一人になりたいのに、田舎の陽キャと訳あり年上男子が二人がかりで迫ってくるんですけど。

陽平が学校を辞めた。
 それは朝のホームルームの時間に、さらりと担任から報告された。席替えのついでみたいに。
 踊り場での一件以来、樹は陽平と連絡をとっていない。このクラスで脱落者が出るとすれば自分だろうと思っていたので、樹はこの結果に少なからず驚いた。でももっと驚いていたのは怜だろう。固まったまま動かず、その日一日険しい表情だった。
 怜にも知らせず行ってしまったのだ、あいつは。
 ほんと、勝手な奴。
 そう思いながら、一番勝手なのは自分なのかもしれないと、狭いベッドの上で寝返りを打つ。
 樹は今、東京のビジネスホテルにいる。三泊四日の滞在期間中に、いくつかの大学とその周辺を見て回った。全ての大学が都合よくオープンキャンパス中というわけではなかったが、おかげで学生たちのリアルな生態が垣間見られた。あと三十分もすればチェックアウトの時間なので、樹はのろのろと起き上がり、服を着替える。
 陽平のいない文化祭は、今日で最終日を迎える。準備日も含めて登校日ではないが、生徒はみんな張り切って遅くまで活動していることだろう。放課後に来る近所の女子校生と仲良くなるチャンスだからだ。というのは、いつか陽平が言っていたことの受け売りだが。
 すっぽりと頭から被ったニットの袖から手を通すと、鏡の中の自分と目が合った。ほとんど一重に見える、奥二重の瞳。いつか怜が瞬きの音が聞こえそうなほど顔を近づけてきて、「よく見たら奥二重だ。いいなあ」と言っていた。どこがいいんだ。直線的な眉毛に、不機嫌そうな口元。人を寄せ付けない冷めた顔をしている。実際、俺のまわりにはもう、誰もいない。
 荷物をまとめると、部屋を出た。
 東京駅の土産屋には、修学旅行で陽平が買ってきてくれたものが売っていた。もちろん、あのキーホルダーも。結局、自分の周りに置いておけるものなんて限られている。そしてそれは替えがきく。無くしたものを買い直すように、陽平の周りにはまた新しい友達が集まるだろうし、怜もまた新しい塾に通い出すだろうし、俺も大学に入ったら、新しい生活が。
 全然楽しくねーな。
 新幹線のシートにもたれ、瞳を閉じた。まぶたの裏に浮かぶ、怜の後ろ姿。今はもう教室の反対端同士になり、視界にも入らない。背筋をピンと伸ばし、正しいペンの持ち方でノートを取るあいつの様子は、こんなに克明に思い出せるのに。
 以前の席が好きだった。教室の真ん中の一番後ろから、ほぼ全員の後ろ姿を見渡せた。みんな同じ制服、同じ歳(自分以外)、同じ性別、似たような背格好。なのに初日から怜だけが異質だった。身体の表面を見えない膜が覆っていて、少しでもそれに触れると静電気が走りそうだった。怜は、俺が過去に選べなかった選択肢そのものだ。人好きのしない雰囲気で武装して、教室の一部みたいに静かに息を潜めている。そういう強かさが自分にもあれば、何度も同じところでつまずかなかっただろう。きっと例にも陽平にも出会わず、今ごろはこの三日間で見た大学のひとつで学生生活を謳歌していたのかもしれない。
 怜の孤独に対する寛容さに、羨望の眼差しを向けていた。線の細い身体の中に通った一本の針金が、怜の世界を確固たるものにしていた。それが溶けて、柔らかな肉があらわになると、その美しさに感動した。このまま時を止めたいと思うほど、怜のそばで見る世界は鮮やかだった。絶対に壊したくないと思っていたのに、俺には怜の世界を守ることはできなかった。
 結局、陽平ありきの三人組だったのかもしれない。陽平が抜けた時点で、物語は終わりだ。あれから俺は踊り場へ行かないし、放課後に寄り道することもないし、怜とも挨拶ぐらいしかしない。
 車窓を猛スピードで流れていく緑。ときおり現れる看板の文字を無意識に目で追ってしまうのは、人間の狩猟本能のなごりだろうか。現代社会に適応しまくったこの愚鈍な身体にも、まだそんな野生の力が残っているのなら、その無意味さに笑える。慌てて看板を振り返ったところで、とらえることなどできないのに。
 何かをつかまえようなんて高い志はとうに捨てた。受験だけは、失敗しないつもりだけど。
 怜もきっと、準備日から学校を休んでいるだろう。催し物の係ではなかったし。もしかしたら、陽平と会っているかもしれない。
 停車した新幹線から、規則正しく吐き出される人の山。一旦出てしまえば行き先も速度もばらばらな足が、ホームを埋めていく。
 気づいていた。
 夏休みが明けてから、陽平が手首にヘアゴムをしてこなくなったことに。
 怜と陽平の間にあるものを、俺はどうしても直視できない。それは友情にしては濃度が高く、ときに自分だけが弾き出されるような熱量さえ感じた。それは、怜の三人で過ごしたいという執着にも似た強いこだわりとは、相容れない。二人の想いの違いは、妥協案や折衷案を作れるような次元にはなく、磁石の極のように対極にあり、反発しあうものに思えた。
 だから、俺は迷わなかった。
 怜が欲しいものを差し出すことを、あの海で誓ったから。
 三人が心地よくいられるように自分の言動には細心の注意を払ってきたし、いつだって他者を優先してきた。
 台無しにしたのは陽平だ。
 全部あいつのせいにした。誰かを憎いと思ったのは、生まれて初めてだった。俺はいつから陽平のことを嫌っていたのだろう。自分のことなんて不登校になってからずっと嫌いだったけど、己の矮小さを突きつけられ、正直自分なんか辞めてしまいたいと思った。それも陽平のせいにした。陽平なんか消えてなくなれと思ったら、本当にいなくなってしまった。
 俺、クソじゃん。俺が消えればよかったんじゃん。
 陽平が羨ましかった。
 怜の弾ける笑顔。しかめっ面。寝不足で死にそうな顔から驚きや焦りまで、あいつだけが怜の多面性を次々に引き出すことができた。
 怜の気持ちより自分の気持ちを大事にする陽平も、見ていられなかった。損得勘定なしに自分を大事にすることがどんなに難しいか、長すぎる高校生活の中で俺は嫌というほど学んだから。
 あ。携帯が振動している。そういえば新幹線に乗ったことを、まだ親に連絡していなかった。その催促だろうとポケットを弄ると、思わぬ画面が表示されていた。
 今どこ
 怜からだ。久しぶりの連絡に、指はすぐに動いた。
 新幹線で東京から帰ってるとこ
 送信してから、怜に何も知らせず東京に来てしまったことに、急に気が咎めた。だけどあいつだって、あれから全く声かけてこないし、俺のこと避けてる感じだったし。と、誰にともなく言い訳をする。
 何時に帰るの
 文末に疑問符がない。絵文字もない。詰問されているみたいだ。
 五時半くらい
 即返信したが、なかなか返信がない。これは電話をかけるべきなのか。もう一度「どうした?」とかこっちから送るべきか。指の腹でぐりぐりとこめかみを押してみるも、いい答えが出ない。怜が自分に対して怒っているのだとしたら心当たりがありすぎて、でも思いつく全てが今更というものばかりで、不安と困惑が風船のように膨張していく。一旦落ち着こうと窓枠に携帯を置いた途端、その冷たさに驚いたように震えた。
 花山先輩と花火見ます。
 きっちり句読点まで入ったその短文を、何度も読み返す。絵文字もスタンプもなく、投げつけるような凶暴さだ。
 通話ボタンを押し、耳に携帯を当てながらデッキへと向かった。呼び出し音の軽快さが止まらない。胸騒ぎも止まらない。既に先客のいるデッキでは、自分と同じくらいの歳の男が扉にもたれてニヤケ面をしている。着いたら飯行く? え、作ってくれんの? 超嬉しいんだけど。うん、何でも食うよ、俺。わー、楽しみ。早くゆかぴに会いたい。
 うるせーな。何がゆかぴだ、くそ。つい睨みそうになってしまったが、俺の携帯からはまだ誰の声も聞こえてこない。何度かかけてみたが、これはもう、怜が意思を持って俺の通話を拒んでいるのだと思っていい。
 どういうこと?
 電話出て
 今どこ
 樹の矢継ぎ早のメッセージに、怜が返してくれることはないかもしれないが、送らずにはいられない。
 それにしても、なんで花山なんだ。
 陽平の方がまだマシだっつーの。
 なんで急に、嫌いな女と。
 つか、何でキレてんの怜は。
 つか俺、何焦ってんの。
 こんな時陽平がいてくれればと思った自分を、思い切り殴ってほしい。俺はあの踊り場で、ちゃんと陽平に殴られるべきだった。
 文化祭の花火は五時からだ。携帯で最終日のプログラムを調べてみると、花火は百五十発と記されている。時間に換算して、たった五分の花火大会だ。
 全然間に合わない。
「くそっ、ふざけんなよ」
 時速三百キロはあまりにも遅い。