判官贔屓の恋

第二六話

「逃げると言っても、試合を放棄するわけでも、場外に逃げるわけでもない。そんなことを試合中にしたら、反則を取られてしまう。だから、戦術的に逃げろ、と言ってるんだよ」

 狩野先生は、立て掛けてあった竹刀を手に取ると、茶髪の先生に声を掛けた。

「悪い、一臣。そこに立ってくれるか」
「わかりました」
 一臣と呼ばれた茶髪の先生が竹刀を持って構えるのに、狩野先生が分かりやすく実演して見せてくれるらしい。
「一臣、面を打ってくれる?」
 一臣先生が面を打つ動作をした時に、狩野先生が軽いステップを踏むようにして、すっと後ろへと下がった。
「剣道はその場で立ってるだけのスポーツじゃないっていうのは、分かるよね?」
「はい」
「逃げると言っても、相手の竹刀が届かない間合いの後ろへ下がる。あるいは逆に、一気に間合いを詰めて、相手に技を出させないようにする」
 今度は、一臣先生が面を打とうとする前に、狩野先生が相手の懐に飛び込むように踏み込んだ。
 一臣先生の竹刀を下ろす手が、不意に止まる。
「ほら。こうやって相手の技を封じることもできる」
 狩野先生は、さらに続ける。
「相手の技を読んで竹刀を止めて、こっちが先に技を決める。それに、昔から言うだろ? 攻撃は最大の防御ってね」

 その言葉に、僕は大きく頷いたのだった。

「すごい! これなら僕にも、できそうな気がします……!」

 真田先輩にも、弁木(わけぎ)先輩にも恥ずかしくて言えなかった。
 不安で情けなくて――ずっと暗く塞がっていた目の前が、一気に開けたような感覚だった。
 だって、今、僕の目の前で行われたことは、どれも大した技じゃない。
 この世界のどこにもない技というわけでもない。
 きっと、剣道をしている人なら誰もが使う技だ。

 ただ――。
 竹刀が当たるのが怖いという僕のために、僕にもできそうな技ばかりを見せてくれた。
 そのことが、何より嬉しかった。
 一度、逃げてから技を繰り出す。
 間合いを詰めてから技を繰り出す。
 そして、相手の技を見切って打ち返す。
 どれも、今までの僕にはなかった発想だった。

「そのためには、一番大事なことが何か分かるかい?」
「……素早く技を決めること、ですか?」
「いや、何より大事なものは、足だ」
「足、ですか?」
「そう。膝を軽く曲げて、いつでも動けるように準備しておく。足捌きを常に意識することだ」
 狩野先生がそう言った時に、一臣先生が口を挟んだ。
「でも、打たれる痛みに恐怖心があるなら、竹刀そのものにも恐怖心があるんじゃないのかな。そもそも、相手が打ってくる時に、目を開けてられる?」

 その言葉に、僕は小さく首を横に振ったのだった。
 いつかは慣れるものだと思っていたけど、いつまでも慣れることはなく怖いままだったし、何より痛みを経験してしまったせいで、もっと目を開けるのが怖くなっていた。

「剣道には、四戒があるのは知ってるだろ?」
「えっと……驚いたり、怖がったり、疑ったり、迷ったりしないこと、ですよね?」
「正解だよ。そして、その四戒に負けない“不動心“を持つことが大事だとされているよね」
「はい」
「ただ、それを乗り越えるためには、ただ漠然と怖いと思っているだけじゃ駄目なんだ」
 一臣先生が、僕をまっすぐ見る。
「自分は一体、何が怖いのか。自分の心の中にある怖れを、正しく知ることが大事なんだよ」
「……正しく、怖れを知る」
 その言葉を、僕は小さく繰り返した。
 一臣先生の言葉に、狩野先生も頷いている。
「俺はバカなのか、あまり怖いと思わない性質だから、一臣の、そういう細やかな気配りができるところ助かってるよ」
「狩野さん、人の機微に疎いのに、よく理髪師なんかできますよね」
「そういう繊細なところが分からないから、理髪師ができるとも言える」
「……どういう理屈ですか」
 そう言って、ワハハと笑った狩野先生の姿に僕は瞳を瞬かせていた。
 僕は、そんな二人を見ながら瞳を瞬かせていた。
(……ん?)
 理髪師。
 今、理髪師って言った?
 僕は、ふと狩野先生の顎髭を眺めた。
 そして、頭の中に一人の人物が浮かぶ。
(もしかして、狩野先生って……)
 弁木(わけぎ)先輩の、触りたくなる魅惑の刈り上げを作ってくれる――あの「バーバー狩野」の……?