一人になりたいのに、田舎の陽キャと訳あり年上男子が二人がかりで迫ってくるんですけど。

「柏島って海外なの?」
 そう言って小さな目を見開いた怜は、かわいそうなくらいビビっていた。陽平は今、三人での旅行を振り返ってみて、実は怜の説得が一番の難関だったんじゃないかと思う。
 行き先がほぼ決定し、「俺らが泊まる島の中にはコンビニもスーパーもないし、携帯の電波もあんまないけん」と陽平が伝えたときのこと。怜はやっぱりやめようと言い出すんじゃないかと、樹だって思ったはずだ。だけど、「じゃあしっかり下調べしていこう」と旅行の準備やスケジューリングに一番積極的だったのも怜だ。びっくりした。修学旅行の自由行動にはあんなに興味なさそうだったのに。どこに行ってもすぐに休憩をとりたがって、どこにでもあるチェーンのカフェで、まずそうにバナナミルクをすすっていた怜とは別人だった。
 とは言うものの、怜は世界とのつながりをあきらめきれなかったみたいで、初日は狭い民宿の部屋で携帯を高くかかげ、電波の届きそうな場所を往生際悪く探していた。そんな怜を見た樹が悪い笑みを陽平によこす。こういう時、つまり樹がくだらないいたずらを思いついたとき、陽平には説明などいらない。二人で怜の隣に立ち、それぞれ携帯のライトをつけて怜と同じように光を高い位置で左右に振りながら、「俺夏フェス初めて」「この曲めっちゃ好き」と怜をからかった。怒られるかと思ったのに、怜は「うちわもあるよ」とハンディファンを手渡してきた。爆笑した。
 夜は六畳間にぎゅうぎゅうに布団を三つ敷き詰めて、寝転がってポーカーをした。三回連続で樹が勝った。ムカついた。まじで。ポーカーをしようと言い出したのは俺だけど、明らかに樹が経験者どころか上級者だと分かる局面が何度かあり、初心者ぶっていた樹を狡《こす》いと思った。これはもう、油性マジックで眉毛をつなげてやらなきゃいけないくらいの大罪だ。バックパックを漁っていると、後ろから「うぐっ」と悲壮な声が。えっ、と振り返った俺の目に映ったのは。
 怜だ。
 怜が、樹に絡みついていた。
 樹の「ギブギブ」と布団を叩く声はか細い。その瞬間、たまらず吹き出してしまった。
「怜の寝技、めっちゃきれい」
 初日に怜が俺の泳ぎについて褒めてくれたのを真似して言ってみた。怜っぽく標準語を使ったら、声がひっくり返って二人が吹いた。練習せないかん。
「リングだったらもっときれいにかけれるよ」
 怜も海での俺の台詞をなぞって、下手くそな方言で対抗してきた。その華麗な伏線回収に、俺は床を叩いて笑い転げた。だってそんなわけないし。こんなひょろひょろの怜がリングに上がるわけないし。俺そんなふわふわした話し方絶対せんし。腹ちぎれるわ。三人で涙を流しながら、布団の上でのたうち回った。
 楽しい。
 バカみたいに楽しい。
 この時間が、ずっとずっと続けばいいと思う。でもそう願うほど、終わりが来ることを考えてしまう。終わるっていうか、変わるっていうか。何かが全くおんなじ状態でずっと続くなんてことはないから。
 どうしてか。
 たぶん、怜のせい。
 怜があんなふうに笑ったから。だって、あんなふうに笑うやつじゃなかった。俺の知っている怜は。
 俺の勧めるままに海に顔をつけ、夏の味のする海水をかき分けて、海底に踊る色とりどりの小魚たちを追いかけたあと、怜が水面に戻ってきたとき。
 ごく薄い水色のゴーグルレンズの向こう側で、怜の丸い目は海に負けないくらい澄んでいた。その目が一日分の太陽の雫を閉じ込めたような輝きを放った瞬間、きゅううっと細められた。
 俺の両肩に食い込む怜の細い指。
 いつもはきつく結ばれている薄い唇が大きく開き、そこから言葉が紡がれるより先に、喜びの熱があふれる。
 そして怜は笑った。
 声をたてて。
 教室では、息を吸うのも面倒くさそうな顔をしている怜が。
 あの瞬間、心の奥底に吹き荒れた強烈な感情が、ずっと離れない。もっと安全な所に避難しなければ危険だと思うのに、どこへ逃げていいのか分からない。何よりこの台風の真ん中で、もう少し待っていたいとさえ思う。
 けど待つって、何を……?
「陽平、火つけるやつ持ってる?」
 ファミリーセットと書かれた手持ち花火の袋を開けながら、怜が聞いてきた。ディズニーランドの花火には負けるが、海辺で手持ち花火も楽しいだろうと、俺が家からわざわざ持ってきた。
「あ、ごめん。ないわ。一回宿戻って借りてこよか」
「俺あるよ」
 じっ、とちいさな音のあと、樹の手元が明るく揺れた。ライターだ。
 樹がどうしてライターなんかをポケットに入れていたのか、俺も怜も聞かない。こいつにはこいつの世界があって、その境界線は俺にはとてもよく見える。分かりやすくていい。怜みたいに、近づいても近づいても本体がどこにあるのか分からないよりよっぽど。
 夜になると、昼間の暑さもにぎやかさも幻だったんじゃないかと思うくらいに、この海辺は静まり返る。街灯さえほとんどない。星がまたたくというのがどういう事か、はっきりと分かった。何せ頭上には壮大な星空が広がっていて、これはもう、夜空というより宇宙だ。あんなに色鮮やかだった景色も今は深い闇に沈み、海は目を凝らしても見えないぐらい黒く、波音だけがその存在を証明している。
「あれ? つかん……わっ、ついた」
 しけっているのかもしれないとあきらめかけた頃に、突然思い出したように花火が火を噴射した。あんなに頑固に着火を拒んでいたわりに、一度ついた火は生き急ぐように光を放つ。持ち主がちゃんと見ていようがいまいが関係なく、好きなタイミングで色を変え、形を変え、いきなり終わる。
「陽平、いぶされちゃうよ」
 風向きが変わり、目の前に立ちこめていた煙を気遣って怜が俺の手をとった。
 自分より低い体温と、関節の細さ。
 握り返す前にするりと離れていく瞬間に感じた皮膚の感触に気を取られ、陽平は一瞬、ここがどこだかを忘れてしまった。俺ら、こんなに気軽に手なんかつなげる間だったっけ、と思う自分の方が変なんじゃないかと思ってしまうほど、怜のその動作は自然だった。
 もう一回、手、つないだろかな。
 確かめたかった。自分の中に渦巻くこの気持ちも、怜の中の得体の知れないものも、もう一度触れてみれば分かる気がした。
 でも。
 反対側にいた樹と目が合って、樹が「俺も俺も」とこちらへ寄ってきた。それで何となく、変なことしなくてよかった、とほっとしてしまった。
 舞い上がる煙がほんのり淡く色づく。それに合わせるように、怜のほっそりとした横顔にも赤みが帯びていく。
 伏せた瞳。
 形のいい鼻。
 弧を描いた唇。
 ひかえめなパーツがちらちらと揺らめいて、世界がふっと暗転する。
「ちょっと、二人とも何やってんの。暗いんだから火を絶やさないでよ」
「ははっ、悪い悪い。怜に見惚れてたわ」
 樹が放った冗談に、俺はぎくっとした。
 自分が怜ばかり見ていたことに気づかされた。樹も同じように怜を見ていたのだろうか。だったら何だと、心の中で自分をどやした。
「あとちょっとやん。ほなこれいこか」
 携帯のライトでまだ残っている頼りない棒切れを探し当て、それぞれ火をつけた。
「樹は夏休みに、彼女とどっか行ったりするん?」
 樹が彼女とどこで何をしようとどうでもいい。なのに今は、樹には自分たち以外の大切な人がいて欲しいと思っている。ここにいる三人の友情はそれぞれが同じ熱量や方向性で成り立っているんじゃなくて、何となく樹の力加減次第でどうにでも傾いてしまうような気がする。だから樹がいつも樹のままでいてくれることは、みんなにとって大事だ。
「見たい映画があるとか言ってたけどな」
「ええなーそれ。デートで映画なんか見に行ったら彼女の顔しか見んと思うわ、俺」
「ははっ。金もったいねー」
 樹の顔はちかちかと揺れて消える。バケツの中に飛び込んできた燃えかすが、じゅっと最後のうめきを上げた。
「結局、陽平は樹に女子紹介してもらったの?」
 怜が線香花火の袋を開けながら聞く。陽平の花火はなかなか消えない。もう二人は次の花火に手を伸ばしているというのに。
「いや、今は彼女とかいらんかなって」
「はっ? 嘘つけ、俺に散々頼んできただろ。ご丁寧に好みのリストまでつけて。丸顔で背低めでできれば胸が……」
 樹の反論を、「まあ確かに言うたけどっ」と声量でねじ伏せた。だって、ここでそういう話をしたいんじゃない。
「前は彼女ほしかったけど、今はおったらええな、ぐらい。俺のことより怜はどうなん?」
 線香花火のささやきを聞き漏らすまいとするように、しゃがんで小さくなっている怜に話をふった。危うげにぶら下がっている熱の玉は、小刻みに震えながらやがて少しずつちいさな棘を出し始める。怜の視線はそれをとらえて放さない。その火が落ちてしまったら視線の行き場を無くしてしまうのではないかとこっちが不安になってしまうほど、揺れない。
「今からちょっと感じ悪いこと言うね。僕、あんまりこっちの女子好きじゃないかも。何でだろう。方言が苦手なのかな?」
「分かる」
 樹の同調に、俺は顔を上げた。誰も俺を見ない。二人とも、それぞれの花火を見つめている。まるでみんな違うことを話しているみたいだ。
「俺も中学まで関東だったから、こっちのイントネーションとか語尾とかが威圧的に感じる時はある」
「えーっ、知らんかった。俺、そんなこわい?」
「陽平はかわいい」
 樹の即答に、「はあ? 意味分からん」と毒づいたが、怜も「そうそう、和む。ずっとそのままでいてほしい」と微笑むので、それ以上考えるのをやめた。
「文化祭の花火も三人で見よや。今年は百五十周年記念で打ち上げやるらしいけん」
「うん、そうしよう!」
「屋上の踊り場あるじゃん、たまに俺らが昼飯食ってるとこ。あそこの窓からだったらバッチリ見えんじゃね?」
「確かに! 校舎って開いてんのかな」
 ぱちぱち。ぱちぱち。
 弾ける光と独特の焦げ臭さが、海風に誘われて流れていく。今この一瞬を照らすことに命をかけている線香花火。ゆっくりと迫りくる終わりの時間。今日海中で見た魚のうすい尾ひれみたいなこよりを、そっとつまんでいる怜の指。
 落とすなよ。
 とっくに終わってしまった自分の花火をぶら下げたまま、俺は怜の最後の火を、じっと見守っていた。