一人になりたいのに、田舎の陽キャと訳あり年上男子が二人がかりで迫ってくるんですけど。

「ベーコンエピでは戦えねーよな」
 バス停近くのパン屋で買ったそれは、樹の手の中で、一年半前と全く同じ香ばしい香りを漂わせている。あの日、陽炎の立ち上るアスファルトの上、高知の路線バスを待ちながら陽平がかじりついていたベーコンエピ。
 見てや、このパン。めっちゃトゲトゲしとるし、石みたいに硬いし、これはもうソードじゃ。俺勇者になろかな。伝説のベーコンエピで。はい、俺進路決定。暑いなーしかし。
 そんなことを言いながら丈夫な歯でわしわしとエピを噛みしめていた陽平に、樹と二人で会いに行く。三月に入ったが、まだコートを手放せない。海風が冷たいかもしれないと厚着してきたが、バスに乗り込むと暖房の熱気が冷えた耳をじんじんと温めた。
 三人で旅行したときと同じように、バスの一番後ろの座席に並んで座ると、怜の片耳を樹が摘んだ。その指先は、氷細工みたいな温度だ。
「すぐ赤くなるよね。あったけー」
「人の耳で暖を取らないでよ」
 卒業旅行に柏島へ行こうと言い出したのは、樹だった。怜は陽平からたまに連絡をもらっていたが、樹と陽平の間にやりとりがあったことを知ったとき、少し緊張した。二人が昔のように気のおけない間柄に戻ることを一番望んでいたのは自分だったはずなのに、いつ、どういった形で、二人がどんな会話をしたのかが気になってしかたなかった。
 これは執着心と言うやつだろうか。それとも独占欲? 僕の中に眠る猛獣はいまでも、陽平という友人と樹という恋人の両方を心の一番真ん中、すぐに触れられる場所に抱え込んで離さない。二人が自分を除け者にすることなんてあり得ないのに、僕の孤独に対する強い嫌悪は、すぐにその猛獣を起こしてしまう。ちっとも飼い慣らせる気がしない。
 怜が陽平に大学合格の連絡をしたのと同じころ、樹は陽平と電話をしたそうだ。「なんか流れで卒業旅行の話になって」と樹はなんでもないふうを装っていたが、きっとずっと考えていたのだろう。樹の慎重さについては、よく知っている。それが後悔から来るものと言うよりは、僕に対する気遣いだと言うことにも気づいていた。だから僕はすぐに返事をしたし、旅行の準備も率先して行った。あの時と同じ工程をなぞっているのに、そこに陽平がいないだけで全く違う心持ちだった。でも、それは決して大きな穴を覗くときのような不安や恐怖を伴うものではなく、春めいた期待を抱かせるどこか前向きなものだった。
 いつかのように、怜はポッキーをまとめて数本、樹の口に押し込む。もう一つ押し込む口がないのが、それでもやっぱり少しだけ寂しい。
「ねえ、樹。陽平が電車に乗り遅れそうになったの、覚えてる?」
「あー、あったなそんなこと。あの時のあいつの顔、まじウケた」
 駅のトイレから戻った陽平は、電車の前でぼうっと扉が開くのを待っていた。電車の中からその様子をうかがっていると、発車ベルが鳴り響いてようやく、電車の扉の開閉ボタンを探し始めたので、怜は慌てて内側から開けてやった。泣きそうな顔で陽平が「命の恩人っ」と抱きしめてきて、その様子を他人事みたいに眺めていた樹は腹を抱えて笑っていた。こっそり動画まで撮りながら。笑い事じゃない。陽平が乗り遅れたら自分たちだって巻き添えを喰らうのに。
「怜はあの旅行中も陽平のことばっか褒めてて、俺はちょっと拗ねてた」
「え、そうだったっけっ」
「陽平の腹筋にベタベタ触って、何食べたらこんなになるのーすごーい、とか言ってたじゃん」
 まあ、あんまり昔のこと引っ張り出してきてもしょうがねーけど。窓の外に目をやりながら、樹の指が僕の指をからめとる。樹は時々こうして僕が思いもよらないような言動をする。普段は少し高い位置から世界を見下ろしているくせに、二人でいる時にはチラリと嫉妬心を覗かせたり、甘えてきたり。そしてそのあとで必ず、自分の子供じみた態度を恥じて、今みたいに何とか取り消そうとする。こんな時僕は等身大の樹が垣間見られたような気がして少しくすぐったい。僕らの二年の差が少し埋まるような気がするのだ。だから僕は、片手で何とかポッキーをしまい、携帯をポケットに納め、すっかり温まった樹の手を下車直前まで握りしめていた。
 夏と同じ民宿にチェックインを済ませてから、ダイビングショップのアルバイトを終えた陽平と合流し、陽平の下宿先に向かった。日に焼けた肌と少し伸びた髪。一年と少しぶりの陽平は、ひとまわり大きくなったように見えたが、太陽みたいな笑顔は地元にいた時と全く変わっていなかった。
 小さな和室に簡易的なキッチン。風呂とトイレはついていて、ドライスーツが抜け殻のようにいくつか、カーテンレールにぶら下がっている。親戚から譲ってもらったといううっすら黄ばんだ冷蔵庫からキャベツや人参を取り出して、三人で焼きそばを作った。
「あー!」
「何、陽平」
「豚焼きそばしようと思っとったのに、豚忘れたや!」
 玄関から飛び出した陽平は、数分後に豚バラ肉五百グラムのパックを持って帰ってきた。
「おばちゃんとこから貰ってきた。卵もくれた」
「陽平、お皿ある?」
「一枚しかない。あとはどんぶりもひとつある。俺フライパンから直接食うけん大丈夫」
 器用そうな手をしているのに、樹の切った人参は無骨だった。これしか作れないという陽平は、慣れた手つきで野菜を炒めていく。油でつやめく野菜と肉が、菜箸が通り過ぎるたびに細やかな音を立てる。もう既に美味しそうだ。袋開けて。水入れて。陽平に言われるがまま怜と樹は仕事をし、後半はただ横からフライパンいっぱいの焼きそばが出来上がっていくのを眺めていた。
 水で乾杯し、それぞれの容器から焼きそばをすすった。空っぽの胃の中に、どこを食べても濃厚な味の麺が、隙間なくつめこまれていく快感。フライパンの量に対して麺が多すぎたせいか、水を含んで柔らかくなってしまったが、それさえも、幸福な味の一部だ。それしか言えないみたいに、うまいとおいしいをただひたすら繰り返しながら、僕らは焼きそばをかき込んだ。
「あっ、しもた!」
「今度は何」
「卵もろたのに、目玉焼き乗せるのわっせとった。フライパン一個しかないけん、焼きそば作ってから焼こうと思とったのにっ。あー、俺今日めっちゃキョロさいじゃ」
「陽平、キョロさいって何」
「ドジっ子ってこと」
「かわいーじゃん」
「俺はカッコええとこ見せたかったんじゃ」
「でも僕お腹いっぱい。麺と肉の量同等だったし、ほぼ焼肉だった」
「ほらよかった」
「陽平って、ちゃんとやってんだなー。すげーわ。ちゃんとかっこいいよ、お前」
 マグカップから水を飲みながら、樹が部屋を見わたす。全然、と口の端にソースをつけた陽平が、片手でフライパンを持ち上げたまま言う。重くないのだろうか。
「お前ら来るけん昨日慌てて片付けたけど、普段は洗濯物とか溜めとるし、掃除も好かんし」
 怜はコップ代わりの計量カップに入った水で油分を喉のおくに流し込むと、陽平の日常に思いを馳せた。ベランダに干されているフィン、棚の上のシュノーケル、コルクボードに貼られた柏島の観光案内と、いつか三人で見た映画のチラシ、樹が覗こうとしている押し入れと、それを止める陽平。大自然に身を投じ、まっすぐ突き進む陽平は、まるで野生のイルカだ。その体内に正確なコンパスを宿し、どんなに遠くても決してペースを落とさず泳ぎ続けるのだろう。
 僕らが好む水は違うけれど、海はつながっている。またこうして三人そろう日が来るなんて、思っていなかった。知らない間に夏はきちんと終わりを迎え、僕も春から大学生になる。東京で。
 東京に戻ったところで、きっとまた少なからず疎外感を感じるのだろう。それでもここが地元ですと言う顔して、東京の人に紛れて生きるのだろう。何にもなれなかった僕は、これからも何にもなれないかもしれない。それでも僕には離しがたい人たちがいる。それだけで何とか前へ進める気がする。
 翌日はまだ薄暗いうちに陽平が部屋にきた。陽平が連れてきた外の空気に僕は首をすくめたが、陽平は構わず上がりこんできて、「行くぞ」と樹の布団を引っ張った。芋虫のように布団に潜る樹としばらくの攻防の末、三人そろってパジャマに上着を羽織って外へ出た。樹の頭のてっぺんの髪が、天の動向を探るようにゆらゆらと揺れている。陽平の分厚い手がそれを無造作に撫でつけたが、樹の髪の束はどうしても空を仰ぎ見ていたいようだ。
「寒すぎだろ、死ぬ」
 背中を丸めた樹がつぶやくと、陽平がポケットからカイロを取り出し、樹に投げつけた。それから、僕にも。もうすでに開封されじんわりと熱を帯びている白い袋は、痛みを帯び始めた指先に健全な感覚を呼び覚ましていく。この温もりが使い捨てでも、今日僕の指から伝わった熱は、ちゃんと心に留まり続ける。
 だって、夜が明けていく。
 水平線が力強い赤みを帯び、世界にゆっくりと色を注ぐ。錆びの目立つ釣り船が通り過ぎ、肉付きのいい野良猫が僕らを一瞥し、穏やかな波の揺れが朝日を吸収している。
「すげーっ、めっちゃきれいじゃん」
「だろ? 寝とる場合じゃなかろ? 起こしてやったことに感謝せえよ」
「朝日の写真なんて全然SNSに載ってなかったよね? なんでこんなに人いないんだろう」
「そりゃだってまじで寒いし!」
 あまりの寒さに地団駄を踏み続けていた樹の腕を、僕は強く引き寄せた。同時に陽平のダウンジャケットに包まれた腰に腕をぎゅっと巻きつける。
 寒い寒いと笑う僕らの息が真っ白な水蒸気になって、光の中に消えていく。消えても消えても、笑うたびに、生まれる。
「また来るよ、僕」
 眩しさに立ち向かうような気持ちで瞳孔に日の出を焼き付けながら、僕は言った。それは自分自身に対する宣言だった。一人でも、陽平がいなくても、樹がいなくても。ここに僕らがいたということが僕にとっての存在証明で、生きる理由だ。僕はきっと、この景色をまた見たくなる。
「今度は一人で来んかい、怜。俺んち泊めてやるけん」
「陽平、聞こえてんぞ」
「聞こえるように言うたんじゃ、樹」
 じゃあ、また三人で。
 遠くで汽笛がなっている。
 永遠にも思える海のその先にある確かな熱が、じれったいほどじわじわと、けれど着実に僕らに届く。明日も明後日も、ずっと。
 終わり。