一人になりたいのに、田舎の陽キャと訳あり年上男子が二人がかりで迫ってくるんですけど。

ことり。
 樹の長い指が最後の意識を手放して、プラスチックのシャーペンはついにノートの上に転がった。意外と長いまつ毛に縁取られた瞼は、ぴくりとも動かない。艶のある前髪がさらりと目元に流れ落ち、限界を迎えた樹の無防備さを隠そうとしている。
 こういうときの樹の子どもっぽさを、怜はどう表現したらいいのか分からない。教室では決して見られない、同じ十代の少年の顔。昨日も遅くまで勉強していたのだろうか。樹の片ひじが押さえている問題集は数学。まだ学校では終えていない単元だ。
 授業中に後ろをじっくり振り返ることなどなかった怜は知らなかったが、樹は先取り勉強をしているのに授業では細かくノートを取っている。教室での樹は、休み時間でもテスト前でも、決して焦らない。返される答案用紙はたいてい怜より高得点だし、それを自慢したりもしない。二年先をいくとはいえ、努力の切れ端すら見せない樹を天才型だと決めつけていた怜は、二人きりで勉強をするようになって初めて、彼のほとんど執念ともいえる勉強に対するひたむきな姿勢を知った。ずっと好きだったくせに、いや、好きだからこそかもしれない。樹に関してさえも、僕は表面的な部分しか見られていなかったのだ。
 だからだろうか、まじまじと見てしまう。鼻を摘んだら起きるかな、手の甲にサメの絵とか描いちゃおうかな、ていうか、爪きれい。桜貝みたいだ。指先にふれようとしたまさにその時、携帯のバイブ音が、僕の動きを制止した。
 鞄から取り出した携帯に、陽平の名前が表示されている。メッセージを開くと、「元気にしとる?」という短い言葉とともに、いくつかの写真が届いていた。
 陽平と最後に会ったのは、数週間前。駅前開発がなかなか軌道に乗らない閑散とした広場に、不釣り合いな大きさのクリスマスツリーが飾られていた。柏島に旅行に行ったときにも使っていたバックパックに、ずっしりと重そうなスポーツバッグを抱えた陽平が、軽自動車の助手席から降りてきた。一緒に運転席から降りてこようとする母親を、どうせ年末には帰ってくるのだからと陽平がなだめる。「ほんなら怜くんと記念写真撮ったげるけん、その光っとる木の前で」とそれでも引かない陽平の母親に二人の血のつながりを感じておかしかった。「自分で撮るけんええよ」となんとか母親を丸め込んで先に帰らせた陽平はもちろん、僕と写真なんか撮らなかった。
 親戚んとこで働きながら、ダイビングのインストラクター目指すことにしたけん。
 陽平から電話でそう聞いたとき、怜は本当に嬉しかった。あの島に心を置いてきたのは自分だけじゃなかったのだという、共通項を陽平との間に見つけたことに昂った。それが言葉よりも如実に声のトーンに出ていたのだろう。陽平は「俺がおらんなるんがそんなに嬉しいんか」と不貞腐れたので、怜は懇切丁寧に自分の興奮を説明しなければならなかった。
 陽平の声は最後までどこまでもまっすぐで、胸の奥にすとんと届いた。「怜に振られたけん学校辞めたとかじゃないけん。ていうか、俺はまだ振られたと思ってないし」と笑ってくれた。白くて四角い前歯をのぞかせ、アーモンド型の目をほんの少し細める人懐こい笑顔。見えていなくても、容易に想像がついた。
 怜、いつでも電話かけてこいよ。夜中でもええけん。樹には怜から言うとって。俺もまた落ち着いたら連絡するけん。遊びに来んかい、ちょっと遠いけど。
 有人改札(しかないのだ、この駅には)の前で、陽平はいつも通りの顔で、いつも通りの声で、「ほな行ってくるわ」と笑った。また明日学校で、とこっちも言ってしまいそうになったのは、陽平が自分の旅立ちをあまりにも淡白に、なんでもないことのように捉えているから。僕の湿っぽさを払いのけるためだったのかもしれない。その大らかさはまるで、夏の海そのものだ。
 陽平。
 振り返った陽平に、ありがとう、と言った。もっと他にも伝えたい事があったはずなのに、それ以上何かを口にすると込み上げてきそうで、僕は口の両はじを無理やり上げた。ちょっとだけ困った顔をして、「ありがとうとか別にいらん。陽ちゃん大好きって抱きしめてくれた方がうれしいわ」と両手を広げて茶化した。そこに飛び込んでみようかと一瞬血迷ったが、構内放送と同時にベンチから立ち上がり始めた数人の気配を感じ「何ふざけてんの。ほら、行っておいで」と笑いながら大きな背中を押した。「ふははっ、ほんならな!」と軽く手をあげた陽平は改札を抜け、もう、振り返らなかった。
 小さな駅だ。改札はひとつしかないし、ホームは構内から見通せる。見慣れた背中が白線の手前で止まるところまで、はっきり見える。滑り込んできた電車が運んできた冷気に、陽平の立派な肩幅がきゅっと縮こまった。ゆっくりと繰り返す構内放送に東京のような切迫感はないはずなのに、数ヶ月前に三人で乗ったグレーの電車は、あの時よりもずっと苦しそうな音を立てて停車した。陽平の真っ白なスニーカーが躊躇いなく車内へ大きく踏み込んだことを確認して、改札に背を向ける。僕ももう、振り返らなかった。
「白昼堂々浮気ですか。彼氏の部屋で彼氏の目の前で犯行に及ぶなんて、見かけによらず大胆ですね」
 高見怜、現行犯で逮捕する、と樹が僕の携帯を奪う。いつの間に起きたのか知らないが、無実なのだから慌てる必要はない。樹の手に収まった携帯を、横から一緒に眺めた。
「よしよし、ちゃんとドライスーツ着てるな。陽平は隙あらば脱ぐからなあ」
 樹は陽平を変態みたいに言う。たぶん妬んでいるのだ。その気持ちは分かる。同じ男として、あの下着のモデルにでもなれそうな逆三角形の身体はうらやましい。
「今冬だし、流石に海パン一丁では潜らないでしょ。………あ」
 勢いよくスワイプされたあと現れたのは、上半身裸の陽平。ロッカールームらしきところで、満面の笑みを浮かべている。相変わらずピースがよく似合う。
「ほら見ろ、脱いでんじゃん。セクハラすんなって送ってやる」
「あ、ちょ、だめだめ、返してっ」
「だめだ、怜は遠慮して言えねーから。つうか、男が全裸の写真送る理由なんてひとつしかねーの。怜も男なんだから分かんだろ」
 全然分からないけど。あれだけ引き締まった肉体を持っていれば、誇示したいと思うってことだろうか。その前に陽平は半裸であって全裸ではない。全裸だったら流石に僕も文句言うし、と反撃する前に樹が口を開いた。
「陽平が調子に乗って過激なやつ送ってくる前に、俺らの過激な写真でも送ってやるか」
「テロじゃんそれ。そんなに陽平煽ったら逆効果じゃないの? てか、過激な写真ってなに」
「内緒」
「本気で内緒にしたいなら自分の携帯で送ればいいでしょ、意地っ張り」
 樹の上に馬乗りになって何とか携帯をつかんだが、樹の中性的な指は残念ながら僕のよりも長く力強く、そう簡単に離してくれない。そうこうしているうちに画面が暗くなり、ネクタイをぐいっと引き寄せられる。額がぶつかるぎりぎりで留まると、樹がふっと笑みを消した。
「じゃあ、証明して」
 言葉よりも先に樹の甘い吐息が唇を撫で、僕は急に、ここには樹の匂いが充満していて、この家には今僕ら以外に誰もいないのだという現実を思い出す。
「何を?」
 エアコンが熱を吐く音が、やけに耳につく。
「怜が俺のことだけ見てるって。陽平の筋肉なんかに一ミリも心動かされないって」
 樹の眼差しがやわらかく僕の心を侵食する。砂糖を煮詰めて鍋底にこげつかせてしまったような樹の切ない懇願に、きゅうっと胸の奥が絞られる。たまらない。
「見てるよ、樹だけ」
 かたん、と携帯が床に落とされて、樹の指が僕の後頭部の髪に沈む。
 うすい瞼が閉じる。
 ほんの少し、唇がひらく。
 そっと唇を重ねた。
 少しかさついた薄膜が、ゆっくり熱を交換していく。この世界でたった二人だけ取り残されてしまったような甘美な孤独に、僕は夢中になった。
 神様、許してください。
 陽平を手放したことを。罰なら受けます。だからどうか、僕から樹を奪わないで。僕を地獄に落とすならどうか樹も一緒に。なんて。ああ、もう、どうしよう。幸せすぎて。
「何考えてんの」
「わっ」
 ごろんと体勢を入れ替えられて、樹が僕を見下ろしている。樹の人差し指と中指が、すでにゆるんでいた樹のタイのノットにかかる。右、左と軽く揺らすと、張り詰めた布地がシュッとちいさく二度擦れて、シャツの隙間から鎖骨に挟まれた深い窪みがのぞく。
 きれいな指。
 きれいな首。
 怜、と綿菓子みたいな声で呼ばれて、心が甘く痙攣する。見つめ合うだけで、身体中が真っ赤に熟れてただれてしまいそうなほど、危うい。
 分かってよ。
 僕の身体はもうとっくに、制御不能だよ。
「樹のことしか考えられない」
 言い終わる前に、樹の緩んだタイを引き寄せた。さっき樹がそうしたように。西日がベッドの下のちいさな埃まで明らかにしてしまう部屋で、樹の中からあふれた思いがけない色を、はっきりと捉えた。傍観するなんて絶対できない。だって僕はその色を、自分の、自分だけのものにしたい。
 樹の唇も指先も首の窪みもピアスの穴も、汗も血液も苦しみも悲しみも欲も全部、ひとつ残らず所有したいという狂気じみた欲求が、僕の血潮を沸騰させる。
 樹に触れていると、知りたくなかった自分の醜い部分が次々と開示されていく。
 誰かをどうしようもなく好きになるというのは、こんなにも苦しいことなのか。自分だけは絶対にそうはならないと思っていた、愚かで短絡的で近視眼的で浅ましい人間に、僕自身がなっている。
 出っ張った肩甲骨。背中の筋肉のうごめき。シャツごとたくし上げたセーターの袖口から露わになった腕の産毛。樹の表面に触れるたびにその感覚は明瞭になり、僕にはもともと他人に依存する素質があったのではないか、ここに越してくる前から魂ごと寄りかかれる誰かをずっと欲していたのではないかという不安が襲ってくる。それを払拭することは、もはや自分の力だけでは不可能なほど、僕は樹に溺れている。泳ぎはそんなに得意じゃないのに。
「好きだよ、怜」
 好き。
 大好き。
 好きすぎて死にそう。
 あー、もう、ほんと好き。一生好き。愛してるよ、怜。
 樹の想いが、僕を海底からすくい上げる。きらきらと光の粒がゆらめく水面に向かって上昇し、酸素を肺に取り込んで、生きていることを実感する。
「大好きだよ、樹」
 痩せた身体のどこに、こんなに膨大な想いが潜んでいたのだろう。一度言葉にしてしまえば湧水のようにとめどなくあふれてきて、僕は再び溺れてしまう。いいんだ、もう。僕は溺れたい。樹と一緒に、二人でどこまでも沈んでしまいたい。
「もうちょい、したいんだけど」
 覆い被さった樹が、耳元で頼りなくささやく。
「ちょっとじゃなくて、いっぱい……」
 勝手に口が言葉を紡いで、慌てて途中で唇を噛んだ。突然何を言い出すんだ、僕は。でももう遅い。え、と僕より驚いた様子の樹は、ぎゅうっと寸分の隙間もゆるさないという力で抱きしめて、どうしてくれんの、とつぶやいた。
 どうしてくれんのって、こっちが聞きたい。
「じゃあいっぱいしよう。今日、親の帰り、深夜になるらしくてさ」
 親が深夜まで帰らない。
 こんなにぞくぞくする響きの言葉を、僕は知らない。樹と視線を絡めて、密やかに笑い合った。静かに夜が迫る部屋で。
 その日、僕らが再び参考書に向かうことはなかった。