判官贔屓の恋

第二七話

「あの……! 今後も、僕に剣道の稽古を付けてもらうことは、できますか?」

 小学生に稽古をつけてる人たちに、高校生の面倒を見てほしい、とお願いするのは正直なところ厚かましい奴と思われそうだったけど、なりふり構っていられなかった。
 だって、痛み無くして弁木(わけぎ)先輩の傍にいられるとしたら、これ以上に嬉しいことなんて無い。
 堂々と、いつも隣にいても不自然じゃない。
 それに――柔軟剤の匂いだって嗅ぎ放題だ。
 かなり不安に思いながらも、僕は引かずに二人の顔を見つめた。
 すると、狩野先生と一臣先生は逡巡することもなく頷いてくれた。

「今日みたいに稽古の後であればいいよ。開講日は、月水土の三日間だから」
 そう言ってくれた狩野先生に、一臣先生が続けた。
「月謝は三〇〇〇円、次回に持ってくるの忘れないようにね」
「……あ、はい!」
 頷いた僕の前で、二人は軽快に会話を続けていく。
「そういう一臣のしっかりしてるところ、本当に尊敬するよ」
「そんなザルだから、無賃でカットしちゃったりするんですよ」
「相変わらず、一臣は辛辣だなぁ!」

 片付けの手伝いをしながら、体育館の鍵を閉めて回る狩野先生に「後はやっとくから、大学生と高校生は先に帰りな」と声を掛けられて、一臣先生と揃って外に出た。

「家はどっちの方向? っていうか、名前聞いてなかったよね?」
 そう言われて、僕は名乗っていなかったことに気づいたのだった。
「すいません。九条凪と言います」
「連絡先、聞いてもいい? 狩野さんはさっきああ言ってたけど、来る時は事前に連絡してもらえた方が助かる」
「わかりました。連絡します」
「俺、あっちだから。じゃあ、また」
「はい。ありがとうございました」

 そう言って、背を向けた一臣先生に頭を下げると、僕も家へ向かって歩き出した。
 夜道を歩きながら、僕の脳裏には、さっきの狩野先生の動きが何度も再生されていた。

 間合いを取る。
 踏み込む。
 足を止めない。
(家に帰ったら、リモコンを竹刀に見立てて、足捌きの練習をしてみようかな)
 そんなことを考えながら歩いていると、ふと弁木(わけぎ)先輩の柔軟剤の香りが恋しくなった。
 今までの僕には、弁木(わけぎ)先輩の隣に堂々と立つ勇気がなかった。

 だけど、今なら――。
 やっと一歩を踏み出せた今なら、弁木(わけぎ)先輩の刈り上げられた襟足にだって触れる勇気だって出る気がする。
 (……いや、さすがにそれは無理か)
 調子に乗って、一瞬そう思ったけれど、やっとスタートラインに立っただけの僕では、まだ隣に並ぶには早すぎる。
 襟足に触れるのだって、まだ僕には遠すぎる。
 それでも――。
 今日までとは、少しだけ違う。
 僕は、初めて自分から一歩を踏み出した。

 弁木(わけぎ)先輩は、大丈夫だろうか。
 僕には、どうしてあげることもできない問題に、小さく溜め息が漏れる。
 そっと視線を上げた先には、 いつの間にか、空には月が昇り、星が瞬いていた。

(弁木(わけぎ)先輩……明日の柔軟剤は、何の匂いかな。そろそろ金木犀の香りの先輩を嗅ぎたいんだけどな)