おとといの休み時間、いつものように陽平が怜に宿題を写させてくれと頼んできた。怜が断るより早く、後ろの席から「男らしく白紙で出せば?」という声が怜の頭を飛び越えて、陽平に届く。その冷たい響きに喧嘩でも始まるかと怜は冷や冷やしたが、陽平は「やったるわ」と大人しく席に戻った。
怜は驚いた。今どき男らしいなどという時代錯誤も甚だしい価値観に縛られている十七歳がいるなんて。
もしかしたら「男らしく」は陽平を操作するための便利な枕詞なのかもしれない。
「陽平、男らしく掃除して」
モップをスタンドマイク代わりに教壇の上で熱唱していた陽平は、「聞き惚れて掃除にならんか」と笑いながら、一応仕事をし始めた。「四角い座敷を丸く掃く」を地でいくことまではいちいち注意しない。理科室はそんなに汚れていないし、ここにいる誰もが掃除など早く終えたいのだ。
「陽平、男らしく黒板消しきれいにしといて」
「樹、男らしい黒板消しの掃除の仕方ってなんなん? ……あ、分かったかも」
怜は樹って誰だろうと考えてから、それがパイセンのことだと気づく。そうか、樹っていうのか、僕の後ろの席の人は。確かにちょっと木っぽいかも。白樺みたいな。
両手に黒板消しを装着した陽平が「喰らえ煙幕!」と叫ぶより少し早く、怜は教卓の下へ隠れた。陽平ならチョークの粉で悪ふざけしかねないと思ったのだ。案の定、白くけぶる空気の中で、陽平と樹がじゃれあっている。
怜は陽平が捨て置いたモップを拾い上げ、拭き掃除を再開した。つるりとした薄緑の床を、怜の通ったところだけが色濃く示していく。出席番号順の座席なんて初日だけだと思っていたのに、今度の担任は一向に席替えをしない。おかげで班割りも掃除分担も陽平と樹と同じまま一ヶ月が過ぎた。そのせいか、陽平の怜に対する馴れ馴れしさには磨きがかかってきた。
「怜、放課後フードコート行こや」
今ではすっかり陽平までもが下の名前で怜を呼ぶ。
「行かない」
モップの毛先から目を逸らさずに即答すると「何でえ、行こや」と返ってきた。
「陽平、勉強するとか言って、たこやき食って女子高生探して終わりじゃん。すぐ隣のゲーセン行こうとするし」
樹の言葉に、この二人はもうそんなに仲がよかったのかと気づく。でも怜にはそれも、どうでもいいことだ。モップをバケツの水に浸すと、思いのほか水がよどんだ。
「それは樹のせいじゃってっ。お前は勉強頑張りよる俺の目の前でソシャゲばっかりしよんのに。ほんまムカつくわ」
「当たり前だろ。俺は勉強必要ないし」
樹は授業に積極的というわけではないのに、当てられても間違えない。陽平みたいに宿題や抜き打ち小テストにいちいちおののいたりもしない。たぶん、優秀なのだろう。そんな二人がつるんでいるなんて、やはりちょっと不思議ではある。
「怜、行こや。ドーナツおごったるけん」
「何ドーナツ?」
しまった、反応してしまった。怜はぎゅっとモップの柄を握りしめた。ドーナツが好きな自分がうらめしい。
「チョコでもプレーンでもなんでもええよ。怜はドーナツ好きなん?」
「何だよ陽平、テキトーにドーナツとか言ったのかよウケる」と樹が鼻で笑った。自分が笑われたわけでもないのに、怜は心の中でほっといてよ、とつぶやいた。
「怜、二つ買うたるけん、明日の古文の現代語訳教えてや」
「俺はナゲットで」
「ナゲットで、じゃないわ。樹には奢らん。お前邪魔しかせんもん」
いつの間にか怜も参加することになっている。行かないと言うには、あまりにも二人が楽しそうで困る。どうしようかと思っているうちに、話題が流れた。
「樹は夢の国で何乗りたいん?」
修学旅行の班も三人同じになってしまった。誰とだって構わなかったが、このままだと彼らと仲がいいと認定されそうで落ち着かない。別に喧嘩をしたいわけではないが、たった一年同じクラスだというだけで小さなコミュニティに所属するのは労力に見合わない。めんどうだというのが、正直な気持ちだった。
その上行き先は東京だ。東京から離れてもうだいぶ経つのに、怜にとって東京はいまだに生活圏の一部という感じがする。自分がお上りさんとしてそこに登場しなければならない状況に、抵抗を感じずにはいられない。せめて京都ならよかったのに。
「俺行かねーんだわ、修学旅行」
樹が長い腕を伸ばし、窓を閉めながら言った。彼が最後の窓を閉めると、廊下の端からの「早よ帰ろ」「雨降りそう」という生徒たちの声が窓ガラスに跳ね返る。
「え、何でなん?」
金ないとか? と中途半端に音量を下げて陽平が聞くが、ほんの数メートル先に怜だっているのだ。気遣いとしては失敗だ。
「いや、金とかじゃなくて、普通にだりいから行かない」
怜は驚いて、モップを取り落としそうになった。行きたくない人間が自分の他にもいることに。そして何より、自分の意思で学校行事を拒否する生徒がいることに。だってそんなことをしたら、目立つ。いや、僕だってずっとこの学校で浮いてるし、と怜は考え直す。積極的に拒絶する度胸も覚悟も自分にはないということが、樹と自分との比較で浮き彫りになった。陽平の誘いも樹の笑いも曖昧に遠ざけるだけで、自分の立ち位置を一向にはっきりさせようとはしない己の弱さを、はあ、とちいさく吐き出してみる。早く卒業して、東京に帰りたい。結局それぐらいしか自分を解放する方法が思いつかない。
「俺らがおるのにだるいわけないだろー」
陽平の言う「俺ら」にはおそらく怜も含まれている。そんな小さなことを確認するのも大人気ないような気がして、怜はその感情を排水溝に流す。墨のような水が渦を巻いて消えた。軽く笑った樹はどんな顔をしているのか、怜には確かめる勇気がない。「あははじゃないわ、変な奴」と笑いかえす陽平もそれ以上深く掘り下げる様子はなく、話はそこで途切れてしまった。
「怜」
昇降口を出て傘を広げたとき、うしろから低い声が追いかけてきた。振り返っても傘のせいで相手の胸元までしか見えない。傘を肩にかけるようにすると、相手の顔が見えた。樹だった。いつも後ろに座っているだけだから、まともに顔を見るのは初めてかもしれない。左耳の上の方にシルバーのピアスがついているなんて、知らなかった。
「途中まで入れてよ」
樹は言いながらもう、傘の取っ手を取り上げていた。肩が触れた瞬間、いい香りがした。柔軟剤かもしれないが、それにしては甘くも爽やかでもない。
「家どこらへん?」
右斜め上、ごく近くから樹の声が降ってくる。ぱらぱらと傘の布を叩く音から守られたちいさな空間で、怜は樹を見上げた。町名を言うと、「ご近所じゃん」と一重の目が細くなる。大人と話している気分だ。この人なら修学旅行なんてだるいから行かないと言っても、親も先生も納得する気がする。怜は妙な敗北感に襲われた。
「待ってや、俺も入れて!」
後ろから走ってきた陽平が怜を半ば抱きしめるように入ってきたが、樹は陽平の上に傘をささない。
「陽平は濡れとけ。いい男だから」
「濡れんでもええ男じゃっ」
二人が傘を取り合うので、怜の肩が濡れる。
「ごめん怜、今このバカを始末するから」
「誰がバカじゃ。バカも風邪ひくんぞ!」
まだ水たまりのできていないアスファルト。それでも革靴の隙間からにじり寄ってくる湿気を足の裏に感じながら、怜は孤独なはずの雨音が二人の声にかき消されるのをじっと聞いていた。
怜は驚いた。今どき男らしいなどという時代錯誤も甚だしい価値観に縛られている十七歳がいるなんて。
もしかしたら「男らしく」は陽平を操作するための便利な枕詞なのかもしれない。
「陽平、男らしく掃除して」
モップをスタンドマイク代わりに教壇の上で熱唱していた陽平は、「聞き惚れて掃除にならんか」と笑いながら、一応仕事をし始めた。「四角い座敷を丸く掃く」を地でいくことまではいちいち注意しない。理科室はそんなに汚れていないし、ここにいる誰もが掃除など早く終えたいのだ。
「陽平、男らしく黒板消しきれいにしといて」
「樹、男らしい黒板消しの掃除の仕方ってなんなん? ……あ、分かったかも」
怜は樹って誰だろうと考えてから、それがパイセンのことだと気づく。そうか、樹っていうのか、僕の後ろの席の人は。確かにちょっと木っぽいかも。白樺みたいな。
両手に黒板消しを装着した陽平が「喰らえ煙幕!」と叫ぶより少し早く、怜は教卓の下へ隠れた。陽平ならチョークの粉で悪ふざけしかねないと思ったのだ。案の定、白くけぶる空気の中で、陽平と樹がじゃれあっている。
怜は陽平が捨て置いたモップを拾い上げ、拭き掃除を再開した。つるりとした薄緑の床を、怜の通ったところだけが色濃く示していく。出席番号順の座席なんて初日だけだと思っていたのに、今度の担任は一向に席替えをしない。おかげで班割りも掃除分担も陽平と樹と同じまま一ヶ月が過ぎた。そのせいか、陽平の怜に対する馴れ馴れしさには磨きがかかってきた。
「怜、放課後フードコート行こや」
今ではすっかり陽平までもが下の名前で怜を呼ぶ。
「行かない」
モップの毛先から目を逸らさずに即答すると「何でえ、行こや」と返ってきた。
「陽平、勉強するとか言って、たこやき食って女子高生探して終わりじゃん。すぐ隣のゲーセン行こうとするし」
樹の言葉に、この二人はもうそんなに仲がよかったのかと気づく。でも怜にはそれも、どうでもいいことだ。モップをバケツの水に浸すと、思いのほか水がよどんだ。
「それは樹のせいじゃってっ。お前は勉強頑張りよる俺の目の前でソシャゲばっかりしよんのに。ほんまムカつくわ」
「当たり前だろ。俺は勉強必要ないし」
樹は授業に積極的というわけではないのに、当てられても間違えない。陽平みたいに宿題や抜き打ち小テストにいちいちおののいたりもしない。たぶん、優秀なのだろう。そんな二人がつるんでいるなんて、やはりちょっと不思議ではある。
「怜、行こや。ドーナツおごったるけん」
「何ドーナツ?」
しまった、反応してしまった。怜はぎゅっとモップの柄を握りしめた。ドーナツが好きな自分がうらめしい。
「チョコでもプレーンでもなんでもええよ。怜はドーナツ好きなん?」
「何だよ陽平、テキトーにドーナツとか言ったのかよウケる」と樹が鼻で笑った。自分が笑われたわけでもないのに、怜は心の中でほっといてよ、とつぶやいた。
「怜、二つ買うたるけん、明日の古文の現代語訳教えてや」
「俺はナゲットで」
「ナゲットで、じゃないわ。樹には奢らん。お前邪魔しかせんもん」
いつの間にか怜も参加することになっている。行かないと言うには、あまりにも二人が楽しそうで困る。どうしようかと思っているうちに、話題が流れた。
「樹は夢の国で何乗りたいん?」
修学旅行の班も三人同じになってしまった。誰とだって構わなかったが、このままだと彼らと仲がいいと認定されそうで落ち着かない。別に喧嘩をしたいわけではないが、たった一年同じクラスだというだけで小さなコミュニティに所属するのは労力に見合わない。めんどうだというのが、正直な気持ちだった。
その上行き先は東京だ。東京から離れてもうだいぶ経つのに、怜にとって東京はいまだに生活圏の一部という感じがする。自分がお上りさんとしてそこに登場しなければならない状況に、抵抗を感じずにはいられない。せめて京都ならよかったのに。
「俺行かねーんだわ、修学旅行」
樹が長い腕を伸ばし、窓を閉めながら言った。彼が最後の窓を閉めると、廊下の端からの「早よ帰ろ」「雨降りそう」という生徒たちの声が窓ガラスに跳ね返る。
「え、何でなん?」
金ないとか? と中途半端に音量を下げて陽平が聞くが、ほんの数メートル先に怜だっているのだ。気遣いとしては失敗だ。
「いや、金とかじゃなくて、普通にだりいから行かない」
怜は驚いて、モップを取り落としそうになった。行きたくない人間が自分の他にもいることに。そして何より、自分の意思で学校行事を拒否する生徒がいることに。だってそんなことをしたら、目立つ。いや、僕だってずっとこの学校で浮いてるし、と怜は考え直す。積極的に拒絶する度胸も覚悟も自分にはないということが、樹と自分との比較で浮き彫りになった。陽平の誘いも樹の笑いも曖昧に遠ざけるだけで、自分の立ち位置を一向にはっきりさせようとはしない己の弱さを、はあ、とちいさく吐き出してみる。早く卒業して、東京に帰りたい。結局それぐらいしか自分を解放する方法が思いつかない。
「俺らがおるのにだるいわけないだろー」
陽平の言う「俺ら」にはおそらく怜も含まれている。そんな小さなことを確認するのも大人気ないような気がして、怜はその感情を排水溝に流す。墨のような水が渦を巻いて消えた。軽く笑った樹はどんな顔をしているのか、怜には確かめる勇気がない。「あははじゃないわ、変な奴」と笑いかえす陽平もそれ以上深く掘り下げる様子はなく、話はそこで途切れてしまった。
「怜」
昇降口を出て傘を広げたとき、うしろから低い声が追いかけてきた。振り返っても傘のせいで相手の胸元までしか見えない。傘を肩にかけるようにすると、相手の顔が見えた。樹だった。いつも後ろに座っているだけだから、まともに顔を見るのは初めてかもしれない。左耳の上の方にシルバーのピアスがついているなんて、知らなかった。
「途中まで入れてよ」
樹は言いながらもう、傘の取っ手を取り上げていた。肩が触れた瞬間、いい香りがした。柔軟剤かもしれないが、それにしては甘くも爽やかでもない。
「家どこらへん?」
右斜め上、ごく近くから樹の声が降ってくる。ぱらぱらと傘の布を叩く音から守られたちいさな空間で、怜は樹を見上げた。町名を言うと、「ご近所じゃん」と一重の目が細くなる。大人と話している気分だ。この人なら修学旅行なんてだるいから行かないと言っても、親も先生も納得する気がする。怜は妙な敗北感に襲われた。
「待ってや、俺も入れて!」
後ろから走ってきた陽平が怜を半ば抱きしめるように入ってきたが、樹は陽平の上に傘をささない。
「陽平は濡れとけ。いい男だから」
「濡れんでもええ男じゃっ」
二人が傘を取り合うので、怜の肩が濡れる。
「ごめん怜、今このバカを始末するから」
「誰がバカじゃ。バカも風邪ひくんぞ!」
まだ水たまりのできていないアスファルト。それでも革靴の隙間からにじり寄ってくる湿気を足の裏に感じながら、怜は孤独なはずの雨音が二人の声にかき消されるのをじっと聞いていた。
