判官贔屓の恋

第一話
判官贔屓(はんがんびいき/ほうがんびいき)
 弱い立場にある者、不遇な英雄に同情し、味方したくなる人情のこと。
 牛若丸(後に九郎判官と名乗るようになった源義経)の悲劇的な最期に寄せられた同情に由来する。

◆◆判官贔屓の恋◆◆

 僕は、剣道部でいちばん弱い。
 なのに、この夏、全国大会の会場で「牛若丸」と呼ばれることになる。
 どうして、そんなことになったのか。
 理由は簡単だ。
 僕を守る「弁慶」が、あまりにも格好良かったから。
 ――その弁慶が、実は僕の恋人(仮)だってことは、皆には内緒だ。

◇◇

 これは、満開だった桜があっという間に散り、葉桜になってしまった頃の話。
 高校進学とともに父親の転勤でやってきた神奈川。友人もおらず、見知った顔もない「市立時津高校」に入学したばかりの僕、“九条凪”は、額に浮かんだ汗を軽く拭っていた。
 夏はまだ先のはずなのに、昨夜の雨のせいか、学校内はひどく蒸していた。
 手にしているのは、変なキャラクターが描かれた白い用紙。これを持って、最低でも三つの部活動を見学し、スタンプをもらわなければならない。

 ――それもこれも、僕が高校選びを「自宅から一番近い」という理由だけで決めたせいだ。

 市立時津高校は、今の時代には珍しく「入部率一〇〇%」を掲げる高校だった。校則に「帰宅部禁止」と書かれているわけじゃない。先生からも、直接そう言われたわけじゃない。

 なのに、入学してみれば、なんとなく分かる。
 ――帰宅部を選ぶな。
 そんな言葉にならない圧が、ものすごい。
(……そんな勇気、この僕にあるわけないだろ!)

 中学から同じ部活を続けている生徒たちは、もう先輩たちと打ち解けている。
 一方、僕には一緒に見学してくれる友達もいない。どの部活が楽で、どこが大変なのかという情報もない。
 そんな前情報もないまま、僕は階段を下りていく生徒の流れについて行った。
 けれど、みんなが途中で進路を変えてバラバラと別れていくうちに、僕だけがぽつんと取り残されてしまった。

 ひとりぼっちになった僕は、目の前に現れた体育館に足を向けた。
 体育館からはキュッキュッとシューズが床を蹴る音と、ボールが跳ねる音がしている。
 音からして、バレー部とか、バスケット部じゃないだろうか。

 運動神経が悪く、団体競技では常に足を引っ張ってきた僕には、絶対に選べない部活だ。
 ふぅ、とため息をつくと、体育館の向こうに瓦で作られた屋根の四角い建物が目に留まった。
 道場だろうか。
 何となく気になって近寄ってみると、壁際の棚に竹刀がずらりと並んでいる。
(……ここ、剣道部もあるんだ!)

 中を覗いてみると、たくさんの人に囲まれて模擬試合が行われていた。
「剣道部といえば、これだ」と言わんばかりの鋭い雄叫びが聞こえてくる。
 僕も少しだけ見てみたいと背伸びをしたが、身長が低いせいで全く見えない。
 仕方なく上履きを脱ぎ、音を立てないように中へ入ると、独特の匂いがする。
 少し体を低くして、人垣の隙間から覗き見る。

 揃いの黒い道着の上に、赤と白の色違いの襷を付けた二人が、向かい合って立っている。
 お互いに竹刀の先を牽制するように上下に揺らし、時にはぶつけ合ったかと思えば、距離を取るように離れていく。
 何か、駆け引きでもしてるんだろうか。

 ――お見事! いや、剣道の“勝負は一瞬”っていう感じがいいな!
 以前、テレビのチャンネルを変えた時に、たまたま映った剣道の試合を見て、祖父が言っていた言葉だ。
 普段はまったく興味なんてないくせに、“日本代表”という冠がつくだけで、どんなスポーツでもすぐに応援するお茶目な祖父。
 そんな祖父の姿を思い出していた時、白の襷の竹刀が大きく持ち上がった。

 大きな足音とともに踏み込む。
 赤い襷も逃げない。
 僕の目の前で、パン、パァンと小気味いい音が二度響いた。
「面あり!」
 審判役の生徒が白旗を上げる。
「今の、面取ったってことだよな!?」
「やばい、全っ然、見えなかった!」
 周りが囃し立てる中で、僕だけが声を上げていた。

「……えっ!?」
(……今の、当たってた?)

 僕の目には、赤い襷が首を傾けて面をかわし、そのまま白い襷の胴を打ったように見えた。
 だけど、周りを見渡してみても、変な顔をしている生徒はいない。
 当の赤い襷の人も、何事もなかったように、立っている。

(じゃあ、さっきのが面だったのかもしれないな)
 僕は剣道に詳しくない。こめかみあたりに竹刀が当たっても面になるのかもしれないし、正しい胴はもっと低い位置なのかもしれない。

 二人が互いに礼をして持ち場へ戻り、床に座る。
 紐を緩め、赤い襷が面を外した瞬間――僕は息を呑んだ。
 面に隠れていた端正な顔。
 切れ長の瞳が、何かを探すように動いている。
 そして――僕と目が合った。
 真っ黒な瞳が、僕を見つめたまま動かない。
 僕も、逸らせなかった。
 赤い襷の人が、僕から視線を逸らさずに立ち上がる。

 その瞬間、僕は慌てて剣道場から飛び出した。
 適当に突っかけた上履きが脱げる。
 思わず立ち止まると、スタンプをもらっていないことに気づき、慌てて瓦屋根を振り返った。

 ――だけど、あの人の前に戻るのが怖い。
 頬が熱い。
 胸が煩い。
 僕の胸は全力疾走してもいないのに、信じられないほど速くなっていた。
(……な、何? 僕の心臓、おかしくなっちゃったの!?)

 小学校、中学校と碌に恋愛をしてこなかった僕には、この胸の高鳴りの意味が分からない。
 相談できる友達もいない。
 だから僕は、火照った頬を両手で覆って、ただ誤魔化すことしかできなかった。