体育祭が迫っている。陽平は応援団の練習で体育館へ、怜と樹は応援幕を準備するグループに振り分けられた。制作はもちろん美術部の気合いの入った人たちが率先してやっているが、絵の上手な樹も重宝されている。
「あ、やば。赤のペンキ足りんかも」
その声に、怜は「探してくるよ」と立ち上がった。準備室にまだ予備があるかもしれない。
渡り廊下を通って、校舎の一番はじにある美術準備室の扉を開けた。五人の生徒の視線がぎゅっと怜に集まったが、すぐに作っているうちわの方へと戻っていく。
「あれ? もしかして転校生の高見くんじゃないん?」
ペンキの棚へたどり着く前に、その中の一人が声をかけてきた。そういえば、塾で何度かすれ違ったことがある顔だ。
「へえ、噂の高見くんか。花山先輩の言よったとおり、イケメンじゃ」
「けど韓国アイドルは言いすぎじゃろ」
好き勝手に見た目の評価を始めた彼らに、「なに?」と聞いた。少し声にいらだちが滲んでいたかもしれない。けれど彼らはすこしもそれを汲み取らず、揃って「おぉ」と感嘆の声を上げた。
「なに、の言い方がめっちゃ東京じゃ」
「顔に似合っとる。東京弁が」
「もっと何かしゃべってや高見くん」
まるで初めての来訪者にわき立つ秘境の部族のようなリアクションに、彼らの無知と野蛮性を見た気がした。だからと言ってこっちも嫌な態度で応じれば、相手と同レベルになり下がってしまう。それだけは避けたい。
「赤のペンキがなくなっちゃって。ここに予備がないかなと思って探しに来たんだけど」
聞こえなかったのだろうか。
いや、そんなはずはない。
十個の瞳は全て怜の顔を見ている。ぽかんと口まで開けて。
「これは……」
ようやく一人が口を開いた。けれど続く言葉はペンキの有無とは関係がなかった。
「花山先輩が好きになるはずじゃ」
「は?」
あっけに取られている怜は「まあ座ってゆっくりしていかんかい」と椅子に座らされ、取り囲まれた。
「花山先輩と付き合っとんだろ?」
「えっ、誰?」
みんなの目が近い。さっきよりずっと。言い訳は許さないという強い圧を感じるが、全く身に覚えがない。
「俺らめっちゃ口かたいけん、大丈夫よ。もう二人のことも見たけん、バレとるし」
なあ、うんうん、と仲間内で頷き合っているが、怜は首をひねるばかりだ。
「聖南女子高の花山りりあ先輩っておるだろ? あの、一番かわいい先輩」
一番かわいい先輩。花山りりあ。首を傾げるしかない。怜は初めて聞く名だが、それは質問ではなく確認のようだった。
「その花山先輩が高見くんのことめちゃくちゃかっこええって言よって、俺、この間二人が一緒に帰りよるとこ見てしもたんじゃって。ほんでキーホルダーまであげたんだろ? 付き合いよんだろ?」
そこまで聞いて、怜はようやく理解した。
いつか塾で陽平に話しかけていた女子のことに違いない。つい数日前、陽平は塾を休んだ。一人で帰っていると、その花山とか言う女子が僕を追いかけてきた。僕と入れ代わりでクラスに行かなきゃいけないはずの彼女はなぜか帰り道についてきて、好きな歌手とかインフルエンサーの話を一方的にしゃべってきた。高見くんって、好きな子おるん? どんな子が好きなん? あたし、頭ええ人好きなんよ。上目遣いの瞳は、街灯の下で人工的な光を放っていた。やわらかい色の髪も短いスカートも軽率な彼女によく似合っている。そう思った瞬間、初対面の女子を無意識的に批判するという自分の性格の悪さを自覚して、自己嫌悪に陥った。なのに彼女は僕に、「付き合わん?」と言ってきたのだ。それは「コンビニよってく?」というぐらい軽い誘いだった。僕のことを何も知らないのに、僕だって彼女のことをいま初めて知ったのに、それでどうして付き合ってみようと思うのか、本当に不思議だった。勇気がある。そんな勇気、いらないけど。彼女が僕に興味を持った過程も不明だし、僕のことを知らないからこその愚挙とも言える。
何ひとつ交わらない二本の線の上で、彼女だけが楽しく踊っているようで、あっけに取られていた。「ごめんなさい」と断るのが精一杯の僕とは対照的に、彼女は「ほんならそれ頂戴や」と僕のバッグについていたバナナミルクを勝手に取り、代わりにとブヨブヨしたキャラクターのシールをいくつも貼り付けてきた。いらない、まじで。やめて。
すごく嫌だった。
自分の気持ちを押し付けてくる女子も。
こんな人が好きな陽平も。
キーホルダーを宝物みたいに大事に思っている自分も。
だからもういらないと言いきかせた。バナナミルクなんて、別にそんなに飲む機会もないし。
「その先輩とは、付き合ってないよ」
相手の目を見てはっきり告げると、ため息をつかれた。
「そういうのはええけん。俺らが聞きたいんは、付き合っとるかどうかじゃなくて、その先なんよ」
「一緒に帰りよったろ? あんな真っ暗な道で、花山先輩と何もせんわけないだろ」
「花山先輩とどこまでしたん?」
「キスした? てか、花山先輩って男慣れしとるだろ? 逆に高見くんが襲われたんじゃないん?」
「おお〜! やばいなそれっ」
勝手に盛り上がって、奇声をあげて。怜は自分の眉間に深く皺が寄っていくのを止められない。
だから嫌いなんだ、田舎は。
拳をぎゅっと握りしめた。
「怜……?」
教室の扉の隙間から、樹が覗き込んでいた。
「あ、パイセンじゃ。ここ座る?」
一人が空いている椅子を軽く叩き、「今高見くんの武勇伝聞きよるところ」と樹を招き入れる。
「塾に花山りりあ先輩っていうめっちゃかわいくて軽い女子がおって、高見くんがその人と夜イチャイチャしよったけん」
「してない!」
思ったより、ずっと大きな声が出た。
外の応援団の野太い声が、窓ガラスを通り越して室内に充満していく。それに連なる太鼓の音。廊下ですれ違う生徒と先生の挨拶。準備室の外だけで、放課後のぬるい時間が流れている。沈黙は長かった。
「怜、行こう」
先生が呼んでる、と樹に腕を引っ張り上げられて、怜は立ち上がる。何も言わずに出ていく二人に、誰も何も言わなかった。階段を降り、昇降口に来た時点でようやく、怜は我に返った。
「あ、先生は?」
「でまかせに決まってんだろ」
「ペンキ……」
「いいって」
「でもまだみんな塗ってるし」
「いいから。ここでちょっと待ってて。荷物とってきて、怜が体調悪そうだから送ってくるって言ってくるから」
「それ」
も、でまかせじゃないのと言いかけて、やめた。樹の優しさがやっと理解できて、ふう、とちいさくため息をついた。駆けていく樹の上履きの裏の白が、左右交互に現れる。それが十回ほど繰り返されたところで僕は、樹を呼び止めた。
「なに?」
樹の「なに」の言い方は、僕と全く同じだ。東京弁。さっき聞いた言葉が蘇る。東京弁なんて言葉、初めて聞いた。
「ありがとう」
僕がそう言うと、樹はポケットから何かを取り出して、放りなげた。小さな物体は放物線を描いて、僕のてのひらの中へ飛び込んでくる。
鍵だ。自転車の鍵ではない。
樹がにやりと笑う。
「怜が行きたいとこ、どこでも連れてってやるよ」
「あ、やば。赤のペンキ足りんかも」
その声に、怜は「探してくるよ」と立ち上がった。準備室にまだ予備があるかもしれない。
渡り廊下を通って、校舎の一番はじにある美術準備室の扉を開けた。五人の生徒の視線がぎゅっと怜に集まったが、すぐに作っているうちわの方へと戻っていく。
「あれ? もしかして転校生の高見くんじゃないん?」
ペンキの棚へたどり着く前に、その中の一人が声をかけてきた。そういえば、塾で何度かすれ違ったことがある顔だ。
「へえ、噂の高見くんか。花山先輩の言よったとおり、イケメンじゃ」
「けど韓国アイドルは言いすぎじゃろ」
好き勝手に見た目の評価を始めた彼らに、「なに?」と聞いた。少し声にいらだちが滲んでいたかもしれない。けれど彼らはすこしもそれを汲み取らず、揃って「おぉ」と感嘆の声を上げた。
「なに、の言い方がめっちゃ東京じゃ」
「顔に似合っとる。東京弁が」
「もっと何かしゃべってや高見くん」
まるで初めての来訪者にわき立つ秘境の部族のようなリアクションに、彼らの無知と野蛮性を見た気がした。だからと言ってこっちも嫌な態度で応じれば、相手と同レベルになり下がってしまう。それだけは避けたい。
「赤のペンキがなくなっちゃって。ここに予備がないかなと思って探しに来たんだけど」
聞こえなかったのだろうか。
いや、そんなはずはない。
十個の瞳は全て怜の顔を見ている。ぽかんと口まで開けて。
「これは……」
ようやく一人が口を開いた。けれど続く言葉はペンキの有無とは関係がなかった。
「花山先輩が好きになるはずじゃ」
「は?」
あっけに取られている怜は「まあ座ってゆっくりしていかんかい」と椅子に座らされ、取り囲まれた。
「花山先輩と付き合っとんだろ?」
「えっ、誰?」
みんなの目が近い。さっきよりずっと。言い訳は許さないという強い圧を感じるが、全く身に覚えがない。
「俺らめっちゃ口かたいけん、大丈夫よ。もう二人のことも見たけん、バレとるし」
なあ、うんうん、と仲間内で頷き合っているが、怜は首をひねるばかりだ。
「聖南女子高の花山りりあ先輩っておるだろ? あの、一番かわいい先輩」
一番かわいい先輩。花山りりあ。首を傾げるしかない。怜は初めて聞く名だが、それは質問ではなく確認のようだった。
「その花山先輩が高見くんのことめちゃくちゃかっこええって言よって、俺、この間二人が一緒に帰りよるとこ見てしもたんじゃって。ほんでキーホルダーまであげたんだろ? 付き合いよんだろ?」
そこまで聞いて、怜はようやく理解した。
いつか塾で陽平に話しかけていた女子のことに違いない。つい数日前、陽平は塾を休んだ。一人で帰っていると、その花山とか言う女子が僕を追いかけてきた。僕と入れ代わりでクラスに行かなきゃいけないはずの彼女はなぜか帰り道についてきて、好きな歌手とかインフルエンサーの話を一方的にしゃべってきた。高見くんって、好きな子おるん? どんな子が好きなん? あたし、頭ええ人好きなんよ。上目遣いの瞳は、街灯の下で人工的な光を放っていた。やわらかい色の髪も短いスカートも軽率な彼女によく似合っている。そう思った瞬間、初対面の女子を無意識的に批判するという自分の性格の悪さを自覚して、自己嫌悪に陥った。なのに彼女は僕に、「付き合わん?」と言ってきたのだ。それは「コンビニよってく?」というぐらい軽い誘いだった。僕のことを何も知らないのに、僕だって彼女のことをいま初めて知ったのに、それでどうして付き合ってみようと思うのか、本当に不思議だった。勇気がある。そんな勇気、いらないけど。彼女が僕に興味を持った過程も不明だし、僕のことを知らないからこその愚挙とも言える。
何ひとつ交わらない二本の線の上で、彼女だけが楽しく踊っているようで、あっけに取られていた。「ごめんなさい」と断るのが精一杯の僕とは対照的に、彼女は「ほんならそれ頂戴や」と僕のバッグについていたバナナミルクを勝手に取り、代わりにとブヨブヨしたキャラクターのシールをいくつも貼り付けてきた。いらない、まじで。やめて。
すごく嫌だった。
自分の気持ちを押し付けてくる女子も。
こんな人が好きな陽平も。
キーホルダーを宝物みたいに大事に思っている自分も。
だからもういらないと言いきかせた。バナナミルクなんて、別にそんなに飲む機会もないし。
「その先輩とは、付き合ってないよ」
相手の目を見てはっきり告げると、ため息をつかれた。
「そういうのはええけん。俺らが聞きたいんは、付き合っとるかどうかじゃなくて、その先なんよ」
「一緒に帰りよったろ? あんな真っ暗な道で、花山先輩と何もせんわけないだろ」
「花山先輩とどこまでしたん?」
「キスした? てか、花山先輩って男慣れしとるだろ? 逆に高見くんが襲われたんじゃないん?」
「おお〜! やばいなそれっ」
勝手に盛り上がって、奇声をあげて。怜は自分の眉間に深く皺が寄っていくのを止められない。
だから嫌いなんだ、田舎は。
拳をぎゅっと握りしめた。
「怜……?」
教室の扉の隙間から、樹が覗き込んでいた。
「あ、パイセンじゃ。ここ座る?」
一人が空いている椅子を軽く叩き、「今高見くんの武勇伝聞きよるところ」と樹を招き入れる。
「塾に花山りりあ先輩っていうめっちゃかわいくて軽い女子がおって、高見くんがその人と夜イチャイチャしよったけん」
「してない!」
思ったより、ずっと大きな声が出た。
外の応援団の野太い声が、窓ガラスを通り越して室内に充満していく。それに連なる太鼓の音。廊下ですれ違う生徒と先生の挨拶。準備室の外だけで、放課後のぬるい時間が流れている。沈黙は長かった。
「怜、行こう」
先生が呼んでる、と樹に腕を引っ張り上げられて、怜は立ち上がる。何も言わずに出ていく二人に、誰も何も言わなかった。階段を降り、昇降口に来た時点でようやく、怜は我に返った。
「あ、先生は?」
「でまかせに決まってんだろ」
「ペンキ……」
「いいって」
「でもまだみんな塗ってるし」
「いいから。ここでちょっと待ってて。荷物とってきて、怜が体調悪そうだから送ってくるって言ってくるから」
「それ」
も、でまかせじゃないのと言いかけて、やめた。樹の優しさがやっと理解できて、ふう、とちいさくため息をついた。駆けていく樹の上履きの裏の白が、左右交互に現れる。それが十回ほど繰り返されたところで僕は、樹を呼び止めた。
「なに?」
樹の「なに」の言い方は、僕と全く同じだ。東京弁。さっき聞いた言葉が蘇る。東京弁なんて言葉、初めて聞いた。
「ありがとう」
僕がそう言うと、樹はポケットから何かを取り出して、放りなげた。小さな物体は放物線を描いて、僕のてのひらの中へ飛び込んでくる。
鍵だ。自転車の鍵ではない。
樹がにやりと笑う。
「怜が行きたいとこ、どこでも連れてってやるよ」
