判官贔屓の恋

第三四話

 弁木(わけぎ)先輩の姿を見つけた時、肩から下ろそうと思っていたカバンが滑り落ちていった。カバンを拾おうとして体がよろめいて扉にぶつかったことで、大きな音が鳴ってしまった。
 それに、狩野先生も一臣先生も、そして弁木(わけぎ)先輩の目も、まだ残っていた数人の小学生の瞳も僕に向けられた。
 そのことに、ざっと血の気が引いていき、慌てて踵を返した僕は走って体育館から離れていく。

 大丈夫だ、顔を見せたんだから、今日の稽古はしないと分かってくれただろう。
 もしかしたら、こんな不躾な態度を取った僕のことを、狩野先生も一臣先生も心配してくれるかもしれない。
 だけど――きっと、弁木(わけぎ)先輩が言ってくれるに違いない。
 
「あいつ、好きな先輩にラブレター渡してフラれてたんですよ」

 ――あぁ、そんな辛いことがあったんだね。
 ――今は、そっとしておいてあげた方がいいんじゃないですか?
 
 そんな風に、僕がただ青春の一ページに傷を作ったことを、静かに受け入れてくれるかもしれない。
 もしかしたら、僕が剣道を辞めると言い出そうとしていることにも、納得してくれるかもしれない。

 僕が、弱くて。
 ただずっと逃げ続けていることも……。
 ――しょうがないよね、と笑って許してくれるかもしれない。

 そんなことを考えながら、校門の近くまで走った。
 少しずつ速度を落とした、その時だった。
 背後から、腕を掴まれた。
「――っ!」
 驚いて振り返る。
 その拍子に、目に溜まっていた涙が、ぽろっと零れ落ちた。

「……凪、」

 肩で息をする弁木(わけぎ)先輩が、僕の腕を掴んでいた。

 薄暗闇の世界で。
 僕は好きで好きで、大好きで。
 だけど、一番会いたくなかった弁木(わけぎ)先輩の姿を、まともに見ることができなかった。

 ――あんなに好きだった柔軟剤の香りも、今は苦しいだけだ。
 大好きだった、大きな手も。
 大好きだった、弁木(わけぎ)先輩の声も。
 全部が、胸を締めつける。

 気づけば僕は、弁木(わけぎ)先輩の厚い胸板に頬を埋めていた。
 何も見えない視界の中で、僕は思わず、
「ふぇ……」
 と、小さな声を漏らした。
(……えっ!? ちょっ……これ、どういうこと!?)