「今日、ちょっと帰り遅くなるかも」
朝食を食べながら、私は両親に声をかけた。
食卓には湯気の残る紅茶が置かれているけど、飲まずにいるうちに紅茶は温度を失い始めている。
「補講?」
「ううん、出版社の見学させてもらおうと思ってて……」
編集者の人と会う約束をしたことを両親に告げると、母は箸を止め、父は新聞を読む手を止めた。
「出版社の人が、会ってくれるって」
嘘は吐いていない。
ただ、その人に会う理由をすべて話せていないだけ。
「高校生でも相手にしてくれるのか?」
「インターンシップとかじゃなくて、社会科見学みたいな感じ」
そう答えると、両親は顔を見合わせて嬉しそうに笑った。
「やっぱり心花、出版関係の仕事に興味あるんだ」
窓から差し込む太陽の光が、両親の顔をますます明るいものにしてくれる。
でも、なぜか今は、その太陽の光が眩しく思えた。
「……うん」
両親は昔から、私が出版社に入りたいと思っている。
だから、こうして私が将来に対して前向きな姿勢を見せるだけで喜んでくれる。
「じゃあ、ちゃんと話を聞いてこないとね」
「……うん」
曖昧な返事をして、残っていた紅茶に口をつける。
温くなった紅茶は、なかなか喉を通ってくれなかった。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
玄関の扉を閉めると、私は家の中の暖かな空気から切り離されたような気がした。
朝の空気はひんやりしていて、頬に触れる風が冷たく感じる。
けれど、寒いのは気温のせいだけじゃないのかもしれない。
両親に隠しごとをしたのは、これが初めて。
そんな後ろめたさも、この寒さに影響しているのかもしれない。
(……まだ出版するって決めたわけじゃないから)
出版社の人に会って話を聞くだけだと、自分に言い聞かせるように言い訳する。
鞄を持ち直して駅に向かって歩き出すと、朝の通学路には制服姿の生徒たちがいつも通り歩いていた。
眠そうな顔をしている子もいれば、友達と笑いながら学校に向かう子もいて、周囲を気にすることなく自分の世界に閉じこもっている子もいる。
(いつもと変わらないのに……)
視界いっぱいに広がっているのは、見慣れた朝の風景でしかない。
その中に私が混ざっていくのだって、いつものこと。
(……いつもと、違って見える)
自分の人生が本になると思うだけで、自分がみんなとは違う場所に立っているような気がした。
「簡単に、信用しない方がいいと思うけど」
昼休みの進路資料室は、昨日のようにパンフレットのページを捲る音で満ちている。
窓際の辺りがやけに明るくて、旗嶋くんは今日も自らカーテンを閉めに行った。布が擦れる音と共に、真昼の白い光が部屋の中から消えていく。
「でも、大手出版社だったよ……?」
「だから、だろ」
カーテンが閉じられ、部屋の中に太陽の光が入ってこなくなる。
部屋が暗くなったことで作業しやすくなった旗嶋くんは、何事もなかったかのように手元のパンフレットを開き直す。
私も隣に並んでページを捲るけど、今日はパンフレットの文字が頭に入ってこない。
「金になりそうな人間に、片っ端から声かけてる可能性だってある」
「……そうなのかな」
自分の人生が、一冊の本になるかもしれない。
その言葉を思い出すだけで落ち着きがなくなる私に対して、たまたま進路資料室に居合わせた旗嶋くんは冷静だった。
ページを捲る指先すらも落ち着いていて、彼はそのままパンフレットを読み進めていく。
「……わざわざ俺に言わなくても、会うんだろ。編集者に」
「……そのつもり」
「一人で?」
「……そうなるかな」
私がそう返すと、旗嶋くんの指が止まった。
視線はパンフレットに落としたままだったけど、やがて旗嶋くんはゆっくりと顔を上げた。
「俺も行こうか」
「え?」
声が裏返りそうになった。
でも、旗嶋くんは眉を寄せて言葉を続けていく。
「出版社の人って言っても、本当にその出版社の人かどうか分からないだろ」
「でも、プロフィールにはちゃんと出版社の名前が……」
「それだって、本物かどうか確認した方がいい」
淡々とした口調だったけど、旗嶋くんが抱いている警戒心が本物だということが伝わってくる。
「別に、会うなって言ってるわけじゃない」
旗嶋くんの視線がパンフレットではなく、私に向けられる。
「ただ、一人で行く必要はないと思う」
「でも、旗嶋くんに迷惑……」
「俺が邪魔なら、外で待ってる」
そこに特別な意味があるわけじゃなかった。
ただ、本当に旗嶋くんが心配してくれているのだと気づくことができた。
「百田心花さんですか?」
「はい」
放課後になって待ち合わせ場所に着くと、喫茶店の指定された席に一人の女性が座っていた。
私たちに気づくと、女性はすぐに立ち上がる。
「……えっと、クラスメイトの旗嶋くんです」
「すみません、同席させてください」
「構いませんよ」
にこりと笑った女性は、三十代後半くらいに見えた。
きちんとした服装に、綺麗にまとめられた髪。
編集者というと、もっと個性的な人を想像していた。
マンガの中に出てくる編集者みたいな、変わった雰囲気の人が来るものだと思っていた。でも、目の前にいる人は、どこにでもいそうな普通の大人に見える。
「初めまして。突然ご連絡してしまって、すみません。藤井と申します」
藤井さんは丁寧に頭を下げると、名刺を差し出してきた。
「あ……ありがとうございます」
慌てて名刺を受け取る。
そこにははっきりと出版社の名前も、藤井さんの名前も、所属している編集部の文字も並んでいた。
(……本当に出版社の人なんだ)
当たり前のことなのに、それを確認しただけで心臓の音が速くなるのを感じる。
「よろしくお願いします」
店内にはコーヒーの香りが漂っていて、どこか大人っぽいピアノの音楽が流れている。
店内の大人びた空気に呑まれそうになりながらも、緊張しながら頭を下げる。
「よろしくお願いします」
隣から旗嶋くんの落ち着いた声が聞こえて顔を上げると、旗嶋くんはいつもと変わらない顔つきをしていた。
「驚かれましたよね」
運ばれてきたばかりのミルクティーとココアが、テーブルの上に三個並んだ。
カップから立ち上る湯気の向こうで、飲み物が波のように揺れている。
私はしばらくその波を眺めていると、藤井さんが一枚の資料をテーブルに置いた。
「私が今日お話ししたかったのは、百田さんの投稿についてです」
資料を見ると、そこには私が『LIFE―ライフ―』に投稿したタイトルがいくつか並んでいた。
「百田さんの人生を、本にしたいと思っています」
「……本に?」
「はい。百田さんだけではなく、ほかの方の人生も一緒に」
「アンソロジー……ですか?」
「そうです」
ほかの方も一緒にと言われて、心の奥底で何かが沈んだ。
私の人生だけを、一冊の本にしてくれるわけではないらしい。
(それでも……)
それでも、本になる。
そう考えることで、沈み込んだ何かを取り戻せたような気がした。
「あの……どうして、私なんですか?」
思い切って口にすると、藤井さんが私に視線を向けた。
「あ、ほかにも候補がいるって聞いてるんですけど……どうして私なのかなって」
大人の瞳に見つめられると、正直、臆しそうになる。
それでも、この疑問だけはずっと私の中で引っかかっていた。
「私よりすごい人なんて、いくらでもいると思います」
成績がいい人、スポーツで名を残す人、特別な才能を持つ人。大きな夢に向かって挑戦している人だっている。
そんな人たちと比べれば、私はどうしたって普通にしか思えなかった。
「百田さんの人生が特別だったから、ではないんです」
「……え?」
藤井さんはカップの持ち手を指でなぞりながら、言葉を選んでいるようだった。
「むしろ、普通だったからです」
「……普通?」
その言葉が、心の奥で引っかかる。
「百田さんの投稿を見ていると、最初の頃と比べてかなり価格が変化していますよね」
藤井さんは私の違和感に気づいているのかいないのか、淡々とした調子で話し続ける。
「価格だけを見ると、百田さんの人生はどんどん良くなっているように見える」
確かに、藤井さんの言う通りだった。
ランキングを意識するようになってから、私の人生の価格は上がった。
新しい経験をするたびに、新しい人と出会うたびに、自分の人生が良くなっていると思っていた。
「でも、百田さん自身は、自分の人生を特別なものだと思っていませんよね?」
指先を、ぎゅっと握る。
「友達に嫉妬することもある」
指先に力を込めていると、思わず息まで止めてしまいそうになる。
「自分だけが、何も持っていないような気がすることもある」
酸素が足りない。
でも、そう感じているのは私だけで、藤井さんの声はずっと穏やかなままだった。
「周りは前に進んでいるように見えて、自分だけ取り残されている気がすることもある」
藤井さんが、ちゃんと私の投稿を読んで、ここに来たことが分かる。
「価格が上がっているのに、百田さんは自分の人生を特別だと思っていない」
藤井さんは微笑みながら、ミルクティーの入ったカップを口に運んでいく。
「そういう、ごく普通の女の子が抱えるようなことを書いている」
ここで藤井さんは、私の目を真っすぐ見た。
「それが、最初に百田さんに興味を持った理由です」
「……最初に?」
「はい。特別な才能があるからでも、特別な経験をしてきたからでもありません」
藤井さんが、大人としての柔らかな笑みを整える。
「誰にでもありそうな悩みを抱えていて、誰にでもありそうな毎日を過ごしている。だからこそ、十七歳の今を残したいと思ったんです」
心の奥底に、何か重たい感情が沈み込んでいく。
大人の藤井さんは綺麗な笑みを浮かべているけど、子どもの私はきっと上手く笑うことができていない。
「だから、面白いと思ったんです」
私の人生が買われて、ちゃんと読んでもらっている。
ただそれだけのことのはずなのに、誰かに言葉として突きつけられると、自分でも気づいていなかった場所が痛み始める。
「進路について迷う。幸せなはずなのに、何か足りない気がする。友達のことを大切に思っているのに、比べてしまう」
藤井さんは、私の投稿をひとつずつ思い出すように話しかけてくる。
「そういう感情って、特別な人だけが持つものではないですよね」
私は、藤井さんの言葉に何も言えなかった。
「十七歳の子なら、誰でも似たような感情を持っていると思うんです」
その言葉を聞いて、頭の中にひとつの言葉が浮かんだ。
【普通】
特別な経験がなくて、特別な才能もなくて、誰かよりも優れているわけではないからこそ、もっと価値のある人生にしようと思った。ランキングを気にするようになったのも、文化祭で実行委員になったのも、今までならやらなかったことに挑戦しようと思ったから。それを繰り返していけば、自分の人生は変わっていくものだと信じていた。
「……私の人生が、普通だから?」
やっと出てきた声は、自分でも驚くほど小さかった。
「だからこそ、だと思っています」
私は膝の上で、気づかれないように手を握る。
(……私が頑張ったから、じゃない)
その事実が、重く自分の手元に落ちてくる。
今までの私は、自分の人生を良くするために頑張ってきた。
人生の価格を上げるために、もっと価値のある人間になるために。
だから、価格が上がっていくたびに、自分も前に進めているような感じがしていた。
それなのに、私が選ばれた理由は、その努力とは関係がなかったと告げられる。
(ただ、普通だったから)
ぽっかりと穴が開いたような、ってたとえを聞いたことがある。
今なら、その言葉の意味が分かるような気がした。
(私が頑張ったことって……なんだったんだろ)
そんな考えが浮かんできたから、すぐに打ち消そうと首を横に振る。
(……違う)
すべてが無駄だったわけじゃない。
(だって、全部、覚えてる……)
文化祭の実行委員として、率先して行動したこと。
初めて知らない人に話しかけて、緊張しながらも笑えたこと。
嬉しかったことも、悔しかったことも、すべて私の中に残っている。
誰かに『普通』と言われたからって、それまで積み上げてきた時間が消えるわけじゃない。
(……無駄じゃない)
心の中で、もう一度、繰り返す。
その言葉を繰り返したところで、心にできた穴は塞がってくれない。
(……無駄じゃないはずなのに)
カップの向こうで、湯気が静かに揺れていた。
「十七歳前後は、特に需要があるかなと」
藤井さんの言葉を受けて、ふとランキングの上位にいた人たちの年齢を思い出す。
査定価格1位 ¥28,000,000 17歳/女子
査定価格2位 ¥1,940,000 17歳/女子
査定価格3位 ¥1,560,000 17歳/女子
査定価格4位 ¥1,420,000 17歳/女子
査定価格5位 ¥1,310,000 17歳/男子
査定価格6位 ¥1,180,000 16歳/男子
ランキング上位にいるのは、十七歳前後の子たちばかりだった。
(……大人がいない)
今まで何度もランキングを眺めていたはずなのに、そのことを意識したことはなかった。
「十七歳前後って、人生が大きく変わる直前なんですよ」
サイトを利用する年齢が制限されているわけでもないのに、ランキングの上位に大人がいない理由を藤井さんは淡々と語っていく。
「将来、何になるのかも分からない。夢を追う人もいれば、夢を諦める人もいる。まだ夢の途中にいる人もいるし、夢そのものが変わることだってあります」
藤井さんの口から発せられる言葉はどれも、私たちが経験している途中のこと。もしくは、これから経験するかもしれないことばかりだった。
「大学や専門学校。就職という、大きな分岐点も近いですからね」
ミルクティーの表面を覆っていた湯気が、時間と共に薄れていく。
「友人関係が変わることもあれば、恋愛関係が始まることもある」
ひとつひとつ並べられていく『これから』を耳にしながら、私も旗嶋くんも黙り続ける。
「……これから先の人生が、まだ決まっていないってことですか?」
「そうです。だからこそ、物語として面白くなるんです」
藤井さんの笑みが、より深まった。
「人生が決まり切っている大人よりも、十七歳前後の方が、この先の人生はどうなるんだろうって思えますから」
その言葉を聞いて、私は隣にいる旗嶋くんの顔を見た。
まだ十七だろと言われた、あのときの言葉が頭を過る。
「何も決まっていないことこそが、価値なんです」
編集者さんだな、って思った。
私が知らないことを知っていて、出版社という場所で多くの物語を見てきた人なのだと思った。
「ただ、これは一人の大人としての意見ですけどね」
藤井さんは、再びテーブルの上のミルクティーへと手を伸ばした。
(……どうして、こんなサイトができたんだろ)
サイトを誰が作ったのか。
どうしてこんな仕組みが存在するのか。
何のために、これほど大量の人生が集められているのか。
それについては明かされないままだけど、この世界では人の人生を物語として消費することに需要があることだけは分かった。
十七歳という年齢も、何も決まっていない未来も、友達との関係に悩むことも、進路に迷うことも、幸せなはずなのにどこか満たされないことも。これらを『面白い』と思う人がいる。
(……私は普通だったから、見つけてもらえた)
普通だったから、というフレーズを繰り返す。
でも、どこにでもいるような女の子だったからという事実が、今までもらったどんな言葉よりも怖かった。
特別じゃなかったから、価値があった。
何も決まっていなかったから、価値があった。
そんなことを言われてしまったら、私はこれから何を目指せばいいのか分からない。
「本になれば、いろんな人が読むことになりますからね」
藤井さんの言葉を聞いて、私は思わず俯いてしまった。
本を出すということは、自分の人生が知らない人の目に触れ、私のことを何も知らない人が何かを感じるということ。
(……私は藍の話を投稿しようとしてた)
藍が話してくれた人生を投稿して、誰かに読んでもらおうとしていた。
藍の人生そのものを奪えるわけじゃないけど、本人ではない私が藍の人生を商品にしようとしていたことに変わりはない。
今なら、その愚かさがよく理解できる。
(……藍は、普通の子なんかじゃない)
誰よりも傍で、私は藍の努力を見てきた。
本人は積み上げてきた努力を、たいしたことじゃないと言うかもしれない。
でも、私は藍が好きなことに対して努力してきたんだって、声を大にして言いたい。
人生って、本人より他人の方が分かっていることもあるんだよって伝えたい。
(……けど、私も藤井さんと同じだ)
藍はたいしたことじゃないと思っているものを、私だけが価値があると決めつけた。
藍の人生を誰かに見せて、面白いと思ってもらおうとしていた。
それは、藤井さんが私の人生にしていることと何も違わない。
私も、普通の女の子だから。どこにでもいる十七歳だからという理由で、私の人生は面白いと判断された。私が藍の人生に勝手に価値をつけたように、藤井さんも勝手に私の人生に価値をつけたということ。
「……藤井さんは普通の子の人生を探してただけで、百田の人生を買ったわけじゃないってことですよね?」
今まで黙っていた旗嶋くんが、ここで初めて口を開いた。
その声に、私は顔を上げる。
硝子越しに見える空が、いつの間にか昼間の青さを失い始めていた。
「……『LIFE―ライフ―』は、いろいろな人が覗いています」
藤井さんは、私たちの顔を順番に見る。
「出版社もいれば、広告関係の会社もあると思います。教育関係、人材関係、研究機関も。それから、個人利用者も」
店員さんがコーヒー豆を挽く音が聞こえてきた。
さっきまで遠くにあったはずの音がはっきりと聞こえるようになって、心に張り詰めていたものが少しずつ解けていく。
「だから、購入する理由も人によって違います」
藤井さんが、カップに手を添える。
「自分と似た人生の人を探す人」
藤井さんの言葉から逃げられるわけじゃない。
ただ、旗嶋くんのおかげで、自分が今いる場所を思い出せるようになっていた。
「自分より苦しい状況にいる人を見て、安心したい人もいるはず」
カウンターの向こうで、店員さんが食器を重ねていく音が鮮明に響いた。
「自分の子どもと似た人を探して、比較する人もいる。これから成功する人を探している人だっています」
私は、ランキングの上位にいた人たちのことを思い出した。
そこには誰かに憧れられるような人生を送っている人がいて、そういう人たちこそが『価値のある人生』を送っているものだと思っていた。
「自分と重なる人生を探している人もいますよね」
編集者はそこで、一度言葉を止めた。
でも、店内を流れるピアノの音だけは途切れることなく聞こえてくる。
「人によって、他人の人生を買う理由は違うんです」
誰かにとっては、共感するため。
誰かにとっては、比較するため。
誰かにとっては、自分の未来を想像するため。
誰かにとっては、ただ他人の人生を読むため。
同じ人生でも、見る人によって意味が変わるということを藤井さんに教えてもらう。
「……じゃあ」
真っ先に言葉を発したのは、旗嶋くんだった。
「百田の人生を買った人が、百田のことを好きになることもあるってことですよね」
藤井さんに向けていた視線が、隣にいる旗嶋くんへと移る。
旗嶋くんは気まずそうな表情をしていたけど、それでも私と目が合うと柔らかな笑みを浮かべた。
「人生を買うって、なんていうか……その人に興味を持つってことだろ?」
意外な質問だったのか、藤井さんが何度か目を瞬かせる。
「もちろん、そうですね」
やがて、藤井さんの表情が柔らかく解けた。
「その人の人生を読んで、その人に興味を持つ人もいます。応援したいと思う人もいるでしょうし、親近感を持つ人もいる。逆に、自分とはまったく違うから興味を持つ人もいると思いますよ」
その話を聞きながら、旗嶋くんが一度だけ私を見る。
「百田の査定価格が高いから、百田のことを好きになるわけじゃないってことですね」
「そうなりますね」
藤井さんは、迷うことなく頷いた。
「価格と、その人に対して抱く感情は、必ずしも一致しないと思います」
私は今まで価格が上がれば上がるほど、自分という存在を認めてもらえているような気がしていた。
だから、ランキングが上がると嬉しかった。
今までやらなかったことにも挑戦して、私ではない誰かより価値のある人生にしたいと思った。
でも、私がずっと追いかけていた数字は、私自身を表しているわけではないと藤井さんは言う。
(……誰かが、私の人生に値段をつけただけ)
その数字が高いからといって、私のことを好きになる人がいるわけじゃない。
その数字が低いからといって、私に興味を持ってくれる人がいないわけでもない。
だったら、今まで私は一体何と競っていたのか。
「……百田さんは」
藤井さんが、真っすぐに私を見る。
「変わってきていますよ」
お店を流れる音楽と、藤井さんの声が重なる。
「あくまで、百田さんの人生を読んだ私の感想ですが」
変わったね。
前の方が好きだった。
そんな言葉に、心がぎゅっと痛んだことがあったことを思い出す。
「最初に百田さんを見つけた理由は、普通だったからです」
今もまた、心がぎゅっと締めつけられるような痛みを訴えてくる。
「でも、今の百田さんに興味を持っている理由は、それだけではありません」
どこか包み込むような声で、藤井さんは言葉を足した。
「人との関わり方も、行動も、考え方も変わって……それって、大きな変化ですよね」
藤井さんの言葉に、心臓がゆらゆらと揺すられる。
「だからこそ、今の百田さんには続きがあるんですよ」
「……続き」
藤井さんの言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
けれど、本当に大切だったのは、価格を上げていくことではないのかもしれない。
ランキングの数字には収まりきらない『私の人生の続き』という言葉が、胸を打つ。
(……私の人生は、終わったわけじゃない)
十七歳の私は、まだ何も決まっていない。
だったら、これから先の私はどうなっていくのか。
ずっと見つめてきた数字が、このときだけは頭の片隅へと投げやられたのを感じる。
(価格は……私の人生そのものじゃない……)
それでも私は、『LIFE―ライフ―』があったから変わることができた。
そしてこれからも何かを選んで、それを選んだ結果、私は変わっていくのかもしれない。
未来が分からないことを怖いと思っていたけど、その怖いって気持ちを、もう否定しなくてもいいような気がした。
「急いで決める必要はありません」
店内に流れていたピアノの音がふと途切れ、別の音楽が流れ始める。
「ご家族とも相談して、進めたいと思ったら連絡ください」
流れ始めた新しい音楽に合わせるように、藤井さんは店内の時計へと視線を向けた。
「そろそろ、私は失礼しますね」
「……今日はありがとうございました」
私が頭を下げると、藤井さんは腰かけていた椅子から立ち上がる。
「こちらこそ、ありがとうございました」
椅子の背にかけていた鞄を手に取り、そのまま会計に向かった。
藤井さんを見送りながら、私はさっきまで話していたことを思い返す。
(人生には、値段がつく)
『LIFE―ライフ―』の中での査定価格だけでは、その人がどんな人間なのかが決まるわけじゃない。
私も、まだ変わる可能性を持っているってこと。
「……百田、どうする?」
旗嶋くんの声が聞こえてきて、ようやく自分が考え込んでいたことに気づく。
顔を上げると、目の前にはさっきまでと何も変わらないお店の景色があった。
お客さんが店を出入りするたび、夕方の冷たい空気が店の中に入り込んでくる。
「自分の人生なんだから、好きに決めればいいと思うけど」
私は、窓の外へと視線を向けた。
「……誰かが、私の人生を読んでくれるってことだよね」
知らない人が、私の経験を知る。
今までは『LIFE―ライフ―』というサイトの中で、私の人生は完結していた。
でも、本になれば、『LIFE―ライフ―』の数字だけでは自分のことを判断できなくなる。
私が、どんな人間なのか。
何を考えて、何に悩んで、どんな風に生きてきたのか。
『LIFE―ライフ―』以外のところで知らない人が、私の人生そのものを見るということ。
「……怖くないか?」
旗嶋くんが聞いてくる。
「怖い……と思う」
思ったより素直に答えが出た。
「勝手に期待されたり、勝手に比べられる機会が増えるってことだから」
自分が本当に何を望んでいるのか、まだ分からない。
私は、自分の手を見つめ返す。
(……ここまで、一緒に歩んでくれた手)
窓の外ではもう太陽が沈んで、空が夜の色へと変わっていた。
「でも、自分のこと、伝えてみたい」
声にしてみると、思っていたよりもずっと楽に言葉が零れる。
「……そっか」
「うん」
あれほど重く感じていた想いは、意外なほど素直に溢れてくる。
心の奥でずっと引っかかっていたものが、ようやく外れたからかもしれない。
「誰が私のこと好きになってくれるかとか、誰が私のこと面白いって思ってくれるとか」
もっと価値のある人間になりたかった。
誰かより高い数字を手に入れたかった。
でも、自分の気持ちを言葉にできるようになるだけで、自分の世界は変わっていくのかもしれない。
「それって、私には決められない」
窓の外には夜の色が広がっていて、硝子に自分の顔がよく映るようになった
自分の顔を見つめる。
そこにいたのは、十七歳の私だった。
「だったら、自分の人生をどうするかくらいは自分で決めようかなって」
旗嶋くんの口元に、笑みが浮かぶ。
その様子を見て、私は冷めたミルクティーを一口だけ飲んだ。
甘さも温度もさっきまでとは違っているけど、その冷めたミルクティーも嫌じゃないと思った。
(……これも、私の人生)
ミルクティーを美味しいと感じる日もあれば、思い通りの甘さにならない日もある。
そんな風に誰かに高い値段をつけてもらえる日もあれば、誰にも見向きされない日だってきっとある。
それでも、それをどう受け取るのかは私が決めてもいい。
「……もし、後悔したら」
「そしたら、そのとき考えればいいだろ」
旗嶋くんは、ここで初めて運ばれてきたココアへと手をつけた。
「旗嶋くん、適当すぎ」
「いいんだよ、それで」
私もミルクティーのカップに手を伸ばす。
お互いに冷めきったカップを持ち上げようとすると、指先に伝わる温度が思っていたよりもずっと低くて、二人同時に手を離した。
「……あったかいうちに飲めば良かったね」
「……だな」
その日、私はランキングの数字も『LIFE―ライフ―』のサイトも覗かなかった。
いつもならランキングの数字が気になって仕方がなかったはずなのに、今日だけはスマートフォンは鞄の中に眠らせたままだった。
「……でも、美味しいね」
店内に流れるピアノの音が高く跳ねる。
私は店内に流れる音楽を聴きながら、もう一度ミルクティーを口へと運んだ。
朝食を食べながら、私は両親に声をかけた。
食卓には湯気の残る紅茶が置かれているけど、飲まずにいるうちに紅茶は温度を失い始めている。
「補講?」
「ううん、出版社の見学させてもらおうと思ってて……」
編集者の人と会う約束をしたことを両親に告げると、母は箸を止め、父は新聞を読む手を止めた。
「出版社の人が、会ってくれるって」
嘘は吐いていない。
ただ、その人に会う理由をすべて話せていないだけ。
「高校生でも相手にしてくれるのか?」
「インターンシップとかじゃなくて、社会科見学みたいな感じ」
そう答えると、両親は顔を見合わせて嬉しそうに笑った。
「やっぱり心花、出版関係の仕事に興味あるんだ」
窓から差し込む太陽の光が、両親の顔をますます明るいものにしてくれる。
でも、なぜか今は、その太陽の光が眩しく思えた。
「……うん」
両親は昔から、私が出版社に入りたいと思っている。
だから、こうして私が将来に対して前向きな姿勢を見せるだけで喜んでくれる。
「じゃあ、ちゃんと話を聞いてこないとね」
「……うん」
曖昧な返事をして、残っていた紅茶に口をつける。
温くなった紅茶は、なかなか喉を通ってくれなかった。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
玄関の扉を閉めると、私は家の中の暖かな空気から切り離されたような気がした。
朝の空気はひんやりしていて、頬に触れる風が冷たく感じる。
けれど、寒いのは気温のせいだけじゃないのかもしれない。
両親に隠しごとをしたのは、これが初めて。
そんな後ろめたさも、この寒さに影響しているのかもしれない。
(……まだ出版するって決めたわけじゃないから)
出版社の人に会って話を聞くだけだと、自分に言い聞かせるように言い訳する。
鞄を持ち直して駅に向かって歩き出すと、朝の通学路には制服姿の生徒たちがいつも通り歩いていた。
眠そうな顔をしている子もいれば、友達と笑いながら学校に向かう子もいて、周囲を気にすることなく自分の世界に閉じこもっている子もいる。
(いつもと変わらないのに……)
視界いっぱいに広がっているのは、見慣れた朝の風景でしかない。
その中に私が混ざっていくのだって、いつものこと。
(……いつもと、違って見える)
自分の人生が本になると思うだけで、自分がみんなとは違う場所に立っているような気がした。
「簡単に、信用しない方がいいと思うけど」
昼休みの進路資料室は、昨日のようにパンフレットのページを捲る音で満ちている。
窓際の辺りがやけに明るくて、旗嶋くんは今日も自らカーテンを閉めに行った。布が擦れる音と共に、真昼の白い光が部屋の中から消えていく。
「でも、大手出版社だったよ……?」
「だから、だろ」
カーテンが閉じられ、部屋の中に太陽の光が入ってこなくなる。
部屋が暗くなったことで作業しやすくなった旗嶋くんは、何事もなかったかのように手元のパンフレットを開き直す。
私も隣に並んでページを捲るけど、今日はパンフレットの文字が頭に入ってこない。
「金になりそうな人間に、片っ端から声かけてる可能性だってある」
「……そうなのかな」
自分の人生が、一冊の本になるかもしれない。
その言葉を思い出すだけで落ち着きがなくなる私に対して、たまたま進路資料室に居合わせた旗嶋くんは冷静だった。
ページを捲る指先すらも落ち着いていて、彼はそのままパンフレットを読み進めていく。
「……わざわざ俺に言わなくても、会うんだろ。編集者に」
「……そのつもり」
「一人で?」
「……そうなるかな」
私がそう返すと、旗嶋くんの指が止まった。
視線はパンフレットに落としたままだったけど、やがて旗嶋くんはゆっくりと顔を上げた。
「俺も行こうか」
「え?」
声が裏返りそうになった。
でも、旗嶋くんは眉を寄せて言葉を続けていく。
「出版社の人って言っても、本当にその出版社の人かどうか分からないだろ」
「でも、プロフィールにはちゃんと出版社の名前が……」
「それだって、本物かどうか確認した方がいい」
淡々とした口調だったけど、旗嶋くんが抱いている警戒心が本物だということが伝わってくる。
「別に、会うなって言ってるわけじゃない」
旗嶋くんの視線がパンフレットではなく、私に向けられる。
「ただ、一人で行く必要はないと思う」
「でも、旗嶋くんに迷惑……」
「俺が邪魔なら、外で待ってる」
そこに特別な意味があるわけじゃなかった。
ただ、本当に旗嶋くんが心配してくれているのだと気づくことができた。
「百田心花さんですか?」
「はい」
放課後になって待ち合わせ場所に着くと、喫茶店の指定された席に一人の女性が座っていた。
私たちに気づくと、女性はすぐに立ち上がる。
「……えっと、クラスメイトの旗嶋くんです」
「すみません、同席させてください」
「構いませんよ」
にこりと笑った女性は、三十代後半くらいに見えた。
きちんとした服装に、綺麗にまとめられた髪。
編集者というと、もっと個性的な人を想像していた。
マンガの中に出てくる編集者みたいな、変わった雰囲気の人が来るものだと思っていた。でも、目の前にいる人は、どこにでもいそうな普通の大人に見える。
「初めまして。突然ご連絡してしまって、すみません。藤井と申します」
藤井さんは丁寧に頭を下げると、名刺を差し出してきた。
「あ……ありがとうございます」
慌てて名刺を受け取る。
そこにははっきりと出版社の名前も、藤井さんの名前も、所属している編集部の文字も並んでいた。
(……本当に出版社の人なんだ)
当たり前のことなのに、それを確認しただけで心臓の音が速くなるのを感じる。
「よろしくお願いします」
店内にはコーヒーの香りが漂っていて、どこか大人っぽいピアノの音楽が流れている。
店内の大人びた空気に呑まれそうになりながらも、緊張しながら頭を下げる。
「よろしくお願いします」
隣から旗嶋くんの落ち着いた声が聞こえて顔を上げると、旗嶋くんはいつもと変わらない顔つきをしていた。
「驚かれましたよね」
運ばれてきたばかりのミルクティーとココアが、テーブルの上に三個並んだ。
カップから立ち上る湯気の向こうで、飲み物が波のように揺れている。
私はしばらくその波を眺めていると、藤井さんが一枚の資料をテーブルに置いた。
「私が今日お話ししたかったのは、百田さんの投稿についてです」
資料を見ると、そこには私が『LIFE―ライフ―』に投稿したタイトルがいくつか並んでいた。
「百田さんの人生を、本にしたいと思っています」
「……本に?」
「はい。百田さんだけではなく、ほかの方の人生も一緒に」
「アンソロジー……ですか?」
「そうです」
ほかの方も一緒にと言われて、心の奥底で何かが沈んだ。
私の人生だけを、一冊の本にしてくれるわけではないらしい。
(それでも……)
それでも、本になる。
そう考えることで、沈み込んだ何かを取り戻せたような気がした。
「あの……どうして、私なんですか?」
思い切って口にすると、藤井さんが私に視線を向けた。
「あ、ほかにも候補がいるって聞いてるんですけど……どうして私なのかなって」
大人の瞳に見つめられると、正直、臆しそうになる。
それでも、この疑問だけはずっと私の中で引っかかっていた。
「私よりすごい人なんて、いくらでもいると思います」
成績がいい人、スポーツで名を残す人、特別な才能を持つ人。大きな夢に向かって挑戦している人だっている。
そんな人たちと比べれば、私はどうしたって普通にしか思えなかった。
「百田さんの人生が特別だったから、ではないんです」
「……え?」
藤井さんはカップの持ち手を指でなぞりながら、言葉を選んでいるようだった。
「むしろ、普通だったからです」
「……普通?」
その言葉が、心の奥で引っかかる。
「百田さんの投稿を見ていると、最初の頃と比べてかなり価格が変化していますよね」
藤井さんは私の違和感に気づいているのかいないのか、淡々とした調子で話し続ける。
「価格だけを見ると、百田さんの人生はどんどん良くなっているように見える」
確かに、藤井さんの言う通りだった。
ランキングを意識するようになってから、私の人生の価格は上がった。
新しい経験をするたびに、新しい人と出会うたびに、自分の人生が良くなっていると思っていた。
「でも、百田さん自身は、自分の人生を特別なものだと思っていませんよね?」
指先を、ぎゅっと握る。
「友達に嫉妬することもある」
指先に力を込めていると、思わず息まで止めてしまいそうになる。
「自分だけが、何も持っていないような気がすることもある」
酸素が足りない。
でも、そう感じているのは私だけで、藤井さんの声はずっと穏やかなままだった。
「周りは前に進んでいるように見えて、自分だけ取り残されている気がすることもある」
藤井さんが、ちゃんと私の投稿を読んで、ここに来たことが分かる。
「価格が上がっているのに、百田さんは自分の人生を特別だと思っていない」
藤井さんは微笑みながら、ミルクティーの入ったカップを口に運んでいく。
「そういう、ごく普通の女の子が抱えるようなことを書いている」
ここで藤井さんは、私の目を真っすぐ見た。
「それが、最初に百田さんに興味を持った理由です」
「……最初に?」
「はい。特別な才能があるからでも、特別な経験をしてきたからでもありません」
藤井さんが、大人としての柔らかな笑みを整える。
「誰にでもありそうな悩みを抱えていて、誰にでもありそうな毎日を過ごしている。だからこそ、十七歳の今を残したいと思ったんです」
心の奥底に、何か重たい感情が沈み込んでいく。
大人の藤井さんは綺麗な笑みを浮かべているけど、子どもの私はきっと上手く笑うことができていない。
「だから、面白いと思ったんです」
私の人生が買われて、ちゃんと読んでもらっている。
ただそれだけのことのはずなのに、誰かに言葉として突きつけられると、自分でも気づいていなかった場所が痛み始める。
「進路について迷う。幸せなはずなのに、何か足りない気がする。友達のことを大切に思っているのに、比べてしまう」
藤井さんは、私の投稿をひとつずつ思い出すように話しかけてくる。
「そういう感情って、特別な人だけが持つものではないですよね」
私は、藤井さんの言葉に何も言えなかった。
「十七歳の子なら、誰でも似たような感情を持っていると思うんです」
その言葉を聞いて、頭の中にひとつの言葉が浮かんだ。
【普通】
特別な経験がなくて、特別な才能もなくて、誰かよりも優れているわけではないからこそ、もっと価値のある人生にしようと思った。ランキングを気にするようになったのも、文化祭で実行委員になったのも、今までならやらなかったことに挑戦しようと思ったから。それを繰り返していけば、自分の人生は変わっていくものだと信じていた。
「……私の人生が、普通だから?」
やっと出てきた声は、自分でも驚くほど小さかった。
「だからこそ、だと思っています」
私は膝の上で、気づかれないように手を握る。
(……私が頑張ったから、じゃない)
その事実が、重く自分の手元に落ちてくる。
今までの私は、自分の人生を良くするために頑張ってきた。
人生の価格を上げるために、もっと価値のある人間になるために。
だから、価格が上がっていくたびに、自分も前に進めているような感じがしていた。
それなのに、私が選ばれた理由は、その努力とは関係がなかったと告げられる。
(ただ、普通だったから)
ぽっかりと穴が開いたような、ってたとえを聞いたことがある。
今なら、その言葉の意味が分かるような気がした。
(私が頑張ったことって……なんだったんだろ)
そんな考えが浮かんできたから、すぐに打ち消そうと首を横に振る。
(……違う)
すべてが無駄だったわけじゃない。
(だって、全部、覚えてる……)
文化祭の実行委員として、率先して行動したこと。
初めて知らない人に話しかけて、緊張しながらも笑えたこと。
嬉しかったことも、悔しかったことも、すべて私の中に残っている。
誰かに『普通』と言われたからって、それまで積み上げてきた時間が消えるわけじゃない。
(……無駄じゃない)
心の中で、もう一度、繰り返す。
その言葉を繰り返したところで、心にできた穴は塞がってくれない。
(……無駄じゃないはずなのに)
カップの向こうで、湯気が静かに揺れていた。
「十七歳前後は、特に需要があるかなと」
藤井さんの言葉を受けて、ふとランキングの上位にいた人たちの年齢を思い出す。
査定価格1位 ¥28,000,000 17歳/女子
査定価格2位 ¥1,940,000 17歳/女子
査定価格3位 ¥1,560,000 17歳/女子
査定価格4位 ¥1,420,000 17歳/女子
査定価格5位 ¥1,310,000 17歳/男子
査定価格6位 ¥1,180,000 16歳/男子
ランキング上位にいるのは、十七歳前後の子たちばかりだった。
(……大人がいない)
今まで何度もランキングを眺めていたはずなのに、そのことを意識したことはなかった。
「十七歳前後って、人生が大きく変わる直前なんですよ」
サイトを利用する年齢が制限されているわけでもないのに、ランキングの上位に大人がいない理由を藤井さんは淡々と語っていく。
「将来、何になるのかも分からない。夢を追う人もいれば、夢を諦める人もいる。まだ夢の途中にいる人もいるし、夢そのものが変わることだってあります」
藤井さんの口から発せられる言葉はどれも、私たちが経験している途中のこと。もしくは、これから経験するかもしれないことばかりだった。
「大学や専門学校。就職という、大きな分岐点も近いですからね」
ミルクティーの表面を覆っていた湯気が、時間と共に薄れていく。
「友人関係が変わることもあれば、恋愛関係が始まることもある」
ひとつひとつ並べられていく『これから』を耳にしながら、私も旗嶋くんも黙り続ける。
「……これから先の人生が、まだ決まっていないってことですか?」
「そうです。だからこそ、物語として面白くなるんです」
藤井さんの笑みが、より深まった。
「人生が決まり切っている大人よりも、十七歳前後の方が、この先の人生はどうなるんだろうって思えますから」
その言葉を聞いて、私は隣にいる旗嶋くんの顔を見た。
まだ十七だろと言われた、あのときの言葉が頭を過る。
「何も決まっていないことこそが、価値なんです」
編集者さんだな、って思った。
私が知らないことを知っていて、出版社という場所で多くの物語を見てきた人なのだと思った。
「ただ、これは一人の大人としての意見ですけどね」
藤井さんは、再びテーブルの上のミルクティーへと手を伸ばした。
(……どうして、こんなサイトができたんだろ)
サイトを誰が作ったのか。
どうしてこんな仕組みが存在するのか。
何のために、これほど大量の人生が集められているのか。
それについては明かされないままだけど、この世界では人の人生を物語として消費することに需要があることだけは分かった。
十七歳という年齢も、何も決まっていない未来も、友達との関係に悩むことも、進路に迷うことも、幸せなはずなのにどこか満たされないことも。これらを『面白い』と思う人がいる。
(……私は普通だったから、見つけてもらえた)
普通だったから、というフレーズを繰り返す。
でも、どこにでもいるような女の子だったからという事実が、今までもらったどんな言葉よりも怖かった。
特別じゃなかったから、価値があった。
何も決まっていなかったから、価値があった。
そんなことを言われてしまったら、私はこれから何を目指せばいいのか分からない。
「本になれば、いろんな人が読むことになりますからね」
藤井さんの言葉を聞いて、私は思わず俯いてしまった。
本を出すということは、自分の人生が知らない人の目に触れ、私のことを何も知らない人が何かを感じるということ。
(……私は藍の話を投稿しようとしてた)
藍が話してくれた人生を投稿して、誰かに読んでもらおうとしていた。
藍の人生そのものを奪えるわけじゃないけど、本人ではない私が藍の人生を商品にしようとしていたことに変わりはない。
今なら、その愚かさがよく理解できる。
(……藍は、普通の子なんかじゃない)
誰よりも傍で、私は藍の努力を見てきた。
本人は積み上げてきた努力を、たいしたことじゃないと言うかもしれない。
でも、私は藍が好きなことに対して努力してきたんだって、声を大にして言いたい。
人生って、本人より他人の方が分かっていることもあるんだよって伝えたい。
(……けど、私も藤井さんと同じだ)
藍はたいしたことじゃないと思っているものを、私だけが価値があると決めつけた。
藍の人生を誰かに見せて、面白いと思ってもらおうとしていた。
それは、藤井さんが私の人生にしていることと何も違わない。
私も、普通の女の子だから。どこにでもいる十七歳だからという理由で、私の人生は面白いと判断された。私が藍の人生に勝手に価値をつけたように、藤井さんも勝手に私の人生に価値をつけたということ。
「……藤井さんは普通の子の人生を探してただけで、百田の人生を買ったわけじゃないってことですよね?」
今まで黙っていた旗嶋くんが、ここで初めて口を開いた。
その声に、私は顔を上げる。
硝子越しに見える空が、いつの間にか昼間の青さを失い始めていた。
「……『LIFE―ライフ―』は、いろいろな人が覗いています」
藤井さんは、私たちの顔を順番に見る。
「出版社もいれば、広告関係の会社もあると思います。教育関係、人材関係、研究機関も。それから、個人利用者も」
店員さんがコーヒー豆を挽く音が聞こえてきた。
さっきまで遠くにあったはずの音がはっきりと聞こえるようになって、心に張り詰めていたものが少しずつ解けていく。
「だから、購入する理由も人によって違います」
藤井さんが、カップに手を添える。
「自分と似た人生の人を探す人」
藤井さんの言葉から逃げられるわけじゃない。
ただ、旗嶋くんのおかげで、自分が今いる場所を思い出せるようになっていた。
「自分より苦しい状況にいる人を見て、安心したい人もいるはず」
カウンターの向こうで、店員さんが食器を重ねていく音が鮮明に響いた。
「自分の子どもと似た人を探して、比較する人もいる。これから成功する人を探している人だっています」
私は、ランキングの上位にいた人たちのことを思い出した。
そこには誰かに憧れられるような人生を送っている人がいて、そういう人たちこそが『価値のある人生』を送っているものだと思っていた。
「自分と重なる人生を探している人もいますよね」
編集者はそこで、一度言葉を止めた。
でも、店内を流れるピアノの音だけは途切れることなく聞こえてくる。
「人によって、他人の人生を買う理由は違うんです」
誰かにとっては、共感するため。
誰かにとっては、比較するため。
誰かにとっては、自分の未来を想像するため。
誰かにとっては、ただ他人の人生を読むため。
同じ人生でも、見る人によって意味が変わるということを藤井さんに教えてもらう。
「……じゃあ」
真っ先に言葉を発したのは、旗嶋くんだった。
「百田の人生を買った人が、百田のことを好きになることもあるってことですよね」
藤井さんに向けていた視線が、隣にいる旗嶋くんへと移る。
旗嶋くんは気まずそうな表情をしていたけど、それでも私と目が合うと柔らかな笑みを浮かべた。
「人生を買うって、なんていうか……その人に興味を持つってことだろ?」
意外な質問だったのか、藤井さんが何度か目を瞬かせる。
「もちろん、そうですね」
やがて、藤井さんの表情が柔らかく解けた。
「その人の人生を読んで、その人に興味を持つ人もいます。応援したいと思う人もいるでしょうし、親近感を持つ人もいる。逆に、自分とはまったく違うから興味を持つ人もいると思いますよ」
その話を聞きながら、旗嶋くんが一度だけ私を見る。
「百田の査定価格が高いから、百田のことを好きになるわけじゃないってことですね」
「そうなりますね」
藤井さんは、迷うことなく頷いた。
「価格と、その人に対して抱く感情は、必ずしも一致しないと思います」
私は今まで価格が上がれば上がるほど、自分という存在を認めてもらえているような気がしていた。
だから、ランキングが上がると嬉しかった。
今までやらなかったことにも挑戦して、私ではない誰かより価値のある人生にしたいと思った。
でも、私がずっと追いかけていた数字は、私自身を表しているわけではないと藤井さんは言う。
(……誰かが、私の人生に値段をつけただけ)
その数字が高いからといって、私のことを好きになる人がいるわけじゃない。
その数字が低いからといって、私に興味を持ってくれる人がいないわけでもない。
だったら、今まで私は一体何と競っていたのか。
「……百田さんは」
藤井さんが、真っすぐに私を見る。
「変わってきていますよ」
お店を流れる音楽と、藤井さんの声が重なる。
「あくまで、百田さんの人生を読んだ私の感想ですが」
変わったね。
前の方が好きだった。
そんな言葉に、心がぎゅっと痛んだことがあったことを思い出す。
「最初に百田さんを見つけた理由は、普通だったからです」
今もまた、心がぎゅっと締めつけられるような痛みを訴えてくる。
「でも、今の百田さんに興味を持っている理由は、それだけではありません」
どこか包み込むような声で、藤井さんは言葉を足した。
「人との関わり方も、行動も、考え方も変わって……それって、大きな変化ですよね」
藤井さんの言葉に、心臓がゆらゆらと揺すられる。
「だからこそ、今の百田さんには続きがあるんですよ」
「……続き」
藤井さんの言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
けれど、本当に大切だったのは、価格を上げていくことではないのかもしれない。
ランキングの数字には収まりきらない『私の人生の続き』という言葉が、胸を打つ。
(……私の人生は、終わったわけじゃない)
十七歳の私は、まだ何も決まっていない。
だったら、これから先の私はどうなっていくのか。
ずっと見つめてきた数字が、このときだけは頭の片隅へと投げやられたのを感じる。
(価格は……私の人生そのものじゃない……)
それでも私は、『LIFE―ライフ―』があったから変わることができた。
そしてこれからも何かを選んで、それを選んだ結果、私は変わっていくのかもしれない。
未来が分からないことを怖いと思っていたけど、その怖いって気持ちを、もう否定しなくてもいいような気がした。
「急いで決める必要はありません」
店内に流れていたピアノの音がふと途切れ、別の音楽が流れ始める。
「ご家族とも相談して、進めたいと思ったら連絡ください」
流れ始めた新しい音楽に合わせるように、藤井さんは店内の時計へと視線を向けた。
「そろそろ、私は失礼しますね」
「……今日はありがとうございました」
私が頭を下げると、藤井さんは腰かけていた椅子から立ち上がる。
「こちらこそ、ありがとうございました」
椅子の背にかけていた鞄を手に取り、そのまま会計に向かった。
藤井さんを見送りながら、私はさっきまで話していたことを思い返す。
(人生には、値段がつく)
『LIFE―ライフ―』の中での査定価格だけでは、その人がどんな人間なのかが決まるわけじゃない。
私も、まだ変わる可能性を持っているってこと。
「……百田、どうする?」
旗嶋くんの声が聞こえてきて、ようやく自分が考え込んでいたことに気づく。
顔を上げると、目の前にはさっきまでと何も変わらないお店の景色があった。
お客さんが店を出入りするたび、夕方の冷たい空気が店の中に入り込んでくる。
「自分の人生なんだから、好きに決めればいいと思うけど」
私は、窓の外へと視線を向けた。
「……誰かが、私の人生を読んでくれるってことだよね」
知らない人が、私の経験を知る。
今までは『LIFE―ライフ―』というサイトの中で、私の人生は完結していた。
でも、本になれば、『LIFE―ライフ―』の数字だけでは自分のことを判断できなくなる。
私が、どんな人間なのか。
何を考えて、何に悩んで、どんな風に生きてきたのか。
『LIFE―ライフ―』以外のところで知らない人が、私の人生そのものを見るということ。
「……怖くないか?」
旗嶋くんが聞いてくる。
「怖い……と思う」
思ったより素直に答えが出た。
「勝手に期待されたり、勝手に比べられる機会が増えるってことだから」
自分が本当に何を望んでいるのか、まだ分からない。
私は、自分の手を見つめ返す。
(……ここまで、一緒に歩んでくれた手)
窓の外ではもう太陽が沈んで、空が夜の色へと変わっていた。
「でも、自分のこと、伝えてみたい」
声にしてみると、思っていたよりもずっと楽に言葉が零れる。
「……そっか」
「うん」
あれほど重く感じていた想いは、意外なほど素直に溢れてくる。
心の奥でずっと引っかかっていたものが、ようやく外れたからかもしれない。
「誰が私のこと好きになってくれるかとか、誰が私のこと面白いって思ってくれるとか」
もっと価値のある人間になりたかった。
誰かより高い数字を手に入れたかった。
でも、自分の気持ちを言葉にできるようになるだけで、自分の世界は変わっていくのかもしれない。
「それって、私には決められない」
窓の外には夜の色が広がっていて、硝子に自分の顔がよく映るようになった
自分の顔を見つめる。
そこにいたのは、十七歳の私だった。
「だったら、自分の人生をどうするかくらいは自分で決めようかなって」
旗嶋くんの口元に、笑みが浮かぶ。
その様子を見て、私は冷めたミルクティーを一口だけ飲んだ。
甘さも温度もさっきまでとは違っているけど、その冷めたミルクティーも嫌じゃないと思った。
(……これも、私の人生)
ミルクティーを美味しいと感じる日もあれば、思い通りの甘さにならない日もある。
そんな風に誰かに高い値段をつけてもらえる日もあれば、誰にも見向きされない日だってきっとある。
それでも、それをどう受け取るのかは私が決めてもいい。
「……もし、後悔したら」
「そしたら、そのとき考えればいいだろ」
旗嶋くんは、ここで初めて運ばれてきたココアへと手をつけた。
「旗嶋くん、適当すぎ」
「いいんだよ、それで」
私もミルクティーのカップに手を伸ばす。
お互いに冷めきったカップを持ち上げようとすると、指先に伝わる温度が思っていたよりもずっと低くて、二人同時に手を離した。
「……あったかいうちに飲めば良かったね」
「……だな」
その日、私はランキングの数字も『LIFE―ライフ―』のサイトも覗かなかった。
いつもならランキングの数字が気になって仕方がなかったはずなのに、今日だけはスマートフォンは鞄の中に眠らせたままだった。
「……でも、美味しいね」
店内に流れるピアノの音が高く跳ねる。
私は店内に流れる音楽を聴きながら、もう一度ミルクティーを口へと運んだ。

