一人になりたいのに、田舎の陽キャと訳あり年上男子が二人がかりで迫ってくるんですけど。

「怜は東京の大学行くん?」
 もうすぐ日付が変わる時間。耳に当てた携帯から、陽平の鼻声が聞こえる。あの雨の日からしばらく経って、陽平は風邪をひいた。といっても本人はそれを認めないので、学校には来ている。
「うん」
「ほんなら俺が同じとこ受かったら、一緒に住む?」
 陽平がどこまで本気か分からないので、同じところなんか受かるわけないじゃん、と突き放せないし、いいよと安請け合いもできない。曖昧に笑っていると、笑って誤魔化すなと言われた。その声にも笑いが含まれていて、怜は安心する。
 最近、陽平からの電話が増えた。連絡もなしに、怜の家へいきなりやってくることもある。特に用があるわけではないことぐらい怜も分かっているが、断る理由も見つからない。
 二人きりの時、陽平の声は少し甘い。そう気づいたのはもちろんつい最近で、もしかしたらずっと前からそうだったのかもしれない。もともと本質が甘い奴だから。
「怜、起きとる?」
「うん。でもそろそろ寝ようかな」
「ほうか、分かった」
 分かった、と言うけれど、その響きにどれくらい残念そうな気持ちが現れているのか、陽平はきっと分かっていない。そんなに名残惜しそうに言われると、こっちも「じゃあもう少しだけ」と言わざるを得ない。
「何か話してや、怜」
「陽平がかけてきたくせに」
「怜の話が聞きたいんじゃ。ていうか声が聞きたい。話ないんなら羊数えるだけでええけん」
 右耳が赤くなっている気がして、携帯を左手に持ち替えた。「ははっ」という陽平の掠れ笑いが左の鼓膜を熱くする。だめだ、こっちの耳も使い物にならない。
「羊が一匹、羊が二匹」
 僕らは一体、何をやっているのだろう。
 今日二限目に来た教育実習の先生の髪型や、購買の新しいパンや、返ってきた模試の結果。学校でももう話したことをなぞって、夜中に羊を数えて。
 僕らが話したいことはそんなことじゃないはずなのに、それでも核心にたどり着く勇気も必要性もなくて、ぐるぐると同じところを回っている。羊の数だけが増えていく。
「羊が三十八、羊が……。陽平?」
 かすかな寝息が聞こえる。羊は無事に陽平を夢の世界へと連れて行ったようだ。
「おやすみ」
 電話を切って、布団へ潜る。
 怜は暗闇の中で、身体をぎゅっと縮こめた。
 樹にバレたらどうしよう。
 不安と焦燥と罪悪感が一気に押し寄せてきて、自分は今取り返しのつかないことをしているのかもしれないと思う。あの雨の中陽平と二人でしようとしたことは(陽平が一方的に仕掛けてきたこととは言え、僕は逃げなかった)友情を逸脱している。実際は何もなかったはずなのに、僕らは今もあの延長線上を綱渡りしている。一歩踏み込むごとに、揺れる縄。たとえ怜がじっとしていても、陽平は力強くその上を近づいてくる。いまさらこの不安定な場所へ樹を引きずり上げることは、陽平への裏切りだ。だけどこの状況がすでに樹への裏切りでもある。
 三人の関係がもう元には戻らないかもしれないという仮定が、陽平からの電話を切るたびにはっきりと輪郭を持って、現実味を帯びてくる。
 嫌だ。
 そんなの嫌だ。
 僕は文化祭だって三人で楽しみたいし、次の夏休みも三人で柏島に行きたいし、できれば卒業しても三人で一緒にいたい。自分が陽平に応えても応えなくても、たどり着くのは望む未来ではない。分かっているのに、僕は綱からまだ、手を離せないでいる。
 そんな夜が続くと、僕は授業中にうとうとするようになってしまった。昼食の時間も食欲より睡眠欲の方が勝り、保健室で仮眠をとらせてもらうこともある。怜がいない間、二人がどんな会話をしているのか気にならないわけではなかったが、そこまで気をまわす余裕がない。
 樹が心配してくれていることは分かっていた。保健室での仮眠を提案してくれたのは樹だし、バイクで家まで送ってくれることもあった。深く訊ねてこない樹の優しさにつけこんでいるようで後ろめたい。
 陽平も早めに電話を切り上げるようになってきた。でも寝られないのは陽平のせいではなく、自分自身のせいだ。
 何も解決策が見つけられないまま、一ヶ月が過ぎた。いけないと思いつつ、保健室で過ごす昼休みが快適になりつつある。去年は教室でも食堂でも堂々と一人で昼食をとっていたなんて、今となっては信じがたい。あの時の心の静寂が、今の自分にこそ必要だった。
「怜」
 昼食の時間になって、弁当をつかんで立ち上がった怜を、樹が止めた。
「久しぶりに踊り場で食おう。涼しくなってきたからあそこちょうどいいんじゃね」
「ごめん、今日もちょっと保健室に」
「怜」
 樹が立ち上がる。
「今日、陽平いねーから」
 振り返ると、陽平はもういなかった。
「担任と特別面談だって。あいつ進路希望まだ出してないらしい」
 樹は陽平がいたら話し辛いことを話したいのだと察した。三人一緒だと気まずいことがあると分かっていてなお怜を解放してくれないなんて、今までだったら考えられなかった。樹はいつだって怜の沈黙を正しく翻訳して、それを尊重してくれていたのに。
 鍵のかかった屋上への扉は、外からの熱で温められている。背中を預け、四角く広がるひだまりの中に足を投げ出した。隣に樹があぐらをかく。反対隣にいるはずの大きな身体がないので、怜はそこへウォーターボトルを置いた。半透明な容器が日光を集め、水の影があやしく歪んだ。
「塾、やめたらしいじゃん」
「うん」
 結局、花山先輩に話しかけられた日が最後の塾の日になった。丁寧に教えてくれる先生で、気に入っていたんだけど。
「怜も気まずいとか思うんだ」
「ちょっとね。頑張って行くものでもないと思って」
「何も悪くねーのに怜がやめなきゃいけないのは、納得いかねーけどな」
「しょうがないよ」
 唐揚げを噛みしめる。少し前なら、もっと急いで食べていた。なにせ「怜、唐揚げと交換しよや」と横から勝手にブロッコリーを投げ入れてくる人がいたから。大体茶色いものが狙われる。唐揚げ、ミートボール、ハンバーグなど。
「そういや、陽平はいよいよ担任に絞られるのかな? とりあえず適当に志望校の欄埋めとけばいいのに。受験まではまだ時間あるんだから」
「まーな。けど、あいつはとりあえずってのがあんま得意じゃねーからな。怜は東京?」
 うなずいて、第三候補までの大学名を上げた。
「あ、俺もちょっとかぶってる」
「ほんとに?」
「うん」
 急に嬉しくなった。
 少なくとも樹は、この先も自分の隣にいてくれるかもしれない。何一つ約束されていない不確かな未来へ進んでいく中、同じ方向を向いている人が今自分の隣にいるということは、それだけで心強かった。
「ねえ、同じ大学に行こうよ」
「ははっ、かわいいこと言うじゃん。急に寂しくなった? とりあえず勉強だな。こっちが選べるくらいの余裕はほしいし」
「僕絶対樹と一緒の大学行きたい。樹と一緒に住みたい。楽しいよ絶対」
「いや、まあそりゃ楽しいだろうけど。大学っつっても色々あるし、学部も学科も色々だし」
「陽平も同じ大学行けるかな? 難しいかなあ……、昼休みに呼び出されるぐらい成績も微妙だし。でも僕らが行こうって言えばついてくるよね?」
「うーん、どうだろう。あいつはあいつでやりたいことあるかもしんねーし」
「僕らと一緒にいるより、やりたいこと?」
「分かんねーけど、友達うんぬんよりもまずは自分の将来だろ」
 樹の正論が、怜の熱を冷やしていく。熱いコーヒーに氷を入れたときのように、怜そのものが急速に薄まっていくような錯覚を覚えた。
「俺はまだ理系の学部ってことしか決めてねーし、できれば国公立って思ってるけど、納得できるところまで考えるつもり。大学の四年間は高校みたいに無駄にしたくないんだよ。だって俺、今の時点で高校に四年近くいるからな? 親にもこれ以上心配かけたくないし、卒業後の就職先とかも……怜?」
 弁当箱の蓋を閉めた。もうお腹いっぱいだ。
「そうだよね。みんなそれぞれの目標に向かって頑張るべきだよね。分かってる、分かってるんだけど……。僕は目の前のことで手一杯だし、未来に絶望しかない。みんな離れ離れになっても友達みたいなこと言うけど、そんな訳ないじゃんって思っちゃうんだよ。離れたらそれっきりに決まってるじゃんって。だから自分の将来なんかより、陽平や樹のことがずっと気になって……」
 これ以上ここにいると、言うべきでないことが溢れてしまいそうだ。弁当箱をしまって、立ち上がった。
「待てって」
 目の前に、きゅっとかたく締められたネクタイのノット。樹が立ちはだかっていた。
「怜、俺はずっとお前と友達でいるつもりだよ、お前がやめない限りはな。それより俺らの進路が急に心配になるなんて、なんかあった? 最近ずっとしんどそうじゃん。寝れないほどの悩みって、何」
 逃げ道を一つも残さない強い質問に、怜はたじろいだ。もしかしたらもう、樹は知っているのかもしれない。だからって、自分の口から何もかもを晒すことはできない。
「言わない」
「なんで」
 分かったって言ってよ。いつもみたいに。そっとしといてよ。
「樹だって、僕に隠してたじゃん。留年してたこと」
「隠してねーよ別に。ちゃんと全部話したじゃん」
「そ、それは、言わなきゃいけない状況になったからでしょ?」
「ちげーし。俺は別に怜に知られて困ることなんかねーよ、初めっから。でも怜は俺に言いてーことがあんのに隠してるだろ? 俺はそれが知りたいっつってんの。友達なんだろ? この先も」
 怜、と呼ぶ声は優しくて、僕は行き場をなくしてしまう。両肩をつかまれる。触れられたところから気持ちが伝わってしまう気がして、目を伏せた。今樹の透き通る視線につかまったら、きっと全部言ってしまう。
「陽平と何かあった?」
 心臓が跳ねた。
 その音が樹にも聞こえたかもしれない。
 ぎゅっと目を瞑ってしまう。
 嫌だ。
 知られたくない。
「怜、教えてくれ」
 樹のやわらかい声が、鼓膜をなでる。
 逃れられない。
 いつものように僕が聞いてほしい事だけを聞いてくれる優しい樹が、ここにはいない。そして気づく。僕は僕にとって都合のいい樹が好きだったのだ。陽平に対しても同じだ。僕にとって都合のいい陽平は、もういない。僕の思うように世界が動かないことなんて、最初から分かっていたじゃないか。僕はいつの間にこんなに傲慢になってしまったんだ。
「怜」
 すがるような樹の声に、僕はすがりたい。すがって、楽になりたい。
「……樹、」
「何しとんじゃ樹!」
 震える僕の声は、階段下から迫り来る突然の怒号にかき消された。二段飛ばしで駆け上がってくる陽平の形相に、怜は後ずさりしたが、後ろには開かない扉。思い切り背中をぶつけてしまい、目の前で「怜っ」と呼んだ樹の身体がふっと紙切れみたいにひるがえった。
 陽平が樹を怜から引き剥がしたのだ。
「怜は嫌がっとっただろがっ」
 樹の胸ぐらをつかんだ陽平は、今にも殴りかかりそうだ。
「陽平っ、何訳わかんないこと言ってんの! やめて! 離して!」
 怜の細い腕では陽平はびくともしない。陽平の目はその視界に入るだけで発火しそうなほどに鋭く、それは怜の存在を完全無視し、まっすぐ樹だけに向けられている。
「面談早めに切り上げてきたら教室にも保健室にもおらんし、わざわざこんな一目のないところに連れてきて」
「僕は僕の意思でここに来て、僕の意思で樹と話してた。いつも三人で昼ごはん食べてるじゃん、ここで。たまたま今日は陽平がいなかっただけで」
「怜は黙っとけ。俺は樹に話しよる」
 怜を振り払う陽平は、それでも樹から目を離さない。
 そういうところだ。
 陽平の、そういうところが嫌いだ。
 僕をまるで、子どもみたいに。
 三人の中で、何の抵抗もせず陽平を見据える樹の瞳だけが冷静だった。
「陽平、お前が思ってるようなことはしてない」
 落ち着いた樹の声に、陽平は突き放すように樹を解放した。ふらりと一歩後退した樹の足は、それ以上は揺れない。
「何なんお前、俺のおらん時にこそこそしやがって」
「最初にこそこそし始めたのはどっちだ」
「なん…………っ」
 はっとした陽平の顔から血の気がひいていく。その様子はそのまま、怜の心の内を映し出しているようだ。
 怜は握っていた陽平のジャージから手を放す。共犯者ではないのだとこの期に及んで証明するかのようで、そんな自分に呆れた。
 僕が殴られればいいのに。
「俺は別に、樹を出し抜くつもりはなかった。今もない。隠したり、騙したりするんは好かん。そう思わせたんなら、悪かったな」
 陽平のやり場のない声が低い天井に跳ね返り、怜の心を貫いた。
 陽平は、樹を騙している。
 陽平に、そう言わせたのは僕だ。僕のせいだ。全部僕のせいだ。
 僕は息を止めていた。酸素が少しずつ、体内から減っていく。
「陽平の今の正直さはエゴなんじゃね?」
 感情の読み取れない表情のまま、樹はぽつりとつぶやいた。寂しい響きだった。
 樹、やめて。
 樹、もう、これ以上。
「俺は陽平のこと、すげーいい友達だと思ってた。だからお前には騙し続けてほしかった。俺のことも、怜のことも」
 樹の背中がすり抜ける。
 予鈴の音とともに消えていったものを、怜はもう、追いかけることができなかった。