第四話
教室に戻り、入部届をもらった僕は、興奮が冷めやらないままに「剣道部」と文字を書いていた。
そして、事前に配布されていた入部時の部費一覧を見て、息を呑むことになる。
――剣道部:防具、道着、袴、一式購入 約八万円
「……は、はちまんえん!」
僕は、知らず白目を剥きそうになって、必死に耐えるしかなかった。やっぱり、美術部か演劇部にしておけば良かった。約五千円と書かれた値段の差に、どうお父さんを説得すればいいのか、そればかりを考え、その日の先生の言葉は全く耳に入って来なかった。
◇◇
正座をした僕の前には、腕組みをしたまま難しい顔をしたお父さん。
「凪、お前さ、本当に剣道部なんて続くのか?」
「……うん。頑張る。頑張りたいって思ってる」
いつもよりも小さくなった僕を見かねた祖父が「そのぐらい、俺が出してやるよ!」と言ってくれたことで、僕は無事に剣道部へ入部することが決まったのだった。
「ありがとう、じいちゃん」
「いいよ、これぐらい。その代わり頑張れよ、凪!」
「うん、頑張るよ!」
祖父に感謝し、僕は、期待を裏切らないように覚悟を決めて入部届を書いたはずだったんだ。
◇◇
初めて部室で道着に袖を通した僕は、顧問の先生の後について剣道場へ向かった。裸足の足が触れたのはヒヤリとした床の感触。剣道場に漂うピリリとした空気に、思わず足の爪先が丸まった。
「ようこそ、剣道部へ!」
あの日スタンプを押してくれた部長の真田先輩が、元気よく出迎えてくれた。そして剣道部のメンバー全員の顔を初めて見ることになった。
剣道部は三年生五人、二年生四人、そして新入部員の一年生が三人の合計一二人。
決して多すぎるとも、少なすぎるともいえない絶妙な人数。
もちろん、そこには弁木先輩もいた。
弁木慶次郎先輩。
剣道部で一番背が高くて、声が低くて、格好いい先輩。
正座をすると、僕よりも頭一つ分高い。
僕を見つけた弁木先輩の切れ長の目が、ふっと細められたことに慌てて目を逸らした。
顧問の話が終わる頃には、足が痺れて立てなくなっていた。
「俺も始めたばっかりの時、そうなった」
差し出された手を握る。
「待ってたぞ、凪」
僕の心臓がどきどきと大きく鳴り始める。
繋いだ手を、離したくなくて僕はいつまでも足が痺れているふりを続けたのだった。
部活が始まると、まず真田先輩から礼儀や作法を教わった。
それから「心・技・体」や「交剣知愛」と言った剣道をする上で大事な考え方。
さらには雑巾掛けや道具の手入れ、道着の着方。
剣道は、竹刀を振る前に覚えることが多かった。
ようやく竹刀を持たせてもらってからは、振り方や足捌きを教わった。
未経験者三人で休憩中にも素振りの真似をし、家に帰ればリモコンを竹刀代わりに振った。
弁木先輩と廊下ですれ違えば声をかけてもらえる。
真田先輩から頼まれた伝言を同級生に伝える。
気づけば僕は、人生で初めて「部活をしている高校生」になっていた。
そして、充実した剣道生活を三週間ほど送った頃には――僕は本気で剣道部を「辞めたい」と思うようになっていた。
もともと僕は運動音痴だ。身長だって高くない。剣道に憧れていたわけでもない。
ただ、“目がいい”。それだけで入部を決めたのだ。
……いや。
ちょっとだけ、弁木先輩がいたから、という理由もあったけど。
だったら、何が嫌なのか。
先輩にいじめられたわけじゃない。
パシリにされたわけでもない。
めちゃくちゃ扱かれたわけでもない。
先輩には恵まれているし、先生も優しい。同級生だっていい奴らばかりだ。
ただ。
ただ、ひたすらに痛いのだ。
防具をつけているから平気だろうと思うかもしれない。
甘い。
面を打たれれば、目から星が飛び出るほど頭が痛い。
僕は背が低いせいで、相手の竹刀が面の鉄格子ではなく、その上――布一枚しかない頭頂部に当たることがある。
これが、ものすごく痛い。
そして、小手だって、胴だってそうだ。
脇が甘い。いや、別にことわざが言いたいわけじゃない。本当に脇のガードが甘いのだ。胴の防具がない部分に竹刀が当たることも当然あって、そこに竹刀が当たると、転がりながら身悶えるほどに痛いのだ。
そう。剣道は防具に守られていない部分が確実に存在し、そこに当たれば、もう何をどうしても痛いのだ。
相手だって、別に馬鹿力で叩いてるわけじゃないし、わざと当てようとしてるわけでもない。
うっかり当たってしまうことがあるってだけだ。
ジンジンして、ビリビリして、時にはジクジク痛む。
低い背が更に縮んでしまいそうなほどに痛い。
それは、たとえそこに格好いい弁木先輩がいたとしても――痛いものは、痛いんだよ!
そして、僕は今日も、一週間前に書いた退部届を胸に忍ばせ、ヨロヨロしながら剣道場へ向かっていた。
教室に戻り、入部届をもらった僕は、興奮が冷めやらないままに「剣道部」と文字を書いていた。
そして、事前に配布されていた入部時の部費一覧を見て、息を呑むことになる。
――剣道部:防具、道着、袴、一式購入 約八万円
「……は、はちまんえん!」
僕は、知らず白目を剥きそうになって、必死に耐えるしかなかった。やっぱり、美術部か演劇部にしておけば良かった。約五千円と書かれた値段の差に、どうお父さんを説得すればいいのか、そればかりを考え、その日の先生の言葉は全く耳に入って来なかった。
◇◇
正座をした僕の前には、腕組みをしたまま難しい顔をしたお父さん。
「凪、お前さ、本当に剣道部なんて続くのか?」
「……うん。頑張る。頑張りたいって思ってる」
いつもよりも小さくなった僕を見かねた祖父が「そのぐらい、俺が出してやるよ!」と言ってくれたことで、僕は無事に剣道部へ入部することが決まったのだった。
「ありがとう、じいちゃん」
「いいよ、これぐらい。その代わり頑張れよ、凪!」
「うん、頑張るよ!」
祖父に感謝し、僕は、期待を裏切らないように覚悟を決めて入部届を書いたはずだったんだ。
◇◇
初めて部室で道着に袖を通した僕は、顧問の先生の後について剣道場へ向かった。裸足の足が触れたのはヒヤリとした床の感触。剣道場に漂うピリリとした空気に、思わず足の爪先が丸まった。
「ようこそ、剣道部へ!」
あの日スタンプを押してくれた部長の真田先輩が、元気よく出迎えてくれた。そして剣道部のメンバー全員の顔を初めて見ることになった。
剣道部は三年生五人、二年生四人、そして新入部員の一年生が三人の合計一二人。
決して多すぎるとも、少なすぎるともいえない絶妙な人数。
もちろん、そこには弁木先輩もいた。
弁木慶次郎先輩。
剣道部で一番背が高くて、声が低くて、格好いい先輩。
正座をすると、僕よりも頭一つ分高い。
僕を見つけた弁木先輩の切れ長の目が、ふっと細められたことに慌てて目を逸らした。
顧問の話が終わる頃には、足が痺れて立てなくなっていた。
「俺も始めたばっかりの時、そうなった」
差し出された手を握る。
「待ってたぞ、凪」
僕の心臓がどきどきと大きく鳴り始める。
繋いだ手を、離したくなくて僕はいつまでも足が痺れているふりを続けたのだった。
部活が始まると、まず真田先輩から礼儀や作法を教わった。
それから「心・技・体」や「交剣知愛」と言った剣道をする上で大事な考え方。
さらには雑巾掛けや道具の手入れ、道着の着方。
剣道は、竹刀を振る前に覚えることが多かった。
ようやく竹刀を持たせてもらってからは、振り方や足捌きを教わった。
未経験者三人で休憩中にも素振りの真似をし、家に帰ればリモコンを竹刀代わりに振った。
弁木先輩と廊下ですれ違えば声をかけてもらえる。
真田先輩から頼まれた伝言を同級生に伝える。
気づけば僕は、人生で初めて「部活をしている高校生」になっていた。
そして、充実した剣道生活を三週間ほど送った頃には――僕は本気で剣道部を「辞めたい」と思うようになっていた。
もともと僕は運動音痴だ。身長だって高くない。剣道に憧れていたわけでもない。
ただ、“目がいい”。それだけで入部を決めたのだ。
……いや。
ちょっとだけ、弁木先輩がいたから、という理由もあったけど。
だったら、何が嫌なのか。
先輩にいじめられたわけじゃない。
パシリにされたわけでもない。
めちゃくちゃ扱かれたわけでもない。
先輩には恵まれているし、先生も優しい。同級生だっていい奴らばかりだ。
ただ。
ただ、ひたすらに痛いのだ。
防具をつけているから平気だろうと思うかもしれない。
甘い。
面を打たれれば、目から星が飛び出るほど頭が痛い。
僕は背が低いせいで、相手の竹刀が面の鉄格子ではなく、その上――布一枚しかない頭頂部に当たることがある。
これが、ものすごく痛い。
そして、小手だって、胴だってそうだ。
脇が甘い。いや、別にことわざが言いたいわけじゃない。本当に脇のガードが甘いのだ。胴の防具がない部分に竹刀が当たることも当然あって、そこに竹刀が当たると、転がりながら身悶えるほどに痛いのだ。
そう。剣道は防具に守られていない部分が確実に存在し、そこに当たれば、もう何をどうしても痛いのだ。
相手だって、別に馬鹿力で叩いてるわけじゃないし、わざと当てようとしてるわけでもない。
うっかり当たってしまうことがあるってだけだ。
ジンジンして、ビリビリして、時にはジクジク痛む。
低い背が更に縮んでしまいそうなほどに痛い。
それは、たとえそこに格好いい弁木先輩がいたとしても――痛いものは、痛いんだよ!
そして、僕は今日も、一週間前に書いた退部届を胸に忍ばせ、ヨロヨロしながら剣道場へ向かっていた。
