判官贔屓の恋

第三一話

 どんなスポーツでも、インターハイは大きな節目となる大会であり、そこを目指して頑張っているという選手も多いだろう。
 だが、剣道においては、大事な大会がもう一つあった。
 今年は、広島県で行われる予定の「全国高校剣道巡旗杯」である。
 この「巡旗杯」は優勝校が優勝旗を持ち帰り、翌年度の「巡旗杯」開催の地になることから付けられた名前だそうだ。
 これも選手五人参加による団体戦ではあるが、インターハイの総当たり戦とは違い、勝ち抜き戦の試合だ。
 先鋒が五人を一気に倒すということもあれば、残った大将が五人全員を倒すという大逆転劇も生まれる試合である。運と実力、そのどちらもが試される大きな大会だ。
 だが、この大会は夏休みが始まってすぐの七月下旬に行われ、僕ら時津高校も朝から晩まで剣道場に詰めて稽古をすることが毎年だったらしいのだが――。

「今年は、隣の体育館の改修があって、この剣道場も使えないという通達が来ました」

 顧問の清水先生によると、何でも体育館を改装する作業員さん達の休憩スペースになるのだとか。
 学校が下した決定に逆らうこともできずに、頷くしかなかった、と。
 だったら、巡旗杯に向けて稽古はどうなるのか。今年は稽古をしないで参加するのか。そんな空気が流れた時、腕を組んだ真田先輩が不敵に笑った。

「というわけで! 今年は、合宿するぞ!」
「「合宿!?」」
「そうだ。清水先生とも相談して、湘南の方に遠征してもいいんじゃないか、という話になったんだ」
「しかも、湘南……!!」

 初めての合宿という言葉に、皆が浮き足だった中。
 佐竹先輩が「何でわざわざ湘南なんすか?」と聞いたのに、真田先輩が頷いた。

「走り込みの時に、砂利の上を走ってみたかったからだ。楽しそうだろ?」
「え、まさか、それだけの理由すか?」
「それだけの理由だ」

 自信満々に大きく頷いた真田先輩に、佐竹先輩も口を噤むのが見えた。
 他に何かしらの理由があると思ったんだろう。
 清水先生が湘南出身で土地勘があるとか、知り合いが旅館を経営している、とか、都合よくお世話してくれる誰かがいる、とか。
 残念ながら、そんなことはないらしく、自分たちのことは自分たちですることになるらしい。

「それに伴い、ご両親のどちらかの同意書へのサインが必ず必要になります。合宿への参加は任意ですから、お家の方とよく相談して今週中に提出するようにしてください」

 清水先生から合宿に関する詳細が書かれたパンフレットが渡され、詳細の説明が始まった。

「今回の合宿では、特別にコーチをお呼びしていますので、当日をお楽しみに」
「コーチ!? OBですか?」
「あ、夜に花火する予定になってる!」
「折角だから、合宿らしいことも入れてみようかと」
「部屋は二人一組ですか?」
「流石に一人部屋は予算が高くなってしまうので。ただ、ベッドは別々なので安心してください」
「部屋割りは決まってないんですか?」
「まだ決まってないんだけど、何か希望はありますか?」

 あれやこれやと質問が飛び交う中、僕はパンフレットから視線を上げるとそっと隣に座る弁木(わけぎ)先輩の横顔を見つめた。

 弁木(わけぎ)先輩の私服を見るのも初めてなのに、パジャマ姿とかも見れちゃうのか。
 どんなパジャマなんだろう、半袖シャツとハーフパンツ的なよくあるスタイルなのかな。
 それとも、theパジャマ、みたいなパジャマとしか着れないようなものなのだろうか。
 ちょっとでも弁木(わけぎ)先輩のパジャマ姿見れるかな。全然見れない可能性もあるのかな。

 いや、どうせならちゃんと見たい!
 いや、希望として捨ててはいけないのが、同じ部屋になるかもしれない、ということだ。
 まだ部屋割り決まってないって言ってたし、そうなったら、どうしよう。 僕ちゃんと息してられるかな!?
 電話越しじゃない寝息を生で聞けることになったら、無理だ、寝れる気がしない。
 永遠に寝顔を見ていられる自信がある。写真を一枚ぐらい撮ることは、許されるだろうか。

 そんな浮き足だった状態では、いつもはできていたマネージャーの仕事が終わらず、誰よりも帰りが遅くなってしまった。
 疲れているはずなのに、ふわふわした足取りのまま部室に向かうと、制服に着替えながら妄想が捗って仕方ない。
 でもこの後も、狩野先生と一臣先生に指導してもらう予定があって、少し準備を急がなければならなかった。
 だから、僕はロッカーから、捨てることも渡すこともしなかった退部届が、ぺそりと小さな音を立て、落ちたことに気づかなかったのだ。

 落ちた退部届を拾ったのは、先に着替え終わっていた真田先輩。
 誰の持ち物なのかを確認するためだったのか、カサカサと音を立てて開かれる紙。
 そして、現れた退部届に真田先輩は何を考えたのだろう。
 退部届が書かれた日付は、入部して二週間後。あの三年生四人が辞めた、あの日よりももっと前だったのだから。

「九条、落ちてたぞ」
「――あ、ありがと……」

 真田先輩の手にあるのが、退部届だということが分かった瞬間、背にどっと冷や汗が出るのが分かる。
 何て言い訳しよう、どう言おう。
 そう思いながらも、僕がずっと提出することができなかった退部届。
 今でも変わらず痛いことは苦手で、剣道部ではマネージャーとして頑張っているばかりで、練習には参加できていない。
 補欠という立場で、大会へも登録はしているが、名ばかりの補欠。
 正直、いてもいなくてもいい存在であることに間違いはないのだ。
 僕がずっと、辞めたいと思いながらも、ただ勇気が出なくて渡せなかっただけの退部届だ。
 最近でこそ、持ち歩くことはしなくなったが、捨てなかったのは、忘れていたからじゃない。
 ――まだ、捨てられなかったんだ。

「ありがとうございます」

 真田先輩から退部届を受け取ろうと、用紙に触れるも、真田先輩が手を離してくれない。
 もしかして、今からでも受け取ると言われるんだろうか。
 今度の合宿も来なくていい、と言われるんだろうか。
 そんな不安が胸に渦巻いた。

 だけど、真田先輩は小さく笑みを浮かべた。

「九条、最近どこかで剣道を習っているんだろう?」
「――えっ!?」
「たまにしてるだろ? 足捌きが綺麗になった」
「……ど、うして、知って」
 皆の前では恥ずかしくて練習してなかったのに。
 いつもこっそり隠れて、それこそ隙間時間だの、移動する時だのに、ちょっとやってみる程度の小さな積み重ねを繰り返していただけ。
 だって練習に参加しろって言われたら、また叩かれるかもしれない。
 そう思ったらマネージャーという期待されない立場にいる方が、圧倒的に楽だったから。
 まだ僕には練習に参加できるだけの勇気がない。
 
「すまない。俺には、まだお前を導いてやれるほどの経験がない。本当は俺がもっと気に掛けてやらないといけなかったのに」
「あ……いえ、違います。僕がただ……」

 痛いのが怖かっただけで、とは口にすることはできず、言葉に詰まると真田先輩が退部届から手を離した。

「これは九条に返す」
「……!」
「正直なところ、あんなに前から――とは、考えてなかったけどな」

 その言葉に、真田先輩が退部届を捨てることも、受け取ることもしなかったことに思わず目に涙が浮かんだ。
 どこまでも僕の意思を尊重してくれるつもりなのだろう。
 その上で、信じてくれているんだ。
 これからも、退部届を出さないことを――。

「ありがとうございます」

 退部届を胸に抱くと、頭を下げた。それに真田先輩が何も言わずに肩を叩くと、部室を出ていった。
 やっぱり真田先輩は凄い。僕の退部届を見ても、秘密の特訓をしてることを知っても、何も言わなかった。
 懐の大きさに、その優しさと強さに、皆が惹かれる意味が分かった気がした。

 僕は退部届を制服のポケットに仕舞った時、部室の扉が開いて「おい、見たぞ!」と佐竹先輩がニヤニヤしながら入ってくるのが見えて、またしても冷や汗が出る。

「……何がですか?」
「さっきの、真田先輩に渡されてたやつ……」

 ――退部届を返されたことを見られてた、だって!?

 あれは、僕と真田先輩だけの秘密のつもりだったけど、佐竹先輩にも見られていたのか。
 そう思い始めたら、もう部内で僕が退部届をずっと認めていたことが見つかってしまいそうで、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。

「あれ、ラブレターだろ?!」
「――ふぇっ!?」