十七歳の女子高生が人生を売ったら、彼女よりも高額査定だった

 私には、何もない。
 生まれたばかりのときには、きっと誰しも無限の可能性があったはず。
 どんな夢だって描くことができて、目の前には輝かしい未来が果てしなく広がっていた。
 それなのに、いつからだったかな。
 私は少しずつ、自分の限界を決めるようになった。
 これは無理、私にはできない、どうせ理想通りの結果にはならない。
 そうやって可能性をひとつずつ手放して、そのたびに仕方がないよねって笑ってきた。

「私には、何もない……」

 気がつけば、手の中には何も残っていない。
 私には、何もない。
 私には、何もない。
 その言葉が頭の中を繰り返し襲いかかってきて、私は何度も暗い水底へと引きずり落とされる。
 私には、何もない。
 私には、何もない。
 必死に水底から手を伸ばしたところで、その言葉の打ち消し方は分からない。
 あ、もう息ができなくなると諦めたところで、目覚まし時計の電子音が朝の冷たい空気を震わるように鳴り始めた。

「……夢」

 布団の中で、重たい瞼を上へと運ぶ。
 薄暗い部屋の天井が視界に浮かぶことで、ここが自分の部屋なのだとぼんやりと実感する。
 自分の体に夢の残骸がまとわりついてしまって、私はしばらくそのまま天井を見つめた。
 自分の身体にまとわりつくものは何もないことを確かめるために、指先をわずかに動かす。
 指先が辿り着いたのは、布団の中に残っている温もり。その温かな空気は、まるで私を現実から隠してくれるように身を包む。

(出たくないなぁ)

 このまま二度寝という選択をして、温かな布団に身を委ねたい。
 でも、十七歳の私には学校が待っている。
 朝が来れば、学校に行く時間がやってくる。
 そんな当たり前に抗ってみようと思って、私はもう一度だけ目を閉じた。

(……あと五分だけ)

 そう心の中で言い訳をして、布団に顔を埋める。
 でも、ピピピと容赦のないアラーム音は私のささやかな反抗をあっさりと打ち砕くために顔を出す。
 眠りの世界は、思っていたよりずっと遠いらしい。

「心花(ここは)花ー? 起きてるー?」

 小さく溜め息を吐き出して、布団の中から顔を出す。
 カーテンの隙間から差し込む朝の光に見入っていたいと思っても、家のどこかで触れ合う食器の音は私を現実へと引き戻す。

「起きてるー」

 違う今日を迎えたかったという願いを見て見ぬふりをして、私はまたいつもの今日を選んでしまう。

「今日、帰りは早い?」
「うん、たぶん普通」
「じゃあ、夕飯はいつもの通りでいいね」

 眠たげな顔も、寝ぐせで跳ねた髪も、いつもと同じ。
 焼き立てのトーストをかじりながら、テレビの天気予報を見るのも、いつもと同じ。
 やっぱり特別なことは何もない。

(でも、こういうのが、私らしいのかも)

 父が新聞をめくりながら、ふと思い出したように顔を上げた。

「そういえば、進路はどうなんだ?」
「進路?」
「ほら、そろそろ三年生だろ」
「ああ……まだ、ちゃんとは決めてない……」

 テレビから流れてくる天気予報をぼんやり聞きながら、私はバターの溶けたトーストをもう一口かじる。

「心花、マンガ読むの好きでしょ? 出版社とか、そういうのもいいんじゃない?」
「んー……そうなのかな」
「じゃあ、いろいろ調べて見たら?」
「うん、そうする」

 口の中に残っていたトーストを飲み込むと、両親の話題は私の進路から逸れていった。
 両親が怒ることもなければ、早く進路を決めなさいと急かしてくることもない。

「いってらっしゃい」
「いってきます」

 ただ、いつもの朝が、いつものように過ぎていく。
 帰る家がある。
 帰れば、ご飯がある。
 心配してくれる両親がいる。
 特別、家庭環境に困っているわけじゃない。

(何も問題はない……)

 心に何かが引っかかっているような気もしたけど、何が自分の人生に足りていないのか自分でもよく分からなかった。

(たぶん私は幸せ……)

 いつもの電車に乗って、いつものように学校に向かう。
 教室に入ると友達が手を振ってくれて、くだらない話で笑い合った。
 今日もまた、いつもの朝の風景ができあがっていく。

「進路希望……」

 机の上に置いた紙を飽きるほど見つめているけど、私の字で進路希望の紙は埋まらない。
 鞄から取り出したままボールペンすら持てずにいると、教室に友達が入ってくるのが見えた。

「おはよ、心花」
「おはよう、藍(あい)」

 友人の藍は肩から鞄を下ろすと、当たり前のように私の隣へとやってきた。
 そのとき、彼女の視線が机の上に置いたままの紙へと止まる。

「進路希望の?」
「うん。今日までだなぁって」
「私は凪城大学って書いて出しちゃった。家から通えるってなると、そこが一番かなって」

 家から通えるっていう藍の言葉に、意外な感じがした。
 藍なら、もっと自分の好きなものを基準に選ぶと思っていた。
大学で何を学びたいかとか、そこで何ができるかとか、そういうことを考えて決めるのが魚住藍という人間だと思っていた。

「藍は、県外出るのかと思ってた」
「なんで?」
「だって、藍って、好きなことには結構こだわるから」

 藍は考えるように首を傾げたけど、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。

「大学くらいは、家から近い方が楽でしょ?」
「……そういうもの?」
「そういうもの」

 藍はそう言って、なんでもないことのように笑った。
 それから、再び私の机の上に視線を落とす。

「心花は、まだ?」
「そろそろ書かなきゃなんだけど……」

 窓から差し込む朝の光が机の上を照らすものだから、真っ白な紙がやけに眩しく見える。

「心花も凪城大学とかじゃないの?」
「一応、候補にはしてる」
「受験は来年なんだから、そこ書いておけば?」
「そうなんだけど……」

 そんな提案に、心惹かれる自分がいるのも本当。
 けれど、その提案に息が詰まりそうになる自分がいるのも、また本当のこと。

「高校卒業したら、一気に世界が広がるから困るよね」

 藍が笑ってくれたことに、なんだか安心した。
 みんなだって迷いながら進んでいるってことが分かっただけで、自分もまだ大丈夫だと言い聞かせることができたから。

(大きな問題じゃない)

 窓の外の青い空を見つめると、そこにはいつもと変わらない青が広がっている。

(進路を間違ったって、またやり直せばいいんだから)

 何も起きていない。
 だから、きっと今日もいつも通りに一日を終えることができる。

「え、何それ。バイト?」

 後ろの席から、興味津々といった声が飛んできた。

「違う。もっと簡単なやつ」
「簡単に稼げるって、絶対に怪しいんだけど」
「そんなことないって。自分のことを書くだけだから」

 私と話していた藍が、ふいにそちらの会話へと顔を向けた。
 目の前にいる私のことを置いて、別の何かに興味を示すなんて珍しいと思った。

「自分のこと?」
「うん。昔あったことでもいいし、今のことでもいいの」

 私も藍に釣られるように、クラスメイトたちの会話へと意識を向ける。
 話している二人は、私たちの存在にまったく気づいていない。
 いつものように机を寄せながら、周りを気にする様子もなく話を続けている。

「日記みたいな感じ?」
「そうそう。そんなの書くだけで、お金になるの」

 あまりにも簡単にお金を稼げる話に聞こえて、私も思わず二人の会話に注目した。

「なんかのプロモーションとか?」
「そうだと思うよ。普通に書くだけで、三千円くらいだったから」
「三千円?」
「うん。それがあとから、笑っちゃうくらい増えてね」

 三千円。
 日記を書くくらいのことで、それだけの金額が貰えることに私は驚きを隠せなかった。

「結構、もらえるね」
「でしょ?」

 彼女は友人の反応が嬉しかったのか、ぐっと身を乗り出して話を続けていく。

「……心花、知ってる?」

 藍の声が、ざわつく朝の教室の中ではっきりと耳に届いた。
 教室にはクラスメイトたちの話声や、椅子を引く音など、いくつもの音が入り混じっている。それなのに、藍の声だけはすっと耳に残った。

「知らない」

 そう答えると、藍はゆっくりと私を見た。

「すっごく怪しい話だよね」
「分かる」

 藍の言葉に軽く頷き、再び進路希望の紙と向き合おうとしたときのことだった。

「でも、ちょっと気になるかも」
「藍が?」

 思わず、聞き返してしまった。
 藍は普段、私よりも慎重で怪しいものには近づきもしない。そんな彼女が興味を示すなんて、何か心境の変化でもあったのか。

「だって、自分のことを書くだけでしょ?」
「一応は個人情報じゃないの?」
「自分のことを書くのって、ちょっと面白そう」
「冗談でしょ?」

 そう返したものの、藍が冗談を言っているのか本気なのか分からなかった。

(藍、こういうのに興味ないと思ってた)

 自分のことを人に話すのも、そんなに好きじゃないはず。
 そもそも自分の人生を書いたところで、誰が読みたいと思ってくれるのか。
 そんなことを考えているうちに、さっき聞いた金額が頭に浮かんだ。

「でも、三千円、ちょっといいよね」

 私はそう言って、笑った。
 授業が始まれば、さっきの怪しい話なんてすぐに忘れる。
 実際にその通りで、午前中はいつもと変わらなかった。
 先生の話を聞きながら、必要だと思うことはノートにまとめていって、休み時間になれば友達と他愛のない話をして、次の授業が始まればまた席に着く。そうやっていつもの時間をやり過ごしているうちに、朝の話なんて日常の中にすっかり埋もれてしまった。

「じゃあ、美術部行ってくる」
「うん、またあとで」

 昼休みになると、藍と机を寄せてお弁当を広げた。
 けれど、私がまだ半分も食べ終わらないうちに、藍はお弁当箱を片付けて部活に向かってしまった。
 さっきまで藍と一緒に笑っていたのに、一人になるとなんとなくスマホに手が伸びてしまう。
 特に目的があるわけじゃないのに、ただ一人でスマホ画面を眺める時間が続く。

(みんな、楽しそう)

 SNSには、それぞれの人生が詰まっているように見える。
 個人情報がどうとか、危険がどうとか言われていても、画面の向こうには誰かの生活が待っている。
 指を滑らせるたびに、次から次へと写真が流れていく。

(みんなには、何かがある……)

 ふと、耳を擦った。
 けど、そんなことに気づいたからといって、自分が不幸なわけじゃない。

(普通でいいと思ったのに)

 藍と一緒にお弁当を食べて、くだらないことで笑い合う日々だって、十分に幸せ。
 何も持っていない人間だって、きっとそれなりに上手く生きていける。

(……何か足りない)

 そう思いながら、何気なく画面をスクロールさせたときのことだった。

「あなたの人生を買います……」

 見慣れない広告が目に入って、指が止まる。
 特に余計な装飾のない真っ白な画面。
 ただ、黒い文字が浮かんでいるだけの広告。
 その中央には、『あなたの人生を買います』と書かれてある。

「これ……」

 その瞬間、今朝の会話が頭の奥から発掘された。
 どう考えても怪しいサイトなのに、ブラウザを閉じることができない。

「これ……だよね……」

 広告の下には、小さな文字で二つの文が並んでいる。


『匿名で投稿できます』と、『あなたの人生を売ってみませんか?』という文字が。


(私の、人生……)

 あなたの人生を売ってみませんかと言われても、売り物になるようなものなんて思いつかない。

(私には、特別なんて……)

 価値のありそうな出来事も思いつかなければ、誰かに誇れるような才能もない。
 胸を張れるような人生を送っているわけじゃないからこそ、こんなサイトは自分とは無縁のものに思えた。

(私の人生なんて、売ったところで……)

 ふと、別の考えが浮かんだ。

(値段が、つくわけ……)

 そう思ったはずなのに、もし本当に値段がつくのなら私の人生にはいくらの価値があるのか。
 気づけば、指先が画面に触れていた。
 広告をタップすると、開いたページにはやっぱり白い背景と黒い文字が私を待っていた。
 画面の上には『LIFE―ライフ―』と大きな文字が存在感を主張してくる。
 もっと怪しげなものを想像していたのに、拍子抜けするくらい普通のサイトだった。

(匿名で投稿できる……)

 私の経験、秘密、夢、失敗から後悔、成功体験など、どんなものでも買い取り可能と書かれている。

(……本当に、なんでもいいんだ)

 さらに読み進めていくと、買い取りが成立した場合のみ、お金を振り込むために個人情報が必要になるらしい。
 でも、人生の値段を査定してもらうだけなら、サイトへの登録は求められない。

(査定だけなら……)

 少なくとも、いきなり名前や住所を入力させられるわけではない。
 そう思うだけで、警戒心が緩んでいく。

(『人生を見る』、『人生を売る』……)

 サイトの下には、二つのボタンが並んでいた。
 ただ、誰かの人生を見て、自分の人生を売るだけのサイト。

(……ちょっとだけなら)

 人生を売るというボタンは、さすがにまだ押す勇気がなかった。
 でも、他人の人生を見るくらいならと思って、私は『人生を見る』というボタンにそっと指を伸ばす。
 読み込みを示す円が回り終えると、いくつもの項目が画面に浮かび上がる。

(タイトル、年齢、性別……)

 最初に目に入ったのは、性別の下に書かれてあった数字だった。

『中学二年のとき、親が離婚した』
17歳/女子
¥8,200

淡い灰色のタグがいくつか並ぶ。

#家族
#離婚
#高校生
#過去

親が離婚したことを書き込むだけで、八千二百円という値段がつけられていた。
彼女の人生そのものの値段なのか、それともこの出来事だけの値段なのか。
考えても答えは出ないからこそ、私は次のエピソードに興味をそそられた。

『好きな人に告白して、振られた』
18歳/男子
¥1,300

#恋愛
#失恋
#恋愛
#高校生活

「……安っ」

 自分でも驚くほど自然に声が漏れてしまって、慌てて口元を手で覆う。
 周囲を見回してみると、幸いにも誰も私のことを見ていなかった。
 教室のあちこちでは昼休みを過ごすクラスメイトたちが、それぞれ好き勝手に話をしている。
 私の小さな声なんて、誰にも届かなかったらしい。
 ほっと息を吐いてから、もう一度スマホの画面に視線を戻す。

(失恋、か)

 きっと、その人にとっては簡単に忘れられるものではないはず。
 もしかしたら何日も眠れなかったかもしれないけど、その人は『LIFE―ライフ―』に自分の人生を書き込むことを決めた。
 それなのに、表示された数字を見た瞬間に安いと思ってしまう。

(……私の人生も、こんなものなのかな)

 自分が失恋した話を書き込んだわけでもないのに、憂鬱な気持ちになってくるのはたぶん気のせいじゃない。

『父親が会社を経営している』
17歳/男子
¥42,000

#家族
#裕福
#お金
#進路
#将来

「……何、それ」

 離婚が八千二百円で、失恋が千三百円。
 父親が会社を経営しているという話には、四万二千円。
 人生に値段をつけるなんて、どう考えても馬鹿馬鹿しい。
 それなのに一時になってしまうと、どんな人生にどれくらいの値段がつけられているのか。
 そればかりが気になって、次はいくらなんだろうと画面をスクロールし続けてしまう。

(でも、誰かの人生を買って、どうするんだろ……)

 他人が、両親の離婚した話を読んで何になるのか。
 誰かの失恋を買って、その続きを知って、それで何が面白いのか。

『毎朝、学校に行くのが怖かった』
15歳/女子
¥5,600

『将来、海外で暮らしたい』
17歳/女子
¥92,000

「九万二千円……」
 タイトルから想像すると、ただ海外で暮らしたいと願っているだけの話だと思う。
 それなのに、どうしてこんな値段になるのか。

『高校卒業後のことは、まだ何も決まっていません』
17歳/女子
¥18,600

 高校卒業のことは、何も決まってない。
 その言葉に、画面をスクロールしていた指が停まった。
 何も決まっていないはずなのに、この子の人生には値段がついている。

(私も、決まってない……)

 まだ、進路希望の紙が真っ白なままなことを思い出す。
 マンガを読むのは好きだけど、マンガに関わる仕事なんて曖昧な感情を夢と呼んでいいのかすら分からない。それが、今の私。

「っ」

 いつの間にか、画面の向こうの誰かと自分を重ねていた。

『バレンタインに失恋した話』
17歳/女子
¥92,000

『高校卒業後のことは、まだ何も決まっていません』
18歳/女子
¥18,600

(同じ十七歳なのに、なんでこんなに違うの……?)

 九万二千円の人生と、一万八千六百円の人生。
 どちらが幸せかなんて数字では測れないはずなのに、このサイトでは人生に値段がつけられてしまっている。

(……そんなの、可笑しい)

 そう思っているのに、スマホを伏せることができなかった。
 自分でもよく分からないまま画面を見続けていると、また新しい人生が画面に表示される。

『クラスで一番になったことが、一度もない』
16歳/男子
¥2,700

 二千七百円という数字を前にして、大きく息を吸い込まずにはいられなくなった。
 この男子高校生は勉強も運動もそこそこだとしても、友達はいるかもしれない。
 それなのに、目の前に表示されている数字は二千七百円から上昇する気配すらない。

(私の人生は……)

 画面に並ぶ人生と、自分の人生を重ねてみる。
 どれもそれぞれ違うけど、どこか一部分なら似ている。
 だからこそ、夢中でスクロールしてしまう。
 まるで本屋に並ぶ本の背表紙を眺めているような感覚にもなってくるけど、目の前に表示されているのは誰かが作った物語ではないということ。本当に、誰かが生きた人生が表示されているということ。

(この子の人生は、なんでこの値段なの……?)

 人生の価値なんて比べられないと思ってきた。

(この子は、私よりも幸せだから価値があるの……?)

 けど、いつの間にか数字から目を逸らせなくなった自分がいる。
 特別でもなんでもなく、誰かに話して面白がってもらえるようなこともない私の人生に値段がつく。
 ページの最後には、あなたの人生も投稿できますというボタンが用意されていた。

「人生を売る……」

 普段なら、絶対に押さないボタン。
 こんなサイト、怪しい以外の何物でもない。
 個人情報を抜かれるかもしれないし、知らない誰かに私の人生を馬鹿にされるかもしれない。
 そう思っているのに、指先はゆっくりと『人生を売る』のボタンへと近づいていく。

「……査定するだけなら」

 自分に言い訳するように呟いて、私は『人生を売る』の文字を押した。
 でも、やっぱり画面が切り替わった途端に指が止まってしまう。
 誰かの人生を覗くだけとは違って、今度は自分の人生を差し出さなければいけない。
 自分の人生を誰かに見られて、そのうえ値段までつけられる。
 そう考えると急に怖くなって、ブラウザを閉じようと指を動かす。すると画面が暗くなって、スマホを覗き込んでいる自分の顔がぼんやりと映った。

(……もう、広告は出てこないかもしれない)

 次にSNSを開いたら、もう二度とあの広告は表示されないかもしれない。
 そうなったら私は一生、自分の人生にどれくらいの値段がつくのかを知ることができなくなる。
 そんなことを考えている自分が可笑しいって気づいているのに、数秒も経たないうちに私はスマホの画面を開いていた。

(名前はいらない……)

 表示された簡易的な登録画面を眺めながら、まずは年齢と性別を打ち込んでいく。
 学校や家族、友人についての項目も用意されていたけど、さすがにそこは躊躇って指が止まった。

(……これは、ちょっと怖い)

 自分が誰なのか特定されるようなことまでは、見ず知らずの相手に教えるのは抵抗がある。
 入力したくない項目には触れないまま、入力できるところだけを埋めていく。

(十七歳、女子、高校生……これくらいかな)

 必要最低限の項目を入力すると、その先にはいくつもの質問が並んでいた。
 好きなもの、嫌いなもの、将来の夢、恋愛についてなど。
 どれも答えに困るようなものではないけれど、これらひとつひとつの回答が査定額に影響するのかと思うと緊張が走る。
 けれど、次の質問が表示されたところで、巡らせていた思考が止まる。

『あなたより優れていると思う人はいますか?』

「……いる」
 この質問に、迷いはなかった。
 私よりも勉強ができる人、運動ができる人、絵が上手い人、人付き合いが上手い人。
 特定の誰かを思い浮かべようとしたわけでもないのに、何人もの顔が次々と頭を過っていく。
 私よりも優れている人なんていくらでもいるのだから、なんの躊躇いもなく『いる』と答えることができた。
『あなたが「この人には敵わない」と思う相手はいますか?』
 この問いにだけは、明確に藍のことが頭に浮かんだ。
 勉強も運動もそれほど差があるわけじゃないからこそ、小学生のときから友達って関係は続いているのかもしれない。でも、藍は私にはないものがある。

(藍には、好きなものがある)

 好きなものを、好きと言えるところ。
 自分の描いた絵を誰かに見せられるところや、普通は途中で投げ出してしまいそうなことも最後まで続けられるところ。そういうところが、私にはないものだった。

「……いる」

 嫉妬しているとか、そういうことじゃない。
 藍のことが嫌いなわけでもないし、藍が上手くいっていることを素直に喜べないわけでもない。
 ただ、藍には『これが好き』と言えるものが合って、それを自分の手で形にしていけるところを羨ましいとは思っている。

(なんだろ、この感情……)

 藍のことを羨ましいと思う自分が、嫌なわけではない。
 羨ましいのか、悔しいのか。
 それとも、ただ自分には何もないことを思い知らされているだけなのか。
 いくつもの感情が心の中で絡まって、どれが本当の気持ちなのか自分でもよく分からなかった。

(あとは、私の人生……)

 なんとなく、誰かに知られたら困るような秘密には価値があるのではないか。
 そんなことを思いついたところで、これといったエピソードも思いつかない。
 相変わらず私の人生には、何もない。

(……売るなら、こういうのでもいいのかな)

 人生を売ると決めたわけじゃないけど、自分の人生にどんな値段がつくのか知りたい。
 だったら、せめてひとつくらい誰にも話したことのないことをサイトに渡してみてもいいかもしれない。

(小学生のとき……)

 藍が、図工の時間に描いた絵で賞を取った。
 教室のみんながすごいねと口々に藍を褒めて、私も笑いながら『おめでとう』と言ったときのことを思い出す。

(嬉しかったけど……)

 友達が頑張って、その結果が認められた。
 だから、あのときの『おめでとう』に嘘はない。
 でも、羨ましい、悔しいって気持ちが過ったのも本当のことだった。

(だからって、藍を嫌いになるわけじゃないけど)
 本当に、ただそれだけのこと。
 誰かに打ち明けることはなかったし、わざわざ話す必要もないと思っていた幼い日の思い出。
 それでも、私の心にはずっと引っかかっていた。

(……これで、いっか)

 タイトルは、AIが自動でつけてくれるらしい。
 私が提供した人生にもすぐにタイトルがつけられ、『友達が賞を取ったとき、素直に喜べなかった』と名づけられた。

(AIからすると、こんな感じなんだ)

 私の中では、とても些細な出来事だったはず。
 それなのに、こうしてタイトルにされると私の人生を表す大きな出来事みたいに見えてくるから不思議だった。

「送信……」

 送信ボタンを押すと、すぐに『あなたの人生を査定しています……』というメッセージが表示された。

(どうせ、たいした結果にはならないよね)

 そう思って、苦笑しながらスマホを鞄の中へと片付けた。
 そのあとは、もうサイトのことを考えることもなかった。
 昼休みが終われば授業が始まって、先生の話を聞いているうちに時間は過ぎていく。
 放課後は部活動に参加して、そのまま電車に乗って家へと帰る。
 夕飯を食べて、お風呂に入って、明日の準備をする。
 今日も、特別なことは何もない。
 いつもと変わらない一日が、いつもと同じように過ぎていった。

「あ……」

 寝る直前になって、ベッドで何気なくスマホを手に取る。
 すると、画面には通知が一件届いていた。
『人生の査定が完了しました』
 人生の査定と言われると、とんでもなく大掛かりなものを想像してしまう。
 でも、実際に入力したのは年齢や性別といった簡単な情報と、いくつかの質問に答えて、自分が経験したことを提供しただけ。

(どうせ、数百円くらいかな)

 もしかしたら、値段すらつかずに『査定不能』なんて言葉が表示されるかもしれない。
 そんなことを考えながら軽い気持ちで通知をタップして、画面を切り替える。

「……え?」

 そこに表示された数字を見た瞬間、思考が止まってしまった。

『友達が賞を取ったとき、素直に喜べなかった』
17歳/女子
¥874,200

 桁を数える。
 何度も何度も数え直すけど、間違いない。
 私の人生には、八十七万四千二百円という値段がつけられた。

「私が……?」

 私は自分のことを「普通」だと思っていた。
 それは謙遜でもなんでもなくて、本当に特別な才能も誰かに話せるような人生も持っていないから。
 それなのに、私の人生には八十七万四千二百円の値段がついた。

(……私の、人生が?)

 数字を見つめると、胸の奥からじわじわと熱いものが込み上げてくるのは気のせいじゃない。

(うれしい……)

 誰かが私の人生を見て、価値があると思ってくれた。
 何もないと思っていた私の人生に値段がついて、嬉しくないわけがない。

「……私の人生にも、価値があるんだ」

 人生で初めて、自分の人生に価値があると感じられたかもしれない。

「ん……?」

 価格の下に、『あなたと近い人生』と書かれたボタンがあった。
 何気なく押してみると、ランキングが表示された。

(どういう意味だろう……)

 そう思った次の瞬間には、もう指が動いていた。
 少し前までの私なら躊躇しただろうけど、今は違う。
 気になったものには、躊躇いもなく触れることができるようになった。

査定価格1位 ¥1,240,000 17歳/女子
査定価格2位 ¥960,000 17歳/女子
査定価格3位 ¥874,200 17歳/女子
査定価格4位 ¥810,000 17歳/男子
査定価格5位 ¥420,000 15歳/女子

「……三位」

 さっきまで八十七万円と胸を高鳴らせていたはずの数字が、今はただの数字にしか見えなくなった。
 思いがけない値段がつけられたのは嬉しかった。でも、上には上がいるってことに気づかされる。

「一位は百二十四万円……二位は九十六万円……」

 自分は、その下。
 自分の人生価格が三位と分かった瞬間、自分より高い数字を何度も目で追ってしまう。

(どうしてこの人は、私より高いんだろう……)

 私とは、何が違うのか。
 そんな疑問が浮かぶようになった。
 気を紛らせるためにも、さらにスクロールする。
『あなたと近い人生』という文字の下に、いくつもの人生が並んでいる。
 さっきまでなら何も考えずに、次の人生へと指を滑らせていたはず。
 誰かの夢も、誰かの失恋も、誰かが抱えている後悔も、私には関係ない人生のはずだった。

「友達が描いた絵を、ずっと応援していた……?」

『友達が描いた絵を、ずっと応援していた』
17歳/女子
¥3,200

 そのタイトルの上で、指が止まる。
 心臓が大きく鳴るわけがないのに、自分の心音がやけに大きく聞こえたような気がした。
(……絵)
 もちろん、その人生の下にはいくつかのタグが並んでいる。

#絵
#友情
#努力家
#趣味
#高校生

 ひとつひとつの言葉を、意味もなく目で追っていく。
 絵、友情、高校生しかも十七歳。
(……藍?)
 頭に浮かんだ名前を、すぐに打ち消す。
(違う……よね)
 絵が好きな十七歳なんて、いくらでもいる。
 友達を応援している十七歳だって、珍しくはないはず。
 このサイトには私と同じような年齢の人がいくらでもいるのだから、たまたま藍の境遇に似ているだけと思いたかった。
 それなのに、指が動かない。画面を閉じることも、下へスクロールすることもできないまま、私はそのページを見つめ続けた。

(……藍だったら)

 名前すらなければ、学校名の登録もされていない。
 顔写真なんてもってのほかで、こんな情報だけでは友達一人すら特定することはできない。
 それなのに、私はその人生を覗き込もうとしていた。
『この人生を読むには、¥3,200が必要です』
 中身を読めば、藍かどうかを判断することができるかもしれない。でも、読んだところで、藍とはまったく違う人生が語られているかもしれない。

「……三千二百円」

 思わず声に出してしまったのも無理はない。
 私の人生につけてもらった数字より、遥かに少ない額が表示されている。
 八十七万四千二百円と三千二百円。

「……払おうと思えば、払える」

 最初に浮かんだのは、そんな感想。
 でも、それと同時に、自分でもよく分からない違和感が生まれる。

(人生に、安いも高いもない……)

『安い』という言葉が自分の中から出てきてしまった現実を直視したくなくて、私は逃げるように画面から目を逸らした。

(この子が、藍って決まったわけじゃない)

 そもそも他人の人生を読むためにお金を払うなんて、どう考えても変だ。
 このまま購入画面を閉じようと、指先を画面の端へと運んでいく。

(……知らなくても、困らない)

 藍が絵を描くことが好きなのは知っている。
 小学生の頃に賞を取ったことも、今だって時間があれば絵を描いていることも知っている。
 それだけ知っていれば十分なはずなのに、『友達が描いた絵を、ずっと応援していた』というタイトルが、どうしても頭から離れない。

(私は、藍のこと……どれくらい知ってるんだろ)

 藍が絵を描くことが好きなのは知っているけど、どうして絵を描くのが好きなのか。絵を描いているとき、何を考えているのか。
 私の知らないところで、藍がどんなことを考えているのか。
 そこまで踏み入った内容は、何も知らない。

(……考えれば、当然だよね)

 私たちは友達だけど、同じ人間じゃない。
 毎日一緒にいるからって、藍の心の中まで透けて見えるわけじゃない。

(だから)

 購入画面に表示された『¥3,200』の文字を見る。

(……知りたい)

 藍のことを、もっと知りたい。
 私の知らない藍を、もっと知りたいと思ってしまった。

(三千二百円払えば……)

 何も云十万円つぎ込むという話じゃない。
 三千二百円さえ払えば、この子が何を経験してきたのかを知ることができる。
 もし藍じゃなかったら、それはただ知らない誰かの人生を読んだってだけのこと。

「……三千二百円だけ」

 お小遣いでなんとかできる範囲だったこともあり、私の迷いはちっぽけなものだったと思う。

(押しちゃった……)

『購入する』のボタンを押してしまったら、もう戻れない。
 私は今、友人かもしれない人の人生を覗くためにお金を払った。
 さっきまではただ数字が並んでいただけなのに、自分がやった行為を意識した途端に後悔の気持ちが生まれてくるから嫌になる。

(知りたいから、買っただけなのに……)

 いざ他人の人生を買ってしまうと、自分がとても酷いことをしたような気がしてくる。
『購入ありがとうございます』の文字が画面に浮かび、今まで閉ざされていた文章が徐々に姿を現した。


『友達が描いた絵を、ずっと応援していた』
 これは小学生の頃、図工で描いた絵が賞を取った日のこと。
 黒板に貼られた私の絵の前にクラスのみんなが集まってきて、「すごいね」って褒めてくれた。
 あのときの私はただ照れくさくて、どうしていいか分からないまま笑っていた。

 隣には友達がいて、私よりも嬉しそうに笑ってくれた。
「おめでとう」って言ってくれたときのことは、今でも記憶にはっきりと残ってる。
 あの子が喜んでくれたことが、賞を取ったことよりも嬉しかった気がする。

 みんなが褒めてくれて、友達も一緒に笑ってくれて、それが何より嬉しかった。
 でも、あの子は寂しそうに笑っていた。
 当時の私も、今の私も、その理由を上手く言葉にできない。

 でも、あの子も、賞が欲しかったのかなって思ってる。
 悔しかったのかなって。

 友達も、絵を描くのが好きだった。
 私は友達の絵が好きだったし、一緒に絵を描くのが楽しみでもあった。
 だから、私の絵が選ばれて、友達の絵が選ばれなかったことが心に引っかかった。

 もちろん受賞は嬉しかった。賞を取れて、すっごく嬉しかった。
 でも、それと同時に、どうして私なんだろうと思った。

 友達の絵の方が好きだった。
 私じゃなくて、友達の絵が選ばれれば良かったのに。
 そんなことを考える自分が嫌になったけど、それは彼女に伝えることができなかった。

 だから私は、おめでとうと言ってくれた彼女と一緒に笑った。
 それが、あの頃の私にできる精いっぱい。

 あの子の気持ちを、無理に聞き出すこともしなかった。
 ううん。聞くのが怖かった、かな。
 聞いちゃったら、なんとなく友達ではいられなくなる気がしたから。


(この子は、どうして……)

 この人生を投稿した人物が、藍と確定したわけじゃない。
 この投稿主が誰のどんな人生を暴露していたとしても、なんでこんな昔のことを世間に晒したんだなんて怒りは湧かない。
 ただ、もしもこの人生が私と藍のことを指しているのだとしたら、あの一瞬の表情を覚えていたことに驚いた。

(あのときは羨ましかった……悔しさもあった……)

 どうして私じゃないんだろうって思ったけど、その感情を表に出したことはない。

(でも、友達の受賞を、喜ばなきゃいけないって思った)

 藍にも言っていない。
 それなのに、この文章を書いた彼女はあの日の友人を見ていた。

(だから、私は笑った……)

 そんな一瞬の揺らぎを誰かが知るはずもないのに、この人生を投稿した子は友人のことをずっと気にかけていたということ。

(……藍、なのかな)

 画面を隅々まで探しても、魚住藍の名前はどこにもない。
 そんな文字は一つも表示されていないのに、心の中ではもう答えが出ていた。

(……藍、だよね)

 忘れてしまいたいと思っていたような幼い日の思い出を、藍はしっかりと覚えていた。
 そして、それを自分の人生として、このサイトに売った。

【¥3,200】

 私は画面の数字を見つめたまま、動けなくなった。
 これは藍の人生につけられた値段であり、私が三千二百円を払って買ったもの。

(……三千二百円)

 ふと、自分の人生についた数字を思い出す。

【¥874,200】

 三千二百円と、八十七万四千二百円という二つの数字が頭の中に並ぶ。
 藍の人生と、私の人生。

(……どうして、こんなに違うんだろ)

 藍には絵がある。
 好きなものもあれば、ずっと続けてきたものだってある。
 私が羨ましいと思っていたものを、藍はちゃんと持っている。
 それなのに、どうして私の方が高いのか。

(安……)

 自分の中に生まれた感情に気づいて、私は唇を噛んだ。
 藍の人生を、私の大切な友達の人生を、たった三千二百円だと思ってしまった。

(……私の方が、高い)

 人生に値段なんてつけられない。
 人間の価値は、お金で決まるわけじゃない。
 そんなことは分かっているけど、どうしても頭の中から二つの数字が離れてくれなくなった。

「っ」

 スマホを伏せてしまえば、何も見えなくなる。
 きっと忘れられると思ったのに、目を閉じても記憶の中の数字は消えてくれない。

(知っちゃったから……)

 自分の人生にも、藍の人生にも、値段がつけられることを知ってしまった。
 一度知ってしまった数字は、なかったことにはできなかった。