一人になりたいのに、田舎の陽キャと訳あり年上男子が二人がかりで迫ってくるんですけど。

四角く切り取られた真っ黒な空。
 昼間は日差しの降り注ぐこの踊り場も、日が沈めばちゃんと冷たくなるのだという事実にどこか安心して、怜は硬い床にしゃがみ込んだ。この薄暗さが、今の自分にはお似合いだ。廊下の明かりがすこしだけここまで届いて、上履きの白さが目立っている。
 校舎の最上階からは、外のざわめきがうっすらと聞こえるだけだ。音楽とか、笑い声とか、誰かを呼ぶ大声とか。ひとつひとつを分析するには鮮明さが足りなくて、それでも活気は伝わってくる、この距離感が丁度いい。グラウンドに響くくぐもった放送を聞き流しながら、怜は携帯を取り出した。
 五時を過ぎた。
 花火の音が聞こえたら立ち上がって見てみよう。立ち上がる力があれば、だけど。
 手の中でまた携帯が震える。さっきから樹が五分ごとに電話をかけてくる。電源を切る覚悟もメッセージに返信する気力もなくて、携帯をポケットにしまった。でも、これが震えるうちは、誰かと繋がっていると錯覚できる。こんな形でしか、僕は樹の気を引けない。
 嘘をつけば傷つくのは自分だと分かっているのに、衝動を止められなかった。
 だって、誠実でいようとすればするほど、僕らの関係は崩れていく。
 陽平の誠実さに、僕は誠実さで応えた。そうするしかないほど陽平の想いは直球で、強く、重かった。陽平の要望に応えることで関係の延命治療ができるならと考えていた浅ましい自分を恥じた。
 ごめん。好きな人がいる。
 僕がそう言ったとき、陽平は驚かなかった。ほんの数ミリ眉をあげ、そしてすこしだけ目を細めて、そうか、と言った。存在さえ知らなかった僕の内の強力な封印を、陽平の情熱と実直が解いてしまった。
 もし、陽平を市営プールまで探しに行かなかったら。そのもっと前、陽平からの毎晩の電話に出なかったら。いや、そのもっともっと前、陽平と二人で海に行ったときに、陽平が取り返してくれたキーホルダーを受け取らなかったら。
 今この瞬間、僕は暗闇で膝を抱えてはいなかったかもしれない。陽平が中退することもなかったかもしれない。僕はどこで選択を間違えたのかと後ろばかりを気にして、ちいさな穴に足をとられたまま、動けないでいる。
 やっぱ俺じゃいかんかったかあ。
 はあー、とその肺活量を存分に使ったため息をこぼしたあとの陽平の弱々しい笑顔に、息ができなくなりそうなほど胸が痛んだ。それは、もう絶対に友達には戻れないと同義だった。陽平は全然だめじゃない。だめなのは僕のほうだ。そんな言い訳をもごもごと返した。陽平は「俺の好きな子の悪口言うなや」と僕の頬を軽くつねって、「後ろ乗れ」とサドルにまたがる。
 ありがとう、陽平。
 それを言葉にすると、眼球の奥の熱が一気に溢れて止まらなくなってしまいそうで、それだけは絶対避けたくて、黙って荷台に腰を乗せた。この自転車で何度か二人乗りをしたことがあったが、この帰り道が僕らの最後になるのだと分かっていたから、ずっと陽平の背中だけを見ていた。
 陽平は一人で中退を決意してしまった。何の相談も報告もなかった。陽平の未来に僕はいらなかったのだろう。彼が望むものを僕が与えられない以上、それは仕方がないこと。そうやって納得できる日がいつか来るなんてとうてい思えないし、そんな日、一生来なくてかまわない。
 再び携帯が震える。
 樹の名前を確認して、ポケットに戻した。
 樹は陽平と仲違いをしてから、僕にも興味がなくなったようだ。陽平の存在はキーホルダーのチャームのように、そこにあること自体に意味があった。陽平から回ってきた落書きを後ろへ回したり、陽平がペン回しに失敗して飛んでいったペンを樹が拾ってそれを僕が陽平に渡したり、陽平に誘われて三人で遊んだり。そんなささいなやり取りこそが僕らの日々の価値だった。
 僕と樹の間には、何もない。チャームが引きちぎられたカラビナみたいにみっともなく樹に取りすがる素直さも強さも、僕にはない。
 廊下の向こうから、数人の足音と笑い声が聞こえる。
「三年の教室のベランダからだったら、絶対よう見えると思うんよ」
「ほんなら生配信しよか」
「えーなあ、それ。あ、鍵開いとるわ!」
 ガラガラと教室の扉を開閉する音と共に、浮かれた三人組の声が静まる。
 自分の両膝を抱きしめた。ごつごつして、不安定で、全然温かくない。
 僕は。
 僕はずっと前から、樹が好きだった。
 理由なんて分からない。
 あんなふうに俯瞰して、誰にも寄りかからず、傷付けられず、自由に生きるにはどうしたらいいんだろうと悩み、気がついたら目で追っていた。
 樹のことが知りたくて、でも同時に知りたくなかった。僕の知らない樹を知っているだろう、樹の彼女のことは特に。そういえば、僕は彼女の顔はもちろん、名前も知らない。樹は話したがらなかったし、陽平もあんまり聞かなかったし、僕はそういう話になる度に何気なく話題を変えた。無意識の自己防衛が、僕をずっと他人に関心の薄い人間に見立てていた。
 ぱっと床に浮かび上がる自分の影に、肩が跳ねる。
 直後に背中を打つ重低音。
 振り返った。
 おお、という外からの歓声と共に、パチパチと夜空に火花が飛び散る。
 花火だ。花火が校舎に迫りくる。次々と、なんのためらいもなく。窓枠を超えて広がる大輪。火の粉の輝きは強く、空の黒をはっきりと自分の色に塗りかえる。鮮やかなのは一瞬なのに、残像はいつまでも消えず、立て続けに新しい色と混じっては煙に変わっていく。
 どん、どんと、わずかな誤差を持って、火薬の音が胸を叩く。ぱらぱらと無限に広がるフラッシュが、僕の瞳を濡らしていった。
 文化祭の花火も三人で見よや。
 うん、そうしよう。
 守られることのない遠い約束から、僕は今も目をそらすことができない。今花火が暴発して僕の上に降り注いでも、僕はきっと、ここから一歩も動かずにそれを受けとめるだろう。だって僕は、まだ、あの夏の中にいる。
 怜。
 陽平の幻聴が聞こえた。発音ははっきりしているのに、楽しそうなときほど「れ」に力が入っていて、「い」がほとんど聞こえない。
 怜。
 今度は樹の声だ。泳いだ後の冷え切った身体をビーチタオルでくるんだときみたいに、鼓膜がじんわり温かくなる。その熱が心臓に染み込んで、頭の奥にもつんときて、頬をつうっと温めた。あの教室で後ろから「怜」と呼ばれることはもう、ないんだな。花火の熱で、顔中が熱い。火傷みたいに。僕の心は、ろうそくみたいに溶けていく。
「怜!」
 二段飛ばしで駆け上がってくる人影に、いつかの陽平が重なる。刹那、花火の明かりに照らされた人物の全容が明らかになる。過去の美しい情景にどっぷりと浸かっていた怜の全身は無理やり現実という冷水を浴びせられ、硬直した。思考が追いつかない。
「遅くなった」
 窒息しそうなほど苦しい抱擁の中で、夏の終わりの匂いを嗅いだ。
 樹だ。
 間違うはずがない。樹の机の上に乱雑に並べられたいくつもの香水の瓶。それぞれのガラスの色や独特な形まで思い浮かべられるくらい正確に教えてもらったのだから。
「三人で集まれなくてごめん。俺だけじゃだめ?」
 樹の唇の熱が、耳に押し当てられる。
 ずるい。ずるいずるいずるい。そんなの。
「俺は怜がいてくれたら、他にはもう何もいらない」
「彼女は」
「とっくに別れてる。お前らにはどうしても言いにくかった。理由を考えんのが辛くて……」
 動脈から血を流すような切実な声が鼓膜の内に流れ込んできて、心臓がずきずき痛む。
「ごめん、ほんとごめん、騙し切れなかった。陽平も、怜も、自分自身も」
 震えている。
 樹の僕を抱きしめる腕が、震えている。
 その戦慄きが僕に教えた。樹が大人で俯瞰的で、何事にも動じないなんて、僕の幻想だったのかもしれないと。
「僕は、樹じゃないと」
 途中からは、声にならなかった。樹がどこにも行ってしまわないように、両手で樹の背中の布地を掴んだ。伸びてしまうほど強く。
「ずっといる。俺はずっと側にいるから」
「ずっと?」
「ずっと。大学生になっても、社会人になっても、くっせーおっさんになっても」
「くさいおじさんって、僕が?」
「俺が。怜はかわいいおじさんになる」
 笑おうとして、嗚咽がこぼれた。そこで初めて、自分の顔も樹のニットも涙と鼻水でべとべとになっていることに気づいた。
「ようへいが、ようへい、ぼくの、せいで」
 想いがちぎれて、ばらけて、散らばる。
「怜は悪くない。陽平も悪くない。俺らの中に悪者なんかいねーから」
 でも、と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。それぞれの思い通りにならなかったことを失敗と名付け、責任の所在を明らかにすることに意味なんかない。それがたとえ自分自身を省みる行為だったとしても、そこで得た教訓がこの先何の役にも立たないことを、僕は理解した。
 心から笑いあえる誰かがいたこと。
 その気持ちがどんな色でも、どんな大きさでも、どんな熱さでも、一生忘れたくない。
 箱の中で小石を転がすようなにぎやかな花火の音が静まり、拍手や指笛が窓の隙間から流れてくる。花火全然見なかったね、と腕を緩めた樹の顔がまともに見られなくて、怜は鼻をすすった。
「花山先輩は?」
 我にかえった。
「ごめん、あれ、嘘」
「そっか。あのメッセージって俺にだけ? 陽平にも送った?」
 なぜ陽平が出てくるのかは分からないが、怒っている声ではない。
「樹だけだよ」
「ああ、そうなんだ」
 ふふ、となぜか笑って、樹は「怜は俺になら嘘つけるんだね」と言った。とても軽やかに、森で珍しい蝶でも見つけた子どもみたいに。
「樹に花火のこと忘れられてるのが嫌で。僕が知らない間に東京行ってるのも、なんか……」
 裏切りだと思った。
 極限まで狭まった僕の視野では、自身に宿る猛烈な怒りが不当だと思い至るはずもなく、樹に対するゆがんだ憎しみにただ身を委ねた。
 そして衝動的についた嘘。結果的に試し行為みたいになってしまったが、それほどまでに、僕は追い詰められていた。裏返せば何のことはない。樹に対する恋情と寂しさと独占欲の入り混じった、生々しく非衛生的な感情だ。樹は来ないという前提があってこその暴挙だったので、僕はこの地獄みたいな羞恥の沼で今、悶絶している。両手で頭を抱えて下を向くという、漫画でしか見たことのないポーズでうめいても、もう、どうにもならない。
 大きなため息が降ってきて、慌てて顔を上げた。レモンを食べた時みたいに何かを堪える表情をほどいて、樹が困り顔で「あー、もうどうしよっかな」とはにかんだ。そして次の瞬間、キスしよっか、と言った。
 どん、どん、と強い音がして、花火が再び始まったのかと思ったが、そんなわけはない。僕の心音だ。
「えっ、な、どっ、何で今⁉︎」
「えーっと、今のって、俺のこと好きって話だと思ったんだけど、自惚れだった? 恥ずいなっ」
 うろたえた樹が、それまでゆるく僕に触れていた両手をすっと離してしまう。絶対逃がしたくなくて、反射的に「好きだけどっ」と肯定した。狭い場所には不似合いなほど大きな声が、自分に跳ね返ってくる。
 恥ずかしいのはこっちだ。
 今さらすぎると思ったが、両手で口を押さえ、再び下を向く。そのせいで、「俺もだよ」という樹の顔を見損ねた。でもその代わり、にやけが止まらない僕の顔も、見られなくてすむ。じわりじわりとこみ上げてくる甘ったるい熱に、上履きの中でつま先をうごめかせた。視界の真ん中には、樹の黒いスニーカー。
「へへっ、土足だ」
「だってまじで焦ってたし。いきなり花山出てくるわ、連絡は無視されるわで、俺電車の中で走ったからね、意味ねーのに。花火の時間が押してなかったら、絶対間に合わなかった。間に合わなくても花山がいても陽平といても、絶対つかまえるつもりだったけど」
 樹の手が怜の手を包む。指を絡めると、樹の手は燃えるようだった。こんな熱、今までどこに隠し持っていたのだろう。
「で、さっきの提案なんだけど」
 樹が覗き込んできて、強制的に視線を絡めとられた。こんな暗闇でもはっきりと、樹の開いた瞳孔までよく見える。きっと僕にもまだ分からない僕の想いも、樹のその鋭い目が先にとらえてしまう。
 だから目をつぶった。
 そっと唇が重なって、僕の心の一番やわらかい部分がちりちりと焼け焦げる。
 火薬の匂い。
 夜の踊り場。
 しけた花火に辛抱強く着火を試みるように、何度も何度もキスをした。