第三五話
背中に回された弁木先輩の腕に、力が籠る。
こんな状況じゃなければ、抱きしめられていることに感動すら覚えていただろう。
たとえ、事故だったとしても、嬉しくて仕方なかったはずだ。
これ幸いと柔軟剤の匂いに埋もれるように目を閉じて、弁木先輩の体温や、心音も、体の厚みも、全部記憶しようとしていたかもしれない。
だけど、今は――。
こんな傷心の状態では、そんな呑気なことを言ってられる状況じゃなかった。
僕だけが好きなのは承知の上だった。
それでも、相手から「全く興味がない」と言われてる状態で、僕はまだ好きと言えるほど強くない。
もういっそのこと、この気持ちを手放してしまった方がいい。
僕はまた、自分の想いから逃げようとしていた。
だって、逃げれば見えなくなるし、怯える必要もなくなる。
そして何より、逃げれば――傷つかなくて済む。
ぎゅっと唇を噛み締めて、漏れ出そうになる嗚咽を飲み込んだ。
嫌だった。終わりたくなかった。
本当は、もっとずっと一緒にいたかった。
好きでいられるだけで、良かったのに――。
僕にとって、剣道と向き合うことは、他の人から見れば「何も変わってないじゃないか」と笑われるほどの、小さな一歩だったかもしれない。
だけど、ずっと逃げ続けてきた僕にとっては、初めて逃げずに踏み出そうと思えた一歩だった。
そして、実際に小さな一歩を踏み出せたんだ。
これが、僕にとってどれほど大きな意味があったと思う?
ただ、弁木先輩の傍にいたい、そんなちっぽけな理由で、僕は自分を変えられたんだ。
きっとこれからも、僕は変わっていける。
もしかしたら、その先の未来で、弁木先輩が振り向いてくれるかもしれない。
そんな淡い期待があったからこそ、僕は頑張れたんだ。
もちろん、弁木先輩が振り向いてくれる保証なんてない。
いつか、他の誰かと恋人になるかもしれない。
そんな未来のことなんて、誰にも分からない。
それでも、弁木先輩が僕をどう思っているのか分からないうちは、僕はきっと、頑張り続けられた。
だけど、今は違う。
僕への想いを知ってしまった。
その答えが、「好きなわけがない」だった。
そんな状態で、振り向いてもらえるかもしれない、なんて思い続けることはできない。
僕には、そんなふうに自分を信じられるものなんて何もないから。
この恋が終わったら、僕はまた、逃げ続ける人間に戻ってしまう。
きっと、自分が変わろうとしたことさえ忘れてしまう。
そのことが悔しくて。切なくて。
だけど、一人で踏ん張り続けられるほど強い想いが、自分にはないことが悲しかった。
「――そんな、好きだったのか」
ぽつりと零れ落ちた言葉に、僕は小さく頷いた。
好きだった。
初めて見た時から、ずっとずっと大好きだった。
僕は心臓に子ウサギを飼い始めてしまったのかと思うほどに、心臓が震えた。
だけど、その震えも緊張も、初めてのことばかりで戸惑ってばかりだったけど、それでも幸せだった。
「――真田先輩、強いし、格好いいもんな。剣道をやってる人間なら、皆惚れると思う」
その言葉に、僕は違うと首を横に振った。
僕がずっと好きだったのは、弁木先輩であって真田先輩じゃない。
確かに、剣道の腕は格段に上なこともわかるし、部長という立場も一人で背負ってるのは、すごいことだと思ってはいる。
だけど、尊敬と恋心が違うことぐらいは分かってるつもりだ。真田先輩を見ても、僕の心臓に居座った子ウサギはちっとも震えない。
「――無理すんなよ。凪が好きになった理由も分かるから」
弁木先輩の言葉は、僕にとっては的外れだけど、慰めてくれようとしている気持ちは嬉しかった。
恋に破れた可哀想な後輩に寄り添ってくれるつもりなのだろう。
だけど、その気持ちが余計に辛いことを、弁木先輩は分かっているんだろうか。
「――でも、俺は、凪が泣いてるのを見るのは嫌だ。だから、もしまだ真田先輩に……」
そこで、弁木先輩の言葉が途切れた。
すん、と鼻水を啜りながら次の言葉を待つ。
だけど、いつまで経っても続きが出てこない。
ただ、僕を抱きしめたまま身動ぎもしない。
(……どうしたんだろう)
そう思っていると、やがて背中に回されていた手が離れていった。
抱きしめられていた体も、ゆっくりと離れていく。
久しぶりに見えた弁木先輩の顔は――なぜだか、やたらと焦っていた。
「悪い……、いや、あー……、と」
何かを言いあぐねるように、言葉にならない声をいくつか並べる。
ちらりと僕を見る。そして、すぐに視線を逸らす。
また、何か言おうとして――言えない。落ち着きなく視線だけが、あちこちを彷徨っていた。
「……弁木先輩?」
あまりにも様子がおかしくて、僕は不安になった。今度は僕から、そっと弁木先輩の腕に触れる。
すると、弁木先輩の瞳が、はっとしたように僕の手へ向いた。
そして、ゆっくりと僕の顔へ移ると、そのまま、固まった。
「あ、いや……悪い」
「どうしたんですか?」
「いや、本当は……真田先輩に会うのが辛いなら、俺の後ろに隠れてたらいい、って言おうと思ってたんだけど」
「……ありがとうございます。でも、大丈夫なんで」
やっぱりそうじゃないんだよな。
そう思いながらも、僕は弁木先輩が何故そんな態度になったのかが分からなかった。
いつだって分からない弁木先輩の心の内が、今日はもっと分からない。
どうして、突然焦り始めたのか。
どうして、耳が赤くなっているのか。
(……何で、耳が?)
そう思った時だった。
弁木先輩が呟くように言った。
「――ちゃんと考えたこと、なかったんだけど」
少しだけ間があった。
それから。
「俺、もしかして……凪のこと好きなのかな、と思って」
背中に回された弁木先輩の腕に、力が籠る。
こんな状況じゃなければ、抱きしめられていることに感動すら覚えていただろう。
たとえ、事故だったとしても、嬉しくて仕方なかったはずだ。
これ幸いと柔軟剤の匂いに埋もれるように目を閉じて、弁木先輩の体温や、心音も、体の厚みも、全部記憶しようとしていたかもしれない。
だけど、今は――。
こんな傷心の状態では、そんな呑気なことを言ってられる状況じゃなかった。
僕だけが好きなのは承知の上だった。
それでも、相手から「全く興味がない」と言われてる状態で、僕はまだ好きと言えるほど強くない。
もういっそのこと、この気持ちを手放してしまった方がいい。
僕はまた、自分の想いから逃げようとしていた。
だって、逃げれば見えなくなるし、怯える必要もなくなる。
そして何より、逃げれば――傷つかなくて済む。
ぎゅっと唇を噛み締めて、漏れ出そうになる嗚咽を飲み込んだ。
嫌だった。終わりたくなかった。
本当は、もっとずっと一緒にいたかった。
好きでいられるだけで、良かったのに――。
僕にとって、剣道と向き合うことは、他の人から見れば「何も変わってないじゃないか」と笑われるほどの、小さな一歩だったかもしれない。
だけど、ずっと逃げ続けてきた僕にとっては、初めて逃げずに踏み出そうと思えた一歩だった。
そして、実際に小さな一歩を踏み出せたんだ。
これが、僕にとってどれほど大きな意味があったと思う?
ただ、弁木先輩の傍にいたい、そんなちっぽけな理由で、僕は自分を変えられたんだ。
きっとこれからも、僕は変わっていける。
もしかしたら、その先の未来で、弁木先輩が振り向いてくれるかもしれない。
そんな淡い期待があったからこそ、僕は頑張れたんだ。
もちろん、弁木先輩が振り向いてくれる保証なんてない。
いつか、他の誰かと恋人になるかもしれない。
そんな未来のことなんて、誰にも分からない。
それでも、弁木先輩が僕をどう思っているのか分からないうちは、僕はきっと、頑張り続けられた。
だけど、今は違う。
僕への想いを知ってしまった。
その答えが、「好きなわけがない」だった。
そんな状態で、振り向いてもらえるかもしれない、なんて思い続けることはできない。
僕には、そんなふうに自分を信じられるものなんて何もないから。
この恋が終わったら、僕はまた、逃げ続ける人間に戻ってしまう。
きっと、自分が変わろうとしたことさえ忘れてしまう。
そのことが悔しくて。切なくて。
だけど、一人で踏ん張り続けられるほど強い想いが、自分にはないことが悲しかった。
「――そんな、好きだったのか」
ぽつりと零れ落ちた言葉に、僕は小さく頷いた。
好きだった。
初めて見た時から、ずっとずっと大好きだった。
僕は心臓に子ウサギを飼い始めてしまったのかと思うほどに、心臓が震えた。
だけど、その震えも緊張も、初めてのことばかりで戸惑ってばかりだったけど、それでも幸せだった。
「――真田先輩、強いし、格好いいもんな。剣道をやってる人間なら、皆惚れると思う」
その言葉に、僕は違うと首を横に振った。
僕がずっと好きだったのは、弁木先輩であって真田先輩じゃない。
確かに、剣道の腕は格段に上なこともわかるし、部長という立場も一人で背負ってるのは、すごいことだと思ってはいる。
だけど、尊敬と恋心が違うことぐらいは分かってるつもりだ。真田先輩を見ても、僕の心臓に居座った子ウサギはちっとも震えない。
「――無理すんなよ。凪が好きになった理由も分かるから」
弁木先輩の言葉は、僕にとっては的外れだけど、慰めてくれようとしている気持ちは嬉しかった。
恋に破れた可哀想な後輩に寄り添ってくれるつもりなのだろう。
だけど、その気持ちが余計に辛いことを、弁木先輩は分かっているんだろうか。
「――でも、俺は、凪が泣いてるのを見るのは嫌だ。だから、もしまだ真田先輩に……」
そこで、弁木先輩の言葉が途切れた。
すん、と鼻水を啜りながら次の言葉を待つ。
だけど、いつまで経っても続きが出てこない。
ただ、僕を抱きしめたまま身動ぎもしない。
(……どうしたんだろう)
そう思っていると、やがて背中に回されていた手が離れていった。
抱きしめられていた体も、ゆっくりと離れていく。
久しぶりに見えた弁木先輩の顔は――なぜだか、やたらと焦っていた。
「悪い……、いや、あー……、と」
何かを言いあぐねるように、言葉にならない声をいくつか並べる。
ちらりと僕を見る。そして、すぐに視線を逸らす。
また、何か言おうとして――言えない。落ち着きなく視線だけが、あちこちを彷徨っていた。
「……弁木先輩?」
あまりにも様子がおかしくて、僕は不安になった。今度は僕から、そっと弁木先輩の腕に触れる。
すると、弁木先輩の瞳が、はっとしたように僕の手へ向いた。
そして、ゆっくりと僕の顔へ移ると、そのまま、固まった。
「あ、いや……悪い」
「どうしたんですか?」
「いや、本当は……真田先輩に会うのが辛いなら、俺の後ろに隠れてたらいい、って言おうと思ってたんだけど」
「……ありがとうございます。でも、大丈夫なんで」
やっぱりそうじゃないんだよな。
そう思いながらも、僕は弁木先輩が何故そんな態度になったのかが分からなかった。
いつだって分からない弁木先輩の心の内が、今日はもっと分からない。
どうして、突然焦り始めたのか。
どうして、耳が赤くなっているのか。
(……何で、耳が?)
そう思った時だった。
弁木先輩が呟くように言った。
「――ちゃんと考えたこと、なかったんだけど」
少しだけ間があった。
それから。
「俺、もしかして……凪のこと好きなのかな、と思って」
