判官贔屓の恋

第二八話

 剣道部では、相変わらずマネージャーの仕事をこなす僕は、こっそりと影に隠れて狩野先生が見せてくれた足捌きを思い出して、繰り返して真似てみる。
 剣道では、常に右足が前に出る「送り足」というのがある。
 ただ右足を出せばいいわけじゃない。
 つま先は常に相手へ向ける。
 そして、後ろにある左足で強く地面を蹴り、相手の懐へ一気に切り込めるようにしておく。
 まずは、この送り足に慣れなければならない。意識しなくても身体が勝手に動くくらいにならなければ、実戦では使えない。
 逃げる剣道をするためには、この足捌きこそが要になる。
 そう思って、僕は人目につかないところで何度も足を動かした。
 すると――。
「凪、飯食って帰る時間あるか?」
 弁木(わけぎ)先輩に声を掛けられて、驚いた顔のまま、僕は何度も首を縦に振った。
「あ、あります!」
 むしろ、ありませんと言う選択肢が僕の中に存在するわけがない。

 あれから、弁木(わけぎ)先輩は真田先輩と一度も練習試合をしていない。
 弁木(わけぎ)先輩が避けているというのも当然あるけど、それ以上に真田先輩が弁木(わけぎ)先輩を避けているように見える。
 ただ佐竹先輩は、相変わらず燃えていて、弁木(わけぎ)先輩とずっと向き合うようになったおかげで、ボーッとしてる時間はないみたいではあるんだけど。

 制服に着替えると、今日はシトラスのいい匂いがする弁木(わけぎ)先輩に引き寄せられるように隣に並んだのだった。

「前と同じとこでいいか?」
「はい。僕はどこでも大丈夫です!」

 地球の裏側でも、ついて行きます、とまでは言えなかったけど、気持ち的にはどこまでも付いて行く気分だった。
 相変わらず、弁木(わけぎ)先輩は狭そうにボックス席に長い足を納めると、前と同じメニューを注文していた。
 メニュー表を置いた弁木(わけぎ)先輩が、少しだけ言いにくそうに切り出したのは、僕の予想を超えることだった。

「なぁ、凪……この間の大会で、俺の録画見せてもらっていいか?」
「え、あ……、はい!」

 ポケットに手を入れると、スマホを取り出して動画一覧の画面を開いた。
 動画一覧を開いて、大会の動画を探すためにスクロールしていると――。
 弁木(わけぎ)先輩が、わざわざ僕の隣へ移動するために立ち上がった。
(――えっ)
 僕は固唾を飲みながら、身体をボックス席の壁にくっつけるようにして、できる限り奥へ詰める。
 だけど、狭い席では弁木(わけぎ)先輩の肩にぶつかってしまう。
 剥き出しになった肘から、少し高い体温が伝わってくる。
 シトラスの香りに包まれて、心臓が子ウサギみたいにぷるぷる震えた。

「どれ?」
「あ……、これです」

 震える指先で、画面を指すと、先輩が僕の手元を覗き込むように顔を寄せてくる。
 近い。
 近すぎる。
 でも、僕がそんなことを気にしている間に、弁木(わけぎ)先輩がタップした。
新見(にいみ)さんとの、あの一戦。真田先輩が「いい試合だった」とは嘘でも言わなかった、因縁の対決の動画。

 その動画を何度も繰り返し見ながら、弁木(わけぎ)先輩の短いまつ毛が何度も上下する。
 真剣な横顔。
 食い入るように画面を見る黒い瞳。
 その姿を間近で見ていた僕は、心の中で思っていた。

(……今まで弁木(わけぎ)先輩、顎の裏に、黒子があるの知らなかった)