「怜ってキーホルダーとか好きなタイプだったんだな。意外」
樹の視線の先には怜のリュックサックについたバナナミルクの飾り。怜は、そんなんじゃない、と言おうとして、じゃあ何なんだと考えてみたがいい答えが浮かばないでいる。何となくあった方が落ち着くなと思っただけだ。深い意味はない。
「いや、そこは怜が俺らの事好きすぎってことでええやん。俺もメロンソーダつけて来たらよかった」
反対隣の陽平が、怜の華奢な肩をぎゅっと抱く。その力強い腕は一瞬で怜を解放し、陽平は「あっはは」と一音一音丁寧に発して、怜の頭をくしゃくしゃにした。そうかもね、という代わりに、怜は持っていたポッキーを二人の口に三本ずつ押し込む。急に静かになり、自分たち三人がいかに浮かれているのかを思い知らされた。
地元の最寄り駅を出発してはや二時間。車窓は真っ黒。ようやくトンネルを抜けたと思っても、景色は緑につぐ緑で、すぐにまた新たなトンネルに突入する。今住んでいる地域だって十分に田舎だと思っていたが、怜は自分の考えを改めた。こんな山奥、来たことがない。それなのにこれから更に電車とバスを乗り継いで、五時間以上も移動する。ちなみに一本乗り遅れると、今日中に目的地に着くのは不可能だ。
陽平が三人で修学旅行のやり直しをすると言い出したときは、東京にもう一度行くのかと思った。けれど怜も樹も東京には興味がなかったし、どうせ夏に行くなら海がいいということになった。海なら沖縄に行こうと安直に考えたが、実際に調べてみると真夏の沖縄旅行は高校生の手が届くようなお値段ではなかった。それに、車がなければ行けない観光地も多い。
そこで陽平の親戚が民宿を経営しているという、高知の柏島が候補に挙がった。エメラルドグリーンの海を分断する浅瀬、野生のイルカに色鮮やかな魚たち。SNSで見るその海は、沖縄に負けず劣らず美しかった。ピーク時でもレジャーや食事の値段は良心的で、何より陽平の親戚の厚意で民宿を一部屋借りられることもあり、それぞれの親からの了解や協力も得やすかった。
ただし、東京へ行くよりも時間がかかる。
怜は気が遠くなるような道のりを思い、出陣前の侍のような覚悟で来た。携帯でバス停と渋滞情報を何度も確認し、トイレに行く時も二人を急かして笑われた。けれどバスに乗りさえすれば、緊張とも退屈とも暑さとも無縁だ。廃校になった木造の校舎、つたが巻き付いてすこし傾いたカーブミラーや苔むした地蔵の群れ。時間や場所の概念を強引に捻じ曲げて、子どもの頃によく見た映画の中にちっぽけなバスごと押し込められてしまったような錯覚を覚える。初めて来るのに懐かしく、空気の粒がまぶしい。薄っぺらな電子機器なんかでは、とてもじゃないがこの匂い立つような景色をおさめきれない。怜は携帯の録画を止めた。
「海!」
空と海が青さを競い合うような海岸線に出た瞬間、誰ともなく声を漏らした。海を見たら「海」と叫んで目を凝らしてしまうのは、人間の本能かもしれない。この色は人をワクワクさせる。田舎者も、都会人も、子どもも大人も関係なく、あらゆる人間の視線を集め、その圧倒的質量で迎え入れてくれる。
宿で陽平の親戚に挨拶を済ませ、さっそく水着に着替えて砂浜へと向かった。
赤や黄色のビーチテント。水色の浮き輪。人々の水着やTシャツ。やわらかな白の砂浜に、無数の明るい色が散らばっている。最初に走り出したのは陽平だ。タンクトップを放り、サンダルを脱ぎ捨て、砂を蹴り上げ、角のとれた岩を飛び越え、あっという間に水の中だ。
「あいつ、しょうがねーな」
微笑んだ樹と共にポップアップのテントを設置してから、二人で陽平の後を追う。陽平はもう頭まで濡れていて、来いよ、と手で合図している。少し離れた場所から見下ろすと、小学校の給食で出てきた水色のゼリーを思い起こさせるほど透明な海水。足をつけてみると、見た目よりも温かかった。深さを求めて進んでいくと、やがてひんやりとした海本来の温度が、熱を持った身体を包み込む。足をばたつかせ、無駄とも思える抵抗を繰り返しながら、怜は陽平の泳ぎを見ていた。
羽が生えているみたいだ。
今まで見たどの青よりも青い空を背負った陽平の背中は、自由だった。肩甲骨の滑らかな動きと、水をかきわける瞬間のたくましい背筋。見る見るうちに陽平の頭は遠ざかっていく。追いかけることすら叶わない、優雅なバタフライ。
「あいつ、中学のとき県の強化指定選手に選ばれたらしいよ」
いつの間にか隣で浮いていた樹が、もったいないよな、と言った。つまりもう、競泳はやっていないのだろう。こちらへ戻ってくるときはクロールで、ほとんどしぶきを立てずにぐんぐんと近づいてくる。サメみたいだ。
「すごい、ほんまにすごい! 魚がうじゃうじゃおるっ」
ゴーグルをつけたまま、陽平が興奮して叫ぶ。
「うじゃうじゃって言い方」
「ええけん潜ってっ。おもちゃみたいな魚がようけおる!」
おもちゃってどういうこと? と笑う樹の横で、怜はゴーグルをつけて潜ってみた。丸い石の狭間で、華美なイソギンチャクがすべらかな触手で手招きをしていて、そこには。
あ、いる。
いるいるいる。
水族館でしか見たことのない景色がそこにあった。色鮮やかな魚の群れ。細やかな模様が入っていたり、飾りとしか思えないような派手なひれをたなびかせていたり。それはやはり、現実世界に生息するものとは思えないほどに優美で可憐で、
「うんっ、おもちゃみたいな魚!」
水面から顔をあげた怜にも、そう表現するしかなかった。だろだろ? と陽平とうなずきあっては、潜ってみる。それにしても、陽平の息は長い。彼の一回の潜水のうちに、怜は少なくとも二回は息継ぎしなければならない。ヒレなんかついていないのに、全身の筋肉をしなやかに躍動させるその姿は、海の生き物そのものだ。
「陽平の泳ぎ、めっちゃきれいだね」
怜がそう告げると、陽平はすこし驚いたような顔をして、照れ隠しみたいに笑う。
「プールだったらもっときれいに泳げるよ」
「陽平、プール行ってんの?」
「スイミングは中学でやめたけど、泳ぎたいときは市営プール行きよるよ」
泳ぎたいとき。そんなときが自分に訪れたことは一度たりともなかったので、怜は陽平の住む世界との違いに素直に感嘆した。
「髪ギチギチになるやつじゃんそれ」
毛先の色が抜けた髪を豪快にかき上げた陽平を、樹が指差した。
「当たり前じゃ。海水で髪ギチギチになって砂がパンツの中でザリザリして日焼け止め塗ったのにところどころ赤くなってやばっ、てなるまでが海水浴の思い出じゃ。樹もなれ」
「今日はだめだ陽平! 俺めっちゃヘアセットして来たからっ」
「チャラチャラしやがって。水辺は俺が主役なんじゃ。モブのお前がモテたら一生許さんけん!」
陽平はなぜだか樹だけではなく怜にも容赦なく水をかけてきたので、怜と樹は浅瀬へと避難する。水中で陽平に敵うわけがない。
「埋めよう。埋めるしかない、陽平をっ」
二人は力を合わせ、陽平を砂で覆った。お決まりのふくよかな女性の身体のラインを丹念に作り上げ、貝殻でデコレーションする。それを見てゲラゲラと笑う子どもたちに、陽平は「俺ははるばる愛媛からきた人魚じゃ。セクシーだろ」とにこやかに説明する。泳いできたん? バスと電車で来た。人魚じゃないやん。魚人だろ。カッパだろ。きゅうり好きなん? 陽平を覆う砂の上にも、子供たちの上にも、淡くなり始めた日差しが降り注いでいる。
「そろそろ部屋戻らん? 俺腹減った」
「待って陽平、写真撮ってからな」
陽平が指一本でも動かせばすぐに砂はひび割れてしまう。怜は岩場で見つけた立派な昆布を、陽平の顔に差し出した。
「食べる?」
「食べん。俺、カッパじゃけん」
三人分の笑い声が、まだ沈みたくないと西の空にしがみつく太陽に吸い込まれていく。今日一日ずっと緩みっぱなしの顔を、しめる方法がもう、分からない。
樹の視線の先には怜のリュックサックについたバナナミルクの飾り。怜は、そんなんじゃない、と言おうとして、じゃあ何なんだと考えてみたがいい答えが浮かばないでいる。何となくあった方が落ち着くなと思っただけだ。深い意味はない。
「いや、そこは怜が俺らの事好きすぎってことでええやん。俺もメロンソーダつけて来たらよかった」
反対隣の陽平が、怜の華奢な肩をぎゅっと抱く。その力強い腕は一瞬で怜を解放し、陽平は「あっはは」と一音一音丁寧に発して、怜の頭をくしゃくしゃにした。そうかもね、という代わりに、怜は持っていたポッキーを二人の口に三本ずつ押し込む。急に静かになり、自分たち三人がいかに浮かれているのかを思い知らされた。
地元の最寄り駅を出発してはや二時間。車窓は真っ黒。ようやくトンネルを抜けたと思っても、景色は緑につぐ緑で、すぐにまた新たなトンネルに突入する。今住んでいる地域だって十分に田舎だと思っていたが、怜は自分の考えを改めた。こんな山奥、来たことがない。それなのにこれから更に電車とバスを乗り継いで、五時間以上も移動する。ちなみに一本乗り遅れると、今日中に目的地に着くのは不可能だ。
陽平が三人で修学旅行のやり直しをすると言い出したときは、東京にもう一度行くのかと思った。けれど怜も樹も東京には興味がなかったし、どうせ夏に行くなら海がいいということになった。海なら沖縄に行こうと安直に考えたが、実際に調べてみると真夏の沖縄旅行は高校生の手が届くようなお値段ではなかった。それに、車がなければ行けない観光地も多い。
そこで陽平の親戚が民宿を経営しているという、高知の柏島が候補に挙がった。エメラルドグリーンの海を分断する浅瀬、野生のイルカに色鮮やかな魚たち。SNSで見るその海は、沖縄に負けず劣らず美しかった。ピーク時でもレジャーや食事の値段は良心的で、何より陽平の親戚の厚意で民宿を一部屋借りられることもあり、それぞれの親からの了解や協力も得やすかった。
ただし、東京へ行くよりも時間がかかる。
怜は気が遠くなるような道のりを思い、出陣前の侍のような覚悟で来た。携帯でバス停と渋滞情報を何度も確認し、トイレに行く時も二人を急かして笑われた。けれどバスに乗りさえすれば、緊張とも退屈とも暑さとも無縁だ。廃校になった木造の校舎、つたが巻き付いてすこし傾いたカーブミラーや苔むした地蔵の群れ。時間や場所の概念を強引に捻じ曲げて、子どもの頃によく見た映画の中にちっぽけなバスごと押し込められてしまったような錯覚を覚える。初めて来るのに懐かしく、空気の粒がまぶしい。薄っぺらな電子機器なんかでは、とてもじゃないがこの匂い立つような景色をおさめきれない。怜は携帯の録画を止めた。
「海!」
空と海が青さを競い合うような海岸線に出た瞬間、誰ともなく声を漏らした。海を見たら「海」と叫んで目を凝らしてしまうのは、人間の本能かもしれない。この色は人をワクワクさせる。田舎者も、都会人も、子どもも大人も関係なく、あらゆる人間の視線を集め、その圧倒的質量で迎え入れてくれる。
宿で陽平の親戚に挨拶を済ませ、さっそく水着に着替えて砂浜へと向かった。
赤や黄色のビーチテント。水色の浮き輪。人々の水着やTシャツ。やわらかな白の砂浜に、無数の明るい色が散らばっている。最初に走り出したのは陽平だ。タンクトップを放り、サンダルを脱ぎ捨て、砂を蹴り上げ、角のとれた岩を飛び越え、あっという間に水の中だ。
「あいつ、しょうがねーな」
微笑んだ樹と共にポップアップのテントを設置してから、二人で陽平の後を追う。陽平はもう頭まで濡れていて、来いよ、と手で合図している。少し離れた場所から見下ろすと、小学校の給食で出てきた水色のゼリーを思い起こさせるほど透明な海水。足をつけてみると、見た目よりも温かかった。深さを求めて進んでいくと、やがてひんやりとした海本来の温度が、熱を持った身体を包み込む。足をばたつかせ、無駄とも思える抵抗を繰り返しながら、怜は陽平の泳ぎを見ていた。
羽が生えているみたいだ。
今まで見たどの青よりも青い空を背負った陽平の背中は、自由だった。肩甲骨の滑らかな動きと、水をかきわける瞬間のたくましい背筋。見る見るうちに陽平の頭は遠ざかっていく。追いかけることすら叶わない、優雅なバタフライ。
「あいつ、中学のとき県の強化指定選手に選ばれたらしいよ」
いつの間にか隣で浮いていた樹が、もったいないよな、と言った。つまりもう、競泳はやっていないのだろう。こちらへ戻ってくるときはクロールで、ほとんどしぶきを立てずにぐんぐんと近づいてくる。サメみたいだ。
「すごい、ほんまにすごい! 魚がうじゃうじゃおるっ」
ゴーグルをつけたまま、陽平が興奮して叫ぶ。
「うじゃうじゃって言い方」
「ええけん潜ってっ。おもちゃみたいな魚がようけおる!」
おもちゃってどういうこと? と笑う樹の横で、怜はゴーグルをつけて潜ってみた。丸い石の狭間で、華美なイソギンチャクがすべらかな触手で手招きをしていて、そこには。
あ、いる。
いるいるいる。
水族館でしか見たことのない景色がそこにあった。色鮮やかな魚の群れ。細やかな模様が入っていたり、飾りとしか思えないような派手なひれをたなびかせていたり。それはやはり、現実世界に生息するものとは思えないほどに優美で可憐で、
「うんっ、おもちゃみたいな魚!」
水面から顔をあげた怜にも、そう表現するしかなかった。だろだろ? と陽平とうなずきあっては、潜ってみる。それにしても、陽平の息は長い。彼の一回の潜水のうちに、怜は少なくとも二回は息継ぎしなければならない。ヒレなんかついていないのに、全身の筋肉をしなやかに躍動させるその姿は、海の生き物そのものだ。
「陽平の泳ぎ、めっちゃきれいだね」
怜がそう告げると、陽平はすこし驚いたような顔をして、照れ隠しみたいに笑う。
「プールだったらもっときれいに泳げるよ」
「陽平、プール行ってんの?」
「スイミングは中学でやめたけど、泳ぎたいときは市営プール行きよるよ」
泳ぎたいとき。そんなときが自分に訪れたことは一度たりともなかったので、怜は陽平の住む世界との違いに素直に感嘆した。
「髪ギチギチになるやつじゃんそれ」
毛先の色が抜けた髪を豪快にかき上げた陽平を、樹が指差した。
「当たり前じゃ。海水で髪ギチギチになって砂がパンツの中でザリザリして日焼け止め塗ったのにところどころ赤くなってやばっ、てなるまでが海水浴の思い出じゃ。樹もなれ」
「今日はだめだ陽平! 俺めっちゃヘアセットして来たからっ」
「チャラチャラしやがって。水辺は俺が主役なんじゃ。モブのお前がモテたら一生許さんけん!」
陽平はなぜだか樹だけではなく怜にも容赦なく水をかけてきたので、怜と樹は浅瀬へと避難する。水中で陽平に敵うわけがない。
「埋めよう。埋めるしかない、陽平をっ」
二人は力を合わせ、陽平を砂で覆った。お決まりのふくよかな女性の身体のラインを丹念に作り上げ、貝殻でデコレーションする。それを見てゲラゲラと笑う子どもたちに、陽平は「俺ははるばる愛媛からきた人魚じゃ。セクシーだろ」とにこやかに説明する。泳いできたん? バスと電車で来た。人魚じゃないやん。魚人だろ。カッパだろ。きゅうり好きなん? 陽平を覆う砂の上にも、子供たちの上にも、淡くなり始めた日差しが降り注いでいる。
「そろそろ部屋戻らん? 俺腹減った」
「待って陽平、写真撮ってからな」
陽平が指一本でも動かせばすぐに砂はひび割れてしまう。怜は岩場で見つけた立派な昆布を、陽平の顔に差し出した。
「食べる?」
「食べん。俺、カッパじゃけん」
三人分の笑い声が、まだ沈みたくないと西の空にしがみつく太陽に吸い込まれていく。今日一日ずっと緩みっぱなしの顔を、しめる方法がもう、分からない。
