩の後ろに回り込むと、そっと背中を押した。柔軟体操の時に、足を開いた先輩の背を押すのが僕の日課。どうやら僕の力加減が絶妙らしく、入部してからずっと、弁木先輩の背中を押している。
少し筋肉質で、弾力がある大きな背中。
「今日、遅かったな。日直?」
「ノートの提出し忘れてて、先生に怒られて……」
「あー、数学?」
「……はい」
もしかして、提出忘れるとか、だらしない、って思われたかな。
そんな不安が頭を掠める。腰のあたりに体重を掛けながら押すと、弁木先輩がさっきよりも深く体を前に倒していく。
(今日の柔軟剤……! 甘いヴァニラの香りだ)
毎回、柔軟の時に、これ幸いと先輩の道着の匂いを嗅いでいるなんてことにも、気づかれないようにしなければならない。
弁木先輩の家は、こだわりが強いから、お姉さんが洗濯担当なんだそうだ。そして、お姉さんの気分次第で、ほぼ毎日違う柔軟剤で洗濯されている。
さらには、先輩自身もそんなお姉さんに「汗臭い男は嫌われる」と、常日頃から臭いを気にするように指導されている。
そのおかげで弁木先輩は部活動後も、汗臭い匂いなんか一切させずに、いつもいい匂いに包まれているのだ。
そして体勢を元に戻すと「俺もやったことある」と、笑うのが見えてホッとする。
ふ、と笑った時に見える八重歯がすごく好きだ。
いや、違う。別に僕は八重歯フェチじゃないし、歯並び大好きマンでもない。ただ、弁木先輩の八重歯はなかなか見えないから、好きなだけ。
「それより昨日、先に寝ちまってごめんな?」
内緒話をするように、小さな声で問いかけてきた弁木先輩に、僕はポポポっと頬に熱が集まってくるのを感じながらも「気にしてません」と答えた。
実は昨日、弁木先輩から電話が掛かってきた。
いや、突然じゃない。
「夜、電話してもいいか?」
そう確認された上での電話だった。
内容は、剣道に関することばかり。中でも真田先輩の太刀筋について、延々と語っていた。
そんな最中、だんだん眠くなってきたのか、弁木先輩の声が途切れ途切れになったと思ったら、そのまま夢の世界へ旅立ってしまった。
図らずとも寝落ち電話になったことを理解した僕は、耳元に置いたスマホから聞こえる弁木先輩の寝息に興奮して、逆に眠れなくなってしまった。
だが、そこはこの僕。
電話を切ることもせず、部屋中の電気を消して布団に潜り込む。
そして、隣に置いた抱き枕の上にスマホを乗せた。
――エア弁木先輩の完成である。
同じベッドで弁木先輩と眠っている、というシチュエーションを作ってみた。
結果。
さらに眠れなくなった。
(何をやっているんだ、僕は)
上がる体温と、高鳴る胸の鼓動。
何なら、弁木先輩の体温まで感じられそうで――
「……っ!」
思わず雄叫びを上げてしまった。
すると、電話の向こうで弁木先輩が、短く唸り声を上げた。それが可笑しくて、僕は小さく笑った。
その時だった。
(あぁ……きっと僕は、弁木先輩のことが好きなんだ)
そう思ったら、一気に気が楽になった。
剣道部に入りたいと思ったのも。
剣道場に入って、真っ先に弁木先輩を探してしまうのも。
先輩の匂いが気になって仕方ないのも。
先輩から電話が来ただけで眠れなくなるのも。
全部、弁木先輩が好きだからなんだ。
ようやく理解した時、胸にウサギでも詰め込んだみたいに、くすぐったくて、柔らかくて、嬉しくて。
そんな不思議な気持ちに、初めて名前をつけることができた。
結局、僕が眠れたのは明け方の四時頃のことで、ほぼ気絶するように眠りについた気がする。
同性を好きになることに戸惑いはあった。
だけど、これが本当の恋なのかは、正直な所、わからない。
何せ恋をしたことが無かったのだから、確信が持てなかったのは、当たり前のことかもしれない。
ただ、好きっていう気持ちが、性別とか年齢とかを超えてしまうことはあると思うんだ。
だけど、弁木先輩がどう考えているかは分からないし、聞いたこともなければ、聞く勇気も出なかった。
目を覚ました時、通話は切れていて、一緒に眠ったはずの弁木先輩は、幻のように消えてしまっていた。
自分の中の想いを自覚した僕は、先輩との距離を間違えないように気をつけないといけない、と改めて思った。
警戒されて、先輩後輩でいられなくなるのは寂しい。
そう思うのに、弁木先輩は僕を気軽に呼びつけるから、嬉しいけど、少し困ってしまう。
交代で弁木先輩に背中を押してもらっていると「なぁ、凪は昨日寝れたか?」と、耳元で囁かれて、抱き枕のエア弁木先輩を思い出した僕は、耳を赤くさせながらも、何とか頷いていた。
「もっと、足広げろって。それじゃ柔軟の意味ないだろ」
そう言いながら、弁木先輩に背後から両太ももを開くように手を置かれ、ぐいぐいと背中を押してくるのに、痛い! 背中に感じる先輩の体温! でも痛い! でもヴァニラに包まれる! を、ひたすらに繰り返していた。
こんな風に、全身全霊で弁木先輩という存在に意識を傾けていた僕は、ちっとも気づかなかったんだ。
僕の目の前で、剣道部に激震が走る出来事が、今まさに起ころうとしていることに。
「真田。悪いけど俺ら、剣道部辞めるから」
入部して三週間で退部届を毎日持ち続けていた、この僕を出し抜いて――
真田部長以外の四人の三年生が揃って退部届を突き出していた。
「遅くなりました! 失礼します!」
剣道場へ入るときは、立ち止まり、声を上げ一礼してから入ること。
それは入部して、一番最初に教わった礼儀作法のひとつだ。
特に剣道は、礼節を重んじるスポーツで、礼に始まり礼に終わる。対戦相手への敬意を忘れないこと、道具に感謝すること。
そして、その全ての始まりは、入室する時から始まること。
部長である真田からそう説明を受けたあと、実際に弁木先輩がしているのを見たら、ますます身が引き締まった気がした。
僕が剣道場に入ると、一番に探してしまうのはいつだって弁木先輩の姿だ。
でも、いつもすぐに見つかるのは、僕の目が特別だからなのか、弁木先輩が剣道部で一番背が高くて、存在感があるせいなのかは、わからない。
弁木慶次郎。
僕が剣道部に入ることになったきっかけを作った先輩。
二年二組、出席番号三二番。身長一八二センチ、体重七二キロ。
黒い髪に切長の瞳。
前髪は重ためで、襟足は刈り上げていて、月に一度は散髪に行く。店は、高校生割引がある床屋さんで、家から徒歩八分程度の“バーバー狩野“。
髪型は、そこの店主のおすすめヘアであり、弁木先輩がお願いしているわけではない。でも、今更違う髪型にしたい、とも言い出せず、ここ数年同じ髪型になっているらしい。
僕が、そんなどうでもいい情報を羅列したのには理由がある。剣道場の端の方、いつものように柔軟体操をする先輩の髪が散髪したてだったからだ。
髪の毛を切ったばかりの先輩は、いつもは見えない眉毛がチラリと見えるのがポイントの一つでもある。
「――凪、」
片手を上げられ名前を呼ばれた僕は、フラフラと吸い寄せられるように近づいていった。
僕はいつもそうだ。胸に退部届を忍ばせ、今日こそ出そう、今日こそ、と思いながらも、弁木先輩の誘惑に抗えない。
まるで真夜中に光に誘われる蛾、いや、チーズに引き寄せられるネズミに近いのかもしれない。
だけど、でも、それにしたって――どうして、僕はこんなに意志が弱いんだ!
僕は弁木先輩の後ろに回り込むと、そっと背中を押した。柔軟体操の時に、足を開いた先輩の背を押すのが僕の日課。どうやら僕の力加減が絶妙らしく、入部してからずっと、弁木先輩の背中を押している。
少し筋肉質で、弾力がある大きな背中。
「今日、遅かったな。日直?」
「ノートの提出し忘れてて、先生に怒られて……」
「あー、数学?」
「……はい」
もしかして、提出忘れるとか、だらしない、って思われたかな。
そんな不安が頭を掠める。腰のあたりに体重を掛けながら押すと、弁木先輩がさっきよりも深く体を前に倒していく。
(今日の柔軟剤……! 甘いヴァニラの香りだ)
毎回、柔軟の時に、これ幸いと先輩の道着の匂いを嗅いでいるなんてことにも、気づかれないようにしなければならない。
弁木先輩の家は、こだわりが強いから、お姉さんが洗濯担当なんだそうだ。そして、お姉さんの気分次第で、ほぼ毎日違う柔軟剤で洗濯されている。
さらには、先輩自身もそんなお姉さんに「汗臭い男は嫌われる」と、常日頃から臭いを気にするように指導されている。
そのおかげで弁木先輩は部活動後も、汗臭い匂いなんか一切させずに、いつもいい匂いに包まれているのだ。
そして体勢を元に戻すと「俺もやったことある」と、笑うのが見えてホッとする。
ふ、と笑った時に見える八重歯がすごく好きだ。
いや、違う。別に僕は八重歯フェチじゃないし、歯並び大好きマンでもない。ただ、弁木先輩の八重歯はなかなか見えないから、好きなだけ。
「それより昨日、先に寝ちまってごめんな?」
内緒話をするように、小さな声で問いかけてきた弁木先輩に、僕はポポポっと頬に熱が集まってくるのを感じながらも「気にしてません」と答えた。
実は昨日、弁木先輩から電話が掛かってきた。
いや、突然じゃない。
「夜、電話してもいいか?」
そう確認された上での電話だった。
内容は、剣道に関することばかり。中でも真田先輩の太刀筋について、延々と語っていた。
そんな最中、だんだん眠くなってきたのか、弁木先輩の声が途切れ途切れになったと思ったら、そのまま夢の世界へ旅立ってしまった。
図らずとも寝落ち電話になったことを理解した僕は、耳元に置いたスマホから聞こえる弁木先輩の寝息に興奮して、逆に眠れなくなってしまった。
だが、そこはこの僕。
電話を切ることもせず、部屋中の電気を消して布団に潜り込む。
そして、隣に置いた抱き枕の上にスマホを乗せた。
――エア弁木先輩の完成である。
同じベッドで弁木先輩と眠っている、というシチュエーションを作ってみた。
結果。
さらに眠れなくなった。
(何をやっているんだ、僕は)
上がる体温と、高鳴る胸の鼓動。
何なら、弁木先輩の体温まで感じられそうで――
「……っ!」
思わず雄叫びを上げてしまった。
すると、電話の向こうで弁木先輩が、短く唸り声を上げた。それが可笑しくて、僕は小さく笑った。
その時だった。
(あぁ……きっと僕は、弁木先輩のことが好きなんだ)
そう思ったら、一気に気が楽になった。
剣道部に入りたいと思ったのも。
剣道場に入って、真っ先に弁木先輩を探してしまうのも。
先輩の匂いが気になって仕方ないのも。
先輩から電話が来ただけで眠れなくなるのも。
全部、弁木先輩が好きだからなんだ。
ようやく理解した時、胸にウサギでも詰め込んだみたいに、くすぐったくて、柔らかくて、嬉しくて。
そんな不思議な気持ちに、初めて名前をつけることができた。
結局、僕が眠れたのは明け方の四時頃のことで、ほぼ気絶するように眠りについた気がする。
同性を好きになることに戸惑いはあった。
だけど、これが本当の恋なのかは、正直な所、わからない。
何せ恋をしたことが無かったのだから、確信が持てなかったのは、当たり前のことかもしれない。
ただ、好きっていう気持ちが、性別とか年齢とかを超えてしまうことはあると思うんだ。
だけど、弁木先輩がどう考えているかは分からないし、聞いたこともなければ、聞く勇気も出なかった。
目を覚ました時、通話は切れていて、一緒に眠ったはずの弁木先輩は、幻のように消えてしまっていた。
自分の中の想いを自覚した僕は、先輩との距離を間違えないように気をつけないといけない、と改めて思った。
警戒されて、先輩後輩でいられなくなるのは寂しい。
そう思うのに、弁木先輩は僕を気軽に呼びつけるから、嬉しいけど、少し困ってしまう。
交代で弁木先輩に背中を押してもらっていると「なぁ、凪は昨日寝れたか?」と、耳元で囁かれて、抱き枕のエア弁木先輩を思い出した僕は、耳を赤くさせながらも、何とか頷いていた。
「もっと、足広げろって。それじゃ柔軟の意味ないだろ」
そう言いながら、弁木先輩に背後から両太ももを開くように手を置かれ、ぐいぐいと背中を押してくるのに、痛い! 背中に感じる先輩の体温! でも痛い! でもヴァニラに包まれる! を、ひたすらに繰り返していた。
こんな風に、全身全霊で弁木先輩という存在に意識を傾けていた僕は、ちっとも気づかなかったんだ。
僕の目の前で、剣道部に激震が走る出来事が、今まさに起ころうとしていることに。
「真田。悪いけど俺ら、剣道部辞めるから」
入部して三週間で退部届を毎日持ち続けていた、この僕を出し抜いて――
真田部長以外の四人の三年生が揃って退部届を突き出していた。
