翌朝、目が覚めてからも、私に向けられたあの質問が何度も頭の中で繰り返された。
【誰かと比べて、良かったと思ったことはありますか?】
【あなたが比べた相手が、あなたより高い値段になったら?】
眠る前も、夢の中でも、目を覚ました今も、あの質問だけが頭に刻まれたかのように離れてくれない。
朝、起きたら頭がすっきりするとか、そんなことを言っていた人がいたような気もする。でも、そんなのは大嘘つきだ。
むしろ、目覚めてからの方が酷いことになっている。目を閉じている間は、まだ夢の世界に逃げ込めた。でも、目を開けた途端に、私に向けられた質問のことしか考えられなくなる。
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
『LIFE―ライフ―』のことを思い出すのが嫌で、スマートフォンを見ないようにした。
それなのに、逃げられない。
無視すればいいって分かっていても、私に投げかけられたあの質問が私を捕らえにかかってくる。
「心花、おはよう」
「……おはよ」
藍と挨拶を交わして、教室に入る。
窓から差し込む朝の光も、誰かの光も昨日までと同じ。
これといって大きな変化のない見慣れた教室の光景が広がっていて、昨日までと同じ日常が何事もなかったように続いている。
「……それ、美術部の絵?」
藍の席に置かれたスケッチブックが目に入った。
「うん、文化祭用の」
藍は教室の騒がしさなど気にも留めず、スケッチブックに鉛筆を走らせていく。
その横顔は真剣そのものなのに、その表情からはどこか楽しそうな感情も伝わってくる。
『友達が描いた絵を、ずっと応援していた』
17歳/女子
¥3,200
藍の人生に表示されていた価格は、三千二百円だった。
(藍、本当に気にしてないのかな)
あんなにも低い数字をつけられているのに、藍は落ち込んだりしないのか。悔しいと思ったりしないのか。
(私だったら、気にする)
実際にその金額が振り込まれるわけではないけど、もうただの数字には思えない。
一度目にしてしまったら、自分の人生につけられた値段を無視することなんてできなくなる。
「心花?」
「え?」
名前を呼ばれて、現実へと戻ってくる。
藍に対する余計な心配をしていたことを気づかれないように、私もいつもらしい笑顔を整えていく。
「どうかした? さっきからこっち見てるけど」
「ううん。なんでもない」
「そう?」
藍は首を傾げながらも、それ以上は何も聞かなかった。
すぐにスケッチブックへと視線を戻して、器用に鉛筆を走らせていく。
さらさらと鉛筆が紙を擦る音が心地よく響く中、藍はただ絵を描くことに夢中になっていた。
(……なんで、藍は)
どうして、そんな風に何もなかったようにいられるのか。
(……藍は、自分の好きなものしか見てない)
三千二百円という数字も、周りの目も、そんなものには目もくれることなく、ただ自分の描きたい絵を描いている。
それに気づいた瞬間、昨日とは違うざわつきが心を刺激してきた。
(私も、夢中になれることを)
私にも、藍みたいに夢中になれるものがあればと思った。
もう見ないと決めたはずだったけど、いつの間にか指が『LIFE―ライフ―』のアイコンを押していた。トップページを開いて、マイページへと移る。
(……七位)
昨日と変わらない順位を確認しただけで、胸の奥に溜まっていたものが薄れていくような気がした。
(良かった)
ただ、ランキングが下がっていなかった。
ただそれだけのことなのに、ほっとしている自分がいた。
(これなら、いつかはきっと届く)
何かひとつ特別なことをするか、今までやったことのないことをすれば、必ず上位へと手が届く。
何も最初から一位を目指さなくても、七位から六位へ。六位から五位へとひとつずつ上っていけば、いつかは必ず一位へと手が届くはず。
「文化祭の実行委員、誰かやってくれる人ー?」
担任の先生が教室を見回すけれど、誰も手を上げない。
あちこちでは気まずそうに視線を逸らす人たちばかりで、これもいつもの光景だなって思った。
(私も、いつもならこんな感じだった)
先生と目が合わないように、読んでもいない教科書を眺めるフリをしていた。
面倒そうなのはもちろんだけど、放課後の時間も削られてしまう。
わざわざ大変な役を、率先してやる必要がどこにあるんだろうと思っていた。
「……私、やります」
今までの私は、そうだった。
でも、今日は違う。自分でも驚くほど迷わず、堂々と手を上げる。
「え、心花?」
教室の何人かが私を振り向いて、隣の席の子は目を丸くして私を見る。
「珍しくない?」
「そうかな」
隣の席の子に笑って返したけど、自分でも自分の行動が可笑しくて笑ってしまった。
昨日までの私なら絶対にこんなことはしなかったのに、今は不思議なくらい嫌な気持ちがない。
(むしろ、楽しみかもしれない)
いつもと違うことをしてみる、今まで話したことのない人と話してみる、自分から何かを始めてみる。
そう考えるだけで、楽しそうって気持ちが面白いくらいに芽生えてくる。
(これも、ランキングを上げるため)
その日の昼休み、藍が美術部に向かったあとに『LIFE―ライフ―』のアプリを開いた。
(体育祭の実行委員になった話を投稿して……)
早速、今までの自分にはなかった経験を打ち込んでいく
(いくらになるかな)
『LIFE―ライフ―』の使い方もだいぶ慣れてきて、査定結果が出るまでの時間が待ち遠しいような、怖いような不思議な感覚になる。その不思議な感覚から抜け出すためにも、価格が表示されるまでの間にランキングを眺めることにした。
(どんなことをすれば、追いつけるんだろ……)
名前も知らない誰かの人生を、私は画面越しに覗き込んでいく。
『文化祭の実行委員になった』
17歳/女子
¥184,000
#立候補
#青春
#学校行事
#文化祭
#実行委員
数分後に結果が出て、表示された数字を見つめた。
(こんなもんか)
思っていたよりも、ずっと少ない金額だった。
もちろん十八万四千円という金額が低いわけじゃないけど、前のどうでもいい経験の方が高かったのには納得がいかなかった。
(まだ実行委員として、何かしたわけじゃないからかな)
今日はただ教室で手を挙げて、立候補しただけのこと。
あまりにも内容が薄すぎて、査定価格も低いということなのかもしれない。
(文化祭で、何かしないと)
企画を成功させたり、大勢の人たちをまとめたりすれば、きっと価格は上がる。
そうすれば、あんなに上位に食い込むことに頭を抱えていた日々からも解放される。
私が一位に君臨できる日のことを思い浮かべると、いつも吸い込む空気が美味しく感じられる。
「ねえ、藍。ここのカフェ知ってる?」
放課後になって、私は鞄に荷物を詰めている藍の元へと向かった。
「知らない。心花、詳しいね」
「駅前にできたんだって」
一緒にスマホ画面を覗き込むと、そこには色鮮やかなケーキやタルトが並んでいた。
「ね、食べてみたいでしょ?」
「食べたいけど……」
「藍?」
「心花って、新しいお店に興味持たないから珍しいなって」
言われてみれば、藍の言うとおりだった。
いつもなら写真を見て『美味しそう』で終わって、わざわざ知らない店まで行こうなんて思わない。
「藍と一緒に行きたいなぁって」
「混んでるんじゃないの?」
やっぱり藍は深く追求することなく、すぐに笑ってくれた。
「いいよ」
「ほんと?」
自分から藍を誘って、知らなかった場所、知らなかった味に触れていく。
それが、思っていたよりもずっと楽しいってことに気づかされる。
知らない場所に行くより、知っている場所にいる方が楽だったから。
「先生、おすすめの本、教えてください」
今度は図書室で、司書の先生から一冊の本を受け取る。
今までは本を一冊読み切るなんて無理だと思って、最初から手を伸ばそうともしなかった。
面白いかどうかも分からない本を読んで失敗するくらいなら、何も読まない方がいいとすら思っていた。
(……楽しみ)
でも、今の私は、何かを始めることへの抵抗がなくなっていた。
知らないものを知ることが、だんだんと楽しみになっている。
(こんな世界もあったんだ)
そう思うたびに、世の中には自分の知らないものがまだまだたくさんあることを知った。
(これを続けたら、趣味になるかな)
ページを捲った手を止めて、スマホ画面を見つめながら考える。
(価格、上がるかな)
気づけば、私は毎日何かを探すようになった。
学校では新しい経験を探し、休日には知らない場所へ行く。
苦手な本も読むようになって、友達の誘いはなるべく断らないように心がけた。
「百田さん、最近なんか変わったね」
ある日、たいして仲の良くなかったクラスメイトに話しかけられた。
「明るくなったっていうか」
「そうかな?」
彼女からの指摘に、頬が緩む。
言われてみれば、思い当たることはいくつもあったから。
「ありがと」
自分では気づかなかった変化を、誰かに見つけてもらえたことが嬉しかった。
誰かに変化を認めてもらえるのが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。
(前よりも、毎日が楽しい)
昨日まで知らなかったことを知るたび、昨日までできなかったことができるようになるたび、自分が変わっていくのを感じる。
そんな毎日を過ごしているうちに、私の世界は前よりずっと大きく広がっていた。
(私も、ちゃんと成長してる)
そう実感できることが、何よりも嬉しかった。
(もっと、いろんな経験がしたい)
マイページを操作して、自分が投稿した人生の値段を確認する。
(もっと特別なことがしたい)
私の人生につけられた最高価格は百三万円、最低価格は十一万二千百円。
その数字を見つめながら、まだ見ぬ未来の価格を想像する。
「……もっと変わりたい」
これらの数字が、どこまで上がるのか。
誰に向けるわけでもなく呟いた声には、自分でも分かるほどに未来への希望が含まれている。
「美術選択してる子、いるー?」
教室の出入り口の方から声がして、藍が戻ってきたのだと分かって顔を上げた。
「昼休みの間だけ、筆、借りたいんだけど……」
藍が教室をぐるりと見回すと、その視線が私のところで止まる。
「心花は……音楽か」
「うん、ごめん」
高校の音楽は、実技らしい実技がほとんどないのを斬新だと思った頃もあった。
私の机の中に入っているものは音楽の教科書くらいで、藍が求める筆を貸し出すことができない。
「いいよー。私、ほぼ新品だから」
廊下側の席の子が筆を取り出すためにロッカーに向かうと、藍からふと肩の力が抜けた。
「珍しいね。美術部が筆、忘れるって」
「買い替えた筆、置いてきちゃって」
「あ、もうぼさぼさ?」
「すぐダメになっちゃって……」
その子は藍に筆を差し出すと、筆を受け取った藍の顔がふと綻ぶ。
「それだけ藍ちゃんは、描いてるってことだよ」
そんな風に声をかけられた藍は、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、私はなぜか少しだけ苛立った。
(私は、自分の人生を増やすのに必死なのに……)
何をすれば査定額が上がるのかを考えて、ひとつでも多くの経験を積んで、昨日よりも今日。今日よりも明日と、自分の値段を上げようとしているのに。
(……藍は、絵を描いてるだけ)
たったそれだけのことなのに、藍はとても楽しそうにクラスメイトと会話を続けていく。
(私は藍より、ずっと高い)
それは揺るがない事実なのに、藍の方が私よりもちゃんと生きているように見えた。
「ありがとう」
「いいよ、放課後も使って」
「ううん。放課後になったら、買ってくるから」
藍は借りた筆を受け取り、すぐに美術室へ戻ろうとした。
昼休みはそこまで長いものじゃないから、できるだけ描く時間を確保したいのかもしれない。
「……あ」
藍が教室を出ようとすると、藍の視線の先ではクラスの子がスマートフォンを覗き込んでいた。
「それ」
藍が声をかけると、その子が顔を上げた。
「ん? あ、魚住さんも『LIFE―ライフ―』やってる?」
「やってた、かな」
藍は短く返事をして、ふと笑った。
藍の笑い方がやけに軽くて、思わず目を逸らす。
「三千二百円」
「魚住さん、安っ」
「ね」
サイトを覗き込んでいたクラスメイトたちに、藍は柔らかな笑みを浮かべる。
「大丈夫、魚住さん! 私なんて五百円だったから」
「あ、勝った」
「そうなんだよー……絶対、私、クラスの最低価格だと思う」
「いや、二人共、人生で勝ち負け決めないの」
藍と中心とした輪から、笑い声が上がる。
藍はその輪の中で、また楽しそうに笑っている。
(なんで、その数字に笑えるの……?)
藍の笑顔が眩しく見えれば見るほど、心の中に違和感のようなものがどんどんと膨らんでいく。
どうして藍は、あんな風に笑うことができるのか。
どうして、あの値段を気にしないでいられるのか。
(どうして、そんな顔ができるの……?)
藍もクラスメイトたちも、肩を揺らすほどに笑っている。
その姿を見ながら、私は自分の手のひらをそっと握り締めた。
「ねえ、藍」
気づけば私は、笑い声の輪の中へと足を踏み入れていた。
その場の空気に押されたわけでもなんでもなく、心の奥底に沈み込んでいく違和感が黙っていられないほど膨らんでしまったから。
「……もう、『LIFE―ライフ―』使ってないの?」
説明のできない違和感の塊を抱えながら問いかけた瞬間、自分でもよく分からなくなる。
けれど、藍の笑顔を見れば見るほど、なぜか唇を噛み締めてしまう。
「うん、もういいかなって」
藍は、本当になんでもなかったことのように軽く返してきた。
その軽さが、余計に私の心を騒ぎ立てる。
「……どうして?」
自分でも言い方が刺々しいと分かったけど、聞かずにはいられなかった。
「どうしてって……絵を描いてる方が楽しいからかな」
藍の答えを聞いたけど、まったく腑に落ちない。
(意味が分からない……)
言葉としては、もちろん理解できる。
でも、どうしてそれで満足できるのかが分からない。
「せっかく人生投稿したのに、それでいいの?」
「それでって?」
「……もっと高くできるかもしれないよ」
自分で言葉にしておきながら、何を焦っているのか分からなくなる。
ただ、藍の満足そうにしていることだけが、どうしても理解できなかった。
(私は、もっと上を目指す)
もっと評価されたいって気持ちは、たぶん普通。
だって、これは自分の人生なんだから。
できるだけ高く、少しでも価値のある人生にしたいと願うのが当たり前のはずだから。
「だって」
藍は、また柔らかな笑みを浮かべる。
藍の笑顔は、なんの迷いもないみたいに見えた。
「三千二百円でも、私の人生を買いたいって思ってくれた人がいた」
藍の声には、本当にそれ以上を求めていない響きがあった。
「それで、十分かなって」
三千二百円で十分だと、心から思っているみたいだった。
ますます訳が分からなくて、私の頭は混乱していく。
「それより、早く美術室行かなきゃ」
藍はそう言って、クラスメイトたちに軽く手を振りながら教室を出ていく。
藍と一緒に盛り上がっていたクラスメイトの子たちも、もうスマートフォンの画面を見ていなかった。
(どうして?)
どうして。
どうして。
どうして。
どうして、あんなに嬉しそうにいられるのか。
その答えが、私にはまったく分からなかった。
「百田」
背後から苗字を呼ばれた瞬間、反射的にスマートフォンを制服のポケットへと片付けた。
自分でも、驚くほど速い動作だったと思う。
「……何?」
振り返ると、そこにはクラスメイトの旗嶋桜生くんが立っていた。
クラスメイトと言っても、本当にただ顔と名前を知っているだけの関係。
たいして話したことがないこともあって、その表情からは何も読み取ることができない。
「百田も、『LIFE―ライフ―』やってんだなって」
その言葉を聞いた瞬間、私はクラスメイトたちの輪から離れた。
何か悪いことをしたわけでもないのに、ただこの場にいたくなくて自分の席へと戻る。
たったそれだけのことなのに、心臓が大きく跳ねたような気がした。
自分が、どれほどこのサイトに囚われているのかを思い知らされる。
「……なんで?」
「何が?」
声が強くなる私に対して、旗嶋くんはたいして気にした様子もなく淡々と答えた。
「なんで私が、サイトを使ってるって知って……」
「いや、今の会話聞いてれば、なんとなく分かるだろ」
あまりにもあっさり返されて、言葉が詰まる。
『LIFE―ライフ―』を使っていることなんて別に珍しいことでもなく、クラスにも利用している人は大勢いるはず。
それなのに、誰かにサイトを利用していると知られたことが、どうしようもなく恥ずかしかった。
「……そっか」
さっきの藍との会話を聞いていれば、私が利用者だと考えるのはそれほど難しいことではない。
それに私は、匿名で『LIFE―ライフ―』を利用している。
旗嶋くんが勝手に何かを探ったわけでも、私のページを覗いたわけでもない。
でも、自分がサイトを使っていることを知られただけで、まるで秘密を暴かれたみたいな感覚に陥る。
「……旗嶋くんは?」
制服のポケットに片付けた自分のスマートフォンを、上から強く握り締める。
その画面の向こうには、私の人生がある。私の人生につけられた価格が待っている。
それを誰かが読んで、誰かが評価していることを気にしている自分を認めたくなくて、私はわざと話題を逸らした。
「『LIFE―ライフ―』、使ってる?」
でも、聞いてから、余計なことを言った気がした。
「ん? 使ってるよ」
旗嶋くんは特に気にすることもなく、自分も使っていると認めた。
『LIFE―ライフ―』を使っているのを隠しているのは私だけで、クラスメイトたち何かを気にする様子もなく、堂々とサイトを利用していることを打ち明けてくる。
「このサイト、なんなんだろうな」
その言葉に、背中をひやりとした汗が伝った。
このサイトは、なんなのか。
ずっと気にしないようにしていた部分を、旗嶋くんは真正面から見つめている。
「どういう仕組みなのかとか、なんで十七歳の投稿が上位になりやすいのかとか」
サイトを怪しんでいるというわけではなく、ただ気になっているんだと思う。
でも、その旗嶋くんの姿勢があまりにも真っ当すぎて、私はなぜか心が痛くなった。
「……旗嶋くんも、自分の人生を査定したの?」
「したよ」
「どうだった?」
「普通」
普通。
それはずっと私が求めていた言葉だったはずなのに、今はその普通という言葉を聞くだけで心が痛みを訴えてくる。
「いくら?」
「それ、聞く?」
「……聞いちゃ駄目?」
「きっちり三万円だった」
旗嶋くんも藍と同じで、自分の人生につけられた価格を気にしていないみたいだった。
「だって、俺の人生に三万円の価値しかないわけじゃないだろ?」
その言葉が、私の心に引っかかる。
もう忘れることはできなっていうくらい、心に深く刻まれる。
(なんで、藍も旗嶋くんも……)
どうして、そんな風に思えるのか。
またそんな考えに囚われそうになると、旗嶋くんが私の顔を見ていた。
「最近、百田が変わったなと思って」
息が止まる。
「『LIFE―ライフ―』の値段上げるために頑張ってんだな」
あまりにもあっさりと言われて、返す言葉がなくなる。
誰かが、自分の変化に気づいてくれたのは喜ぶべきこと。
頑張っていたことを認めてもらえたのは嬉しいことのはずなのに、その喜びはすぐに別の感情へと変わってしまう。
(……恥ずかしい)
そんな自分を、知られたくなかった。
「前より、いろんなことしてんなーって」
否定しようとしたけど、口から出かかった言葉は止まってしまう。
自分が人生の価格を上げるために努力したのは事実。
今までなら行かなかった場所に行って、今までなら話しかけることもなかった人と話して、興味のなかったことにも手を伸ばしてきた。たくさんの本を読むようにもなった。
(……それは全部、私が選んできたこと)
知らなかったことを知るのは、思っていたよりも面白いと思えた。
新しい人と話すのも楽しくて、経験してきたすべては嘘だったわけじゃない。でも、経験を積み重ねれば積み重ねるほど、頭の片隅にはいつも同じことが浮かんでいた。『これ、投稿したらいくらになるのか』ってことを。
「……そんなこと、ないよ」
「そんなことあるよ」
やっと言葉が出てきたのに、自分でも分かってしまうくらい弱い声で笑うこともできなかった。
旗嶋くんはそれだけ言い残して、旗嶋くんは自分の席に戻っていく。
私は、その背中を見つめながら思った。
(……旗嶋くんは、私を責めたわけじゃない。馬鹿にしたわけでもない)
むしろ、褒めてくれた。
それなのに、心の中に嫌なものが残っている。
「……ランキング」
制服のポケットから、スマートフォンを取り出す。
【査定価格13位 ¥1,030,000 17歳/女子】
サイトのランキングを確認すると、昨日まで七位だった順位が十三位まで落ちていた。
たった数十時間で、六つも順位を落としてしまった。
(私、最近、何やってるんだろ)
何がしたくて、いろんな場所に行ったのか。
何が知りたくて、たくさんの本を読みようになったのか。
どうして、今までならしなかったことをやってみようと思ったのか。
(……楽しかった、から)
ひとつの感情を導いたところで、私は画面から目を離した。
(私、間違ってないよね……?)
最初は、ただの好奇心だった。
私の人生には、いくらの値段がつくのか気になっただけのこと。
でも、いつからか私は自分が何をしたいのかよりも、これをしたらいくらになるのかを基準に行動するようになっていた。
(……私は、変わった)
もうスマホ画面を見なくても、ランキング一位の子の人生が二千八百万円ってことは記憶に刻まれた。
(まだ届かないけど)
何をすれば、三千万円の人生に手が届くのか。
今の私は、もう答え探しを始めていた。
どんな経験をして、どんな人と出会えば、もっと買いたいと思ってもらえるのか。
どんな人生なら、もっと買いたいと思ってもらえるんだろう。
(もっと経験しなきゃ)
どうして、この子の人生はこんなに高いのか。
私には、何が足りないのか。
(もっと、人生を増やさなきゃ)
誰かが、私に囁いたような気もした。
けど、その声は私自身のものだった。
(……でも、私に足りないものばっかり)
あらためてランキングの画面を見直す。
高額査定の人生の中身を、実際に買うことはできない。
それでもタイトルとタグを眺めていれば、その人がどんな人生を送ってきたのか、なんとなく想像することはできる。
(友情、失恋、家族、喧嘩、挫折、成功……ありきたり)
並んでいる言葉をひとつずつ目で追っていくと、人生にはこんなにもたくさんの出来事があると気づく。でも、これが高額査定に繋がるっていう確信に繋がるキーワードは見つからない。
(タグで価格が決まるわけじゃないけど)
私だって、友達と喧嘩した話を投稿したことがある。
けれど、それだけで価格は大きく跳ね上がらなかった。
(……さすがに、喧嘩すればいいってわけじゃないよね)
経験を増やしたいからといって、わざわざ誰かと喧嘩する。
そんな単純な話ではないことくらい分かっている。
(私は、人生を良くしたいのに)
人間関係を自ら壊しにいったら、意味がない。
それは分かっていても、ランキングの上位の投稿を見ていると何度も似たようなタグが目に入ってくる。
(出会い、別れ、衝突、失ったもの、乗り越えた経験……)
人生の中で大きく感情を動かされた出来事が、その人の人生を形づくっていることに気づく。
(……でも、私にないものばっか)
今までの私は、自分の人生をもっと良くしたいと思っていた。
そうやって、自分の中身を増やしていけばいいって考えは間違っていなかったと思う。
些細な変化かもしれないけど、私の人生は前よりも広がっている。
それなのに、ランキングを見ると自分に足りないものばかりに目がいく。
(私が知らない人生……)
私が経験したことのない出来事を、当たり前のように経験していく人たちがいるってことが、ただただ羨ましく思えた。
(待ってるだけじゃ、何も起こらない)
人生は何もしなくても、勝手に面白くなってくれるわけじゃない。
自分から動くことで、自分の人生を変えてきた。
だから、これからも同じでいいと思っていた。
(……裏切り)
喧嘩そのものに特別な価値があるわけじゃないと分かっていても、裏切りという強烈な言葉はどうしても頭に残りやすい。
(私に裏切られた経験なんて……)
自分のこれまでを思い返してみるけど、友達と大きな喧嘩をしたのは一回くらい。
しかも、その人生はもう『LIFE―ライフ―』へと投稿してしまった。
(……人と揉めるの、嫌いだからなぁ)
私はそもそも、人と揉めるのが苦手だった。
強く言い返すこともないため、相手に合わせて、揉め事に発展することはない。
(……足りないなら)
自分に足りない経験を補うには、どうしたらいいか。
(……作る?)
嘘の人生を実際に換金すれば、それは法律に触れてしまうことになる。
サイトの利用規約にも、そんなことがはっきりと書かれていた。
(でも、換金しなければ……)
あくまで匿名で人生を投稿して、その価値を査定してもらうだけなら、何も悪いことには当たらない。
(そうだよ……! 足りないものがあるなら、作ればいい!)
その考えに、強い抵抗はまったくなかった。
これも自分の人生を自分で変えようとしているのだと信じて疑わなかった。
(藍と、喧嘩をしたことにして……)
藍と喧嘩したいわけでも、藍を傷つけたいわけでもない。
だったら嘘の人生を投稿するのが一番だと思ったけど、そこまで考えて私は指を止めた。
(でも、買いたい人がいたら……)
たとえ換金しないとしても、嘘の人生を投稿することがどんな扱いになるのかは知っている。
(……ダメ、だよね)
せっかくここまで来たのに、アカウントを消されたら意味がない。
アカウントが削除されるだけでも大きいのに、逮捕なんて事態に繋がっていったら、自分の手で自分の人生を壊しにいっているようなもの。
(本当に喧嘩する……?)
嘘じゃなければ、何も問題はない。
実際に藍と喧嘩をして、その出来事を投稿すれば規約違反にはならない。
(……大きな喧嘩じゃなければ)
さっき、喧嘩なんてわざわざするものじゃないと思ったはず。
でも、ちょっと言い合うだけなら乗り切れる気がする。
藍にとって嫌なことを言ってしまったとしても、すぐに謝ればいい。
(藍なら、許してくれるよね)
一度くらいの喧嘩で、私と藍の関係が壊れるわけがない。
私は、ほんのちょっとだけ人生を変えたいだけ。
これは、自分の人生をより良くするための喧嘩だから。
喧嘩して学ぶことだってあると、私自身が証明してみせたい。
「じゃあ、心花」
放課後のチャイムが鳴って、教室に残っていた生徒たちが帰り支度を始めた。
藍はいつものように美術部に向かうため、鞄を肩に掛ける。
「また、明日……」
「ねえ、藍」
いつもと変わらない挨拶を交わして、私も笑顔で手を振る。
今朝までは同じ毎日を繰り返すつもりだったけど、私はそのまま藍を見送ることができなかった。
「藍って、本当に絵のことしか考えてないね」
言った。
言ってしまった。
喧嘩だって、人生を変えるために必要な経験だと言い聞かせる。
嫌なことを言ったって、あとで謝ればいい。
高校生くらいの年齢にもなれば、本気かそうじゃないかの違いくらい藍なら分かってくれるはず。
「……心花」
藍から、笑顔が消えた。
自分が思っていたよりも、ちゃんと人を傷つける言葉を口にできたのだと嬉しくなった。
これなら喧嘩になるかもしれないと思ったのに、私が思っていた展開がやってこないのが、人との会話だってことを思い知った。
「いまさら何?」
「え?」
「当然でしょ? 私、絵のことしか考えてないんだから」
怒っていない。
藍の声にも、表情にも、怒りらしいものはまったく感じられない。
「いや、その……」
心の中で、違う。そうじゃないって叫ぶ自分がいる。
もっと怒ってほしいのに、そんなことを言えるはずもなくて私は言葉を探す。
(……ここで終わらせたら、何も変わらない)
せっかく始めた喧嘩だ。
私は自分の人生に、新しい経験を足したい。
「好きなことに夢中になるのは、当たり前」
小学生のときから、藍は絵を描くのが好きだった。
休み時間になるとノートの端に絵を描いて、家に帰っても休みなく絵を描き続ける。
私は、そんな藍がずっと羨ましかった。
だから、私はもう一度、藍を傷つけようと画策する。
「……藍は、好きなことがあっていいね」
「いいでしょ?」
藍は、とても綺麗な笑みを返してくる。
あまりにも綺麗な笑みすぎて、私にはできない笑顔だなって思った。
(ダメだ)
これじゃあ、喧嘩にならないのだと悟る。
そもそも喧嘩が上手くない私が、誰かを傷つけるための言葉を探すこと自体が間違っていた。
でも、もう少しだけ頑張って、嫌なことを藍にぶつけてみたい。
「……好きなことだけしてれば、それで満足できるの?」
口から溢れてきた言葉は、酷く濁った感情が含まれていた。
藍の表情を確認しようと思って顔を上げると、藍の顔が曇っていた。
今度こそ怒るかもしれないと期待するけど、藍が怒鳴ることはない。
「私には、絵しかない」
落ち着いた自信のある声を発して、藍は満面の笑みを浮かべる。
「だから、絵を描いてるの」
藍はしっかりと私の目を見てくれるのに、私は藍から目を逸らしたい気持ちでいっぱいになる。
「まあ、それで人生が上手くいくわけじゃないけど」
藍が、わずかに首を横へと傾ける。
「描いたものが思った通りにならないことだってあるし、時間を描けたって駄目なものは駄目だったりね」
藍は溜め息を吐き出したけど、その溜め息すら幸せな感情が込められていたような気がする。
「賞を取れなかったら、普通に悔しい」
「……藍も、そんな風に思うの?」
「自分より上手い人がいたら、嫌な気持ちになる。私だって、嫉妬するんだから」
藍は苦笑して、どこか過去を懐かしむかのように窓の向こうへと目を向けた。
「絵が好きだからって、いっつも楽しいわけじゃない」
藍が、こんなことを言うなんて思っていなかった。
「それでも、描きたいから描いてるだけ」
藍は、やっぱり満足そうに笑った。
「だから、心花が思ってるみたいに、絵で満足してるわけじゃないってこと」
さっきから、藍がくれた言葉が深く深く心に突き刺さっていく。
私はずっと、藍には絵があると思っていた。
好きなものがあるから、夢中になれるものがあるから、藍は私よりもずっと幸せなんだと思っていた。
「……そっか」
自分は、藍のことを知ろうともしなかった。
藍だって悔しがるし、嫉妬だってする。自分の絵に満足いかないときだってあるけど、理想に手が届くまで絵を描き続ける。
「じゃあ、今度こそ行くから」
「……ごめんね、引き留めて」
ようやく口から出てきたのは、そんな言葉だった。
喧嘩を始めたかったはずなのに、藍を傷つけたかったはずなのに、傷ついたのは私の方だった。
(……何かを変えたかっただけなのに)
自分の人生に足りないものを増やしたくて、藍と喧嘩しようと思ったはず。
ほんの少し傷つけて、ほんの少し傷つけられて、それで終わるつもりだった。
でも、大きな傷を負ったのは、私だけだった。
(これも、人生に……)
『LIFE―ライフ―』に、どんな文章を載せようか。
どんな文章なら、より多くの人を魅了することができるのか。
(これで、私の人生にも喧嘩が……)
頭の中で、文章の続きを考えることに集中する。
でも、どうしても藍の笑顔が頭を過っていく。
(……いくらになるんだろう)
そんなことを考えている自分が、吐き気するほど嫌だった。
次から次へと湧き上がる感情に気づいても、私は藍に傷つけられたことよりも、この出来事がいくらになるかを考えている。
(『親友と喧嘩した』……)
いつものようにAIが考えたタイトルが、画面に自動で表示される。
あとは送信ボタンを押すだけで、査定価格が出る。
いつもの流れに乗っかればいいだけなのに、どうしても指が動かない。
「百田」
スマートフォンを握り締めたまま、その場に立ち尽くしていると背後から声をかけられた。
「そんなとこに突っ立てると、掃除の邪魔」
振り返ると、箒を手にした旗嶋くんが立っていた。
廊下から差し込む夕陽の光が教室へと差し込んできて、廊下側にいる生徒たちの影が床に長く伸びている。
「……ごめん」
その場を離れようとした私に旗嶋くんは何も言わず、床に落ちたゴミを丁寧に掃いていく。
「……喧嘩?」
教室を掃除している人たちの邪魔にならないように、自分の席へ戻ろうとしたときのことだった。
「……さっきの、聞いてた?」
「全部じゃないけど」
「……喧嘩、したわけじゃないよ」
それ以上、何も聞かれなかった。
それなのに、私は床を掃いている旗嶋くんに向かって勝手に言葉を続けていた。
「……藍って、すごいよね」
「魚住が?」
教室の掃除当番の人たちが机を運ぶ音や、床を掃く音、合間に聞こえる笑い声が放課後の教室に響いていく。
「……三千二百円なんだって」
「ああ、『LIFE―ライフ―』?」
「そう」
スマートフォンの画面を見るけど、画面は真っ黒なままだった。
電源を入れれば、さっきまで何度も見返していた数字が表示される。
でも、今は見ようとは思えなかった。
「三千二百円しかないのに、あんな風に笑えるんだよ」
言葉を発した瞬間に、自分の声も、自分の心も、濁っていくような気がした。
そんな言い方をしたかったわけじゃない。
三千二百円の人生なら、笑うことすら許されないって言いたいわけじゃない。
でも、自分の言葉が、そんな風に聞こえてしまった。
「百田は?」
「え?」
「三千二百円だったら、笑える?」
「……無理」
考えるよりも先に、答えが口から溢れ出す。
「じゃあ、十万円なら?」
「……分かんない」
「百万円なら?」
そこまで聞かれて、口を閉ざしてしまった。
いくらになれば、私は笑えるようになるのか。
「最近の百田、ずっと数字ばっか見てるだろ?」
「……見てないよ」
「見てなかったら、百万の価値なんて分かんないよ」
旗嶋くんの、その言葉が引っかかる。
でも、自分では、その引っかかりを解くことができない。
「……なんで、旗嶋くんに、そんなこと……」
「俺もたまに見てたから。数字」
旗嶋くんはそう言って、掃除の手を止めた。
「百田、ずーーっと誰かと比べてる」
昨日から、頭の中をぐるぐる回っていた質問が蘇ってくる。
【誰かと比べて、良かったと思ったことはありますか?】
「……私は、自分の人生を良くしたいだけ」
私は思わず、手の中のスマートフォンをぎゅっと握り締めた。
「だから、いろんなことに挑戦してるだけ」
「百田の人生なんだから、好きにすればいいよ」
旗嶋くんは、否定しない。
否定されたかったのかどうか、自分でもよく分からない。
ただ、旗嶋くんの穏やかな声が、喉の奥をきゅっと縮ませるような痛みを与えてくる。
「自分より上にいる人を見て苦しくなるのと」
箒を持ったまま、旗嶋くんが私に視線を向ける。
窓から吹き込む風が、制服のスカートの裾をわずかに揺らした。
「自分より下にいる人を見て安心するのって、似てるな」
言葉が出なくなる。
言葉を返せなくなる。
でも、それがなぜなのか分からない。
頭で言葉を組み立てているのに、心に引っかかったままの何かが思考を邪魔してくる。
「どっちも、自分を見てないもんな」
旗嶋くんは箒を動かし始めて、掃除当番の輪に戻っていった。
ここで旗嶋くんとの会話は終わったはずなのに、掃除を続ける旗嶋くんの背中がどうしても頭から離れなかった。
【誰かと比べて、良かったと思ったことはありますか?】
【あなたが比べた相手が、あなたより高い値段になったら?】
眠る前も、夢の中でも、目を覚ました今も、あの質問だけが頭に刻まれたかのように離れてくれない。
朝、起きたら頭がすっきりするとか、そんなことを言っていた人がいたような気もする。でも、そんなのは大嘘つきだ。
むしろ、目覚めてからの方が酷いことになっている。目を閉じている間は、まだ夢の世界に逃げ込めた。でも、目を開けた途端に、私に向けられた質問のことしか考えられなくなる。
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
『LIFE―ライフ―』のことを思い出すのが嫌で、スマートフォンを見ないようにした。
それなのに、逃げられない。
無視すればいいって分かっていても、私に投げかけられたあの質問が私を捕らえにかかってくる。
「心花、おはよう」
「……おはよ」
藍と挨拶を交わして、教室に入る。
窓から差し込む朝の光も、誰かの光も昨日までと同じ。
これといって大きな変化のない見慣れた教室の光景が広がっていて、昨日までと同じ日常が何事もなかったように続いている。
「……それ、美術部の絵?」
藍の席に置かれたスケッチブックが目に入った。
「うん、文化祭用の」
藍は教室の騒がしさなど気にも留めず、スケッチブックに鉛筆を走らせていく。
その横顔は真剣そのものなのに、その表情からはどこか楽しそうな感情も伝わってくる。
『友達が描いた絵を、ずっと応援していた』
17歳/女子
¥3,200
藍の人生に表示されていた価格は、三千二百円だった。
(藍、本当に気にしてないのかな)
あんなにも低い数字をつけられているのに、藍は落ち込んだりしないのか。悔しいと思ったりしないのか。
(私だったら、気にする)
実際にその金額が振り込まれるわけではないけど、もうただの数字には思えない。
一度目にしてしまったら、自分の人生につけられた値段を無視することなんてできなくなる。
「心花?」
「え?」
名前を呼ばれて、現実へと戻ってくる。
藍に対する余計な心配をしていたことを気づかれないように、私もいつもらしい笑顔を整えていく。
「どうかした? さっきからこっち見てるけど」
「ううん。なんでもない」
「そう?」
藍は首を傾げながらも、それ以上は何も聞かなかった。
すぐにスケッチブックへと視線を戻して、器用に鉛筆を走らせていく。
さらさらと鉛筆が紙を擦る音が心地よく響く中、藍はただ絵を描くことに夢中になっていた。
(……なんで、藍は)
どうして、そんな風に何もなかったようにいられるのか。
(……藍は、自分の好きなものしか見てない)
三千二百円という数字も、周りの目も、そんなものには目もくれることなく、ただ自分の描きたい絵を描いている。
それに気づいた瞬間、昨日とは違うざわつきが心を刺激してきた。
(私も、夢中になれることを)
私にも、藍みたいに夢中になれるものがあればと思った。
もう見ないと決めたはずだったけど、いつの間にか指が『LIFE―ライフ―』のアイコンを押していた。トップページを開いて、マイページへと移る。
(……七位)
昨日と変わらない順位を確認しただけで、胸の奥に溜まっていたものが薄れていくような気がした。
(良かった)
ただ、ランキングが下がっていなかった。
ただそれだけのことなのに、ほっとしている自分がいた。
(これなら、いつかはきっと届く)
何かひとつ特別なことをするか、今までやったことのないことをすれば、必ず上位へと手が届く。
何も最初から一位を目指さなくても、七位から六位へ。六位から五位へとひとつずつ上っていけば、いつかは必ず一位へと手が届くはず。
「文化祭の実行委員、誰かやってくれる人ー?」
担任の先生が教室を見回すけれど、誰も手を上げない。
あちこちでは気まずそうに視線を逸らす人たちばかりで、これもいつもの光景だなって思った。
(私も、いつもならこんな感じだった)
先生と目が合わないように、読んでもいない教科書を眺めるフリをしていた。
面倒そうなのはもちろんだけど、放課後の時間も削られてしまう。
わざわざ大変な役を、率先してやる必要がどこにあるんだろうと思っていた。
「……私、やります」
今までの私は、そうだった。
でも、今日は違う。自分でも驚くほど迷わず、堂々と手を上げる。
「え、心花?」
教室の何人かが私を振り向いて、隣の席の子は目を丸くして私を見る。
「珍しくない?」
「そうかな」
隣の席の子に笑って返したけど、自分でも自分の行動が可笑しくて笑ってしまった。
昨日までの私なら絶対にこんなことはしなかったのに、今は不思議なくらい嫌な気持ちがない。
(むしろ、楽しみかもしれない)
いつもと違うことをしてみる、今まで話したことのない人と話してみる、自分から何かを始めてみる。
そう考えるだけで、楽しそうって気持ちが面白いくらいに芽生えてくる。
(これも、ランキングを上げるため)
その日の昼休み、藍が美術部に向かったあとに『LIFE―ライフ―』のアプリを開いた。
(体育祭の実行委員になった話を投稿して……)
早速、今までの自分にはなかった経験を打ち込んでいく
(いくらになるかな)
『LIFE―ライフ―』の使い方もだいぶ慣れてきて、査定結果が出るまでの時間が待ち遠しいような、怖いような不思議な感覚になる。その不思議な感覚から抜け出すためにも、価格が表示されるまでの間にランキングを眺めることにした。
(どんなことをすれば、追いつけるんだろ……)
名前も知らない誰かの人生を、私は画面越しに覗き込んでいく。
『文化祭の実行委員になった』
17歳/女子
¥184,000
#立候補
#青春
#学校行事
#文化祭
#実行委員
数分後に結果が出て、表示された数字を見つめた。
(こんなもんか)
思っていたよりも、ずっと少ない金額だった。
もちろん十八万四千円という金額が低いわけじゃないけど、前のどうでもいい経験の方が高かったのには納得がいかなかった。
(まだ実行委員として、何かしたわけじゃないからかな)
今日はただ教室で手を挙げて、立候補しただけのこと。
あまりにも内容が薄すぎて、査定価格も低いということなのかもしれない。
(文化祭で、何かしないと)
企画を成功させたり、大勢の人たちをまとめたりすれば、きっと価格は上がる。
そうすれば、あんなに上位に食い込むことに頭を抱えていた日々からも解放される。
私が一位に君臨できる日のことを思い浮かべると、いつも吸い込む空気が美味しく感じられる。
「ねえ、藍。ここのカフェ知ってる?」
放課後になって、私は鞄に荷物を詰めている藍の元へと向かった。
「知らない。心花、詳しいね」
「駅前にできたんだって」
一緒にスマホ画面を覗き込むと、そこには色鮮やかなケーキやタルトが並んでいた。
「ね、食べてみたいでしょ?」
「食べたいけど……」
「藍?」
「心花って、新しいお店に興味持たないから珍しいなって」
言われてみれば、藍の言うとおりだった。
いつもなら写真を見て『美味しそう』で終わって、わざわざ知らない店まで行こうなんて思わない。
「藍と一緒に行きたいなぁって」
「混んでるんじゃないの?」
やっぱり藍は深く追求することなく、すぐに笑ってくれた。
「いいよ」
「ほんと?」
自分から藍を誘って、知らなかった場所、知らなかった味に触れていく。
それが、思っていたよりもずっと楽しいってことに気づかされる。
知らない場所に行くより、知っている場所にいる方が楽だったから。
「先生、おすすめの本、教えてください」
今度は図書室で、司書の先生から一冊の本を受け取る。
今までは本を一冊読み切るなんて無理だと思って、最初から手を伸ばそうともしなかった。
面白いかどうかも分からない本を読んで失敗するくらいなら、何も読まない方がいいとすら思っていた。
(……楽しみ)
でも、今の私は、何かを始めることへの抵抗がなくなっていた。
知らないものを知ることが、だんだんと楽しみになっている。
(こんな世界もあったんだ)
そう思うたびに、世の中には自分の知らないものがまだまだたくさんあることを知った。
(これを続けたら、趣味になるかな)
ページを捲った手を止めて、スマホ画面を見つめながら考える。
(価格、上がるかな)
気づけば、私は毎日何かを探すようになった。
学校では新しい経験を探し、休日には知らない場所へ行く。
苦手な本も読むようになって、友達の誘いはなるべく断らないように心がけた。
「百田さん、最近なんか変わったね」
ある日、たいして仲の良くなかったクラスメイトに話しかけられた。
「明るくなったっていうか」
「そうかな?」
彼女からの指摘に、頬が緩む。
言われてみれば、思い当たることはいくつもあったから。
「ありがと」
自分では気づかなかった変化を、誰かに見つけてもらえたことが嬉しかった。
誰かに変化を認めてもらえるのが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。
(前よりも、毎日が楽しい)
昨日まで知らなかったことを知るたび、昨日までできなかったことができるようになるたび、自分が変わっていくのを感じる。
そんな毎日を過ごしているうちに、私の世界は前よりずっと大きく広がっていた。
(私も、ちゃんと成長してる)
そう実感できることが、何よりも嬉しかった。
(もっと、いろんな経験がしたい)
マイページを操作して、自分が投稿した人生の値段を確認する。
(もっと特別なことがしたい)
私の人生につけられた最高価格は百三万円、最低価格は十一万二千百円。
その数字を見つめながら、まだ見ぬ未来の価格を想像する。
「……もっと変わりたい」
これらの数字が、どこまで上がるのか。
誰に向けるわけでもなく呟いた声には、自分でも分かるほどに未来への希望が含まれている。
「美術選択してる子、いるー?」
教室の出入り口の方から声がして、藍が戻ってきたのだと分かって顔を上げた。
「昼休みの間だけ、筆、借りたいんだけど……」
藍が教室をぐるりと見回すと、その視線が私のところで止まる。
「心花は……音楽か」
「うん、ごめん」
高校の音楽は、実技らしい実技がほとんどないのを斬新だと思った頃もあった。
私の机の中に入っているものは音楽の教科書くらいで、藍が求める筆を貸し出すことができない。
「いいよー。私、ほぼ新品だから」
廊下側の席の子が筆を取り出すためにロッカーに向かうと、藍からふと肩の力が抜けた。
「珍しいね。美術部が筆、忘れるって」
「買い替えた筆、置いてきちゃって」
「あ、もうぼさぼさ?」
「すぐダメになっちゃって……」
その子は藍に筆を差し出すと、筆を受け取った藍の顔がふと綻ぶ。
「それだけ藍ちゃんは、描いてるってことだよ」
そんな風に声をかけられた藍は、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、私はなぜか少しだけ苛立った。
(私は、自分の人生を増やすのに必死なのに……)
何をすれば査定額が上がるのかを考えて、ひとつでも多くの経験を積んで、昨日よりも今日。今日よりも明日と、自分の値段を上げようとしているのに。
(……藍は、絵を描いてるだけ)
たったそれだけのことなのに、藍はとても楽しそうにクラスメイトと会話を続けていく。
(私は藍より、ずっと高い)
それは揺るがない事実なのに、藍の方が私よりもちゃんと生きているように見えた。
「ありがとう」
「いいよ、放課後も使って」
「ううん。放課後になったら、買ってくるから」
藍は借りた筆を受け取り、すぐに美術室へ戻ろうとした。
昼休みはそこまで長いものじゃないから、できるだけ描く時間を確保したいのかもしれない。
「……あ」
藍が教室を出ようとすると、藍の視線の先ではクラスの子がスマートフォンを覗き込んでいた。
「それ」
藍が声をかけると、その子が顔を上げた。
「ん? あ、魚住さんも『LIFE―ライフ―』やってる?」
「やってた、かな」
藍は短く返事をして、ふと笑った。
藍の笑い方がやけに軽くて、思わず目を逸らす。
「三千二百円」
「魚住さん、安っ」
「ね」
サイトを覗き込んでいたクラスメイトたちに、藍は柔らかな笑みを浮かべる。
「大丈夫、魚住さん! 私なんて五百円だったから」
「あ、勝った」
「そうなんだよー……絶対、私、クラスの最低価格だと思う」
「いや、二人共、人生で勝ち負け決めないの」
藍と中心とした輪から、笑い声が上がる。
藍はその輪の中で、また楽しそうに笑っている。
(なんで、その数字に笑えるの……?)
藍の笑顔が眩しく見えれば見るほど、心の中に違和感のようなものがどんどんと膨らんでいく。
どうして藍は、あんな風に笑うことができるのか。
どうして、あの値段を気にしないでいられるのか。
(どうして、そんな顔ができるの……?)
藍もクラスメイトたちも、肩を揺らすほどに笑っている。
その姿を見ながら、私は自分の手のひらをそっと握り締めた。
「ねえ、藍」
気づけば私は、笑い声の輪の中へと足を踏み入れていた。
その場の空気に押されたわけでもなんでもなく、心の奥底に沈み込んでいく違和感が黙っていられないほど膨らんでしまったから。
「……もう、『LIFE―ライフ―』使ってないの?」
説明のできない違和感の塊を抱えながら問いかけた瞬間、自分でもよく分からなくなる。
けれど、藍の笑顔を見れば見るほど、なぜか唇を噛み締めてしまう。
「うん、もういいかなって」
藍は、本当になんでもなかったことのように軽く返してきた。
その軽さが、余計に私の心を騒ぎ立てる。
「……どうして?」
自分でも言い方が刺々しいと分かったけど、聞かずにはいられなかった。
「どうしてって……絵を描いてる方が楽しいからかな」
藍の答えを聞いたけど、まったく腑に落ちない。
(意味が分からない……)
言葉としては、もちろん理解できる。
でも、どうしてそれで満足できるのかが分からない。
「せっかく人生投稿したのに、それでいいの?」
「それでって?」
「……もっと高くできるかもしれないよ」
自分で言葉にしておきながら、何を焦っているのか分からなくなる。
ただ、藍の満足そうにしていることだけが、どうしても理解できなかった。
(私は、もっと上を目指す)
もっと評価されたいって気持ちは、たぶん普通。
だって、これは自分の人生なんだから。
できるだけ高く、少しでも価値のある人生にしたいと願うのが当たり前のはずだから。
「だって」
藍は、また柔らかな笑みを浮かべる。
藍の笑顔は、なんの迷いもないみたいに見えた。
「三千二百円でも、私の人生を買いたいって思ってくれた人がいた」
藍の声には、本当にそれ以上を求めていない響きがあった。
「それで、十分かなって」
三千二百円で十分だと、心から思っているみたいだった。
ますます訳が分からなくて、私の頭は混乱していく。
「それより、早く美術室行かなきゃ」
藍はそう言って、クラスメイトたちに軽く手を振りながら教室を出ていく。
藍と一緒に盛り上がっていたクラスメイトの子たちも、もうスマートフォンの画面を見ていなかった。
(どうして?)
どうして。
どうして。
どうして。
どうして、あんなに嬉しそうにいられるのか。
その答えが、私にはまったく分からなかった。
「百田」
背後から苗字を呼ばれた瞬間、反射的にスマートフォンを制服のポケットへと片付けた。
自分でも、驚くほど速い動作だったと思う。
「……何?」
振り返ると、そこにはクラスメイトの旗嶋桜生くんが立っていた。
クラスメイトと言っても、本当にただ顔と名前を知っているだけの関係。
たいして話したことがないこともあって、その表情からは何も読み取ることができない。
「百田も、『LIFE―ライフ―』やってんだなって」
その言葉を聞いた瞬間、私はクラスメイトたちの輪から離れた。
何か悪いことをしたわけでもないのに、ただこの場にいたくなくて自分の席へと戻る。
たったそれだけのことなのに、心臓が大きく跳ねたような気がした。
自分が、どれほどこのサイトに囚われているのかを思い知らされる。
「……なんで?」
「何が?」
声が強くなる私に対して、旗嶋くんはたいして気にした様子もなく淡々と答えた。
「なんで私が、サイトを使ってるって知って……」
「いや、今の会話聞いてれば、なんとなく分かるだろ」
あまりにもあっさり返されて、言葉が詰まる。
『LIFE―ライフ―』を使っていることなんて別に珍しいことでもなく、クラスにも利用している人は大勢いるはず。
それなのに、誰かにサイトを利用していると知られたことが、どうしようもなく恥ずかしかった。
「……そっか」
さっきの藍との会話を聞いていれば、私が利用者だと考えるのはそれほど難しいことではない。
それに私は、匿名で『LIFE―ライフ―』を利用している。
旗嶋くんが勝手に何かを探ったわけでも、私のページを覗いたわけでもない。
でも、自分がサイトを使っていることを知られただけで、まるで秘密を暴かれたみたいな感覚に陥る。
「……旗嶋くんは?」
制服のポケットに片付けた自分のスマートフォンを、上から強く握り締める。
その画面の向こうには、私の人生がある。私の人生につけられた価格が待っている。
それを誰かが読んで、誰かが評価していることを気にしている自分を認めたくなくて、私はわざと話題を逸らした。
「『LIFE―ライフ―』、使ってる?」
でも、聞いてから、余計なことを言った気がした。
「ん? 使ってるよ」
旗嶋くんは特に気にすることもなく、自分も使っていると認めた。
『LIFE―ライフ―』を使っているのを隠しているのは私だけで、クラスメイトたち何かを気にする様子もなく、堂々とサイトを利用していることを打ち明けてくる。
「このサイト、なんなんだろうな」
その言葉に、背中をひやりとした汗が伝った。
このサイトは、なんなのか。
ずっと気にしないようにしていた部分を、旗嶋くんは真正面から見つめている。
「どういう仕組みなのかとか、なんで十七歳の投稿が上位になりやすいのかとか」
サイトを怪しんでいるというわけではなく、ただ気になっているんだと思う。
でも、その旗嶋くんの姿勢があまりにも真っ当すぎて、私はなぜか心が痛くなった。
「……旗嶋くんも、自分の人生を査定したの?」
「したよ」
「どうだった?」
「普通」
普通。
それはずっと私が求めていた言葉だったはずなのに、今はその普通という言葉を聞くだけで心が痛みを訴えてくる。
「いくら?」
「それ、聞く?」
「……聞いちゃ駄目?」
「きっちり三万円だった」
旗嶋くんも藍と同じで、自分の人生につけられた価格を気にしていないみたいだった。
「だって、俺の人生に三万円の価値しかないわけじゃないだろ?」
その言葉が、私の心に引っかかる。
もう忘れることはできなっていうくらい、心に深く刻まれる。
(なんで、藍も旗嶋くんも……)
どうして、そんな風に思えるのか。
またそんな考えに囚われそうになると、旗嶋くんが私の顔を見ていた。
「最近、百田が変わったなと思って」
息が止まる。
「『LIFE―ライフ―』の値段上げるために頑張ってんだな」
あまりにもあっさりと言われて、返す言葉がなくなる。
誰かが、自分の変化に気づいてくれたのは喜ぶべきこと。
頑張っていたことを認めてもらえたのは嬉しいことのはずなのに、その喜びはすぐに別の感情へと変わってしまう。
(……恥ずかしい)
そんな自分を、知られたくなかった。
「前より、いろんなことしてんなーって」
否定しようとしたけど、口から出かかった言葉は止まってしまう。
自分が人生の価格を上げるために努力したのは事実。
今までなら行かなかった場所に行って、今までなら話しかけることもなかった人と話して、興味のなかったことにも手を伸ばしてきた。たくさんの本を読むようにもなった。
(……それは全部、私が選んできたこと)
知らなかったことを知るのは、思っていたよりも面白いと思えた。
新しい人と話すのも楽しくて、経験してきたすべては嘘だったわけじゃない。でも、経験を積み重ねれば積み重ねるほど、頭の片隅にはいつも同じことが浮かんでいた。『これ、投稿したらいくらになるのか』ってことを。
「……そんなこと、ないよ」
「そんなことあるよ」
やっと言葉が出てきたのに、自分でも分かってしまうくらい弱い声で笑うこともできなかった。
旗嶋くんはそれだけ言い残して、旗嶋くんは自分の席に戻っていく。
私は、その背中を見つめながら思った。
(……旗嶋くんは、私を責めたわけじゃない。馬鹿にしたわけでもない)
むしろ、褒めてくれた。
それなのに、心の中に嫌なものが残っている。
「……ランキング」
制服のポケットから、スマートフォンを取り出す。
【査定価格13位 ¥1,030,000 17歳/女子】
サイトのランキングを確認すると、昨日まで七位だった順位が十三位まで落ちていた。
たった数十時間で、六つも順位を落としてしまった。
(私、最近、何やってるんだろ)
何がしたくて、いろんな場所に行ったのか。
何が知りたくて、たくさんの本を読みようになったのか。
どうして、今までならしなかったことをやってみようと思ったのか。
(……楽しかった、から)
ひとつの感情を導いたところで、私は画面から目を離した。
(私、間違ってないよね……?)
最初は、ただの好奇心だった。
私の人生には、いくらの値段がつくのか気になっただけのこと。
でも、いつからか私は自分が何をしたいのかよりも、これをしたらいくらになるのかを基準に行動するようになっていた。
(……私は、変わった)
もうスマホ画面を見なくても、ランキング一位の子の人生が二千八百万円ってことは記憶に刻まれた。
(まだ届かないけど)
何をすれば、三千万円の人生に手が届くのか。
今の私は、もう答え探しを始めていた。
どんな経験をして、どんな人と出会えば、もっと買いたいと思ってもらえるのか。
どんな人生なら、もっと買いたいと思ってもらえるんだろう。
(もっと経験しなきゃ)
どうして、この子の人生はこんなに高いのか。
私には、何が足りないのか。
(もっと、人生を増やさなきゃ)
誰かが、私に囁いたような気もした。
けど、その声は私自身のものだった。
(……でも、私に足りないものばっかり)
あらためてランキングの画面を見直す。
高額査定の人生の中身を、実際に買うことはできない。
それでもタイトルとタグを眺めていれば、その人がどんな人生を送ってきたのか、なんとなく想像することはできる。
(友情、失恋、家族、喧嘩、挫折、成功……ありきたり)
並んでいる言葉をひとつずつ目で追っていくと、人生にはこんなにもたくさんの出来事があると気づく。でも、これが高額査定に繋がるっていう確信に繋がるキーワードは見つからない。
(タグで価格が決まるわけじゃないけど)
私だって、友達と喧嘩した話を投稿したことがある。
けれど、それだけで価格は大きく跳ね上がらなかった。
(……さすがに、喧嘩すればいいってわけじゃないよね)
経験を増やしたいからといって、わざわざ誰かと喧嘩する。
そんな単純な話ではないことくらい分かっている。
(私は、人生を良くしたいのに)
人間関係を自ら壊しにいったら、意味がない。
それは分かっていても、ランキングの上位の投稿を見ていると何度も似たようなタグが目に入ってくる。
(出会い、別れ、衝突、失ったもの、乗り越えた経験……)
人生の中で大きく感情を動かされた出来事が、その人の人生を形づくっていることに気づく。
(……でも、私にないものばっか)
今までの私は、自分の人生をもっと良くしたいと思っていた。
そうやって、自分の中身を増やしていけばいいって考えは間違っていなかったと思う。
些細な変化かもしれないけど、私の人生は前よりも広がっている。
それなのに、ランキングを見ると自分に足りないものばかりに目がいく。
(私が知らない人生……)
私が経験したことのない出来事を、当たり前のように経験していく人たちがいるってことが、ただただ羨ましく思えた。
(待ってるだけじゃ、何も起こらない)
人生は何もしなくても、勝手に面白くなってくれるわけじゃない。
自分から動くことで、自分の人生を変えてきた。
だから、これからも同じでいいと思っていた。
(……裏切り)
喧嘩そのものに特別な価値があるわけじゃないと分かっていても、裏切りという強烈な言葉はどうしても頭に残りやすい。
(私に裏切られた経験なんて……)
自分のこれまでを思い返してみるけど、友達と大きな喧嘩をしたのは一回くらい。
しかも、その人生はもう『LIFE―ライフ―』へと投稿してしまった。
(……人と揉めるの、嫌いだからなぁ)
私はそもそも、人と揉めるのが苦手だった。
強く言い返すこともないため、相手に合わせて、揉め事に発展することはない。
(……足りないなら)
自分に足りない経験を補うには、どうしたらいいか。
(……作る?)
嘘の人生を実際に換金すれば、それは法律に触れてしまうことになる。
サイトの利用規約にも、そんなことがはっきりと書かれていた。
(でも、換金しなければ……)
あくまで匿名で人生を投稿して、その価値を査定してもらうだけなら、何も悪いことには当たらない。
(そうだよ……! 足りないものがあるなら、作ればいい!)
その考えに、強い抵抗はまったくなかった。
これも自分の人生を自分で変えようとしているのだと信じて疑わなかった。
(藍と、喧嘩をしたことにして……)
藍と喧嘩したいわけでも、藍を傷つけたいわけでもない。
だったら嘘の人生を投稿するのが一番だと思ったけど、そこまで考えて私は指を止めた。
(でも、買いたい人がいたら……)
たとえ換金しないとしても、嘘の人生を投稿することがどんな扱いになるのかは知っている。
(……ダメ、だよね)
せっかくここまで来たのに、アカウントを消されたら意味がない。
アカウントが削除されるだけでも大きいのに、逮捕なんて事態に繋がっていったら、自分の手で自分の人生を壊しにいっているようなもの。
(本当に喧嘩する……?)
嘘じゃなければ、何も問題はない。
実際に藍と喧嘩をして、その出来事を投稿すれば規約違反にはならない。
(……大きな喧嘩じゃなければ)
さっき、喧嘩なんてわざわざするものじゃないと思ったはず。
でも、ちょっと言い合うだけなら乗り切れる気がする。
藍にとって嫌なことを言ってしまったとしても、すぐに謝ればいい。
(藍なら、許してくれるよね)
一度くらいの喧嘩で、私と藍の関係が壊れるわけがない。
私は、ほんのちょっとだけ人生を変えたいだけ。
これは、自分の人生をより良くするための喧嘩だから。
喧嘩して学ぶことだってあると、私自身が証明してみせたい。
「じゃあ、心花」
放課後のチャイムが鳴って、教室に残っていた生徒たちが帰り支度を始めた。
藍はいつものように美術部に向かうため、鞄を肩に掛ける。
「また、明日……」
「ねえ、藍」
いつもと変わらない挨拶を交わして、私も笑顔で手を振る。
今朝までは同じ毎日を繰り返すつもりだったけど、私はそのまま藍を見送ることができなかった。
「藍って、本当に絵のことしか考えてないね」
言った。
言ってしまった。
喧嘩だって、人生を変えるために必要な経験だと言い聞かせる。
嫌なことを言ったって、あとで謝ればいい。
高校生くらいの年齢にもなれば、本気かそうじゃないかの違いくらい藍なら分かってくれるはず。
「……心花」
藍から、笑顔が消えた。
自分が思っていたよりも、ちゃんと人を傷つける言葉を口にできたのだと嬉しくなった。
これなら喧嘩になるかもしれないと思ったのに、私が思っていた展開がやってこないのが、人との会話だってことを思い知った。
「いまさら何?」
「え?」
「当然でしょ? 私、絵のことしか考えてないんだから」
怒っていない。
藍の声にも、表情にも、怒りらしいものはまったく感じられない。
「いや、その……」
心の中で、違う。そうじゃないって叫ぶ自分がいる。
もっと怒ってほしいのに、そんなことを言えるはずもなくて私は言葉を探す。
(……ここで終わらせたら、何も変わらない)
せっかく始めた喧嘩だ。
私は自分の人生に、新しい経験を足したい。
「好きなことに夢中になるのは、当たり前」
小学生のときから、藍は絵を描くのが好きだった。
休み時間になるとノートの端に絵を描いて、家に帰っても休みなく絵を描き続ける。
私は、そんな藍がずっと羨ましかった。
だから、私はもう一度、藍を傷つけようと画策する。
「……藍は、好きなことがあっていいね」
「いいでしょ?」
藍は、とても綺麗な笑みを返してくる。
あまりにも綺麗な笑みすぎて、私にはできない笑顔だなって思った。
(ダメだ)
これじゃあ、喧嘩にならないのだと悟る。
そもそも喧嘩が上手くない私が、誰かを傷つけるための言葉を探すこと自体が間違っていた。
でも、もう少しだけ頑張って、嫌なことを藍にぶつけてみたい。
「……好きなことだけしてれば、それで満足できるの?」
口から溢れてきた言葉は、酷く濁った感情が含まれていた。
藍の表情を確認しようと思って顔を上げると、藍の顔が曇っていた。
今度こそ怒るかもしれないと期待するけど、藍が怒鳴ることはない。
「私には、絵しかない」
落ち着いた自信のある声を発して、藍は満面の笑みを浮かべる。
「だから、絵を描いてるの」
藍はしっかりと私の目を見てくれるのに、私は藍から目を逸らしたい気持ちでいっぱいになる。
「まあ、それで人生が上手くいくわけじゃないけど」
藍が、わずかに首を横へと傾ける。
「描いたものが思った通りにならないことだってあるし、時間を描けたって駄目なものは駄目だったりね」
藍は溜め息を吐き出したけど、その溜め息すら幸せな感情が込められていたような気がする。
「賞を取れなかったら、普通に悔しい」
「……藍も、そんな風に思うの?」
「自分より上手い人がいたら、嫌な気持ちになる。私だって、嫉妬するんだから」
藍は苦笑して、どこか過去を懐かしむかのように窓の向こうへと目を向けた。
「絵が好きだからって、いっつも楽しいわけじゃない」
藍が、こんなことを言うなんて思っていなかった。
「それでも、描きたいから描いてるだけ」
藍は、やっぱり満足そうに笑った。
「だから、心花が思ってるみたいに、絵で満足してるわけじゃないってこと」
さっきから、藍がくれた言葉が深く深く心に突き刺さっていく。
私はずっと、藍には絵があると思っていた。
好きなものがあるから、夢中になれるものがあるから、藍は私よりもずっと幸せなんだと思っていた。
「……そっか」
自分は、藍のことを知ろうともしなかった。
藍だって悔しがるし、嫉妬だってする。自分の絵に満足いかないときだってあるけど、理想に手が届くまで絵を描き続ける。
「じゃあ、今度こそ行くから」
「……ごめんね、引き留めて」
ようやく口から出てきたのは、そんな言葉だった。
喧嘩を始めたかったはずなのに、藍を傷つけたかったはずなのに、傷ついたのは私の方だった。
(……何かを変えたかっただけなのに)
自分の人生に足りないものを増やしたくて、藍と喧嘩しようと思ったはず。
ほんの少し傷つけて、ほんの少し傷つけられて、それで終わるつもりだった。
でも、大きな傷を負ったのは、私だけだった。
(これも、人生に……)
『LIFE―ライフ―』に、どんな文章を載せようか。
どんな文章なら、より多くの人を魅了することができるのか。
(これで、私の人生にも喧嘩が……)
頭の中で、文章の続きを考えることに集中する。
でも、どうしても藍の笑顔が頭を過っていく。
(……いくらになるんだろう)
そんなことを考えている自分が、吐き気するほど嫌だった。
次から次へと湧き上がる感情に気づいても、私は藍に傷つけられたことよりも、この出来事がいくらになるかを考えている。
(『親友と喧嘩した』……)
いつものようにAIが考えたタイトルが、画面に自動で表示される。
あとは送信ボタンを押すだけで、査定価格が出る。
いつもの流れに乗っかればいいだけなのに、どうしても指が動かない。
「百田」
スマートフォンを握り締めたまま、その場に立ち尽くしていると背後から声をかけられた。
「そんなとこに突っ立てると、掃除の邪魔」
振り返ると、箒を手にした旗嶋くんが立っていた。
廊下から差し込む夕陽の光が教室へと差し込んできて、廊下側にいる生徒たちの影が床に長く伸びている。
「……ごめん」
その場を離れようとした私に旗嶋くんは何も言わず、床に落ちたゴミを丁寧に掃いていく。
「……喧嘩?」
教室を掃除している人たちの邪魔にならないように、自分の席へ戻ろうとしたときのことだった。
「……さっきの、聞いてた?」
「全部じゃないけど」
「……喧嘩、したわけじゃないよ」
それ以上、何も聞かれなかった。
それなのに、私は床を掃いている旗嶋くんに向かって勝手に言葉を続けていた。
「……藍って、すごいよね」
「魚住が?」
教室の掃除当番の人たちが机を運ぶ音や、床を掃く音、合間に聞こえる笑い声が放課後の教室に響いていく。
「……三千二百円なんだって」
「ああ、『LIFE―ライフ―』?」
「そう」
スマートフォンの画面を見るけど、画面は真っ黒なままだった。
電源を入れれば、さっきまで何度も見返していた数字が表示される。
でも、今は見ようとは思えなかった。
「三千二百円しかないのに、あんな風に笑えるんだよ」
言葉を発した瞬間に、自分の声も、自分の心も、濁っていくような気がした。
そんな言い方をしたかったわけじゃない。
三千二百円の人生なら、笑うことすら許されないって言いたいわけじゃない。
でも、自分の言葉が、そんな風に聞こえてしまった。
「百田は?」
「え?」
「三千二百円だったら、笑える?」
「……無理」
考えるよりも先に、答えが口から溢れ出す。
「じゃあ、十万円なら?」
「……分かんない」
「百万円なら?」
そこまで聞かれて、口を閉ざしてしまった。
いくらになれば、私は笑えるようになるのか。
「最近の百田、ずっと数字ばっか見てるだろ?」
「……見てないよ」
「見てなかったら、百万の価値なんて分かんないよ」
旗嶋くんの、その言葉が引っかかる。
でも、自分では、その引っかかりを解くことができない。
「……なんで、旗嶋くんに、そんなこと……」
「俺もたまに見てたから。数字」
旗嶋くんはそう言って、掃除の手を止めた。
「百田、ずーーっと誰かと比べてる」
昨日から、頭の中をぐるぐる回っていた質問が蘇ってくる。
【誰かと比べて、良かったと思ったことはありますか?】
「……私は、自分の人生を良くしたいだけ」
私は思わず、手の中のスマートフォンをぎゅっと握り締めた。
「だから、いろんなことに挑戦してるだけ」
「百田の人生なんだから、好きにすればいいよ」
旗嶋くんは、否定しない。
否定されたかったのかどうか、自分でもよく分からない。
ただ、旗嶋くんの穏やかな声が、喉の奥をきゅっと縮ませるような痛みを与えてくる。
「自分より上にいる人を見て苦しくなるのと」
箒を持ったまま、旗嶋くんが私に視線を向ける。
窓から吹き込む風が、制服のスカートの裾をわずかに揺らした。
「自分より下にいる人を見て安心するのって、似てるな」
言葉が出なくなる。
言葉を返せなくなる。
でも、それがなぜなのか分からない。
頭で言葉を組み立てているのに、心に引っかかったままの何かが思考を邪魔してくる。
「どっちも、自分を見てないもんな」
旗嶋くんは箒を動かし始めて、掃除当番の輪に戻っていった。
ここで旗嶋くんとの会話は終わったはずなのに、掃除を続ける旗嶋くんの背中がどうしても頭から離れなかった。

