判官贔屓の恋

第三七話

「二人ともー! そろそろ練習始めないと、時間なくなっちゃうけど、どうするー?」

 遠くから狩野先生に叫ばれて、僕と弁木(わけぎ)先輩は慌てて体育館へと戻ることになった。
 そもそも、どうして弁木(わけぎ)先輩がここにいるのだろう。僕の秘密の特訓だったのだし、誰にも言ってなかったのに。
 だけど、その答えは、狩野先生からあっさりと知らされることになる。

「この間のインターハイの団体の予選で、弁木(わけぎ)くんが同じ選手に二度負けたっていう話を聞いてね」
 狩野先生が弁木(わけぎ)先輩を見る。
「逃げる剣道を習得しようとしている九条くんと、案外とお互いにいい刺激になるかもしれないな、と思って呼んだんだけど……、まさか同じ学校に通ってるとは考えてなかったな」
 そこで初めて、狩野先生は僕たちが同じ制服を着ていることに気づいたらしい。
 苦笑する狩野先生に、一臣先生も頷く。
「じゃあ、俺が弁木(わけぎ)くんを見るから。一臣に九条くん任せていい?」
「わかりました」
 それから僕たちは、それぞれ別れて指導してもらうことになった。
 狩野先生も、昔はかなり強かったらしい。
 一臣先生曰く、最近は小学生相手に教えてばかりだから、腕は落ちているかもしれないとのことだった。
 だけど、そんなことは全然なかった。
 全部を見ていたわけじゃないけれど、狩野先生は弁木(わけぎ)先輩の動きを先読みして止めたり、弁木(わけぎ)先輩が苦手としている動きを、あえて何度も繰り返したりしているように見えた。

「剣道では、相手が動き出す瞬間。コンマ一秒の世界を見る必要があるんだ。動いた、と思った時にはもこちらも動き出していないと一本取られるからね。それに対応できる反射と、きっとこう来るだろう、という技を見極める力、そのどちらをも意識して育てていこう」

 その言葉は、弁木(わけぎ)先輩にも僕にも当てはまる。
 特に僕の場合は、相手の竹刀に当たらないようにしなければならないのだから、反射の速度を上げないと逃げきれずに痛い思いをすることになる。
 目では追えても、体がついていかないのが僕の課題だ。
 練習を終え、カバンに荷物を詰め直していると、先に立ち上がった弁木(わけぎ)先輩が体育館の入口へ向かっていくのが見えた。
 ところが、入口まで行ったところで、くるりと戻ってくる。
(……忘れ物かな?)
 そう思って顔を上げる。
 すると、目の前に弁木(わけぎ)先輩が無表情で立っていた。
 ただ、ほんの少しだけ、耳が赤いような気がする。

「……弁木(わけぎ)先輩?」
「もう、帰るんだろ。家まで送る。入口で待ってる」
 その言葉に僕は瞳を瞬かせると、手にした筆箱がぼて、と音を立てて体育館の床に落ちて転がっていった。
「あ……!」
 小さく声を出して、筆箱をカバンに詰め直すと。
 これって――弁木(わけぎ)先輩が、僕の提案したことを実践しようとしてくれているんじゃないだろうか。
 お試しの恋人。
 その言葉が、急に現実味を帯びてくる。
 頬が熱くなっていくのを感じながら、僕は俯いた。
「ありがとうございました!」
 狩野先生に挨拶をして、弁木(わけぎ)先輩が待っている入口へ、滑るように向かった。

「すいません、遅くなりました」
「別に、急がなくてもよかったんだけど」
「でも、弁木(わけぎ)先輩、家は遠いって前に言ってませんでした?」
 靴を履いて、ほとんど真っ暗になった校庭を二人で進んでいく。
 隣に弁木(わけぎ)先輩がいる。
 それだけなのに、さっきから心臓が落ち着かない。

「今日、新月なのかな……月が出てないから、いつもよりも暗い気がしますね」
 沈黙が怖くて、また何か話そうとした、その時だった。
 弁木(わけぎ)先輩の指が、僕の手の甲に触れた。
「……?」
 指先が、そのまま僕の手を掬う。
 そして、大きな手に僕の手が包まれた。
 緊張で冷たくなっていた僕の手を、弁木(わけぎ)先輩の手がゆるく握る。
「転ぶと困るだろ」
 そう言われた瞬間、僕は今度こそ、心臓に詰められた子ウサギが二匹に増えたのを感じたのだった。
(――お試しなのに、最初からこんなに飛ばしていいんだろうか)