第三話
扉の隙間から、剣道場の中を伺ってみたけど、誰の姿も無かった。
(……どうしよう、来るのが遅かったんだ)
スタンプが埋まっていない少しよれた用紙を見下ろして、ため息を吐く。
「入部先を決めていても、三つ以上の部活を回って来るように。予想外な出会いがあるかもしれないからな」
先生の言葉に、こんな僕でも、ほんのちょっぴりワクワクしてたんだ。だけど、この学校のクラブは、僕の想像よりも本格的で、見れば見るほどに心が折れそうになってばかりだった。
スタンプを三つ集めるだけの簡単なことすらできなかった僕は、きっと入学早々、先生に目を付けられてしまうのだろう。
もしかしたら、個人指導されるかもしれない。
そんな想像に体がぶるりと震え、僕は咄嗟に用紙を折りたたんで、ポケットにギュッと捻じ込んだ。
先生に「スタンプ用紙を落としてしまいました」と、言えば許してくれるかな。
俯き、くしゃくしゃになった紙をポケットの上から触れると、背後から声を掛けられて僕は飛び上がるほどに驚いた。
驚いて振り向くと、自分より少しだけ上にある顔を見上げた。
そこには、さっきの模擬試合の時、黒の道着に白の襷を掛けていた人がいた。
(……面を打って、勝った人だ)
さっきは被っていた面で分からなかったけど、頭には白いタオルが巻かれていた。
「どうした? 忘れ物か? それか、誰か探してる?」
矢継ぎ早に掛けられる言葉に、言葉が出ない。
「……あ、いえ…、」
「あ、もしかして、スタンプか!?」
その人の目が、僕の不自然にポケットの上に置かれた手元を見た。
「いいよ。押すから貸して」
その言葉に、ポケットからくしゃくしゃになった用紙を取り出した。その人は壁に押し付けて皺を伸ばしながら、ハンコを押してくれる。でも、うまく押せなかったみたいで何度か押し直すのが見えた。
(……さっきの赤の襷の人、いないのかな)
スタンプが三つ集まったことで肩の力が抜けたのか、僕の目はきょろりと辺りを見渡していた。
だけど近くにはいなかったみたいで、ちょっとだけしょぼんとしていたら、奪われていた紙が手元に戻ってくる。
「あ、ありがとうご、」
「美術部か、演劇部に入部するのか?」
「……え? な、何で、ですか?」
トントンと指さされたのは、新しく押された、剣道部の緑色の竹刀が交差するスタンプの隣。僕が、剣道部を去ったあと、どの部活を見に行ったのかが分かったらしい。どう見ても、文化系の部に興味があると思われても仕方ないラインナップだ。
(……なのに、僕に芸術的センスが壊滅的に無いせいで、どっちにも入れないなんて!)
どう返事を返そうかと戸惑っていると、先輩が後頭部を軽くかいて小さく笑った。
「いや、演劇部や美術部に取られるのは、勿体無いなと思ってな」
予想外の言葉に僕は思わず顔を上げて、小さく首を傾げた。
「さっき弁木が言ってたんだよ。『胴を取ったことに気づいていた新入生がいた』って。君の事だろ?」
「……弁木、先輩?」
「そう、さっき俺の対戦相手。赤の襷をつけてたやつ」
心臓がひとつ大きく跳ねた。
「さっきの試合には台本があったんだ。俺が面を打って終わるはずだったのに、審判役も困ってた」
「そ、そうだったんですか」
「……で? 本当に見えてたのか?」
その言葉に、さっきの映像が脳裏に浮かび上がる。面を打って来ようとする竹刀を、首を傾げることで避けた上に、少し身を低くして、すれ違いざまに胴を打ったあの一瞬の映像。
――僕は嘘をつけずに小さく頷いていた。
「そうか……。なら、剣道部に入らないか?」
「えっ!? いえ! 僕、運動音痴だから、剣道なんて激しいのはちょっと……」
「最初は、できないっていう奴も多い。でも、それ以上に勿体ない、って思うんだけどな」
その言葉に、僕は小さく首を傾げた。
「……何が、勿体ないんですか?」
「剣道みたいに“一瞬の世界を見極める目”っていうのはさ、皆、剣道を始めてから徐々に手に入れていくんだ。それを鍛えもせずに持ってるっていうのは、ある意味奇跡なんだ」
先輩が放ったその言葉は、想像以上の破壊力を持っていた。それこそ、何も誇れるものなんてなかった僕の胸に、小さな火が灯ったみたいだった。しかもその火は、じりじりと音を立てるように大きくなっていく。
(……あの時の弁木先輩みたいな動きも、僕にもできるようになったりするのかな)
僕には芸術的センスも、歌のセンスも無いし、運動だって得意じゃない。
だけど、もし僕のこの“特別な目“が、剣道で生かされるのなら。弁木先輩のように、格好いい動きができるようになるんだったら、やってみたい。相手の竹刀を避け、お返しに一本を決められるような俊敏で滑らかな動き。
――だけど僕には、運動音痴以外にも不安なことがあった。
「……背が低いことは、不利にはなりませんか?」
情けないけど、僕の身長は、中学を卒業する前に止まってしまったらしく、一六五センチに届くかどうかだ。両親のことも考えると、きっとこれからも伸びないだろう。だけど、バスケットボールやバレーボールでは身長は大事な要素だと言うし、剣道も同じかもしれない。
そう言った僕に、その人は、ニッと歯を見せて笑った。
「強い選手は、必ずしも背が高いわけじゃない。それにな、背が高い相手の懐に、小さいと馬鹿にしてた相手が滑り込んできた時の恐怖は、言葉にできないぐらいなんだからな。その背の低さも、きっと武器になる」
まるで胸の奥で誰かがドコドコと太鼓を叩いているかのように高鳴っていく胸の鼓動に、用紙を握る指先に力が籠る。
そして、ダメ押しとばかりにその人は続けた。
「……弁木も」
「え?」
「弁木も、あの模擬試合の後、ずっとお前のこと探してたんだぞ」
その言葉に、頭がパーンと弾けた僕は、よくよく考えないままに言い放っていた。
「――にゅ、入部します! 入部させてください!」
扉の隙間から、剣道場の中を伺ってみたけど、誰の姿も無かった。
(……どうしよう、来るのが遅かったんだ)
スタンプが埋まっていない少しよれた用紙を見下ろして、ため息を吐く。
「入部先を決めていても、三つ以上の部活を回って来るように。予想外な出会いがあるかもしれないからな」
先生の言葉に、こんな僕でも、ほんのちょっぴりワクワクしてたんだ。だけど、この学校のクラブは、僕の想像よりも本格的で、見れば見るほどに心が折れそうになってばかりだった。
スタンプを三つ集めるだけの簡単なことすらできなかった僕は、きっと入学早々、先生に目を付けられてしまうのだろう。
もしかしたら、個人指導されるかもしれない。
そんな想像に体がぶるりと震え、僕は咄嗟に用紙を折りたたんで、ポケットにギュッと捻じ込んだ。
先生に「スタンプ用紙を落としてしまいました」と、言えば許してくれるかな。
俯き、くしゃくしゃになった紙をポケットの上から触れると、背後から声を掛けられて僕は飛び上がるほどに驚いた。
驚いて振り向くと、自分より少しだけ上にある顔を見上げた。
そこには、さっきの模擬試合の時、黒の道着に白の襷を掛けていた人がいた。
(……面を打って、勝った人だ)
さっきは被っていた面で分からなかったけど、頭には白いタオルが巻かれていた。
「どうした? 忘れ物か? それか、誰か探してる?」
矢継ぎ早に掛けられる言葉に、言葉が出ない。
「……あ、いえ…、」
「あ、もしかして、スタンプか!?」
その人の目が、僕の不自然にポケットの上に置かれた手元を見た。
「いいよ。押すから貸して」
その言葉に、ポケットからくしゃくしゃになった用紙を取り出した。その人は壁に押し付けて皺を伸ばしながら、ハンコを押してくれる。でも、うまく押せなかったみたいで何度か押し直すのが見えた。
(……さっきの赤の襷の人、いないのかな)
スタンプが三つ集まったことで肩の力が抜けたのか、僕の目はきょろりと辺りを見渡していた。
だけど近くにはいなかったみたいで、ちょっとだけしょぼんとしていたら、奪われていた紙が手元に戻ってくる。
「あ、ありがとうご、」
「美術部か、演劇部に入部するのか?」
「……え? な、何で、ですか?」
トントンと指さされたのは、新しく押された、剣道部の緑色の竹刀が交差するスタンプの隣。僕が、剣道部を去ったあと、どの部活を見に行ったのかが分かったらしい。どう見ても、文化系の部に興味があると思われても仕方ないラインナップだ。
(……なのに、僕に芸術的センスが壊滅的に無いせいで、どっちにも入れないなんて!)
どう返事を返そうかと戸惑っていると、先輩が後頭部を軽くかいて小さく笑った。
「いや、演劇部や美術部に取られるのは、勿体無いなと思ってな」
予想外の言葉に僕は思わず顔を上げて、小さく首を傾げた。
「さっき弁木が言ってたんだよ。『胴を取ったことに気づいていた新入生がいた』って。君の事だろ?」
「……弁木、先輩?」
「そう、さっき俺の対戦相手。赤の襷をつけてたやつ」
心臓がひとつ大きく跳ねた。
「さっきの試合には台本があったんだ。俺が面を打って終わるはずだったのに、審判役も困ってた」
「そ、そうだったんですか」
「……で? 本当に見えてたのか?」
その言葉に、さっきの映像が脳裏に浮かび上がる。面を打って来ようとする竹刀を、首を傾げることで避けた上に、少し身を低くして、すれ違いざまに胴を打ったあの一瞬の映像。
――僕は嘘をつけずに小さく頷いていた。
「そうか……。なら、剣道部に入らないか?」
「えっ!? いえ! 僕、運動音痴だから、剣道なんて激しいのはちょっと……」
「最初は、できないっていう奴も多い。でも、それ以上に勿体ない、って思うんだけどな」
その言葉に、僕は小さく首を傾げた。
「……何が、勿体ないんですか?」
「剣道みたいに“一瞬の世界を見極める目”っていうのはさ、皆、剣道を始めてから徐々に手に入れていくんだ。それを鍛えもせずに持ってるっていうのは、ある意味奇跡なんだ」
先輩が放ったその言葉は、想像以上の破壊力を持っていた。それこそ、何も誇れるものなんてなかった僕の胸に、小さな火が灯ったみたいだった。しかもその火は、じりじりと音を立てるように大きくなっていく。
(……あの時の弁木先輩みたいな動きも、僕にもできるようになったりするのかな)
僕には芸術的センスも、歌のセンスも無いし、運動だって得意じゃない。
だけど、もし僕のこの“特別な目“が、剣道で生かされるのなら。弁木先輩のように、格好いい動きができるようになるんだったら、やってみたい。相手の竹刀を避け、お返しに一本を決められるような俊敏で滑らかな動き。
――だけど僕には、運動音痴以外にも不安なことがあった。
「……背が低いことは、不利にはなりませんか?」
情けないけど、僕の身長は、中学を卒業する前に止まってしまったらしく、一六五センチに届くかどうかだ。両親のことも考えると、きっとこれからも伸びないだろう。だけど、バスケットボールやバレーボールでは身長は大事な要素だと言うし、剣道も同じかもしれない。
そう言った僕に、その人は、ニッと歯を見せて笑った。
「強い選手は、必ずしも背が高いわけじゃない。それにな、背が高い相手の懐に、小さいと馬鹿にしてた相手が滑り込んできた時の恐怖は、言葉にできないぐらいなんだからな。その背の低さも、きっと武器になる」
まるで胸の奥で誰かがドコドコと太鼓を叩いているかのように高鳴っていく胸の鼓動に、用紙を握る指先に力が籠る。
そして、ダメ押しとばかりにその人は続けた。
「……弁木も」
「え?」
「弁木も、あの模擬試合の後、ずっとお前のこと探してたんだぞ」
その言葉に、頭がパーンと弾けた僕は、よくよく考えないままに言い放っていた。
「――にゅ、入部します! 入部させてください!」
