一人になりたいのに、田舎の陽キャと訳あり年上男子が二人がかりで迫ってくるんですけど。

今日も一日中教室で見ていた陽平の背中を、怜はまだ見ている。鼻先がつきそうなほどの至近距離で。柏島で直に見た背面の筋肉の隆起は、薄いシャツ越しにもその存在が見てとれた。ひょっとすると、怜が思っているよりも頻繁に、陽平は泳ぎに行っているのかもしれない。
 怜なんて荷台に乗せていないかのような軽快な速度で、陽平は自転車を漕いでいる。そのくらいの重さの存在感でいたいと願っていたはずなのに、僕の心はいつからこんなに重くなってしまったのだろうと、怜は思う。重くて重くて、一人では到底抱えきれない。ここに樹がいてくれたら、いくぶんか楽だったろう。
 だけど。
 怒っているように見えていた陽平が、寂しそうな顔をしたから。樹じゃなくて、僕に向かって「二人で話したい」と言う陽平を、受けとめたかった。僕の両手が塞がっていることなんて、関係なかった。僕にできることがあるなら何でもしたくて、僕は抱えていたものを捨てた。
 教室を出てからほとんど、会話という会話をしていない。陽平らしからぬ無言の時間。普段陽平の明るさに、自分がどれだけ助けられていたのかを、今更思い知る。
 磯の香りが頬を撫でる。陸地に繋ぎとめられた船がゆらゆらと揺れる漁港を通り過ぎ、誰もいない駐車場に自転車を停めると、「歩こか」と陽平が言った。青空が広がっているのに、くすんだ色の雲が太陽を覆い隠した途端、世界がワントーン落ちる。海の青は濃紺へ、船底の赤はボルドーへ、陽平のシャツの白は灰色へ。
 防波堤を歩く。行き止まりはすぐにやってきて、陽平と怜は並んで座った。まだ昼間の熱を持て余しているコンクリートが、二人をじわじわと温める。
「俺、怜にムカついとんじゃ」
 知っている。
 そんなこと、今朝から分かっている。
 僕がどれぐらい長い間、陽平の背中を見てきたと思ってんだ。そんなのすぐ分かる。
 だから怜は、うん、とだけ言う。
「落ち着いてから話そうと思ったんじゃけど、今日一日考えても全然頭整理できんかったし、このままじゃ怜にも樹にも悪いけん、今思っとること全部言うとこうと思って」
「うん」
 ふう、と長く大きい息を吐いてから、陽平は続けた。
「何で言うてくれんかったん? 花山先輩にキーホルダー取られたって」
「え」
「俺、知らんかったし。怜の鞄にキーホルダーついてないこと気づいた時、聞こうと思ったんよ。でも最近怜元気なかったけん、聞くより怜が言ってくるの待つ方がええんかなって思った。怜があれめっちゃ大事にしとることも知っとったし」
 陽平も樹も、同じことを言う。僕はそんなに落ち込んでいるように見えたのだろうか。あんなちっぽけなキーホルダーひとつに。いや、たぶん、二人がよく見ているのだ。それはありがたいことなのだろうけれど、少し閉塞感を感じもする。それさえ二人にはお見通しなのかもしれない。
「昨日塾の友達から聞いた。怜、告られたんだろ? それで俺、塾のあとに直接聞いたんよ、花山先輩に」
 今度こそ驚いて、怜は陽平を見た。陽平の眉間には皺が寄っている。
「ほんで先輩がなんでか怜のキーホルダーつけとって「高見くんにもらった」って言よって、絶対嘘じゃと思ったけん、詰めたら吐いたわ」
 陽平はスクールバッグの中から取り出したそれを、怜の目の前にぶら下げた。
「……取り返し、てくれたの……?」
 怜の手のひらに、ころんとバナナミルクが落ちる。言葉を変な場所で区切ってしまったのは。
 いらなかったから。
 それを今、この瞬間に、はっきりと理解した。
 僕はもう、いらないんだよこれ。
 三人のおそろいの印。それを無理やり奪い取られて自力で取り返すこともできない自分なんか嫌いだ。そんなダサい自分を陽平にも樹にも晒すことができなくて、なのに二人ともそれに気づいていたなんて。
 そしてそんなふうに思う自分の卑屈さをいま、陽平に突きつけられている。最低だ。最低な人間だ、僕は。陽平のまっすぐすぎる正義感と親切心が、どうしようもないくらい恨めしい。これじゃあもう、僕は塾に行けない。花山先輩のことなんかどうでもいいと思っていたのに、こんなふうに被害者にされたら、僕はどんな顔をしてあそこに行けばいいのか分からない。
「今日怜の鞄にバナナミルクがついとって、俺マジで凹んだ。お前は何でもええんかって思って」
 何でもいいわけじゃない。
 これは樹から……。
 そこまで考えて、やめた。新しく買ってもらったものなら嬉しくて、取り返したものなら困るなんて、こんなこと到底陽平には説明できない。言うべきじゃない。
「ごめん」
 そこはありがとうだろうと自分でも思うが、嘘はつけない。陽平に嘘はつきたくない。僕の中のなけなしの誠実さが、そう言わせた。
「怜、昨日何で塾来んかったん?」
 上空を飛ぶ飛行機の鈍い音。それをかき消すような爆発音にも近い低音が降ってきて、怜は空を見上げた。いつ雨が降り出してもおかしくない低く重たい雲。沖の方は、あんなに晴れているのに。
 思考が逃避を始めてしまい、怜は慌てた。なぜ今僕は、樹と二人で出かけたことを、隠そうとしたのか。たった今陽平に対して誠実でいようと思ったはずなのに。
「まあ、行きづらいよな。あんな派手な先輩に目つけられとったら」
 陽平が埋めてくれた行間を、訂正した方がいいのかもしれない。でも僕はそうしなかった。
「それは分かるけど、俺には言うてほしかった。一緒の塾なんじゃけん。あと、休むときも言うてほしい。何かあったんかと思って心配するやんか。俺が休みの時狙って花山先輩が怜にちょっかいかけたんは、俺もちょっと悪かったと思っとる。俺、前に先輩から怜についていろいろ聞かれとって、先輩が怜をねらっとるのは薄々分かっとったし、怜にその話もしとけばよかったんかなって」
「何なの」
 バナナミルクを強く握りしめて、怜は搾り出した。耐えられなかった。
「僕が一人で何もできないみたいに。僕って、そんなに頼りない?」
「そんなこと言うてない。連絡ぐらいできるだろって言よるだけじゃ」
「陽平は僕の何なの? 保護者なの?」
「友達だろが。友達が友達の心配して何が悪い」
「心配って感じじゃなかったじゃん。ずっと朝から怒っててさ。僕が陽平の思い通りにならなかったのが気に入らないんじゃないの?」
「は? もういっぺん言うてみ」
「言うよ、言ってやる。陽平がやってることは過干渉だ。本当は陽平が花山先輩と付き合いたかったからそんなこと言って」
「お前ふざけんなよっ。人がせっかくあいつから取り返してやったのに」
「頼んでない!」
「ほな返せ。今すぐここで捨ててやる」
「一度貰ったものはもう僕の物だ。陽平の勝手にはさせない」
「黙れ、どうせお前は俺が何したって文句言うんじゃ。貸せ」
「やだ!」
 怜が陽平に力で敵うわけがない。ざらざらしたコンクリートの上に押し倒され、陽平の熱い手が怜の拳を包み込む。それでも怜は、陽平の血走った目をきつく睨みあげた。
 ぽつ。
 冷たい雫が、怜の指先を濡らす。
 ぽつ、ぽつ。むき出しの手首や、耳元で弾けたその音が、二人を少しずつ、冷やしていく。
「怜、やっぱ捨てるんはやめじゃ。それはお前が持っとけ」
 それは俺の気持ちじゃけん。
 陽平の最後の言葉が、雨とともに怜の心臓に染み込んだ。
 息を呑むほど綺麗な顔で、陽平は言った。俺の気持ち、と。
 雨がどんどん強くなる。陽平の背中を、肩を、色の薄い髪を濡らし、こぼれ落ちた雫が、怜の頬を濡らす。
 動けなかった。
 陽平の顔が近づいてきても、顔を背けることも目を瞑ることもできず、ただ、視界がぼやけていくのを認めた。
 陽平の息が唇に触れる。
 何も考えられない。
 雨の冷たさも、音も、分からない。
 どのくらいそうしていただろう。
 ごめん、と身体を起こした陽平はしっとりと濡れていて、水面から上がったときみたいに前髪を後ろへかきあげた。
「もう俺はびしょ濡れじゃけんいらん」と言って陽平が貸してくれたジャージは、陽平の匂いがした。今日に限って、怜は傘を持っていない。来た時と同じように陽平と自転車を二人乗りして、家へ帰る。シャツの張り付いた広い背中を見ながら、怜は思う。
 今この背中を抱きしめたら、何かが変わるのだろうか。
 たぶん、そうだ。陽平はきっと、自転車を止めてしまう。
 もしかしたら、陽平もさっき同じような気持ちだったのかもしれない。キスすることもできたのに、何かが変わってしまうのがこわくて、そうしなかった。
 今でも心臓が痛いほど高鳴っている。
 こんなに身体が熱くて大丈夫なのかと思うほど、全身をおかしな熱が駆け回っている。
 雨、もっと降れ。
 ずっと降って、このまま僕らをずぶ濡れにしてしまえ。