抵抗があるはずの水中の方が、陸上よりもずっと自由だ。自分の体内の音に耳を澄ませ、水とひとつになる。青い世界の中をただひたすらまっすぐ進めば、必ず指先はゴールに届く。
プールの底に足をつけるまで、水の中では呼吸ができないのだということや、手や足はヒレではないのだということを思い出せない。陽平にとって泳ぐこととは、歩いたり走ったりすることと同じくらい生活に密着した運動だった。それを思い出させてくれたのは、柏島の海だ。
プールで泳ぐのと、海で泳ぐのは全然違う。風、波、塩分、生き物。それらが海には息づいていて、海の呼吸に合わせて行き先も泳ぎ方も変えなければ、水に足をとられてしまう。ゴールが欲しければ自分で設定しなければいけないという乱暴さと雄大さに圧倒された今年の夏から、陽平はプール通いを再開した。
今日は平日。自転車で街の市街地から二十分以上かかる山のふもとの市営温水プールには、秋の深まる今、利用者はほとんどいない。六レーンのうち、歩行している老人がひとりと、平泳ぎをしている中年男性がひとり。監視員の方が多いくらいだ。
怜についての自分の感情が他の友達に対する情とすこし異なっていることは、初めから分かっていた。それはたぶん、スカした顔の怜の本性を知りたいという好奇心が始まりだった。そのうちどうにかしてこいつの普通の高校男子の一面を引き出してやろうという執着へと変化し、それが成功したら、今度はその素顔を守りたいという庇護欲に変わった。
この気持ちが友情じゃないと決定づけたのは、小雨の海での怜の強い拒絶だ。
怜が恋愛相談を自分にしてくれなかったことも、お揃いのキーホルダーを赤の他人に渡してしまったことも、なぜか取られたはずのキーホルダーを突然スクールバッグにつけてきたことも、せっかく取り返してやったのに礼を言わないばかりかいらなかったのにという態度まで取られたことも、それなのに自分にキーホルダーの処置を任せてくれなかったことにも、全部心底腹が立った。
散々な目に合わされて、雨にまで降られて、もうこいつの友達なんかやめちまえと自分でも思うのに、それでも怜のことが嫌いになれない。
何でなん? 何で、俺…………。憎くてしょうがないはずの怜の瞳の奥にすいこまれたとき、はっきり分かってしまった。
俺、怜のことが好きなんか。
小動物みたいな目をぎゅっとつり上げて怒る怜を鼻先がつきそうなほど近くで見下ろしながら、自分がどれだけ怜に心酔しているのかを、痛感した。
怜は、逃げなかった。
引き寄せられるように唇を寄せた。怜のまばらなまつ毛は震えもせず、視線は自分だけに向けられていて、震える吐息が重なって、もうあと数ミリで触れるというぎりぎりの瞬間。陽平の心臓は、百メートルのバタフライレース後のように激しく脈打って、警告した。
壊れる、と。
今は二人だけど、俺たちはもともと三人だ。
樹のいないところで、三人の関係を勝手にねじ曲げるのは卑怯だと思った。
もっと正しいやり方があるはずだ。
怜の気持ちを温めて、自分の気持ちにも正直に、尚且つ樹にも納得してもらえる理想的なフォームが。
その日から、寝ても覚めても怜のことで頭がいっぱいになった。
プリントを後ろへ回す時に指先が触れたとき、視聴覚室で隣に座った膝が当たったとき、帰り道で「じゃあまた明日」と視線が絡んだとき。今まで何とも思っていなかったことが、いちいち心をざわつかせる。
その指先を掴みたい。
その膝に触れたい。
その目の中に映っていたい。
ちいさな衝動を何度も飲み込んで、夜になったら電話をかけた。自分が電話好きだったなんて、初めて知った。
呼び出しが五回鳴って出ないだけで、焦ってしまう。この時間に怜がすぐ電話に出ないってことは、今他の誰かと話してるってことなんじゃないか。他の誰かって、俺以外に話す奴なんか樹しかいないだろうとか。でも二人が用もなく長電話することなんかないだろうし、つまりこれは自分のことを相手に投影して不安がっているだけなんだろうとか。
そんなことを考えていると、怜のすこし高い「もしもし」が両耳から入ってきて、陽平はイヤホンを耳の奥へと入れ直す。ながら作業をしようと思っていても、結局手に持った携帯の画面に映る怜の後ろ姿のアイコンを拡大したり縮小したりするばかりで、体中の細胞という細胞が怜の声を聴くことに忙しい。あ、今立ち上がったなとか、今あのベッドの上に寝転んだなとか、そんなささいな動きまで想像してしまう。末期だ。もうどうしようもない。こんなに気持ちがダダ漏れでは、怜どころか樹にも気づかれてしまう。何とかしないと。
怜は電話には出てくれるけど、学校ではどこか自分を避けているようだ。保健室へ行くことも増えたし、浮かない顔をしていることが多い。電話で聞いても、はぐらかされてしまう。キスは許すくせに(実際してはいないけどしてもいい雰囲気だった、と思う)、いまだに俺を心の内側へは入れてくれない。
樹には。
樹にだったら、打ち明けるのだろうか。
両足の裏で、壁を強く蹴った。水中でゆらめくタイルが規則正しく後ろへ流れていくのを確認し、陽平は浮上とともに泳ぎ始める。
踊り場で見た光景が、目に焼きついて離れない。
少し屈んだ樹の背中。
ぴったり重なる二人の身体。
キスしているとしか思えなかったのは、今考えれば自分がそうしたかったのにできなかったからだ。
怜が嫌がっているように見えたのは、そう思いたかったからだ。だって、俺の時は目なんか閉じてなかったし。
最初から怜じゃなくて樹に突っかかっていたのは、樹に対する後ろめたさを清算できる絶好のチャンスだと思ったからだ。樹も俺と同じ気持ちなら、決別する理由ができる。俺はもう堂々と樹のことを除け者にできるし、樹も俺に気なんか使わずに好きにできる。友達じゃなくなっても、互いに嫌な奴にまでならなくてすむ。そういう打算もあったのかもしれない。
__お前には騙し続けていてほしかった。
樹の言葉が離れない。どんなに速く泳いでも、それは陽平の意識の表面にぴったりと張り付いて、まるで剥がれ落ちない。
自分がもう友達だと思っていない相手に対して、友達のふりをし続けること。そんな優しさがあるなんて、陽平には考えもつかなかった。
正しさと優しさはイコールだと信じていて、それを突き詰めていきたかった。あのとき俺たちは決裂してしまったけど、もうとっくにほころびていた。今あの場に時間を巻き戻せたとしても、俺は同じことをする。取り繕うだけの技術も余裕も意欲も、最初っからない。
水から上がるとぶわりと自分自身の熱が身体を包む。肌の上でプールの水と湧き出た自分の汗が混ざっていく。冷たいシャワーで洗い流し、タオルで拭いて、服を着終わる頃には体温調節が進み、優しい疲労感に包まれてほっとする。あー、よかった。今日一日も、なんとかやり過ごせた。
自転車にまたがり、がらんとした駐車場をつっきっているときだった。
「怜?」
見慣れた制服が、まっすぐこっちへ歩いてくる。
「陽平、やっぱりここにいた。電話してもつながらなかったから」
「ごめん、携帯家置いてきた。どしたん急に」
「どうしたって、そりゃあ心配したに決まってるでしょ」
樹だって心配してるよ。
その名前を今怜の口から聞くのは堪えるな、と思っていたが、怜はそれを言わず、口をぎゅっとへの字に曲げるだけだった。気を使わせて悪いとは思ったが、嬉しかった。
怜が心配してくれていることも。
わざわざこんなところまで一人でバスを乗り継いで、会いに来てくれたことも。
二人きりで話せることも。
泥沼で惨めに溺れている真っ最中だっていうのに、怜の言動ひとつでこんなに浮かれて。
俺はほんとに。
上下ジャージなんかじゃなくて、もうちょいまともな服だったらよかった。髪だって濡れてるし。
「どのくらい泳いだの?」
「三千くらい。ダラダラしながらな」
「すごい。ここから海岸までの距離じゃん」
目をぱちりとさせて怜が素直に驚くので、すごかろ、と笑った。今ちょっとヘラヘラしすぎかもしれないと、ハンドルをきつく握る。
「……また学校、来る?」
怜は話が下手だ。こういう時、普通は天気とかテレビとか当たり障りのない会話をしてから本題に入るもんなんじゃないかと思う。回りくどくないところは怜のいいところでもあるが。
「分からん」
踊り場で揉めてから、学校へ行っていない。次の朝、布団から出る理由が見つからなかった。夜になっても学校に行く理由が見つからなくて、親に言った。
俺、学校行かん、と。
脳裏でふと、樹もこんな感じだったのかなと思ったが、たぶん違う。あいつは周りに気をつかう繊細なタイプだ。ストレスを一人で抱え込んで行けなくなったのだとしたら、俺とは真逆だろう。俺は、抱え込みたくなくて行かないのだから。
おかんには最初、具合が悪いのかと心配された。俺の「行かない」が明日だけではなくずっと続く可能性のある強い意思だと理解すると困惑し、終いには怒った。大人は明確な理由がないと納得できないらしく、深読みして(いじめとか彼女とか)それらしいものを勝手に探そうとしてきてうざい。そもそも学校には友達と会うために通っていただけし。将来のことを考えたとき、高校生活の延長線上に自分のやりたいことなんかない。行く理由が見つかるまでは行かないと言った。行かない理由を見つけるまでは行けと言われ、喧嘩になって、学校に行くふりをしてプールに来たら初日にバレた。今の怜と同じように、プールの駐車場で待ち伏せしていたおかんは、俺を車の中に招き入れてこう言った。
陽平は赤ちゃんのときから水の中入れとったら元気だったけん、絶対ここにおると思たわ。一週間だけよ。一週間学校休んだら、どうするんか言わんかい。それでもまだ学校行かんと何するんか決めれんのんなら、とりあえず学校だけは行っとこ。お父さんもお母さんも、できることはしたげるけん、よおに考えて。
そう言っておかんは俺の手を握った。その手は覚えていたものよりずっと小さくてシミもしわもあって、自分はいつの間にこんなにでかくなったんだろう、と思った。それでもおかんの声には「大丈夫」と思わせる強さがあって、「分かった」と答えた俺は、ちょっとだけ前を向いた。
誰から連絡が来ても来なくても心が毛羽立つから、携帯の電源はずっと切っていた。怜から連絡が来るかもしれないとは思っていたが、まさか本人が現れるとは。
「俺、今まで何となくこのまま卒業して大学行くんかなーと思っとった。でもやりたいこともないのに、明日も明後日も学校行って、受験勉強して、大学入ってまた四年も勉強するんはしんどいなって」
「面談で何か言われたの? 担任に」
「今までと同じことしか言われんかったよ。何でもええけん、行けそうな大学書いとけって。ほんで俺は、大学行きたいんかも分からんのに書くことなんかないわ、みたいな」
バッグの肩紐を握りしめる怜の手に、力がこもっている。それを見て、気づいた。怜は責任を感じているのかもしれないと。
「あ、違うよ。怜のせいじゃないけん、俺が学校休んどんの。樹のせいでもない。あれは俺も悪かった」
こちらを見上げる怜の目の下にはうっすらとくまがある。ちいさく開いた口は、ごめん、と言った後も何か言いたそうだったが、すこしの思案のあと、閉じてしまった。
嘘、ではない。
あの喧嘩はきっかけにすぎなかった、と思う。
でも、俺に樹ほどの想像力と忍耐力と演技力があれば、今でも三人放課後のフードコートで宿題をやっていたかもしれない。怜のドーナツを一口横取りして、樹に消しゴム投げつけられて、それを怜が動画にして送ってくれる、みたいな日常もありえたかもしれない。
そのシナリオなら、間違いなく怜も樹も笑ってくれる。それがこの二人にとっての正解だから。でも俺は、その正解にいつまで付き合えばいいんだろうか。
卒業まで?
大学進学しても、ずっと?
はっ、無理だろ。
俺は樹にも怜にも笑っていてほしいけど、俺は怜と友達でいたいわけじゃない。
「怜、ごめん」
隣を歩いていた足が止まる。俺は片手をハンドルから放し、怜と向き合う。ベージュのカーディガンがこんなに似合う男が、他にいるだろうか。シャツの襟の白さとか、ネクタイの結び目のしゅっとした感じとか、全部が怜のためにデザインされているように見える。自分が着てもこうはならない。
ぱちぱち、と二度瞬いた瞳。まっすぐな鼻筋。血色のいい唇。ああ、もう、全部。全部が、どうしようもなく。
「好きです。俺と付き合ってほしい」
強い風が吹いた。
潮の匂いがした。
プールの底に足をつけるまで、水の中では呼吸ができないのだということや、手や足はヒレではないのだということを思い出せない。陽平にとって泳ぐこととは、歩いたり走ったりすることと同じくらい生活に密着した運動だった。それを思い出させてくれたのは、柏島の海だ。
プールで泳ぐのと、海で泳ぐのは全然違う。風、波、塩分、生き物。それらが海には息づいていて、海の呼吸に合わせて行き先も泳ぎ方も変えなければ、水に足をとられてしまう。ゴールが欲しければ自分で設定しなければいけないという乱暴さと雄大さに圧倒された今年の夏から、陽平はプール通いを再開した。
今日は平日。自転車で街の市街地から二十分以上かかる山のふもとの市営温水プールには、秋の深まる今、利用者はほとんどいない。六レーンのうち、歩行している老人がひとりと、平泳ぎをしている中年男性がひとり。監視員の方が多いくらいだ。
怜についての自分の感情が他の友達に対する情とすこし異なっていることは、初めから分かっていた。それはたぶん、スカした顔の怜の本性を知りたいという好奇心が始まりだった。そのうちどうにかしてこいつの普通の高校男子の一面を引き出してやろうという執着へと変化し、それが成功したら、今度はその素顔を守りたいという庇護欲に変わった。
この気持ちが友情じゃないと決定づけたのは、小雨の海での怜の強い拒絶だ。
怜が恋愛相談を自分にしてくれなかったことも、お揃いのキーホルダーを赤の他人に渡してしまったことも、なぜか取られたはずのキーホルダーを突然スクールバッグにつけてきたことも、せっかく取り返してやったのに礼を言わないばかりかいらなかったのにという態度まで取られたことも、それなのに自分にキーホルダーの処置を任せてくれなかったことにも、全部心底腹が立った。
散々な目に合わされて、雨にまで降られて、もうこいつの友達なんかやめちまえと自分でも思うのに、それでも怜のことが嫌いになれない。
何でなん? 何で、俺…………。憎くてしょうがないはずの怜の瞳の奥にすいこまれたとき、はっきり分かってしまった。
俺、怜のことが好きなんか。
小動物みたいな目をぎゅっとつり上げて怒る怜を鼻先がつきそうなほど近くで見下ろしながら、自分がどれだけ怜に心酔しているのかを、痛感した。
怜は、逃げなかった。
引き寄せられるように唇を寄せた。怜のまばらなまつ毛は震えもせず、視線は自分だけに向けられていて、震える吐息が重なって、もうあと数ミリで触れるというぎりぎりの瞬間。陽平の心臓は、百メートルのバタフライレース後のように激しく脈打って、警告した。
壊れる、と。
今は二人だけど、俺たちはもともと三人だ。
樹のいないところで、三人の関係を勝手にねじ曲げるのは卑怯だと思った。
もっと正しいやり方があるはずだ。
怜の気持ちを温めて、自分の気持ちにも正直に、尚且つ樹にも納得してもらえる理想的なフォームが。
その日から、寝ても覚めても怜のことで頭がいっぱいになった。
プリントを後ろへ回す時に指先が触れたとき、視聴覚室で隣に座った膝が当たったとき、帰り道で「じゃあまた明日」と視線が絡んだとき。今まで何とも思っていなかったことが、いちいち心をざわつかせる。
その指先を掴みたい。
その膝に触れたい。
その目の中に映っていたい。
ちいさな衝動を何度も飲み込んで、夜になったら電話をかけた。自分が電話好きだったなんて、初めて知った。
呼び出しが五回鳴って出ないだけで、焦ってしまう。この時間に怜がすぐ電話に出ないってことは、今他の誰かと話してるってことなんじゃないか。他の誰かって、俺以外に話す奴なんか樹しかいないだろうとか。でも二人が用もなく長電話することなんかないだろうし、つまりこれは自分のことを相手に投影して不安がっているだけなんだろうとか。
そんなことを考えていると、怜のすこし高い「もしもし」が両耳から入ってきて、陽平はイヤホンを耳の奥へと入れ直す。ながら作業をしようと思っていても、結局手に持った携帯の画面に映る怜の後ろ姿のアイコンを拡大したり縮小したりするばかりで、体中の細胞という細胞が怜の声を聴くことに忙しい。あ、今立ち上がったなとか、今あのベッドの上に寝転んだなとか、そんなささいな動きまで想像してしまう。末期だ。もうどうしようもない。こんなに気持ちがダダ漏れでは、怜どころか樹にも気づかれてしまう。何とかしないと。
怜は電話には出てくれるけど、学校ではどこか自分を避けているようだ。保健室へ行くことも増えたし、浮かない顔をしていることが多い。電話で聞いても、はぐらかされてしまう。キスは許すくせに(実際してはいないけどしてもいい雰囲気だった、と思う)、いまだに俺を心の内側へは入れてくれない。
樹には。
樹にだったら、打ち明けるのだろうか。
両足の裏で、壁を強く蹴った。水中でゆらめくタイルが規則正しく後ろへ流れていくのを確認し、陽平は浮上とともに泳ぎ始める。
踊り場で見た光景が、目に焼きついて離れない。
少し屈んだ樹の背中。
ぴったり重なる二人の身体。
キスしているとしか思えなかったのは、今考えれば自分がそうしたかったのにできなかったからだ。
怜が嫌がっているように見えたのは、そう思いたかったからだ。だって、俺の時は目なんか閉じてなかったし。
最初から怜じゃなくて樹に突っかかっていたのは、樹に対する後ろめたさを清算できる絶好のチャンスだと思ったからだ。樹も俺と同じ気持ちなら、決別する理由ができる。俺はもう堂々と樹のことを除け者にできるし、樹も俺に気なんか使わずに好きにできる。友達じゃなくなっても、互いに嫌な奴にまでならなくてすむ。そういう打算もあったのかもしれない。
__お前には騙し続けていてほしかった。
樹の言葉が離れない。どんなに速く泳いでも、それは陽平の意識の表面にぴったりと張り付いて、まるで剥がれ落ちない。
自分がもう友達だと思っていない相手に対して、友達のふりをし続けること。そんな優しさがあるなんて、陽平には考えもつかなかった。
正しさと優しさはイコールだと信じていて、それを突き詰めていきたかった。あのとき俺たちは決裂してしまったけど、もうとっくにほころびていた。今あの場に時間を巻き戻せたとしても、俺は同じことをする。取り繕うだけの技術も余裕も意欲も、最初っからない。
水から上がるとぶわりと自分自身の熱が身体を包む。肌の上でプールの水と湧き出た自分の汗が混ざっていく。冷たいシャワーで洗い流し、タオルで拭いて、服を着終わる頃には体温調節が進み、優しい疲労感に包まれてほっとする。あー、よかった。今日一日も、なんとかやり過ごせた。
自転車にまたがり、がらんとした駐車場をつっきっているときだった。
「怜?」
見慣れた制服が、まっすぐこっちへ歩いてくる。
「陽平、やっぱりここにいた。電話してもつながらなかったから」
「ごめん、携帯家置いてきた。どしたん急に」
「どうしたって、そりゃあ心配したに決まってるでしょ」
樹だって心配してるよ。
その名前を今怜の口から聞くのは堪えるな、と思っていたが、怜はそれを言わず、口をぎゅっとへの字に曲げるだけだった。気を使わせて悪いとは思ったが、嬉しかった。
怜が心配してくれていることも。
わざわざこんなところまで一人でバスを乗り継いで、会いに来てくれたことも。
二人きりで話せることも。
泥沼で惨めに溺れている真っ最中だっていうのに、怜の言動ひとつでこんなに浮かれて。
俺はほんとに。
上下ジャージなんかじゃなくて、もうちょいまともな服だったらよかった。髪だって濡れてるし。
「どのくらい泳いだの?」
「三千くらい。ダラダラしながらな」
「すごい。ここから海岸までの距離じゃん」
目をぱちりとさせて怜が素直に驚くので、すごかろ、と笑った。今ちょっとヘラヘラしすぎかもしれないと、ハンドルをきつく握る。
「……また学校、来る?」
怜は話が下手だ。こういう時、普通は天気とかテレビとか当たり障りのない会話をしてから本題に入るもんなんじゃないかと思う。回りくどくないところは怜のいいところでもあるが。
「分からん」
踊り場で揉めてから、学校へ行っていない。次の朝、布団から出る理由が見つからなかった。夜になっても学校に行く理由が見つからなくて、親に言った。
俺、学校行かん、と。
脳裏でふと、樹もこんな感じだったのかなと思ったが、たぶん違う。あいつは周りに気をつかう繊細なタイプだ。ストレスを一人で抱え込んで行けなくなったのだとしたら、俺とは真逆だろう。俺は、抱え込みたくなくて行かないのだから。
おかんには最初、具合が悪いのかと心配された。俺の「行かない」が明日だけではなくずっと続く可能性のある強い意思だと理解すると困惑し、終いには怒った。大人は明確な理由がないと納得できないらしく、深読みして(いじめとか彼女とか)それらしいものを勝手に探そうとしてきてうざい。そもそも学校には友達と会うために通っていただけし。将来のことを考えたとき、高校生活の延長線上に自分のやりたいことなんかない。行く理由が見つかるまでは行かないと言った。行かない理由を見つけるまでは行けと言われ、喧嘩になって、学校に行くふりをしてプールに来たら初日にバレた。今の怜と同じように、プールの駐車場で待ち伏せしていたおかんは、俺を車の中に招き入れてこう言った。
陽平は赤ちゃんのときから水の中入れとったら元気だったけん、絶対ここにおると思たわ。一週間だけよ。一週間学校休んだら、どうするんか言わんかい。それでもまだ学校行かんと何するんか決めれんのんなら、とりあえず学校だけは行っとこ。お父さんもお母さんも、できることはしたげるけん、よおに考えて。
そう言っておかんは俺の手を握った。その手は覚えていたものよりずっと小さくてシミもしわもあって、自分はいつの間にこんなにでかくなったんだろう、と思った。それでもおかんの声には「大丈夫」と思わせる強さがあって、「分かった」と答えた俺は、ちょっとだけ前を向いた。
誰から連絡が来ても来なくても心が毛羽立つから、携帯の電源はずっと切っていた。怜から連絡が来るかもしれないとは思っていたが、まさか本人が現れるとは。
「俺、今まで何となくこのまま卒業して大学行くんかなーと思っとった。でもやりたいこともないのに、明日も明後日も学校行って、受験勉強して、大学入ってまた四年も勉強するんはしんどいなって」
「面談で何か言われたの? 担任に」
「今までと同じことしか言われんかったよ。何でもええけん、行けそうな大学書いとけって。ほんで俺は、大学行きたいんかも分からんのに書くことなんかないわ、みたいな」
バッグの肩紐を握りしめる怜の手に、力がこもっている。それを見て、気づいた。怜は責任を感じているのかもしれないと。
「あ、違うよ。怜のせいじゃないけん、俺が学校休んどんの。樹のせいでもない。あれは俺も悪かった」
こちらを見上げる怜の目の下にはうっすらとくまがある。ちいさく開いた口は、ごめん、と言った後も何か言いたそうだったが、すこしの思案のあと、閉じてしまった。
嘘、ではない。
あの喧嘩はきっかけにすぎなかった、と思う。
でも、俺に樹ほどの想像力と忍耐力と演技力があれば、今でも三人放課後のフードコートで宿題をやっていたかもしれない。怜のドーナツを一口横取りして、樹に消しゴム投げつけられて、それを怜が動画にして送ってくれる、みたいな日常もありえたかもしれない。
そのシナリオなら、間違いなく怜も樹も笑ってくれる。それがこの二人にとっての正解だから。でも俺は、その正解にいつまで付き合えばいいんだろうか。
卒業まで?
大学進学しても、ずっと?
はっ、無理だろ。
俺は樹にも怜にも笑っていてほしいけど、俺は怜と友達でいたいわけじゃない。
「怜、ごめん」
隣を歩いていた足が止まる。俺は片手をハンドルから放し、怜と向き合う。ベージュのカーディガンがこんなに似合う男が、他にいるだろうか。シャツの襟の白さとか、ネクタイの結び目のしゅっとした感じとか、全部が怜のためにデザインされているように見える。自分が着てもこうはならない。
ぱちぱち、と二度瞬いた瞳。まっすぐな鼻筋。血色のいい唇。ああ、もう、全部。全部が、どうしようもなく。
「好きです。俺と付き合ってほしい」
強い風が吹いた。
潮の匂いがした。
