一人になりたいのに、田舎の陽キャと訳あり年上男子が二人がかりで迫ってくるんですけど。

このところ急に下がった湿度は、毎朝樹が聞き流している気象予報士の予想を裏切って、急速に下がっている。下唇の違和感は乾燥のせいだ。舐めて誤魔化したところで、樹は視界の端にある後ろ姿をとらえた。
 正門をくぐる、艶のある黒髪。半袖シャツから伸びる色白の腕には、なんの装飾品もない。好きなブランドのスニーカーで足元のオシャレを楽しむ多くの学生と違って、学校指定の革靴を履いたその足は、大股で人々を追い越していく。ラッシュの地下鉄駅の歩行速度じゃん。何と戦ってんの、怜。
 樹は小走りで追いついて、その肩を叩いた。音楽を聴いているかもしれないと思ったからだ。予想通り、怜は耳からワイヤレスイヤホンを外して、「おはよう」と微笑んだ。
 校則の緩さに後押しされ、この高校の生徒はみな制服を好きなように着ている。着崩すというほど無茶苦茶なことはしないが、原型はしっかり留めつつ、田舎特有のトレンドとSNSでの流行を追いかけている者も多い。
 そんな中で、九月でもタイを締め、背筋をぴんと伸ばしている怜は、ある意味目立っている。見ただけで優等生だと分かるのに、野暮ったさがない。それはおそらく、持って生まれた均衡のとれた目鼻立ちに加え、きれいに整えられた襟足の清潔感や、細い手足によく馴染む制服のサイズチョイスの賜物だろう。
 センスというのだろうか。
 学校パンフレットの制服モデルにするにはちょっと綺麗すぎる。どちらかというと人気ドラマに出てくる高校生みたいだ。足が数センチだけ地面から浮いているような、浮世離れした存在感がある。陽平が以前、「怜は都会の匂いがする」と言っていたが、きっとそういうことなのだろう。
 頭のてっぺんからつま先まで、一分の隙もない。人を寄せ付けないその装いは怜の精一杯の防護服なのだと、一緒に過ごすうちに分かってきた。その洗練された雰囲気の中に揺れる、バナナミルク。子どもっぽいチャームが、怜をこの現実に、何とかつなぎとめている。
「いいじゃん、それ」
 樹がそう言って怜のバナナミルクを指で弾くと、「いいじゃん、それも」と、怜も樹のバッグについたアイスコーヒーを指差す。
「だろ。友達にもらった」
「へー、僕も」
 なにこの会話、と二人で笑い合っていると、すぐ側を五十メートル走の速さで何者かが横切った。その大きな影は、数メートル先で止まり、茂みへと消える。
「陽平、何してんだろ」
「かくれんぼ?」
 速ければバレないとでも思ったのだろうか。陽平はたまにこうやってドッキリを仕掛けてくるのだが、あまり上手ではない。
「どうする?」
「前は無視して昼メシまで拗ねてたからなあ。今回はちゃんと驚いてあげるか」
 茂みが近づいてくる。樹と怜は歩幅を緩めず、まっすぐ進む。そこへお約束のように陽平が飛び出してきた。
「おはよっ」
「わあ、びっくりしたー。まさかこんな所から陽平が飛び出してくるなんて、思いもよらなかった。朝から驚かせないでよー」
 怜が前もって用意していただろう言葉を並べた。普段はしない大きなリアクションがわざとらしさに拍車をかけている。陽平は頭を抱えた。俺はもう、笑いを堪えられない。
「何でバレたん? 何がいかんかったん?」
「フハハ、全部かな」
 俺の言葉は、陽平にとどめを刺したらしい。元気いっぱいだったはずの陽平は、みるみるしゅんとしてしまった。
「行くぞ、陽平」
 陽平はとぼとぼと着いてきた。
 やりすぎたかなと心配になってきたのは、昼過ぎだ。陽平は今日一日、にこりともしていない。二限目終了後、スクールバッグからはんぺんを取り出して食べていたし、体調不良というわけでもなさそうだ。嫌いな古文の授業中でも絵しりとりを回してこなかったので、機嫌が悪いのかもしれない。そんな陽平は、昼は応援団の話し合いがあるとかで、弁当を持って体育館へ行ってしまった。
「陽平、なんか変じゃね?」
「うん……」
 今までだってからかいが過ぎて陽平が不機嫌になることはあったが、必ず言いたいだけ言い返してきた。不満を溜め込むタイプではなく、さっぱりとした気質があいつの良さだ。今朝のことだって、いつものふざけ合いと変わらない。あれが直接的要因で気分を害したとは思えない。
「本人に聞いてみるか」
「……うん」
 怜はその日、弁当を半分ほどしか食べなかった。怜は陽平が自分に対して怒っている気がする、というのだ。けれど思い当たる節もない。それは単なる疑心暗鬼だが、樹がそう言ったところで、怜の耳には届かない。
「今日、陽平一度も振り返らなかったんだよね」
 そんな些細なことで、怜は自分を省みてしまう。自分自身を過小評価しすぎだ。
「怜のせいなわけねーじゃん。だったらそうと言うだろあいつは」
 苛立ちのままに言ったが、怜は「うん」としか言わない。俺の言葉なんか怜の耳を通り過ぎていくだけだと思い、そう思ったら、さらに苛立った。
 でもたぶん、そうじゃない。
 怜にとって、陽平が振り返らないことは些細なことなどではなく、事件だ。「消しゴム貸して」だの、「今日宿題どこ」だの、「ラムネいる?」だの、怜の一日はいつも、陽平との関わりで始まって、終わる。その積み重ねが二人の関係性そのもので、それが「ない」今の状態は、怜にとっては緊急事態であり、耐えがたい苦痛なのだ。
「怜、あんま気にすんな。陽平がもし怒ってんだとしたら怜にじゃなくて俺にかもしんねーし」
 伏せたまつ毛の奥で揺れる、怜の瞳は暗い。やはり「うん」としか答えず、怜は斜め下を見つめたままだ。昨日せっかくキーホルダーを渡して、やっと笑顔になったところなのに。
 陽平のやつ、何考えてんだよ。
 五限目ぎりぎりになって教室に戻ってきた陽平と話す機会はなく、そのまま五限目に雪崩れ込んだ。放課後を告げるチャイムと共に、陽平が勢いよく立ち上がる。陽平、と呼んだ俺の声は陽平にも怜にも聞こえていたと思う。なのに振り返った陽平の目は、俺を見ていなかった。
「怜、ちょっと二人で話そや」
 二人で。
 陽平は確かにそう言った。
 まっすぐに怜を見つめて。
 怜の表情は後ろからは分からない。だが、バッグを掴む手が強く布地を握りしめた。親指の爪の先が、うっすら色を失うほどに。
 振り返ると思った。
 怜は多分、俺を振り返ってどうしようかと目で訴えてくる。思いつめた陽平を、怜はきっと断れないから。そうしたら、俺から陽平に「なんかあった?」と声をかけようと決めた。
 なのに。
「分かった」
 一瞬、聞き間違いかと思ったその声はでも確かに怜のもので、怜は音もなく立ち上がる。ちょっと待て、という言葉は、喉元に引っかかったまま出てこない。バッグを肩にかけ、怜が歩き出す。揺れるバナナミルク。揺れるメロンソーダ。追いかけようと思うのに、膝に力が入らない。だいたい追いかけてどうするのだ。「仲間はずれにすんなよ」と茶化していい雰囲気ではない。「俺の前で話せよ」とキレるのも違う。陽平ははっきりと態度で俺を拒絶していたし、その無礼をとりつくろうこともしなかった。「樹は来るな」と言葉で言われた方がまだ、救われただろう。結局、座ったまま二人の後ろ姿を眺めるしかなかった。
 教室の入り口で振り返った怜が、不安そうな顔で小さく手を上げる。それに笑顔で応えた自分が、虚しかった。