十七歳の女子高生が人生を売ったら、彼女よりも高額査定だった

「百田(ももた)さん、ここどうしたらいい?」
「あ、そこは……」

 それから文化祭までの時間は、思っていた以上にあっという間に過ぎていった。
 実行委員になったばかりの頃は、放課後の時間を削られることばかり気にしていた。
 でも、実際に準備が始まってみると、あまりにもやることが多すぎて時間の進みを気にしている暇さえなくなっていった。

「ありがとう、百田さん。助かった」
「また何かあったら声かけて」

 黒板の前では、いくつもの意見が飛び交いながら話し合いが進められていた。
 いつもの放課後の空気よりも、熱を帯びているような感覚がするのを嫌いには思えなかった。

「百田さーん! どっちがいいと思うー?」
「いま行くー!」

 最初の頃は、ぶつかり合う意見をどうまとめていいのかすら分からなかった。
 今までの私なら、波風の立たなさそうな意見に合わせてしまっていた。面倒なことになるくらいなら、多数派を選んだ方がいい。
 嫌われるくらいなら、自分の意見なんて言わない方がいいっていうのが今までの私だった。

「私は、こっちの方がいいかな」

 でも、今は自分の意見を言って、また誰かの意見にも耳を傾けるようになった。その上で、クラスがどうすればもっと良くなるのかを考える。そんなことを何度も繰り返しているうちに、これらの時間が私の日常に当たり前として溶け込んでいくようになった。

「百田さん、こっちの確認お願い!」
「はーい!」

 準備が予定通り進まないことなんて日常茶飯事で、誰かが仕事を忘れていて、上手く別の誰かに任せたこともある。
 それでも、そのたびにクラスが乱れないように考えて、文化祭という形を作り上げてきたつもり。
 もちろん上手くまとめられなかったって思う日もあるけど、そんな毎日が嫌じゃなかった。むしろ、大変なのに楽しいって思えた。

「心花! 手伝って!」
「ちょっと待ってて」

 名前を呼ばれるたびに、胸の奥が熱くなるのは気のせいじゃないと思う。
 私はクラスのみんなから頼りにされるようになっていて、そのことが純粋に嬉しかった。
 誰かに頼ってもらえることも、自分の意見を言えることも、今まで苦手だったことにも向き合えるようになったことも、すべてが楽しい。すべてが嬉しい。

(これ、いくらになるんだろう)

 文化祭が終わったら、投稿しよう。
『LIFE―ライフ―』に載せる文章を頭の中で組み立てていると、口元がだらしなく緩んでくるのが分かる。

「心花、お客さんもういっぱい来てる!」
「本当?」

 クラスメイトの声に背中を押され、廊下の様子を確認する。
 物価高で使える予算は限られていたけど、廊下にはみんなで知恵を絞って、できるだけお金をかけずに工夫した飾りつけが私を迎えた。限られた予算で作ったとは思えない想像を超える出来栄えに、また口元が緩んでいく。

「お客さんいっぱいだねー」
「緊張してきたー……」

 色とりどりの紙で飾り付けられた廊下や、手作りの看板、普段はみないような服装としている生徒たちが呼び込みを始める。
 今日だけは、いつもの学校が別世界に変わったように視界へと映り込んでくる。

「百田、ここなんだけど……」
「そこは……」

 気づけば、私は一日中走り回っていたかもしれない。
 万全に準備したつもりでも、いざ始まってみれば足りないものが出てくる。
 時間が押してしまったり、誰かが失敗したりして、完璧って言葉はどこにも存在しなかった。それでも、そのたびにクラスの誰かが動いたのは素直にすごいと思った。

「こっち、誰か手伝ってー」
「手、空いてる人いるー?」

 誰かが困っていれば、すぐに誰かが駆けつける。
 手が空いている人は、率先して仕事を引き受けていた。
 そんな光景を何度も目にしてきたからこそ、私一人の力ではここまでやれなかったことに感謝の気持ちを向ける。
 クラスのみんなで一日を乗り切ったことは、この先も忘れられないんじゃないかとすら思えてくる。

(終わった……)

 文化祭の準備はあんなにも長くて、いつになったら準備が終わるんだろうと思ったことさえある。
 でも、いざ本番を迎えて見れば、最後の片付けまでは怒涛の勢いで過ぎ去っていった。

(あとは、サイトに投稿して……)

 窓から差し込む夕陽が、教室の床に散らばった金色と銀色の折り紙を照らしている。
 その光景をぼんやり眺めながら私は鞄に手を伸ばし、スマートフォンを探した。

「心花が実行委員やってくれて良かった」
「……え?」
「こういう仕事やるの、初めてでしょ?」

 声をかけてくれたのは、ずっと私のことを見守ってきてくれた藍だった。

「心花が一番、動いてたんじゃない?」
「……そんなことないよ」
「なーに、謙遜してるの?」
「ふふっ、ありがと。藍」

 今までにやったことのないことをして、特別な経験を増やしていくことで、もっと価値が跳ね上がると思った。
 今日まで積み重ねてきた努力も、すべてはランキングを上げるためだった。

(これなら、いけるかもしれない)

 家に帰ると、制服のままベッドに倒れ込んだ。
 今日の出来事から得た熱が冷めきる前に、『LIFE―ライフ―』のサイトを開いた。
 指先が震えていたけど、きっとこれは疲れから来ているもの。
 この興奮を早く投稿しなきゃと、震える指を抑えながら文章を投稿していく。

(こんなことがあって……)

 もう迷いはなかった。
 今日までの自分を、ちゃんと価値に変えてもらわなきゃいけない。
 投稿画面に文化祭の出来事を入力していくたびに、心臓が高鳴っていくのを感じる。

(いくらになるかな)

 投稿ボタンを押すと、お馴染みの査定画面が表示された。
 最近は結果が出るのが早いって分かっているからこそ、いちいちサイトを閉じることもしなかった。
 落ち着かない気持ちを抑えきれずに体を起こそうとすると、予想よりも早く数字が現れた。

「んー……三百万か」

 文化祭の実行委員になったことを投稿したときは、たった十八万四千円だった。
 でも、文化祭で経験したことを綴ると、今度は三百万円まで値段が跳ね上がった。

「やっと二位くらいかな……」

 これだけ頑張って三百万円なら、十分すぎるほどの成果だと思う。
 けど、一位には遠く及ばない金額だった分かると、なんとも言えない気持ちになった。

(……なんか、疲れちゃったな)

 ずっと頑張り続けてきたせいか、疲れが体にどっと押し寄せてきたような気がする。
 もうこのまま眠ってしまおうと、薄暗くなっていく画面を眺めていたときのことだった。

(……ん?)

 何かが可笑しいことに気づく。
 表示されている数字の桁が、いつもより長い。
 三百万円なら、こんなに桁が多いはずがない。

(……え、ちょっと待って)

 眠気が一気に吹き飛び、指を動かした画面を拡大した。
 そして、もう一度その数字の桁を確認する。

「っ……三千万円!?」

『文化祭を成功させた』
17歳/女子
¥3,001,2000

 心臓が、どくりと大きく跳ねた。
 一瞬だけ何が起きたのか分からなくなりかけたけど、次の瞬間には心の底から笑いが込み上げてきた。

「……やった」

 今まで見たことない数字に喜びの感情が湧き上がってきたけど、今回はそれだけじゃない。
 文化祭の実行委員になってからの毎日が、ちゃんと報われたような気がした。

「やった……やった……やった……!」

 みんなから感謝されて、藍からも褒めてもらえて、自分から動いたことで誰かの役に立てたことが何よりも嬉しかった。
 これらすべてが、三千万という数字に繋がったということ。

(やっぱり……私のやり方は間違ってなかった)

 もっと経験して、もっと率先して動いて、もっと自分を変えていくことで人生の価値は上がっていく。
 その証拠が、いま目の前にある。

「……三千万円」

 あまりにも嬉しすぎて、何度も何度も口にする。
 みんなが投稿した人生の最高価格が更新されて、十三位だった私の人生が今では第一位になっている。
 そう思ってランキング画面を勢いよく開いたけど、そこで私の笑顔は固まってしまった。


査定価格1位 ¥5,021,7200 17歳/女子
査定価格2位 ¥3,001,2000 17歳/女子
査定価格3位 ¥2,999,9000 17歳/女子


 さっきまでは、あんなに嬉しかったのに。
 さっきまでは、自分が変われたことを喜んでいたはずなのに。
 三千百万円っていう数字が、ちっぽけに見えた。

(……まだ足りないの?)

 こんなに頑張って一位に手が届かないとなってくると、もう何をすればいいのかも分からない。
 どんな経験をすれば、私はあの場所に辿り着くことができるのか。

「おはよー」
「おはよ」

 翌日の学校に行くと、窓から吹き込む風が冷たいなと思った。
 文化祭が終わったばかりなのに、校舎はもういつもの空気に戻りつつある。
 壁に貼られていた飾りはほとんど片付けられていて、机の隅には箒で履ききれなかった折り紙の切れ端が残っている。昨日まではもっとたくさんの色が校舎全体を彩っていたはずなのに、一気に世界がモノクロになってしまったようなもの悲しさに包まれる。

『文化祭を成功させた』
17歳/女子
¥3,001,2000

(……三千万円には、手が届いたのに)

 昨日の文化祭の熱気や校舎で響いていた歓声は、まだ身体のどこかに残っている気がする。
 文化祭の準備が大変だったことや、放課後の教室がいつもよりも暑かったことも覚えていて、みんなで文化祭を終えたときの達成感だってある。それなのに、ランキング画面を開いた瞬間に記憶たちが一気に遠ざかっていくのを感じる。


査定価格1位 ¥5,021,7200 17歳/女子
査定価格2位 ¥3,001,2000 17歳/女子
査定価格3位 ¥2,999,9000 17歳/女子


 ランキング画面を見て、手が止まる。
 今日はやっぱり、教室に入り込んでくる空気がいつもよりも冷たいような気がする。

(……私の人生は、二位だった)

 三千万円っていう数字は、これまでなら想像すらできなかった金額。
 この三千万円という数字は、私にいっぱいの幸せをもたらしてくれるはずだった。
 この三千万円は今まで頑張ってきたことが報われた証だったのに、一位の子は私が感動に浸るのを邪魔してきた。

「百田」

 声をかけてきたのが誰だか分かったからこそ、私は反射的にスマートフォンを伏せた。

「何? 旗嶋くん」
「昨日の文化祭、凄かったな」

 旗嶋くんは私の机の横に立ったままで、私は机に伏せながらスマートフォンの存在を隠す。

「百田が頑張ったおかげ」
「……ありがとう」

 素直にお礼を言うと、なぜか旗嶋くんは目を細めて笑った。

「……何?」
「ん? 文化祭が楽しかったんだから、誰でも笑顔になるだろ」

 まるで、笑っていない私の方が可笑しいとでも言いたげな表情だと思った。

「百田は、文化祭成功したのに嬉しくなさそう」
「……え?」

 スマートフォンは伏せた。
 画面だって見ないようにしていたはずなのに、旗嶋くんは私の手元を見て盛大に息を吐き出した。

「まーたランキング?」
「……見てただけ」
「ふーん」

 旗嶋くんはやっぱり、それ以上追及することはなかった。
 自分の席に戻ろうと、そのまま私の横を通り過ぎようとする。

「……旗嶋くん」

 いつもならそれで終わっていたはずなのに、今日の私は気づけば旗嶋くんに声をかけていた。

「ん?」

 体を起こして、手で覆っていたスマートフォンの旗嶋くんに見せる。

「……文化祭の経験、三千万だった」
「すごいな」

 心に溜まり続けているものを、ただ誰かに聞いてほしかったのか。
 旗嶋くんを足止めした理由は自分でもよく分からないけど、溜め込んでいただろう言葉たちが口からぽろぽろと零れてきた。

「……でも」

 言葉が、喉につかえる。
 でも、このまま言葉を止めてしまったら、抱えているものが次々と積み重なってしまう。

「……一位じゃなかった」
「へえ」
「……あと、二千万も足りない」

 昨日までなら、三千万円という数字だけで十分だったはずなのに。

「あと、二千万……」

 呟いた言葉が、自分に跳ね返ってくる。
 すると、旗嶋くんは呆れたように息を吐いて私を見た。

「まだやんの?」
「……うん」
「三千万もいったんだろ?」
「でも、一位じゃない……!」

 自分でも、頭のどこかでは理解している。
 自分が、いかに可笑しなことを言っているかってことを。
 それでも、口から出てくる言葉を止めることができない。

「一位の子、百田の知り合い?」
「……ううん、知らない子」
「じゃあ、なんでそんなに気になるんだよ」
「っ」

 旗嶋くんの言葉に、返す言葉が見つからない。
 私勝手にライバル視している彼女は、名前も顔も知らない。
 どんな学校に通っているかも、どんな友達がいるのかも分からない。
 ただ、ランキングの一番上にいるってだけの存在。
 それなのに、私はどうしても彼女の背中を追いかけたくなる。

「……私は」

 何か、言わなきゃと思った。
 いつものように、自分の人生を良くしたいだけだと言い切ればいい。
 でも、最近の私は、その言葉ばかり繰り返しているってことに気づいていた。

「……私は!」

 もっと、いろんなことを経験して。
 もっと、たくさんの人と出会って。
 もっと自分を変えていくことができれば、きっと自分の人生は価値あるものになる。
 そう信じてきたはずなのに、言葉が上手く出てこない。

「……顔も知らない子に勝つために、百田が人生変えることないだろ」

 心が、ざわつく。
 教室の騒がしさが遠のいて、自分の鼓動だけがうるさい。

「……違う」

 咄嗟に、否定の言葉を口にする。
 でも、その声があまりにも弱々しすぎて、誰にも届かない。
 誰にも拾ってもらえないようなか細い声が酷く悲しくて、泣きたくなる。

「私は……自分の人生を良くしたいの」

 また、それ。
 また、同じ言葉。
 いつもなら私を前向きにさせるはずの言葉なのに、今歯その言葉を口にしても自分を守ってくれる気がしない。

「……百田」

 旗嶋くんが、私を見ている。
 でも、旗嶋くんの視線を受け止められない私は、逃げるようにスマートフォンへと視線を落とす。

「もう、それ、自分のためになってない気がする」

 胸が、きゅっと縮んだ。
 心が、痛い。
 心が、痛いって訴えてくる。

「……違う。違うよ。これは、私のため」

 さっきより強く言ったつもりなのに、声が震えそうだった。

「だって、これは私の人生なんだから」

 言葉は言い切っているはずなのに、なぜか自信がない。
 だから、ずっと顔を上げられないままの時間が続いた。
 でも、旗嶋くんの視線は、ずっと私に向いたまま。

「文化祭で、みんなにありがとうって言ってもらえて……自分から動いて良かったって思った」

 これは、嘘じゃない。
 本当のこと。

「だから、私は前よりも自分の人生が好き」

 ここで満面の笑みを浮かべられたら、完璧だった。
 そうすれば、旗嶋くんとの会話を終わらせることができると思ったのに、私が顔を上げるよりも先に旗嶋くんが口を開いた。

「俺には、百田が一位にこだわってるようにしか見えないけどな」
「……それの、何が悪いの?」

 やっと、言い返せた。

「……私も、一位になりたい。一位になれたら、私の人生、もっともっと変わるの」

 もっと評価されることで、私の人生は価値あるものになる。
 自分の人生がもっと良くなれば、たくさんの人から称賛される。
 そう言おうとしたけど、その先の言葉が出てこない。

「……俺、最初はもっと高かったんだよ」

 遠くで椅子を引く音が聞こえて、ようやく自分が教室にいることを思い出した。

「サイト始めたばっかの頃に投稿した人生、十八万くらいだったのに」

 その話の続きを、なんとなく聞きたくないなって思った。
 手に力を入れたからって逃げられるわけじゃないけど、指先に力が入る。

「でも、投稿、続けてたら……」

 旗島くんが鞄からスマートフォンを取り出して、私に向ける。

「どんどん下がっていって……」
「最近の投稿が……三万円?」
「正解」

 以前、旗嶋くんから聞いた額なんて気にもしていなかったはずなのに。
 今は、その数字が重たい。

「……なんで?」
「ん?」
「なんで、投稿を続けたら下がったの?」
「さあ? 俺、管理者じゃないから」

 旗嶋くんは肩を竦めるような仕草をして、用のなくなったスマートフォンを再び鞄の中へと片付ける。

「……旗嶋くんの、経験の質とか」

 何を、口にしてしまったのか。
 人生に質も何もないはずなのに、私は旗嶋くんが投稿した人生の質が悪かったんじゃないかと言ってしまった。
 謝らなきゃ思って、ようやく顔を上げる。でも、旗嶋くんは怒っているようには見えなかった。

「俺、これといった特別な人生、投稿してないよ」
「え?」
「ごくありふれたことを投稿してたら、だんだんと額が下がって、最終的には三万円って流れ」

 旗嶋くんは何事もなかったかのように平然と話を進めていく。

「投稿しすぎたとも思ったけど」
「でも、普通は投稿したら評価されるはず……」
「そういうもんでもないだろうなぁってのが、最近の考え」

 あっさりとした返事だった。

「最初は面白かったんだけどな。数字上がったり下がったりするの」
「……うん」
「でも、ずっとやってると、なんか意味分かんなくなって」

 旗嶋くんは教室に入ってきたクラスメイトに気づいて、軽く手を振る。

「……大丈夫なの?」
「何が?」
「値段……こんなに下がって……」
「前も言ったけど、俺の人生が三万円になったわけじゃないからな」

 旗嶋くんの価値が、三万円だと思っていたわけじゃない。
 そんなつもりはなかった。
 でも、心のどこかで、そんなことを思っていたのかもしれない。

「サイトが三万円って言ってるだけなんだなぁって」

 旗嶋くんが、前にも同じことを言っていたことを思い出す。
 あのときは、数字が低いことを認めたくないっていう意味の強がりだと思ってた。
 でも、今の言葉を聞いて、この言葉は強がりでもなんでもないんだってことが分かった。

「途中から、数字を上げるために投稿してんのか、好きで投稿してんのか分かんなくなって……」

 旗嶋くんにとって、サイトでの査定価格は人生そのものじゃない。
 ただ、サイトが勝手につけた値段だと気づかされる。

「だから、もうサイトやめたって話」
「……え? どうして? もっと上がる可能性も……」
「もういいかなって」

 その言葉を聞いて、別の誰かの顔が浮かんだ。
 別の誰かとは、藍だった。
 藍も同じことを言っていたことを思い出す。

「……怖くないの?」
「何が?」

 あのときも、今も、二人の言っていることは理解できない。
 何もないと思っていた人生に値段をつけてもらえて、上手くいけばランキングに載ることだってできる。
 それなのに、どうしてやめるって選択肢が出てくるのか。

「だって……ランキングから消えちゃうよ」
「だろうな」
「値段も分からなくなって、誰からも評価されなくなるのに……」
「別に、サイトに人生預けてるわけじゃないから」

 旗嶋くん困ったような顔をしているのに、笑ってみせた。

「私は……」

 ここで、言葉を詰まらせるわけにはいかない。
 ここで言葉が出なくなってしまったら、藍や旗嶋くんの選択を認めてしまう気がしたから。

「……続けるよ」

 急いで。
 なんでもいいから早く言わなきゃと願ったら、言葉はすぐに出てきた。

「……そっか」

 旗嶋くんは私を会話することを諦めたのか、それとも嫌になったのか。
 私のことを否定することもなく、馬鹿にすることもなく、自分の席へと戻ってしまった。
 いつものように深く踏み込んでこないから、私は言葉の続きを見つけられないままだった。

(……自分の、ため)

 自分のため。
 自分の人生を良くするため。
 何度もそう言い聞かせてきたはずの言葉が、今は酷く空っぽに聞こえる。

(私は、この数字を見て悔しいって思う……)

 もっと頑張らなきゃって思うことも、もっと経験を積まなきゃって思うことも、決して悪いことではない。

「……そうだよ。自分のためにやってるんだから」

 誰にも聞かれない独り言は、自信がなくて頼りなかった。
 自分が頑張ることで文化祭を楽しいものだと思えたのは事実で、それらの頑張りはすべて自分の人生に還元された。
 だから、これからも私はランキングにこだわりたい。それなのに、口から出る言葉はどれも力が入っていなかった。

「おはよう、心花」

 サイトがつけた値段と、その人の人生は違う。
 旗嶋くんの人生につけられた三万円っていう数字は、ただの数字でしかない。

(だったら、私が投稿してる人生の値段だって……)

 真っ暗な画面が、やけに冷たく見えた。
 藍も、旗嶋くんも、人生を投稿するのをやめた。
 それなのに、私はまだ続けようとしている。

(続けるには、より良い経験を……)

 今の私より、もっと高い価格がつけばいい。
 もっと評価されて一位になれたら、自分の人生を投稿し続けてきたことをやっと認めてもらえるかもしれない。

「心花」
「っ」
「どうしたの? ぼーっとして」
「……え」

 机に膝をつきながら、消えた画面をぼんやりと見つめていたときのことだった。
 藍が教室に入ってきて、真っ暗な画面に藍の姿が映り込んだ。

「あ……えっと、おはよ」
「おはよう。で、どうしたの? ぼーっとしてたみたいだけど」

 早く新しい人生を投稿しなきゃいけないけど、藍との会話も私の人生の一部になる。
 だったら、今は藍との会話に集中した方が得かもしれない。

「……私のことより、藍の話、聞きたいな」
「私? なんで?」

 藍は席に腰かけると、いつものようにトートバッグから部活で使っているスケッチブックを取り出した。

「朝から話すことなんてないけど……」

 そう言いながら、藍は考え込んでくれた。

「あ、そういえば。文化祭に出した絵、先生に褒められたの」
「ほんと?」
「うん。珍しく」

 藍が照れたように笑いながら、描きかけの絵と向き合う。

「どんな絵? 忙しくて、見に行けなかったから」
「放課後、美術室来る?」
「うん、行きたい」

 二人で笑って、いつもの朝を迎えていく。
 昨日までと同じ藍との時間がここにあって、今までと何も変わらない。
 藍が嬉しそうにしているのを見ると、私も嬉しくなる。
 いつもなら本当にそれだけだったのに、私の頭にはいつもの朝にはない考えが浮かんでいた。

(藍の人生を、私が投稿すれば……)

 今こうして私に話してくれていることは、すべて私が実際に見たり聞いたりしたこと。
 私が体験したことではないけど、私の友人の話をすれば嘘を吐いたことにはらならない。

(……これも、私の経験になる)

 これは、藍の人生そのものを投稿するわけじゃない。
 私が藍から聞いた話を、私の言葉で書くだけ。

「滅多に褒めない先生だから、すっごく嬉しかった」
「そっか。良かったね」

 藍が笑って、私も一緒に笑う。
 私の中にも、ちゃんと嬉しいって感情はある。

(これを文章にしたら、どれくらい読まれるかな)

 頭の片隅に、そんな考えが浮かんだ。

(これくらいの話なら、もしかしたら……)

 あと、二千万円で追いつく。
 そう思った瞬間、自分でも驚くくらい心臓の音が高鳴っていく。

「心花?」
「……何?」
「……なんか最近、変」

 ざわざわとした教室の空気の中で、藍の声だけは私の耳に真っすぐ届いた。
 私の顔を覗き込んで、藍はじっと私を見てくる。

「え……どこが……?」
「私のこと、見すぎ」

 私は藍に変だと思われないように笑ってみせる。
 藍のことを見ていたんじゃなくて、藍の話の中から投稿できそうなものを探していたなんて言えるはずがなかった。

「だって、藍と話してるんだから、藍を見ちゃう……」
「……心花、変わったね」

 具体的に、どこが。
 そんな答えをくれる前に、藍はすぐに視線を落とした。

「前は、私の話、ちゃんと聞いてくれたなって」
「今も聞いて……」
「ううん、なんて言うか……」

 藍は考えるように口を閉ざして、困ったように眉を下げた。

「心が、ここにないって言うのかな」

 教室の時計の秒針だけが、やけに大きく響く。
 窓の外では、いつもと変わらない朝の景色が流れている。
 教室では授業の準備を始める音や、友達同士で話し込む声が聞こえてくる。
 すべてがいつも通りの朝なのに、なぜか秒針の音だけが耳に残った。

「前より頑張ってるのは分かる」

 藍の声は、旗嶋くんの声と似ていた。
 私を責めるようなものじゃないからこそ、心が痛む。

「でも……前の心花の方が、私は好きだったかな」

 何か言わなきゃと思うけど、何を言っても言い訳になる気がした。
 藍と話をしている時間を楽しいと思っていたのは事実でも、私は会話の片隅でずっと考えていたことがある。
 藍の人生は、いくらになるのかなってことを。

「……放課後、待ってるから」
「……うん」

 藍が黒板の方に体を向き直す。
 でも、私は藍がくれた言葉が心に引っかかったまま。

(前の心花の方が好きだった……?)

 考えれば考えるほど、苦しくなる。

(……なんで?)

 私は、『LIFE―ライフ―』に出会う前よりも頑張ってる。
 自分から率先して動いて、今までやらなかったことにも挑戦してきた。
 サイトでの価格もランキングに載るようになって、前よりも私の人生は確実に良くなっている。

(なんで、前の私の方がいいの……?)

 考えれば考えるほど、苦しくなる。

(……これは、投稿したくない)

 考えれば考えるほど苦しくなるなら、藍との放課後のことを考えればいい。
 藍が描いた絵を文化祭で見ることができなかったから、素直に放課後が楽しみだった。
 藍からもっと詳しく聞けば、もっといい文章にできるかもしれない。

(今度こそ、一位に近づけるかもしれない)

 さっきまで胸を締め付けていた痛みが薄れて、やっと呼吸がしやすくなる。

(藍の人生を、私の人生に……)

 私は藍の話を聞いただけ。
 藍だって、話したくて話している。
 それに、私だって藍のことを大切に思っているんだから、悪いことでもなんでもないはず。

(これは、私の人生を良くするためだから)

 いつもの言葉を、心の中で繰り返す。
 自分の人生を良くするため。
 もっといろんな経験をして。
 もっとたくさんの人と出会って。
 もっと価値のある人生にするため。
 だから、これだって同じ。何も変わらない。
 そう思わなきゃ、いけなかった。

「進路希望、書き直してる人は今週までね」

 昼休みのチャイムが鳴ると、教室の出入り口から担任が顔を覗かせた。
 机の上には、名前の欄だけが埋まった進路希望の紙が置かれている。名前を書いているだけでも立派なのかもしれないけど、それ以外の欄が埋まる気配はない。

(何、書けばいいんだろ)

 何を選べばいいのか。
 何を選んだら、間違いじゃないのか。
 考えようとすればするほど、紙の白さが眩しく感じられて嫌になる。
 手にしたシャープペンシルをすぐに手放して、ただ何も書かれていない欄を眺めていく。

(みんなはもう提出したのかな……)

 今日を見回してみると、進路希望の紙と向き合っているのはもう数えるほどしかいない。
 大抵のクラスメイトたちは昼食を食べ始めたり、部活に向かったりしている。

(……進路希望)

 進路希望という四文字が、重たい。
 周りのみんなは自分の進む先を見つけているのに、私だけはまだどこも目的地が決まっていない。

(書きたいことがないわけじゃないけど……)

 自分のゴールは出版社なのかなっていう漠然とした気持ちはあっても、それを進路に定めていいのかが分からなかった。

「……藍、ちょっと進路資料室行ってくるね」
「付いていこうか?」
「ううん、藍は部活があるでしょ?」
「でも……」

 進路資料室に行ったところで、進路希望の紙が埋まるわけではない。
 そんなことは分かっているけど、行ってみる意味はあると思った。

「大丈夫。校舎で迷子になるわけないよ」

 知らない場所に行って、知らなかったものを知る。
 進路資料室という初めての場所に行くだけでも、私の人生にはプラスのものが加わるはず。
 何もせずに一日を終えるより、何かを経験した一日の方がきっと高く査定される。

(……こっちだったよね)

 お弁当に手も付けずに教室を出てきたから、もちろんお腹が空いていた。
 でも、それよりも今は行ったことのない場所に行ってみたいという気持ちの方が強かった。

(あ……)

 進路資料室の扉は開けっ放しで、中からは紙を捲る音がよく聞こえてくる。
 何人かの生徒が机や棚と向き合いながら、それぞれパンフレットや資料を眺めていた。

(旗嶋くん……)

 別に、旗嶋くんがいるからって何かが起きるわけじゃない。
 体に走った緊張を無視するためにも、私は深く息を吸い込んでから一歩を踏み出した。

「……百田」
「……ちょっと用があって」

 入ってすぐ、私の存在に旗嶋くんが気づいた。
 会話はとても短いものだったけど、少し気まずかった。
 何かを話す必要はないけど、顔見知りである以上は何かを話さなければいけないんじゃないか。
 そんな想いに駆られながら、私も適当に棚を眺める。

「……旗嶋くん、大学?」
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ、はっきり決めてない」

 その答えが、意外だった。
 旗嶋くんはこういうことをちゃんと考えていて、もう決めているものだと思っていたから。
 けれど、まだ進学先を決めていないと聞いて、体に入っていた力が抜けた。

(……良かった、私だけじゃないんだ)

 でも、そう思った直後、自分に嫌気って感情が襲いかかる。
 旗嶋くんが進路を決めていないことに、どうしてこんなにも安心してしまったのか。

「考えてはいるけど、まだ分かんないよなって」

 旗嶋くんは手に取った資料を眺めながら答えた。
 その横顔に窓から差し込んで光が落ちて、紙に反射した光が眩しかったのか旗嶋くんは目を細めた。

「……分からないって、怖いよね」

 窓際に向かって、カーテンを引く旗嶋くんに声をかける。
 パンフレットを捲る音や、誰かがキーボードを叩く音など、進路資料室は思っていたよりも音が多くて、私はいつもよりも気が楽だった。

「……怖くてもいいと思うけどな」
「え?」
「だって、まだ十七だろ」

 旗嶋くんの言葉に、私は何も返せなくなる。

「……でも、決めないと」

 やっと出てきたことば、それだった。

「いや、まあ、決めなきゃは決めなきゃなんだけど、それで人生すべてが決まるわけじゃないって話」

 私はずっと、進路を決めなきゃいけないと思っていた。
 何をするのか、どんな人になりたいのか、どんな人生にするのか。
『LIFE―ライフ―』に出会ってからは、できるだけ査定価格が高くなるような生き方をしなきゃいけないと考えるようになっていた。進路を決めれば、その先の人生まで確定してしまうような気がずっとしていた。

「どうせまた、サイトのこと考えて怖くなってんだろ」

 旗嶋くんの言葉に反応したくなくて、私は目を逸らした。
 すると、旗嶋くんの近くにあった美術系の大学のパンフレットが目に入った。
 それを手に取ってみると表紙には鮮やかな色彩の作品が並んでいて、ほかのパンフレットの中でもひときわ目を引いた。

(……ここの卒業生、有名な人がいっぱい)

 藍ほど絵が上手かったら、この大学に進学するという選択もあったのかもしれない。
 藍だったら自分のやりたいことが分かっているんだから、それを迷わず口にできる。

(……でも、私には)

 やりたいことがない。
 本当に? と自身に問いかけてみても、答えは返ってこない。
 代わりに頭に浮かぶのは、美術系の大学に進んで、絵を描く人生を歩んだら、それはいくらいなるのかということ。
 普通の大学に進んだ方が、査定価格は高くなるのか。どちらの人生の方が、価値があるのか。そんなことばかり考えている。

「百田? 大丈夫か?」

 旗嶋くんが私の顔を覗き込む、
 真っすぐな視線を向けられると、さっき藍から言われた言葉が蘇ってきた。

「……大丈夫」

 自分でも、大丈夫じゃないって分かってる。
 それでも、ここは笑いたいと思った。
 私は、笑顔を選びたい。

「私も……何がしたいのか、よく分かんないなぁって思ってたところ」

 その会話を最後に、私たちはそれぞれ分かれて行動することになった。
 でも、旗嶋くんが視界に入るたびに、まだ十七だろって言葉が頭を過るようになった。

(なんで……みんな、やりたいことが見つかるんだろ)

 午後の授業を受けながら、そんなことを考えていた。
 顔を上げて、しっかりと先生の顔を見ながら授業を受けている人。
 机の上のノートを見つめたまま、何をしているか分からない人。
 授業の受け方はそれぞれ違うのに、みんな同じように制服を着て、同じように学校へ来て、同じように授業を受けている。
 それなのに、自分の中には何もない。みんなには何かがあるのに、私には何もない。
(私、やりたいことなんて……)
 窓の外に目を向けると、青い空に太陽の光が滲んでいる様子をとても綺麗だと思った。
 綺麗。
 でも、それだけ。
 綺麗な空が、美しい太陽が、私の未来を決めてくれるわけじゃない。

「心花、行こう」
「あ、うん」

 藍に呼ばれて、慌てて席を立つ。
 先を歩く藍は、振り返りもせずに美術室へ向かって廊下を進んでいく。
 高校に入学してから美術室にはほとんど行ったことがなくて、どれだけ歩けば美術室に辿り着くのかも分からない。

「……美術室、遠いんだね」
「そう?」

 夕陽が窓の外から差し込んできて、床に影を作っている。
 藍の影が先を行き、私はその後ろを追いかけるように付いていく。

(帰ったら、サイトに投稿しないと)

 文化祭のときは準備や当日の仕事で忙しくて、藍の絵を見ることができなかった。
 何度か見に行こうとは思っていたのに、気づけば文化祭は終わっていた。

(……そういえば、文化祭の日。藍の絵のこと、考えてなかった)

 実行委員の仕事に夢中になっていたことに気づくけど、あのときの経験が私の未来を決めてくれるわけじゃない。

「どうぞ」
「……お邪魔します」

 放課後になったばかりの美術室には、まだ誰もいなかった。
 いつも使っている教室とは違う、絵の具の匂いがする。

「懐かしいでしょ?」
「……うん」

 高校に入ってからの選択授業は音楽にしたこともあって、高校の美術室に来る機会はほとんどない。
 懐かしいって感情に包まれた瞬間、寂しいって気持ちがあることにも気づいた。
 昔は、もっと当たり前に絵の存在があった気がする。

「こっち」

 藍が美術室への奥へと進み、私は藍の後を追いながら作品へと向けていたときのことだった。

「……すごい」

 なんて、ありふれた言葉。
 そんなことを思ってしまったけど、それ以外に言葉が見つからなかった。

「そりゃあ、美術部ですから」

 文化祭に展示されていた絵の下書きなら、何度か見せてもらったことがある。
 けれど、完成した絵を見るのは初めてだった。
 視界に入ってくるのは同じ絵のはずなのに、下書きで見たときとは受ける印象がまるで違う。

「っ、すごい! この色の重なり方とか……あ、ここ。光の当たり方も……」

 気づけば、絵の前まで自分の身を乗り出していた。

「ありがとう」
「っ、本当にすごい!」

 振り返ると、藍が嬉しそうに笑っていた。
 その顔を見たら、なんだか私まで嬉しくなってしまう。

「分かったから。落ち着いて」
「だって……」

 照れたような笑みを浮かべる藍に釣られて、私の笑みもきっと深まっている。

「すごいよ……本当にすごい……」

 さっきまでは、こんな絵を描くことができたら、いくらの値段がつくのか。
 美術の学校に進んで、絵を描き続けたら、最終的にこの人生にはいくらの値段をつけてもらえるのか。
 そう考えていたはずなのに、いつの間にか私は絵から目を離せなくなった。 

「じゃあ私、部活始めるから」
「……うん」

 すごい。
 心の底から、本当にそう思う。

「心花は、好きなときに帰って」
「……うん、ありがと」

 この絵が、好きだと思った。
 藍がこの絵を描いたことを、なんだか嬉しいと思った。
 でも、心の中に生まれてくるものを上手く言葉にすることができない。

(嬉しい……すごい……好き……)

 たぶん、それだけじゃない。
 でも、それがなんなのか自分でも分からない。
 ひとつだけ分かるのは、自分の中には何もないんだなってこと。
 それが、なんだか怖かった。

「……何から書こうかな」

 家に帰ってきても、藍の描いた絵のことが頭から離れなかった。
 いつもなら、そのままベッドの上に寝転びながら『LIFE―ライフ―』のことだけを考える。
 でも、今日は着替えているときも、夕飯を食べているときも、お風呂に入っているときも、藍の絵のことばかりが頭に浮かぶ。

(この感情を、このまま『LIFE―ライフ―』に……)

 新規投稿の画面を開いて、真っ白な画面に指を置く

(友達の描いた絵を見てきました)

 そこまでは、自然に指を動かすことができた。

(友達は、昔から絵を描くのが好きでした……)

 そこまで文字を打って、指が止まる。

(……なんか違う)

 消す。
 もう一度、考える。

(……文化祭では見ることができなかったけど、美術室で友達の絵をちゃんと見てきました)

 入力してみるけど、やっぱり違う。
 また、消した。

(なんか、違う)

 何が凄かったのか。
 どうして私は、藍の絵をすごいと思ったのか。
 色が綺麗だったと書こうとするけど、それだけじゃないと思ってまた消す。
 構図が凄かったと書こうとするけど、また消す。
 光の入り方まで計算されていてと書こうとするけど、今度は最後まで文字を打つことができなかった。

(……違う)

 何を書いても、美術室で絵を見たときの感覚から遠ざかっていく。

(すごいって書けばいいのに……)

 友達の絵が好き。
 友達の笑顔が嬉しかった。
 感じたことをそのまま文章にすればいいだけのはずなのに、どの文章も違うと思ってしまう。

(……なんで?)

 書きたいことがないわけじゃない。
 むしろ、書きたいことがたくさんありすぎて困るくらいだった。
 藍の絵がどれだけ凄かったのか、どこに惹かれたのか、見た瞬間に自分の中で何が変わったのか。
 書こうと思えば、いくらでも書ける……はず。

(絶対にいい文章になるのに……)

 そう思っているのに、指が動かない。
 それなのに、私はサイトに投稿する文章を書くことができない。
 画面に残っている文章を、一文字ずつ消していく。

「……なんで」

 呟いても、答えは返ってこない。
 自分で考えても、分からない。

(いつも通り、投稿すればいいだけなのに……)

 これまで通り、自分が何を経験したかを書くだけで私は評価された。
 ランキングに載れば嬉しいと思って、査定価格が伸びれば伸びるほど喜びも膨れ上がった。
 それで私は、『LIFE―ライフ―』で評価されるようになった。
 それなのに、藍の絵だけは言葉にすることができない。
 何を書いても、何かが違うと思ってしまう。

(……私はまだ、『LIFE―ライフ―』をやめたくない)

 まだまだ私の人生を投稿したい。
 もっと評価されたい。ランキングにも入りたい。
 もっと自分の人生を良くするためなら、藍の人生を売ったっていい。
 そう思っていたはずなのに、画面の上で指は止まったまま。文字を打ち込むことができない。

(……藍のすごさを伝えなきゃ)

 けれど、藍の絵を文章にしてしまえば、藍があの絵を描くまでにかけたすべての時間が『商品』になってしまう。

(……今日は、やめよ)

 ソマホを伏せて、眠りの世界に逃げ込もうとした。

 そのとき、スマホが新しい着信を知らせる。

「編集者……?」

 いつものユーザーからのメッセージとは違う。
 表示されたプロフィールには、有名な出版社の名前、編集部の名前、担当者の名前が書かれていた。

(……どうして、私に?)

 不思議に思いながらも、編集者と名乗る人からのメッセージを開いた。


突然のご連絡、失礼いたします。
かねてより、あなたの投稿を拝見しておりました。

あなたのこれまでの投稿には、十代でしか書けない感覚があると感じました。
人との出会いや、ご自身の変化について書かれた文章には、多くの読者に届ける価値があると思っています。

もしご興味がありましたら、一度お話をさせていただけないでしょうか。
あなたの人生を、一冊の本にしたいと考えています。


「……え」

 最初は、よくある勧誘だと思った。
 けれど、何度メッセージを読み返しても、そこに書いてあることは変わらない。

「……私の人生が?」

 声に出しながら、もう一度読む。
 私の人生が、私の経験が、私の言葉が、私が今まで生きてきた時間を欲しいと言っている人がいる。
 ランキングに載ったときとも、高い評価をもらったときとも、違う感覚に胸が熱くなる。
 私の人生そのものを、価値のあるものだと言われているような気さえした。

(……自分の人生が、本になる)
 そう考えるだけで、笑いそうになってしまう。
 さっきまで藍の人生を売ることを迷っていたけど、自分のことなら何も迷うことはない。
 むしろ、もっと知ってほしいと思う。
 私の全部を、誰かに見てほしい。

(……私の人生には、価値がある)

 その事実が、堪らなく嬉しかった。