がたん、と大きく椅子を引いた陽平の背中がぐんと迫る。六限目終了のチャイムが鳴るや否や帰り支度を始めているが、彼は机の中から教科書を引き出しているのではなく、入れているのだ。置き勉ばかりの怠け者め。
「陽平、明日古文あるから教科書持って帰って宿題やったほうがいいよ。たぶん当てられるし」
怜がそう言うと、陽平は渋々という顔で新品同様の教科書をスクールバッグに投げ入れた。
「今日は陽平の奢りな。お前「ん」で終わる物描きすぎ」
ポケットに片手を突っ込んだ樹が来て、怜の机の上にルーズリーフを置いた。六限目に絵しりとりをしていたのだ。陽平は描き終えるまで自分が描いている絵が「ん」で終わるということに気づかない。樹の薄い爪が、大きなバツ印がついた脳みそと複雑な山脈と蛇をこつこつと叩く。いや、そう見えるだけで、正しくはラーメン、牛丼、ベーコンだ。これだけ頻繁に絵しりとりをしているのに、陽平の画力は一向に上がらない。代わりに怜と樹の読解力が向上したので、最近は陽平の絵の下手さに誰も突っ込まなくなった。
「ええだろ別に、バツしてあるやん。ちゃんと横に「ん」で終わらんやつ描き直しとるし」
「いやいや、描き終わってんだからアウトでしょ。しかも三回連続だぞ」
えー、と頭をかく陽平の前にたむろしている生徒たちが、急に静かになった。気づくと他の生徒もどこかそわそわしている。斜め後ろから「あれ、三年生じゃない?」というささやきが聞こえる。みんなの視線は、入り口付近にたむろしている三人の生徒に集まっていた。
そのうちの一人は、「どこどこ」と不躾に教室中を見回している。「お疲れさまっすー」と彼らとすれ違うクラスメイトがいることからして、先輩に間違いない。その中で一番目つきが悪い人と目が合ってしまい、おまけにその口が「あ、いた」と動いた。怜は慌てて目を伏せ、筆記用具をバッグに詰めながら考える。
誰?
僕、先輩なんか一人も知らないよ。
早く帰ってくれないかなあ、と思いながらもう空っぽの机の中に手をいれたとき、目の前におおきな影ができた。
「三好先輩じゃないっすか。なになに、俺呼び出し喰らう系?」
陽平が立ち上がっていた。怜はおそるおそる顔を上げる。背中しか見えない陽平の声は笑みを含んでいるが、肩にスクールバッグをかけて三人組にゆっくり近づいていく様子は、穏やかとは言えない。
突然訪れる静寂。
今この瞬間動いているのは、陽平だけだ。
「仙波もこのクラスか。落ちこぼればっかり集まっとんかここは」
ネクタイを緩めながら、三好とかいう先輩が笑い返す。
陽平の足が止まった。つま先が三好のつま先に触れてしまいそうなほど近い。
陽平に至近距離で見下ろされているのに、三好も一歩も引かない。もう一人が、「三好、内申」とささやいて、「何もせんわ」と返した。陽平が立ち上がってからずっと、陽平と三好は瞬きもせずに互いを見つめ合ったままだ。けれどこの肌を刺すような緊張感はもちろん親密の証などではなく、挑発だ。
「わざわざ落ちこぼれの俺の顔、見に来てくれるとは。俺やっぱモテるんじゃなあ」
「違うわボケ。調子乗んなや仙波」
「それは無理。俺は生まれたときからお調子者じゃけん。ほら、先輩そこどいてや」
「勝手に行けや」
「はっきり言わな分からんのん? 俺はもう出ていってくれって言よるんです」
「お前ほんとうざいな」
「うざいんはどっちじゃ」
何とかしなきゃ。
そう思うのに、怜の身体はまるで見えない糸でその場に縫い付けられているかのようだ。先に教室を出て行った誰かが、先生を呼んできてくれたりしないだろうか。
誰か。
ぎぎぎぎ、と後ろで椅子を机にしまう音がした。わざとだろうと言うような、大きくゆっくりとした不快な音に、みんなの視線がこちらへ向けられる。帰るぞ怜、という樹の声で、魔法が解けたように怜の身体は自由になった。バッグを抱き抱えるようにして樹の後に続く。陽平は何事もなかったかのように、「失礼しまーす」とわざと三好たちの間を割って教室を出る。あからさまな舌打ちに怜は身体を縮こまらせたが、陽平も樹も何でもないように廊下を闊歩している。階段を降りる前に振り返ると、三好たちはもういなくなっていた。
「陽平、やっぱ俺の奢りな」
裏庭の自販機の前まで来ると、樹はそう言ってタッチセンサーに携帯をかざす。ここにメロンソーダやバナナミルクなんてないので、陽平はコーラを、怜は緑茶を、そして樹は缶コーヒーをそれぞれ手に取る。季節に置いていかれた事を嘆くような蝉の声が、中庭にこだましていた。
「陽平、ありがとう」
樹の唐突な感謝に、怜はようやくある可能性に思い至った。さっき教室で先輩と目が合ったと思ったが、それは勘違いだ。彼らは怜の後ろの席の、樹を見ていたのだ。陽平はそれを察して、最初に立ち上がったのか?
「別にええし。三好先輩は偉そうなんは態度だけでビビりじゃし、たぶんもう来んよ」
何度来てもらったって顔も覚えらんないけどな、と樹はため息混じりに言う。
「もう知ってると思うけど、俺一年んとき二回留年してさ」
えっ、と驚いた怜が樹を見上げるのと同時に、陽平は「知っとる」と言った。
知ってたの?
もしかして、知らなかったのって、僕だけ?
「怜は知らなかったか。ごめん、別に隠すつもりはなかった。俺がけっこう歳いってることなんか、見たら分かるだろうって思ってたし」
「まあ、樹は有名人じゃし」
そうか。
怜はこの時初めて理解した。自分には友達がいなかったから樹についての噂を聞いたことがなかっただけで、陽平はもちろん、クラスのみんなも、学校中が知っていたのだ。知野樹という、二年留年した生徒のことを。だからみんな、最初樹のことをパイセンと呼んでいたのか。
そして今日、留年しなければ同じ教室にいるはずだったかもしれない元クラスメイトを、先輩たちが冷やかしにきたのだ。
「ま、そういう訳だからさ。今さらだけど、別に無理して俺と一緒にいてくんなくても大丈夫だよ。俺も逆に、あんま若いノリとかついていけねーし」
「そういう事言うなや」
半分以下になったペットボトルを宙に投げながら、陽平が言った。
「若いノリについてこいや樹。俺らの歳の差が縮まることはないけど、心の距離は縮まっとるだろ。二対一なんじゃけん、樹が俺らに歩みよれや」
友達だろが。
最後の一言で、陽平は樹の背中を強めに叩いた。「俺今めっちゃかっこええこと言わんかった? もっかい言うたろか?」と笑いを誘うことも忘れずに。
陽平はその後、体育祭の応援団の準備があるから、と体育館へ消えていった。その広い背中が見えなくなると、怜はへたり込むように、花壇の縁に座り込んだ。まだ持っているペットボトルには、半分以上緑茶が入っている。ゆらゆら揺れる黄色に視線を落として、怜は陽平のことを考えた。
陽平の気取らなさ。あれは天然ではなく、丁寧な人間観察と細やかな配慮によって作られた彼なりの優しさの現れだった。陽平の深い思いやりがあったからこそ、怜は今まで陽平のことを、単に図々しくて空気の読めない陽キャとして気兼ねなく扱うことができた。いつだって陽平の前では、ありのままに振る舞うことができた。そんな大きな陽平の情を、自分は当たり前に受け取っていたのだ。何も知らず、今の今まで。
一番子供だったのは、僕だ。
陽平の強引さのせいにしておけば、自分が努力しなくても友情は勝手に育まれてきた。陽平がいつも笑わせてくれるから、こちらからは特別な働きかけをしなくても、陽平についても樹についてもよく知っているような錯覚を覚えていた。
でも。
僕はちゃんと、友達をできているだろうか。
陽平のように樹のピンチに立ち上がることもできなければ、前向きな言葉をかけることもできないでいる。
それに、もし今日先輩が教室に現れなかったら、樹だって留年について僕に言わなかったかもしれない。陽平が僕に口をすべらすことなんてこの先もなかっただろうし、僕が知ったのは単に暴かれてしまったから、と言う方が正しい。別に樹に信頼されていたからじゃない。
樹が語りたくないなら黙っていればいい。少し前まではそう割り切っていたはずなのに、自分が、自分だけが知らなかったという事実に、こんなにも打ちのめされている。それは去年ずっと一人で教室にいた時とは比べ物にならないほど、怜の存在自体を危うくしてしまう強烈な孤独だった。
ペットボトルに口をつける。すっかりぬるくなった液体が、空っぽの自分の中に落ちていく。何の栄養にもならずに、自分の身体を通り過ぎるだけの緑茶。
「ま、俺も怜と似たようなもん。別に一人でも学校でやってくつもりだったけど、陽平がそうさせてくんねーっつうか。あいつのおかげで楽しいし」
そう言って缶をゴミ箱に捨てる樹の背中は、陽平よりも少し細い。その白いシャツに入った薄い影にもまた、孤独が潜んでいるみたいだ。
「僕も楽しい。陽平のおかげだけど、樹のおかげでもあるよ」
樹がこちらに背中を向けていたからこそ言えた恥ずかしい台詞だった。もう水分なんかいらないのに、僕は緑茶をごくごくと飲んだ。
「かわいいこと言うじゃん怜っ。陽平にも教えねーと」
「やめてよっ」
携帯を取り出して「もう一回言って、動画取るから。何だっけ? 陽平も樹も大好き、だったっけ」とふざける樹を両手で軽く殴りながら、帰路についた。
いつの間にか、蝉の声は止んでいた。
「陽平、明日古文あるから教科書持って帰って宿題やったほうがいいよ。たぶん当てられるし」
怜がそう言うと、陽平は渋々という顔で新品同様の教科書をスクールバッグに投げ入れた。
「今日は陽平の奢りな。お前「ん」で終わる物描きすぎ」
ポケットに片手を突っ込んだ樹が来て、怜の机の上にルーズリーフを置いた。六限目に絵しりとりをしていたのだ。陽平は描き終えるまで自分が描いている絵が「ん」で終わるということに気づかない。樹の薄い爪が、大きなバツ印がついた脳みそと複雑な山脈と蛇をこつこつと叩く。いや、そう見えるだけで、正しくはラーメン、牛丼、ベーコンだ。これだけ頻繁に絵しりとりをしているのに、陽平の画力は一向に上がらない。代わりに怜と樹の読解力が向上したので、最近は陽平の絵の下手さに誰も突っ込まなくなった。
「ええだろ別に、バツしてあるやん。ちゃんと横に「ん」で終わらんやつ描き直しとるし」
「いやいや、描き終わってんだからアウトでしょ。しかも三回連続だぞ」
えー、と頭をかく陽平の前にたむろしている生徒たちが、急に静かになった。気づくと他の生徒もどこかそわそわしている。斜め後ろから「あれ、三年生じゃない?」というささやきが聞こえる。みんなの視線は、入り口付近にたむろしている三人の生徒に集まっていた。
そのうちの一人は、「どこどこ」と不躾に教室中を見回している。「お疲れさまっすー」と彼らとすれ違うクラスメイトがいることからして、先輩に間違いない。その中で一番目つきが悪い人と目が合ってしまい、おまけにその口が「あ、いた」と動いた。怜は慌てて目を伏せ、筆記用具をバッグに詰めながら考える。
誰?
僕、先輩なんか一人も知らないよ。
早く帰ってくれないかなあ、と思いながらもう空っぽの机の中に手をいれたとき、目の前におおきな影ができた。
「三好先輩じゃないっすか。なになに、俺呼び出し喰らう系?」
陽平が立ち上がっていた。怜はおそるおそる顔を上げる。背中しか見えない陽平の声は笑みを含んでいるが、肩にスクールバッグをかけて三人組にゆっくり近づいていく様子は、穏やかとは言えない。
突然訪れる静寂。
今この瞬間動いているのは、陽平だけだ。
「仙波もこのクラスか。落ちこぼればっかり集まっとんかここは」
ネクタイを緩めながら、三好とかいう先輩が笑い返す。
陽平の足が止まった。つま先が三好のつま先に触れてしまいそうなほど近い。
陽平に至近距離で見下ろされているのに、三好も一歩も引かない。もう一人が、「三好、内申」とささやいて、「何もせんわ」と返した。陽平が立ち上がってからずっと、陽平と三好は瞬きもせずに互いを見つめ合ったままだ。けれどこの肌を刺すような緊張感はもちろん親密の証などではなく、挑発だ。
「わざわざ落ちこぼれの俺の顔、見に来てくれるとは。俺やっぱモテるんじゃなあ」
「違うわボケ。調子乗んなや仙波」
「それは無理。俺は生まれたときからお調子者じゃけん。ほら、先輩そこどいてや」
「勝手に行けや」
「はっきり言わな分からんのん? 俺はもう出ていってくれって言よるんです」
「お前ほんとうざいな」
「うざいんはどっちじゃ」
何とかしなきゃ。
そう思うのに、怜の身体はまるで見えない糸でその場に縫い付けられているかのようだ。先に教室を出て行った誰かが、先生を呼んできてくれたりしないだろうか。
誰か。
ぎぎぎぎ、と後ろで椅子を机にしまう音がした。わざとだろうと言うような、大きくゆっくりとした不快な音に、みんなの視線がこちらへ向けられる。帰るぞ怜、という樹の声で、魔法が解けたように怜の身体は自由になった。バッグを抱き抱えるようにして樹の後に続く。陽平は何事もなかったかのように、「失礼しまーす」とわざと三好たちの間を割って教室を出る。あからさまな舌打ちに怜は身体を縮こまらせたが、陽平も樹も何でもないように廊下を闊歩している。階段を降りる前に振り返ると、三好たちはもういなくなっていた。
「陽平、やっぱ俺の奢りな」
裏庭の自販機の前まで来ると、樹はそう言ってタッチセンサーに携帯をかざす。ここにメロンソーダやバナナミルクなんてないので、陽平はコーラを、怜は緑茶を、そして樹は缶コーヒーをそれぞれ手に取る。季節に置いていかれた事を嘆くような蝉の声が、中庭にこだましていた。
「陽平、ありがとう」
樹の唐突な感謝に、怜はようやくある可能性に思い至った。さっき教室で先輩と目が合ったと思ったが、それは勘違いだ。彼らは怜の後ろの席の、樹を見ていたのだ。陽平はそれを察して、最初に立ち上がったのか?
「別にええし。三好先輩は偉そうなんは態度だけでビビりじゃし、たぶんもう来んよ」
何度来てもらったって顔も覚えらんないけどな、と樹はため息混じりに言う。
「もう知ってると思うけど、俺一年んとき二回留年してさ」
えっ、と驚いた怜が樹を見上げるのと同時に、陽平は「知っとる」と言った。
知ってたの?
もしかして、知らなかったのって、僕だけ?
「怜は知らなかったか。ごめん、別に隠すつもりはなかった。俺がけっこう歳いってることなんか、見たら分かるだろうって思ってたし」
「まあ、樹は有名人じゃし」
そうか。
怜はこの時初めて理解した。自分には友達がいなかったから樹についての噂を聞いたことがなかっただけで、陽平はもちろん、クラスのみんなも、学校中が知っていたのだ。知野樹という、二年留年した生徒のことを。だからみんな、最初樹のことをパイセンと呼んでいたのか。
そして今日、留年しなければ同じ教室にいるはずだったかもしれない元クラスメイトを、先輩たちが冷やかしにきたのだ。
「ま、そういう訳だからさ。今さらだけど、別に無理して俺と一緒にいてくんなくても大丈夫だよ。俺も逆に、あんま若いノリとかついていけねーし」
「そういう事言うなや」
半分以下になったペットボトルを宙に投げながら、陽平が言った。
「若いノリについてこいや樹。俺らの歳の差が縮まることはないけど、心の距離は縮まっとるだろ。二対一なんじゃけん、樹が俺らに歩みよれや」
友達だろが。
最後の一言で、陽平は樹の背中を強めに叩いた。「俺今めっちゃかっこええこと言わんかった? もっかい言うたろか?」と笑いを誘うことも忘れずに。
陽平はその後、体育祭の応援団の準備があるから、と体育館へ消えていった。その広い背中が見えなくなると、怜はへたり込むように、花壇の縁に座り込んだ。まだ持っているペットボトルには、半分以上緑茶が入っている。ゆらゆら揺れる黄色に視線を落として、怜は陽平のことを考えた。
陽平の気取らなさ。あれは天然ではなく、丁寧な人間観察と細やかな配慮によって作られた彼なりの優しさの現れだった。陽平の深い思いやりがあったからこそ、怜は今まで陽平のことを、単に図々しくて空気の読めない陽キャとして気兼ねなく扱うことができた。いつだって陽平の前では、ありのままに振る舞うことができた。そんな大きな陽平の情を、自分は当たり前に受け取っていたのだ。何も知らず、今の今まで。
一番子供だったのは、僕だ。
陽平の強引さのせいにしておけば、自分が努力しなくても友情は勝手に育まれてきた。陽平がいつも笑わせてくれるから、こちらからは特別な働きかけをしなくても、陽平についても樹についてもよく知っているような錯覚を覚えていた。
でも。
僕はちゃんと、友達をできているだろうか。
陽平のように樹のピンチに立ち上がることもできなければ、前向きな言葉をかけることもできないでいる。
それに、もし今日先輩が教室に現れなかったら、樹だって留年について僕に言わなかったかもしれない。陽平が僕に口をすべらすことなんてこの先もなかっただろうし、僕が知ったのは単に暴かれてしまったから、と言う方が正しい。別に樹に信頼されていたからじゃない。
樹が語りたくないなら黙っていればいい。少し前まではそう割り切っていたはずなのに、自分が、自分だけが知らなかったという事実に、こんなにも打ちのめされている。それは去年ずっと一人で教室にいた時とは比べ物にならないほど、怜の存在自体を危うくしてしまう強烈な孤独だった。
ペットボトルに口をつける。すっかりぬるくなった液体が、空っぽの自分の中に落ちていく。何の栄養にもならずに、自分の身体を通り過ぎるだけの緑茶。
「ま、俺も怜と似たようなもん。別に一人でも学校でやってくつもりだったけど、陽平がそうさせてくんねーっつうか。あいつのおかげで楽しいし」
そう言って缶をゴミ箱に捨てる樹の背中は、陽平よりも少し細い。その白いシャツに入った薄い影にもまた、孤独が潜んでいるみたいだ。
「僕も楽しい。陽平のおかげだけど、樹のおかげでもあるよ」
樹がこちらに背中を向けていたからこそ言えた恥ずかしい台詞だった。もう水分なんかいらないのに、僕は緑茶をごくごくと飲んだ。
「かわいいこと言うじゃん怜っ。陽平にも教えねーと」
「やめてよっ」
携帯を取り出して「もう一回言って、動画取るから。何だっけ? 陽平も樹も大好き、だったっけ」とふざける樹を両手で軽く殴りながら、帰路についた。
いつの間にか、蝉の声は止んでいた。
