十七歳の女子高生が人生を売ったら、彼女よりも高額査定だった

 今日も、いつも通りの一日が始まった。
 朝食は昨日の残りの味噌汁とご飯と、お弁当の余りのたまご焼きときんぴらごぼう。
 母はテレビの天気予報を見ていて、父は朝一番に新聞へと目を通している。

「今日はみんな、傘、持ってった方がいいかも」
「はーい」

 お昼ご飯でも食べることになるたまご焼きを一切れ、口に運ぶ。
 ふわりと広がる、ほんのりとした甘さはまさに母の味。
 昔から何度も食べてきたいつもの味は、何も変わっていない。

(昨日と、同じ……)

 変わったものがあるとすれば、テレビから流れる天気予報の内容と朝食の内容が違うことくらい。
 それ以外は、何も変わっていない。
『LIFE―ライフ―』というサイトと出会って、私の人生に値段がつけられたとしても、世界は何も変わらない。

「いってらっしゃい」
「いってきます」

 だから私は昨日と同じように靴を履いて、昨日と同じように家を出る。
 駅へ向かう道も、乗り込むバスも、見慣れた窓の向こうの景色だって、何ひとつ変わっていない。
 きっと今日も学校に着いたら友達と話して、授業を受けて、放課後になればまた同じ道を通って家に帰る。
 今日も同じ一日の繰り返しだと思いながら、流れるバスの景色を見送っていく。コンビニの場所も、スーパーの場所も何も変わってないなぁなんて思ったときのことだった。

(……八十七万四千二百円)

 私の記憶には、昨日まで存在しなかったものが残っている。
 ふとした瞬間に、勝手に頭の中へ浮かんでくるようになった数字。

「……はぁ」

 バスが揺れるのを分かっていながらも、額を窓に預けた。
 バスの中にはいつものように眠そうな人がいて、スマホを眺めている人、参考書を読んでいる人がいる。

(何も変わってないのに……)

 私だって昨日と同じ制服を着ているのに、昨日までの私と今日の私はもう同じじゃないと気づく。

(……私の人生に、値段がついた)

 昨日までは、自分の人生には何もないと思っていた。
 特別な才能もなければ、誰かに誇れる経験もないっていう、どこにでもいるごく普通の女子高生。
 それが、百田心花(ももたここは)という人間だと思っていた。

(なんで、あんな高い値段……)

 自分が想像していたよりも、ずっと高い値段がつけられたという事実。
 一晩眠れば忘れられると思っていたけど、その事実は朝になっても頭から離れてくれない。

(……でも、嬉しかった)

 昨日まで、何もないと思っていた私の人生についた値段。
 誰かが自分の人生を読みたいって言ってくれたことが、心の底から嬉しかった。
 何もないと思っていた自分の人生にも、何かあるのかもしれないと思えたことが喜びに変わった。

(私の人生にも、価値があるんだ)

 今日も世界は何も変わっていない。
 変わってしまったのは、私の方だった。

「おはよう、心花」

 朝の光が差し込んでくる教室で、藍はいつもの席から手を振ってくれた。

「おはよ、藍」

 教室のあちらこちらから聞こえる話し声もまだ疎らで、朝の教室らしい空気が広がっている。
 鞄を肩から下ろすと、藍がじっと私の方を見ているのに気づいた。

「眠そう」
「英語の予習、終わんなかったんだよね」

 私が英語関連の授業に苦戦しているのを知っている藍は、くすっと笑った。
 その笑い声を聞いて、あ、いつもの日常に戻ってきたんだと肩の力が抜けたような気がした。

(良かった)

 朝になれば、ちゃんといつもの日常に戻れる。
 夜に見た夢みたいに、昨日のことなんてそのうちに忘れてしまう。

「そういえば」

 そう思っていたのに、藍がふと思い出したように口を開いた。

「昨日のサイトのことなんだけど」

 教科書を出そうとしていた手が止まった私に対して、藍は紅茶の入った紙パックを指で押す。
 私は完全に動きを止めてしまったのに、藍はたいしたことじゃないって空気で話を続ける。

「人生を売るサイト。『LIFE』って名前の」

 心臓が、強く鳴った気がした。
 けれど、それだけのことで動揺したくなかった。
 表情を崩してしまったら、心の内から何かが溢れてしまいそうになっているから。

「……言ってたね、そういえば」
「自分の人生について書くと、お金になるなんて怪しすぎるけど」

 藍は言葉を選ぶように、間を置いた。

「誰かが、それを買って読むのってすごいなって」

 窓から差し込む太陽の光が、藍の横顔を照らしている。
 藍は、いつもの世間話程度に思っているのか。
 サイトの話をしていても、これといって表情を変えることはなかった。

「最初は詐欺かと思ったんだけど」

 藍は机に頬杖をつき、揺れる前髪に指で触れた。

「一個だけ売っちゃった。昔の話を」

 藍は冗談めかした声で笑った。
 私も一緒に笑えば良かったのに、きっと私の表情は凝り固まったままなんだと思う。

「……怖くなかった?」

 問いかけたことを、後悔した。
 藍は、答えをくれなかったから。

「売ったことに後悔はしてないけど、私の人生、安すぎて」

 机の木目を指でなぞり始めて、藍は小さく息を吐く。

「小学校の頃の話を売ったんだけど……」

 藍から告げられた単語は、昨日私が購入した人生を連想させた。
 絵を描くのが好きだった主人公。
 友達も絵を描くのが好き。
 でも、受賞したのは主人公の方で、友達は受賞することができなかった。
 私じゃなくて、友達の絵が選ばれれば良かったのにって記していた、十七歳の女の子の話を思い出す。

「ちっちゃい頃の話って、誰も覚えてないでしょ?」

 視線を逸らしながら、藍は飲み干した紙パックを丁寧に折りたたんでいく。

「でも、誰かが読んでくれるなら、それも悪くないかなって」

 藍の言葉が、胸に引っかかる。
 誰かに読んでほしかった。
 誰かに、自分の好きだったものを知ってほしかった。
 それは悪いことでもなんでもないのに、私の頭の中には昨日見た数字が浮かぶ。

(……私の人生は、八十七万四千二百円)

 似たような話を投稿したはずなのに、私の人生には八十七万四千二百円という価格がつけられた。
 藍の人生は……そこまで考えて、私は慌てて思考を止めた。

(……何、考えてんの、私)

 自分の人生と、友達の人生を、値段で比べようとしてしまった。
 そんな自分に酷く嫌悪感を抱くけど、その嫌悪感は記憶に刻まれた数字を消す手助けはしてくれない。
 あの査定額は、私の記憶にこびりついたまま。

「……どうだった? 値段。お金持ちになった?」

 比べるつもりなんてない。
 比べるようなものでもないことは分かっている。
 それでも、勝手に数字は並んでしまう。

「それが、たったの三千二百円」
「……三千二百円?」

 聞き返してみたけど、やっと確信することができた。
 私が買った、あの匿名の人生の売却価格は三千二百円。
 あの人生の売却価格と、藍が口にした申告価格が同じ。

「初めて絵で、賞をもらったときの話を投稿したの」

 やっぱり、あの人生を売ったのは藍だった。

「安すぎて、笑っちゃった」

 思わず息を呑んでしまったことを、藍が気づくことはなかった。
 藍は教室に差し込む太陽の光を受けながら、綺麗に笑う。

「私の人生なんて、こんなものだったんだなぁって」
「っ、そんなことないよ」

 反発するように声を上げてしまったせいで、藍の視線が私に向けられる。

「値段なんて意味ないよ」

 口から出ていく言葉に、何も嘘はない。
 本当に、そう思う。
 それなのに、頭の片隅で別の声が聞こえてくる。
『私の人生は、八十七万四千二百円だったよ』って声が。
 その数字を思い出すだけで、心が軽くなるような気がする。

「サイトが勝手につけてるだけなんだから」

 藍が唇を噛み締めながら、口角を上げる。
 その笑みが、どこか痛々しそうに見えた。

「三千二百円だからって、藍の人生が三千二百円になるわけじゃない」

 良かった。
 私の人生は、藍の人生よりずっと高かった。
 そんなことを思ってしまった自分に、吐き気がした。

「心花は? やってみたら?」

 私は、藍に元気を与えることができたのか。
 藍は笑みを取り戻しながら、軽い調子で問いかけてくる。

「えー、ちょっと怖くない?」

 口から咄嗟に嘘が零れてくる自分が情けなくもなったけど、その情けなさは心の奥へと重く沈んで積み重なっていく。

「私の人生なんて、こんなものだったんだなぁって落ち込みそう」
「そのときは、劣等生仲間として慰めてあげる」
「っ」

 私の人生は、藍よりずっと高かった。
 そう思った瞬間、胸がぎゅっと痛む。

「……うん、ありがと」

 私の人生には、八十七万四千二百円という値段がつけられている。
 でも、その数字を藍に知られたくない。

(知られたら、きっと……)

 隠し続けるしかない。
 胸の痛みを悟られないように、そっと息を整えてこの場をやり過ごす。
 そのまま何もないフリをして、私は授業へと向かった。

「暗記さえしっかりできてたら、この科目は確実に点が取れます」

 席に着いて、先生の話に耳を傾ける。
 高校に入学してから、こういう先生の話を聞くだけの授業が増えた気がする。
 もちろん、そんな授業ばかりではない。
 先生の話を聞いているだけのように思えて、その中にテストのヒントが隠れていることだってある。
 それでも、昔みたいに一生懸命ノートを取っている時間は減った。そのせいで、どうしても余計なことを考える時間が増えてしまう。

(どうして、隠したんだろ)

 たとえば、今みたいに。
 単純に、藍よりも値段が高かったことを知られたくないって気持ちは強い。
 でも、その感情を深く掘っていくと、どうしてっていう疑問に答えを見い出せなくなる。

(もう、関わらないようにしよ……)

 そう決めたはずだった。

「じゃあね」
「今日も美術部?」
「それ以外に、行くところある?」

 藍が立ち上がって、私の机に軽く手を添えた。

「お昼、ちゃんと食べてね」
「いっつも食べてます」

 私が笑うと、藍も同じように笑った。
 いつもと同じように、先にお弁当を食べ終えた藍は教室を出ていく。
 今日だっていつもと変わらない光景が広がっているはずなのに、友達の姿が見えなくなっただけで静けさが一気に押し寄せてくるのを感じる。

(寂しいわけじゃないけど)

 教室には、まだたくさんの人がいる。
 机を寄せ合って笑っているグループや、スマートフォンを覗き込みながら何かを話しているグループ。
 藍が美術部に行くのだっていつものことなのに、急に自分だけ居場所を失ったような感覚に陥る。

(みんなには、みんなの居場所がある)

 話す相手がいて、笑い合う相手もいて、昼休みが終わるまでの時間を一緒に過ごす相手がいる。
 でも、藍がいなくなった私は、また独りで答えの出せない考えごとに囚われていく。

(……私には、何があるんだろ)

 鞄の中に片付けていたスマートフォンへと手を伸ばす。
 何かを見たかったわけではないけど、スマホを見ている時間だけは何も考えずにいられるような気がした。でも、その気がしたっていう感覚自体が間違いだった。

(みんなには、何かがある……)

 画面を指で滑らせるたび、誰かの人生が目に入ってくる。
 他人の人生がきらきらして見えるわけがないのに、SNSを流れていく写真はどれも輝かしく見えるのはなぜか。
 みんながみんな、これから先の未来に向かって何かをしている。何かを目指している。そのために、何かを得ようとしている。

(羨ましいわけじゃない)

 有名な大会に出たいわけでも、有名な大学の推薦が欲しいわけでも、かっこいい彼氏が欲しいわけでもない。
 そういうものが欲しいと思ったことなんて、たぶん一度もない。
 それなのに画面を眺めていると、あ、自分は何をしてるんだろうって思い知らされる。

(……私は、何がしたい?)

 人に尋ねられても、私はこれがしたいって胸を張って答えることはできない。
 将来の夢も、好きなものも、これだけは誰にも負けないと言えるものは、何もない。
 相変わらず自分の人生には、人に話せるような何かがない。
 考えたって仕方がないって分かってるから、普段はそのことをあまり考えないようにしている。

(だって、私は普通……)

 普通でいいと思ったのは、ほかの誰でもない。私だ。
 でも、願ったはずの『普通』が急に薄っぺらいものに思えてくる。
 ちくちくと私の心を抉るために、針が突き刺されているみたいな感覚。
 でも、私の心を抉ろうとしているのは誰かも分からず、針を突き刺しているのはもしかしたら自分なのではないかと思い始める。

(見なければいいのに……)

 スマートフォンから目を逸らすのは案外、簡単。
 そう思ったのに、ホーム画面の端にある小さなアイコンが最後に存在感を主張してくる。

(LIFE―ライフ―……)

 これだけは、見るつもりはなかった。
 今日は、もう開かなくていいと思っていたはずなのに。
 気づけば、自分の指は『LIFE―ライフ―』のアイコンに触れていた。

(あなたの人生、買います……)

 見慣れた文字が目に入ってくることで、ほっと息を吐き出した。
 何か新しい投稿をしたけでもなければ、サイトの利用者から質問が来ているわけでもない。
 それなのに、私は迷うことなく自分のページを開いていた。

『友達が賞を取ったとき、素直に喜べなかった』
17歳/女子
¥874,200

 マイページには自分が投稿した人生と、私が望んでいた数字が待っていた。
 昨日から変わらない数字を見るだけで、あんなにも息苦しかった世界に酸素が注がれるのを感じる。

「……私の人生は、高い」

 最初は自分の人生に値段すらつかないと思っていた。
 私は普通で、これからの人生もそれでいいと思っていた。

(八十七万四千二百円)

 でも、今は違う。
 誰かが私の人生を読みたいと思ってくれたからこそ、この価格がつけられた。

「……私にも、価値はある」

 この数字を見るだけで、自分の中に安堵が生まれていることに気づく。
 人生に値段なんてつけられない。
 そんなの馬鹿みたいだと思っていたのに、その馬鹿みたいな数字に今は救われている。

(ご飯、美味しい)

 冷めたたまご焼きを口に運ぶと、なぜかいつもより美味しく感じられた。
 いつもと変わらない味のはずなのに、なぜかほっとした。

(もう一個、なんか投稿してみようかな)

 別に自分の人生を売ったところで、誰かに人生を乗っ取られるわけじゃない。
 名前だって出なければ、顔も出ない。

(そもそも、お金が欲しいわけじゃない)

 昨日だって、八十七万四千二百円という現金が私の口座に振り込まれたという話ではない。
 個人情報を登録していない私にとっては、マイページの中に数字が並んでいるだけのこと。

(何か失ったわけじゃない)

 売っているのは、私の人生そのものじゃないってところは大きな魅力だった。
 私が書いた文章を、誰かが読む。
 ただ、それだけのこと。

(別にいいよね)

 さっきまで感じていた躊躇いが、こんなにもあっさりと崩れ去ってしまうことに驚かされる。でも、それと同時に躊躇っていた自分が馬鹿らしくも思えてくる。

(……面白い)

 自分の人生を面白いと思ったことなんて、今まで一度もなかったかもしれない。
 どこにでもあるような毎日を送って、誰にでもありそうな思い出を持っていると思っていたけど、誰かが八十万円もの価値をつけてくれた。

(また誰かが、面白いって思ってくれるかも)

 自分でも気づいていない何かが見つかるかもしれない。
 昨日まで、ただ過ぎていくだけだった私の人生の中に、私が知らない何かが隠れている気がした。

(……投稿画面は)

 迷いなく指を動かしていくと、さっそく画面に【あなたが売りたい人生を書いてください】という文字が表示された。
 昨日と同じ言葉のはずなのに、今日はなぜか文字がきらめきを帯びて見える。
 その文字を見つめているだけで、なんだか期待のような感情が膨れ上がっていく。
 けれど、いざ自分の人生と言われると急に難しい宿題に直面した気分になった。

(そんなたいした出来事なんてないんだよね)

 小学校、中学校、高校。
 それなりに長い時間を過ごしてきたのだから、思い出に残っている出来事がないわけじゃない。
 楽しかったことも、嫌だったことも、お腹を抱えて笑ったこともあれば、声を押し殺して泣いた日の思い出だってある。

(どれも、誰かに話すようなことでもないなぁ……)

 記憶に残っているからといって、それが自分にとって特別な思い出になっているとは限らない。
 たまたま覚えているだけの出来事。
 今になって振り返ってみれば、あぁ、そんなこともあったっけと思い出す程度のもの。

(……そんなの投稿したところで、誰も読みたくないか)

 本人にとってさえ、大きな意味を持たない思い出。
 それが顔も名前も知らない誰かにとって、大きな関心を呼ぶとはどうしても思えない。
 大きな思い出でもないのに、それが赤の他人にとって大きな関心になるわけがない。

「……どこにでもありそうな話だけど」

 小学生のとき、友達と喧嘩した記憶が引っかかった。
 何が原因だったのかすら曖昧な記憶だけど、あの日の私は本気で怒っていた。

(絶対に謝りたくなかったんだよね)

 そうしたら、向こうも意地になったのか謝ってこなかった。
 思っていたよりも喧嘩は長引いて、顔を合わせても口を利かない日が続いたって話。
 それなのに、いつどうやって仲直りしたのかは、さっぱり覚えていない。

(ちっちゃい頃の記憶なんて、そんなもの)

 私たちはいつの間にか、また普通に話す仲へと戻っていた。
 あのときはあんなに腹を立てていたのに、今思えばいかにも小学生らしい喧嘩だったなと思う。

(喧嘩した理由も、仲直りした記憶もないけど……)

 これから投稿しようとしているっていうのに、笑いが漏れてしまった。
 こんなの、誰が読みたいと思うのか。
 もっと特別な出来事が私の人生にはあるはずと思っても、ほかには何も浮かばないのだから仕方がない。

(喧嘩した理由と、仲直りの理由は書けないから……

 言われて嫌だったこと、言い返したこと、私たちの喧嘩に巻き込まれて気まずそうにしていた友人たちのこと。
 日記を書くような気持ちで、思い出せることを画面に打ち込んでいった。

(うん、思ったより長く書けたかも)

 文章が長くなったところで、それが読みごたえのあるエピソードに仕上がるわけじゃない。
 読み返してみても、やっぱりたいした話じゃないと自分でも思う。
 どこにでもあるような小学生の喧嘩でしかなくて、きっと誰にだって似たような思い出のひとつやふたつはあるはず。

(でも、せっかく書いたから)

 思い切って、新しく人生を売りに出す。
 査定中の画面に切り替わって、スマホを机の上に置こうとした。
 前回もすぐに結果が出たわけじゃないから、どうせ今回も査定には時間がかかるはず。
 お昼ご飯でも食べようとフォークに手を伸ばしかけたけど、私はまだスマホを机に置けずにいた。
 十秒経っても、十五秒経っても、画面は査定中のままから変化がない。

(もうすぐ、私の人生に値段がつく)

 無意識に唇を噛んでいたことに気づいて、唇から力を抜いたときのことだった。

「っ」

 急に画面が切り替わり、査定が完了しましたと表示される。

『小学生の喧嘩』
17歳/女子
¥1,030,000

「…………え?」

 画面に表示された数字をもう一度見て、桁をひとつずつ目で追っていく。
 一、十、百、千、万、十万、百万。

「……百、万?」

 私が売った人生は、たかが小学生の喧嘩でしかないはず。
 喧嘩した理由すら書き込んでいない思い出なのに、百万円を超える値段がついている。
 昨日の八十七万四千二百円よりも、ずっと高い。
 きちんと数字は数え終えたのに、実感というものが追いついてこない。

(……なんで?)

 画面に問いかけたところで、サイトの運営が答えをくれるわけじゃない。

(子どもの喧嘩に、百万円……?)

 私の人生の一部に、百万円を超える数字がつけられた。
 頭の中で何度も記憶を往復させていくと、じわりと胸に熱いものが込み上げてくる。
 驚いているはずなのに、口元がだらしくなく緩んだことに気づく。

(……嬉しい)

 その気持ちを抱いた理由だけは、不思議なくらいはっきりと分かる。
 昨日よりも、高い価格がつけられたから。
 たったそれだけのことと言われてしまうかもしれないけど、私にとっては大きすぎる出来事に直面している。
 自分ではたいしたことがないと思っていた人生を、誰かが価値のあるものとして見てくれた。その事実が、どうしようもなく嬉しかった。

「……もっと」

 昨日の八十七万四千二百円も、今日の百三万円も、偶然じゃないのかもしれない。

(私が気づいていないだけ……)

 もしかしたら、私の人生には自分がまだ気づいていない価値がある。
 昨日までなら、そんなこと考えもしなかった。
 自分には何もないと思っていたけど、もしそれが違うのだとしたら。

(何がいいかな……?)

 スマートフォンを見つめながら、小学生時代、中学生時代、高校に入学してからの記憶を掘り返していく。
 楽しかった思い出、嫌だった思い出、誰かと笑い合った思い出もあれば、誰にも話せなかったこともある。

(……誰にも話してないことがいいのかな?)

 自分にとってはたいしたことのない出来事でも、それにも値段がつくかもしれない。
 昨日の人生よりも、さっきの人生よりも高くなるかもしれない。

(今なら、どのくらいの順位なんだろう……)

 何気なくランキングのページを開いたつもりだった。
 自分の人生に価値がないと思っていた昨日は、自分の人生がランキングに載っているのを見つけただけで本当に嬉しかった。
 けど、今日は違う。
 昨日の人生よりも、今日は高い値段がついた。

(百三万円……十七歳女子……)

 もしかしたら、自分が思っていたよりもずっと上にランクインしているかもしれない。
 そんな期待が膨らんで、画面をスクロールする指が軽やかになっていく。

「え……」

 画面に表示された順位を見た瞬間、期待なんてものはあっけなく崩れ落ちるものだと気づかされる。


査定価格1位 ¥2,800,0000 17歳/女子
査定価格2位 ¥1,940,000 17歳/女子
査定価格3位 ¥1,560,000 17歳/女子
査定価格4位 ¥1,420,000 17歳/女子
査定価格5位 ¥1,310,000 17歳/男子
査定価格6位 ¥1,180,000 16歳/男子
査定価格7位 ¥1,030,000 17歳/女子


「……七位?」

 昨日よりも、ずっと高い値段がついている。
 値段は昨日よりも上がっているはずなのに、順位は三つも下がっている。
 もっと上のランキングにいけると思っていたのに、ランキング画面をスクロールする手が止まる。

「……一位じゃない」

 その事実に気づいた瞬間、さっきまでの浮ついた気持ちが色を失った。
 昨日は三位だったのに、今日は七位。
 心の奥底にあった熱い感情が冷めて、冷え切った感情が積もりに積もっていく。
 夢の中で水底に押し込められたときのように、現実でも水底に押し沈められたときの息苦しさが戻ってくるのを感じる。

「……なんで」

 もちろん、七位だって十分すごい。
 ランキングに入っているだけでも喜ぶべきことなのに、今度は三位という数字が頭から離れなくなった。

(一位の子、私より百七十万円以上も高い……)

 昨日は三位だったのなら、その上には二人しかいないはず。
 でも、今日は六人も越えなければいけない壁が存在する。
 値段は上がったのに、どうして私のランキングは下がってしまったのか。
 昨日より頑張ったのに。

(……どんな人生、送ってるんだろ)

 初めて、そんな疑問が浮かんだ。
 昨日までは自分の人生がいくらなのか、それだけを気にしていたはずなのに。
 いつの間にか、私は自分より上にいる人たちの人生を覗きたくなっていた。
 投稿欄を覗き込んでいくと、そこにはいろいろな人生が並んでいる。

『海外で暮らした経験』
16歳/男子
¥1,180,000

(海外で暮らした経験なんて……)
 ごく普通の女子高生である私に、海外で暮らした経験なんてあるはずもない。

『全国大会出場』
17歳/男子
¥1,310,000

(全国大会も、今からなんて無理……)

 具体的にどんな人生を歩んできたのかは、お金を払わなければいけない。
 でも、お金を払わなくなった、タイトルを見るだけでも分かることがある。

(私より上位にいる人たちは、私にはない経験を持ってる)

 私はそのまま、ランキングをさらに上へとスクロールしていった。

『ピアノコンクールで入賞』
17歳/女子
¥1,420,000 

 ひとつ、またひとつと、ランキング上位の人たちと自分の人生を比べていく。
 見比べているうちに、すごい経験がある人ほど高いのではないかという考えに行き着く。

(結局、特別なものがある人ほど価値がある……)

 生まれたときからっていうのは大袈裟かもしれないけど、人とは違う人生を歩めば歩むほど勝者に近づくっていうのはどこの世界も
同じなのかもしれない。

(百三万円なんて……)

 さっきまで自分の人生につけられていた数字が、急に小さく見えた。
 もうランキングを見るのはやめようと思ったのに、指を止めることができなかった。
 スクロールした画面に、ひとつの投稿が目に入ったからだ。

『お年玉を貯めて、おばあちゃんを温泉に連れていった』
17歳/女子
¥1,560,000

(これなら私にも……)

 ここでようやく、私にも真似できそうな人生を見つけたと思った。
 でも、途端に頭が冷える。

(余命何ヶ月のおばあちゃんとか……そういうオチなのかな)

 まだ中身すら読んでいないのに、私は勝手にその子の人生の続きを想像し始める。
 そんな都合のいいドラマみたいなおばあちゃんが私の人生に登場したら、それはそれで問題だ。

(……何、考えてるんだろ)

 自分にもできそうだと思ったからこそ、この子の方が私より高く評価されているのが悔しかったのかもしれない。
 そんな自分が嫌になるくらいなら、もうランキングを確認するのはやめた方がいい。
 頭ではそう思っていても、ランキング一位の人生だけを確認しないのも後味が悪いと思った。

(あと一人だけ)

 あと一人見たら、今度こそサイトを閉じよう。
 そう自分に言い聞かせながら、一位のところまで画面をスクロールする。

(……上の人たちがどんな人生を歩んでても、私には関係ない)

 まだ自分の中に、人としての常識が残っているような気はしている。
 それなのに、ひとつ上をみて、またひとつ上を見て、私は何を確かめようとしているのか。

『毎朝、母にお弁当を作っている』
17歳/女子
¥28,000,000

 指が止まり、目に入ってきた数字の桁を確認する。

(二千八百万円……?)

 私より高いどころか、桁を間違っているんじゃないかと思うほどの金額だった。

(……これが?)

 海外で暮らした経験でもなければ、全国大会に出場した話でもない。
 ただ、毎朝お母さんのためにお弁当を作っているだけの人生に二千八百万円の値段がつけられていた。

「……なんで」

 中身を読んでいない私からすれば、そこに特別な何かがあるようには思えない。
 むしろ、どこにでもありそうな普通の女の子の生活だと思う。
 それでも、私の『普通の人生』よりも、彼女の『普通の人生』の方がずっと高い。
 その事実が、どうしても心に引っかかりを残す。

(……もっと知りたい)

 そう思ったところで、画面の下に表示された購入ボタンの数字に手も足も出ない。

『毎朝、母にお弁当を作っている』
17歳/女子
¥28,000,000

「……無理」

 ぽつりと漏れた声は、昼休みの騒音に紛れて消えた。
 ふと顔を上げると、教室にはいつもと変わらない昼休みの光景が広がっていた。
 机を寄せ合ってお昼ご飯を食べたり、ひとつのスマホを覗き込みながら楽しそうに笑う様子も、何ひとつ変わらない。
 私も同じ毎日の繰り返しに溶け込んでしまうような気がして、私は再びスマホの画面に釘づけになった。

(良かった、独りで)

 いつもは藍が教室からいなくなった後は、孤独じゃないフリをするのに必死だった。
 でも、誰かが何を見ているのかと覗き込んでくることもなければ、声をかけてくることもない環境が今日だけは凄くありがたかった。視線を落とし、さっきまで見ていた数字を確認する。

(二千八百万も、どうやって払えば……)

 画面に表示された数字を何度も数え直すけど、どれだけ数えても結果は二千八百万円から変化がない。

(そもそも、二千八百万も払う人がいるの……?)

 藍の人生を買ったときはお小遣いでなんとかなったけど、今度だけは私には手の届かない金額。

「……高すぎ」

 買えないことを嘆いていたって仕方がない。
 そう自分に言い聞かせて、今度こそスマホを伏せた。

「えーっと、次の問題は……朝倉さん」
「っ、はいっ」

 午後の授業が始まって、先生に名前を呼ばれた朝倉さんが慌てて教科書と向き合う。

(二千八百万……)

 先生の話を聞きながらノートを取っているはずなのに、またあの数字が頭に浮かんでくる。
 よりにもよって数学の時間は、教室のどこを見ても数字だらけ。
 それを見るたびに、頭の中であの金額がちらつくのだから落ち着きもなくなってくる。

(読めば、高額な人生のヒントがもらえるかもしれないのに)

 私がいま持っているお金をすべて合わせて、家族全員からお金を掻き集めたところで、そんな金額には到底届かないと思う。
 二千八百万円なんて大金、私にはどうしたって手が届かない。

(でも、買う人がいるってことだよね)

 画面には、確かに値段がついている。
 この世界にいる誰かは、この金額を払って他人の人生を読んでいるということになる。
 こんな大金を払ってまで他人の人生を知りたい人って、一体どんな人なのか。

(もう考えないようにしないと……)

 どうして、彼女の人生はあんなに高額なのか。
 あの人生には、二千八百万円支払うだけの価値があるのか。
 考えれば考えるほど、気になってくるのは事実だった。

(……私には、縁のない人生なんだから)

 放課後になる頃には、サイトのことを忘れられると思った。
 夕飯のことを考えたり、明日の授業のことを考えたり、いつもの日常を取り戻せば、サイトのことなんて気にならなくなると思ってた。

「……明日のお弁当」

 茜色から夜の空の色へと変わっていく空を見上げながら、ふと明日のことを考えた。
 自分の口から零れた言葉に、自分でも笑ってしまった。
 明日のお弁当は何かなと考えたときに、サイトで見たタイトルが頭を過る。
 たった一人の、知らない誰かの人生のはずなのに、どうしてこんなに気になるのか。

(……私みたいな人がいるから、サイトが存在できるのかも)

 だからこそ、こんな変なサイトが成り立っているのかもしれない。
 家に着いて、制服から部屋着へ着替える。
 鞄を机の横に置いて、明日の準備をしようと教科書を取り出したところで手が止まった。

「……また、なんか投稿しようかな」

 教科書を取り出すはずだった手には、スマートフォンが握られていた。

「やっぱ変動ない、か」


査定価格1位 ¥28,000,000 17歳/女子
査定価格2位 ¥1,940,000 17歳/女子
査定価格3位 ¥1,560,000 17歳/女子
査定価格4位 ¥1,420,000 17歳/女子
査定価格5位 ¥1,310,000 17歳/男子
査定価格6位 ¥1,180,000 16歳/男子
査定価格7位 ¥1,030,000 17歳/女子


 上位に並んでいる人生はどれも値段が桁違いということもあって、たったの数時間程度では順位に変動がないことを確認する。
 たったの数時間程度では順位に、ほとんど食い込む人は高額なこともあって、たったの数時間程度で順位に変動がないことを確認する。

(私も、まだ七位……)

 何か新しい人生を投稿すれば、順位を上げられるかもしれない。
 でも、その上位に入り込むほどの人生が私にはない。
 上位の人たちの人生は、誰もが羨むような華やかな人生ばかり。
 私がどんな人生を投稿したとしても、私の人生はきっと色褪せて見えてしまう。

(……誰かに買ってもらわなきゃ、順位は上がらない)

 新しい人生を投稿することすら諦めて、画面を閉じようとしたときのことだった。
 購入ボタンの下に、小さな広告があることに気づく。

(……こんなの、あったっけ?)

 藍の人生を買ったときには見覚えのない広告が、購入ボタンの下に表示されていた。

「広告を視聴すると、人生を一件だけ無料で閲覧できます……」

 無料という言葉に、とても惹かれた。
 広告を見るだけで、二千八百万円を払わずに彼女の人生を閲覧できるらしい。
 そんな上手い話があるわけないと思っても、画面から目が離せない。
 でも、怪しいと思う気持ちより、知りたいという気持ちの方が強い。

(無料で、一件だけ読めるなら……)

 もちろん、ここで使ってしまったいいのかっていう迷いはある。
 この先に、もっと衝撃的な人生があるかもしれない。
 もっと気になる物語が眠っているかもしれない。
 それでも、ずっと心に引っかかっていた疑問に答えが出るかもしれない。
そう思った瞬間には、既に『視聴する』のボタンを押していた。


『毎朝、母にお弁当を作っている』

 私の家では、いつもはお母さんが私と弟のお弁当を作ってくれた。
 毎朝作ってくれるのが当たり前になっていて、ちゃんと『ありがとう』って言ったことすらなかったと思う。そんなある日、お母さんが病気になった。

 お母さんが病気になってから、家のことをする人がいなくなった。
 お父さんは仕事で帰りが遅いし、弟はまだ小学生だから、私がやるしかないと思った。
 
 でも、最初は本当に何もできなかった。
 洗濯をしても、これで合っているのかすら分からない。
 掃除もどこまでやればいいのか分からなくて、永遠に終わらないんじゃないかって思った日もあった。
 洗濯と掃除は弟も手伝ってくれたりしたけど、二人でやってみても上手くいかない。

 弟が手伝うことのできない料理は、私の担当になる。
 たまにお父さんがお惣菜を買ってきてくれたりもしたけど、基本的には料理が私の役割となった。
 お母さんと話すことはできたので、分からないことがあるたびに聞いてみた。
 今までお母さんが普通にやっていたことを一つずつ教えてもらったけど、料理だけはコツを聞いたところで上手くいかないことの方が多かった。

 初めて味噌汁を作ったときは、味がないよとお父さんと弟に笑われた。
 次の日にもう一回作ってみたけど、今度は味がないどころか、ものすっごくしょっぱかった。
 お父さんも弟も、今度は笑わなかった。
 絶対に、笑えないくらいしょっぱかったんだと思う……。

 正直、もう作りたくなかった。
 いつもだったら、ここで諦めていたと思う。
 お父さんも無理しなくていいよって言ってくれて、その方が楽で、その方がいいと思った。
 でも、なんとなく、それでいいのかなぁと思った。

 今までお母さんが毎日作ってくれていたご飯を、私は何も考えずに食べていた。
 朝起きたら、朝ご飯とお弁当ができていた。
 お弁当を持って学校に行くのが普通だと思ってたけど、それは普通のことなんかじゃなかった。
 毎朝早く起きて、私と弟のためにお弁当を作ってくれていたんだと知った。
 そう考えたら、逃げてる場合じゃないなって思った。

 それから私は、早く起きるようになった。
 前の日にお米を研いで、たまごを焼いて、弟が食べられるものを考えてお弁当を作る。
 最初はお弁当に何を入れればいいのかも分からなかったけど、最近はだんだん慣れてきた。

 だんだんと味噌汁も上手く作れるようになってきたけど、今日もお母さんの味とは程遠いものが完成した。
 でも、前ほど料理を嫌だとは思わなくなった。大変さは変わらないけど、効率よく作業できるようになってきたからかもしれない。

 弟やお父さんが『美味しい』って食べてくれると、ちゃんと作れて良かったと思う。
 それだけで、また明日も頑張ってみようかなって思えるようになった。

 前までは、お母さんが毎日ご飯を作ってくれることを当たり前だと思ってた。
 朝早く起きて、お弁当を作って、夜にもご飯を作る。
 それを毎日続けることが、こんなに大変なことだったなんてやってみるまで分からなかった。

 私は特別なことをしているつもりなんてない。
 ただ、家族のためにご飯を作っていただけ。
 きっと、お母さんもそうだったんだと思う。

 退院したお母さんにも、家族と同じようにご飯を食べてもらいたい。
 今までお母さんが私と弟のために作ってくれていたお弁当を、今度は私がお母さんのために作れるようになりたい。
 まだまだそんなに美味しいご飯もお弁当も作れないけど、いつか『美味しい』って笑ってもらえるように、明日もお弁当を作ろうと思う。


 文章は、そこで終わっていた。
 お母さんのために毎朝お弁当を作って、料理が上手くできなくても頑張って、最後には『美味しい』って家族に笑ってほしいという内容。

(……なんだろう。いい子すぎない?)

 上手く表現することはできないけど、なんとなく道徳の教科書に載っているような内容だなって思った。

(でも……)

 自分でそう思って、すぐに嫌悪感が湧き上がる。
 病気のお母さんのために頑張っている子に、私は何を言っているのか。

(……実際、すごいとは思ったけど)

 私だったら、あんな風に毎朝お弁当を作れるか分からない。
 買ったものでいいと言われたら、その言葉に賛同してしまうと思う。
 でも、この経験に二千八百万円という評価がつけられたことへの引っかかりは消えない。
 だって、書いてあることは、毎日のご飯とお弁当のことだけなんだから。

(道徳の教科書から、引用したみたいな……)

 この子にとっては、大変な出来事だったんだと思う。
 お母さんが病気になったことだって、きっと精神的にも凄く辛かったはず。
 でも、「お母さん、ありがとう」「家族のために頑張ろう」っていう、綺麗な話にまとまっているところが、なんか好きになれない。

(……二千八百万円)

 でも、変なのは私の方なのかもしれない。
 この日記を読んで感動しておきながら、同時にいい子ぶってるとも思ってしまったのだから。

(私には、書けない人生……)

 私の人生は、百三万円。
 この子の人生は、二千八百万円。
 その差って、一体なんなのか。

(……当たり前だと思ってた毎日も、誰かにとっては物語になるのかな)

 自分には、何もない。
 それは過去を掘っても、これから先のことを考えてみても、きっと何も待っていない。
 本当に何もないのは事実だけど、その何もなさを買ってくれる人がいるのかもしれない。
 さっきまでかすんでいた百三万円の数字が、ほんの少しだけくっきりと見えるようになった。

「……だったら」

 特別なことなんて何もないなんて、それはただの思い込みかもしれない。
 私はスマホを握り直して、画面をタップしながら自分の記憶をひとつずつ掘り起こしていく。

『初めての赤点』
17歳/女子
¥982,200

「……九十八万二千二百円」

 それほど悪い価格ではない。
 むしろ、自分の人生についた値段として考えれば十分すぎるくらい。
 でも、ランキングの上位を目指すなら、まだまだ足りない。

「……じゃあ、これは?」

 私の人生に、輝かしい歴史なんてものはひとつも存在しない。
 でも、普通のエピソードなら、いくらでもある。
 どれもわざわざ誰かに話すほどのことじゃないのは分かっているからこそ、私の人生の価値はすべて同じだと思っていた。

『三日坊主の夏休み』
17歳/女子
¥980,000

「……下がった」

 たった二万円とはいえ、価格が下がったことに落ち込んだ。
 ついさっきまでは九十八万って数字だけで喜んでいたはずなのに、私はもうその投稿に何を書いたのかさえ上手く思い出せなくなっていた。AIに考えてもらったタイトルだけが、画面の上に残っている。

「中学最後の文化祭……」

 投稿するたびに、数字がつく。
 数字が、私にもちゃんとした人生があったのだと証明してくれる。
 でも、狡いって感情が止まらない。消えてくれない。
 その狡いって言葉すら、誰に向けた言葉なのか自分でもよく分からなかった。

「……父親と喧嘩した日」

 入力欄に、文字を打ち込む。
 子ども染みた感情が湧き上がっていることにも、ちゃんと気づいている。
 ランキング一位のあの子には、私にはないものがある。
 病気のお母さんがいるってだけで、十分すぎるほどの物語になる。

「……羨ましい」

 お母さんだって、病気になりたくてなったわけじゃない。
 その子だって、きっと苦しかったはずだって察することもできるのに、湧き上がってくるのは羨ましいって感情。
 こんな風に人生を変えてしまうような出来事がないから、私の人生はこんなにも安いのかもしれない。

「……五十三万三千二百円?」

 涙を誘うような経験がある人の方が、人生を高く評価されるのは当たり前。
 分かってる。
 分かってる。
 分かってるのに、指が止まらない。

(私にも、ちゃんとした人生がある)

 投稿した人生の中のどれかに価値がつけば、私はランキングで一位を取ることができる。
 普通の私にだって、こうして数字がつくだけで見る目が変わる。

「っ」

 けれど、一位は遠すぎた。
 最後に出たのは、届かないって言葉だった。
 何を投稿しても、一位を取れるほどの価値をつけてもらえない。
 私の人生には、そこまでのものがないということ。

(どうしたら、一位になれるの……?)

 別に、一位になりたいわけじゃなかった。
 最初は、本当にそう思ってた。
 そもそも、人生に順位をつけること自体が可笑しい。
 人の人生を数字で比べるなんてくだらないって分かっているのに、私はまたランキングの一番上を見てしまう。

「……なんで」

 なんで、私が一位じゃないの?
 その言葉だけは、どうしても最後まで言い切ることができなかった。

「……もっと高くなりたい」

 次は何を投稿したら、もっと高い価値がつくのか。
 どんな投稿をすれば、ランキングのどこまで上がることができるのか。
 そんなことばかり考えるようになって、私はまた高い値段をつけてもらえる人生を探し始める。

「ほかの人は、どんな……」

 ほかの人たちは、どんな投稿をしているのか。
 どんな人生に、どれくらいの値段がつけられているのかを調べようと思った。
 そのまま画面を下へスクロールすると、見慣れたタイトルが目に入った。

『友達が描いた絵を、ずっと応援していた』
17歳/女子
¥3,200

「……藍」

 思わず呟いた名前は、私の友人の名。
 絵が上手で、絵を描くときだけは凄く楽しそうな藍の投稿。
 その人生につけられた金額が、目に入ってしまった。

(……私の方が、高い)

 ただ、そう思っただけ。
 ただそれだけのことなのに、すっと息が吸い込みやすくなる。
 さっきまではランキングの上位を目指さなきゃって焦っていたはずなのに、その焦りがいつの間にか消えている。

(……良かった)

 そう思った瞬間、ぞくりと背筋が冷えた。
 私は、何を考えているのか。
 藍に負けていたわけでも、藍と競争していたわけでもない。
 藍の人生がいくらだとしても、私には関係ない。
 でも、良かったと思ってしまった。嫌だという気持ちよりも先に、嬉しいと思ってしまった。

(藍は、大切な友達なのに……)

 藍とは、小学生のときからずっと付き合いがある。
 くだらない話にだって付き合ってくれて、いつだって私の隣にいてくれた。
 藍の描く絵だって、大好きだと思っている。
 それは全部、本当の気持ち。
 嘘なんて何ひとつ混ざっていないのに、私と藍の人生の間にある数字の差が私を安心させる。

「っ」

 見なかったことにしよう。
 いま自分が何を思ったのかなんて、なかったことにしよう。
 今度こそサイトを閉じようと指を伸ばすと、マイページに何かしらの通知が来ていることに気づく。

(何、これ)

 通知欄を見ると、そこには新しい質問が届いていますと表示された。

「……質問?」

 このサイトでは、投稿者に質問を送ることができる。

「……って」

 初めて私に届いた質問欄を確認していくけど、質問の中身があまりにもありふれた内容だった。
 好きな人はいますかとか、将来の夢はありますかとか、私の人生に興味があるようには思えなかった。
 年齢と性別だけを見て、無差別に送りつけている質問のように思えた。

「私が求めてるのは、こんなんじゃな……」

 私が尋ねられたいのは、こんなことじゃない。
 もっと、私の人生を呼んだ人だからこそ分かるようなことを聞いてほしかった。
 そう思いながら下へ下へとスクロールしていくと、いくつも並んだ質問の中にひとつだけ異質なものがあった。


【誰かと比べて、良かったと思ったことはありますか?】


 その質問を見て、ついさっきまで見ていた藍の人生が頭に浮かんだ。
 心の中なんて誰にも覗き込むことはできないのに、その瞬間を見られていたみたいな質問に心臓がドキリと音を立てる。

(どうしよう……)

 この質問に、そのまま『はい』と返事するのは凄く嫌だった。
 自分の中に居残っている感情は、絶対に認めたくない。
 でも、『いいえ』って嘘を吐くことも違う気がした。
 だって、私は確かに『良かった』と思ってしまったのだから。
 そう思ったのに、さっきから藍の顔がちらつく。

(無視する……?)

 答えなければ、抱えている嫌な気持ちもそのうち消える。
 質問箱を閉じるようとするけど、さっきから藍の顔が頭から離れない。

「……なんで」

 さっきとは違う、『なんで』の言葉が溢れてきた。
 さっきの『なんで』は、私より遥か上にいる誰かに向けたもの。
 でも、今の『なんで』は違う。

「なんで、こんなに苦しいの……」

『はい』と返事しても、『いいえ』と答えても、この質問を無視しても、どれを選んでも藍を傷つけるような気がしてしまう。

「比べるって、悪いこと……?」

 答えが分からないまま、私は画面を見つめることしかできなくなっていた。
 そんな私をサイトに呼び止めるように、もうひとつ通知が届いた。


【あなたが比べた相手が、あなたより高い値段になったら?】


 息が止まりそうになった。
 藍の人生につけられた三千二百円と、私の人生に初めてつけられた八十七万四千二百円。
 二つの数字が、頭の中を埋め尽くしていく。

(もし、この数字が逆になったら……?)

 私は、どう思うのか。
 答えを考えようとしたけど、怖くなってその先を考えることができなくなった。
 これ以上、このサイトに居続けることに耐えられそうにもない。
 私は逃げるようにスマートフォンの電源を切って、サイトを閉じた。