樹のバイクは学校から歩いて十分ほどのコンビニの裏に停めてあった。免許は一年生の時にとったのだそうだ。叔父に安く譲ってもらったというヤマハのバイクは、光沢のあるブラックで、樹によく似合っている。
「別に校則違反じゃないけど、学校行かずに取った免許で通学すんのは気が引けるじゃん」
だからたまにしか乗ってこないし、学校の敷地内に停めたりはしないのだそうだ。そんな彼なりの遠慮を、怜は少し意外に思う。
行きたいところなんて思いつかない。樹が連れ出してくれるならどこでもいい。とは言え丸投げするほど甘ったれてもいないので、考えた末に「高いところ」と言ってみた。「了解」とだけ返ってきて、その言葉数の少なさに以心伝心めいたものを感じる。
「初めて?」
後ろから樹の腰に手を回した瞬間に、そう聞かれた。もしかしたら、後ろの人にしがみつかれるのは運転し辛いとか、逆に危ないとか、恥ずかしいとか、いろいろあるのかもしれない。
「そうだけど、なんかごめんっ」
すぐ樹から手を離したが、樹はそれを許さない。僕の手を取って、シートベルトみたいに自分の腰に巻きつけた。
「怜の初めてが俺で光栄」
白いシャツの背中から振動が伝わってきて、樹の小さな笑いが怜に伝染する。公共交通機関が発達していないこの地域では、バイクは便利だろう。自転車みたいに必死にならなくても前に進むところとか、大きな動物みたいなエンジン音とか、両足の裏が地面につかないのに安定性があるところも好きだ。
それに、きもちがいい。
田んぼを突っ切ると新米の香りが、山の中では緑の香りが、身体の表面をさらさらと流れていく。ペンキの匂いも、準備室のカビ臭さも、全部全部、洗い流してくれる。
カーブにさしかかるたびに樹は速度を落とす。まるで、硬筆のなぞり書きの練習みたいに、一ミリのズレも許さないというひたむきさで、ゆっくりと正確にあるべき線の上を行く。
ふと思う。樹はこうやって、彼女を後ろにのせるんだろうな、と。だからヘルメットが二つあるのかもしれない。
樹にとっては、初めてではないということが、隙間風みたいに胸の中を通り抜けた。別にいいじゃん、と呟いてみる。樹には消して届かない細い声で。近頃の僕は少し感傷的すぎる。季節の変化に気持ちがついていけないような、焦燥感。いや、ついていきたくない、という方がしっくりくる。僕は置いていかれたいのだろうか。放っておかれたいのだろうか。
ふっと笑いが込み上げる。
樹のシャツをこんなにきつく握りしめておいて、放っておかれたいわけがないだろう。
だだっ広い駐車場には、車ひとつ止まっていない。「標高八十メートル」と手書きされた木製の看板の前に、バイクを停めた。ヘルメットを脱ぐと、頭にこもっていた熱が、ふわりと焼けただれた赤い空へと消えた。秋の虫が鳴いている。何っていう虫だったっけ?
少し歩くと、展望台があった。樹が二段飛ばしで階段を駆け上がる。怜が追いつくより先に、声が降ってきた。
「すげー……」
樹の背中の向こうに、燃えるような街並みが広がっていた。工場も、漁港も、学校も、怜の家も、何もかもが昼と夜の境目で溶けていく。柏島の海につながっているはずの、ぼんやりとした水平線まで。非日常的な僕らの日常を見下ろしながら、しばらく「けっこう高いね」とか、「意外と空気澄んでるな」とか、何の意味もないことを呟きあっていた。
「僕さ……」
影が広く深くなってきて、着ているシャツの白もあいまいになった頃、怜は切り出した。
「初めてサボった」
「えっ」
「体育祭の準備もだけど、このあと塾もあったんだよね」
「まじか、先言えよっ」
身をひるがえし、帰るぞと言い出しそうな樹の手をつかんだ。
「違うんだ。こんな大胆なことしたの初めてで嬉しくて、ちょっとした不良の気分っていうか。何か今更すごいドキドキしてきちゃって。ハハハ」
ほら、と僕はつかんでいた樹の平べったい手を自分のベストの内側に入れて、自らの心臓に強く押し付けた。ポリエステルの布地越しにとくとくと脈を刻む僕の音が、もう一段階上がる。僕をとらえた樹の眼差しは、心の奥へと直接触れてきた。やましいことなど何もないのに目をそらしたくなるような、そしてそらせたら最後、さらに鋭い視線で僕を刺し殺してしまうだろうと思えるような、緊迫性を持っている。どうしよう、ドキドキが止まらない、と思った瞬間、樹はその顔をほころばせた。
「へへっ、怜に悪い遊び、教えちゃったなー。くせになっちゃいそう?」
「悪用厳禁だね。気をつける」
「サボりたくなったらいつでも付き合ってやるよ。共犯な」
「ありがと」
樹は街並みに背を向け、手すりに腰を預けた。
「前から思ってたことあんだけど」
「なに?」
少しのためらいの後、樹は空を見上げて言った。
「怜は田舎の女子が苦手っつってたけど、ほんとは田舎の人みんな苦手なんじゃないかって」
それは、責めるふうでもバカにするふうでもなく、明日の天気でも確認するような平坦な口調だった。でも次の瞬間。
「ていうか、田舎とか都会とか関係なく、基本的に人が嫌いっぽく見える」
ぐさりときた。
それは、自分でも今まで気づいていなかった、最も醜い自分の本性だと直感した。だってたぶん、その通りだ。
僕は、人が、嫌い。
静まったばかりの心臓が痛いほど強く打つ。てのひらに汗が浮かぶ。僕は今、樹の隣で丸裸だ。そう気づいたら、「そうかも」と弱々しく降参するしかなかった。
「僕はずっと、自分は田舎が嫌いなんだと思ってた。僕にとって、ここは通過点だ。ここで何かを培うことも、誰かと深く関わることも、いつかここに戻ってくることもない。そう思ってた」
優しい風が頬を撫でる。樹の気配が鼻を掠めた。
「こんな田舎に馴染む必要もないし、馴染みたくなんてなかった。嫌なことも嫌な人も全部この場所のせいにしてやり過ごしてきた。でも僕が一番嫌いな人はね、」
大きく息を吸って、吐いた。肺の中に少しだけ、枯葉の匂いが溜まる。
「僕だよ」
東京に生まれて、東京で育った。それが自分の中でどれだけ自分自身を形作っていたのか、離れてみてから知った。SNSでバズったスイーツを友達と食べに行ったり、好きなアーティストの公開収録を実際に見たり、好きなブランドのショップのポップアップに行ったり。親の送迎なんかなくても電車にさえ乗れば遠出も難しくなかった。
人、物、機会があふれていた。
好きなものを見つけるのも、それにじかに触れるのも難しくなかった。簡単に次のブームが来て、あっという間に以前追いかけていたものに飽きてしまっても、誰かに作られたサイクルに自分もはめ込まれているだけだと分かっていても、ビル風に舞うポリ袋みたいな自分が嫌いではなかった。
もう東京を離れて一年が経つのに、頭のどこかでいまだに自分を都会の人間だと思っている。そう思わなければ、足元がおぼつかない。
「僕はみんなを見下しているのかもしれない。自分はみんなと違うって思っていないと、こわいんだ。最低だよね」
「別にいいんじゃね。それで怜が救われるんなら」
ふわっと樹の香りがして、頭を撫でられた。髪をとかすような、優しい手つきだった。
「俺なんか一年生三回もしたんだぞ。見下されて当然だろ」
「ごめん。そんなつもりじゃ……」
「気にすんなって。そんぐらいの気持ちで付き合ってくれた方が、俺は安心する。一緒に高校入学した奴らなんかもう大学生やってるし、ほんと俺は俺がいたたまれねーよ」
表情は逆光でよくわからない。樹の懺悔。樹の無念。それを僕が聞くことで、樹の罪も、自分の罪も少しは軽くなるだろうか。
「中三のとき、不登校になった。朝起きて急に、あ、行けないかもってなったんだよ。はっきりした原因はなかったから解決方法もなくて、受験もあるのにってけっこう焦ったんだけど。結局どうにもならなくなりそうで、ぎりぎりになって母親の実家があるこっちで受験するか、父親のアメリカ出張についていくかって選択を迫られて、俺はこっちをとった」
「へー、意外。アメリカ行かなかったんだ」
「見くびんなよ、俺の肝の小ささを。砂肝ぐらいしかねーからな」
怜は砂肝おいしいよね、と笑った。
「海外行ってたら何か変わってたかは分かんないけど、とりあえず俺の場合、田舎に来たぐらいじゃ変わんなかったな。せっかく入学できたのに一年の五月にはもう学校きつくなってきて、保健室登校とかもやってみたけど、無理だった。二回目の一年は始業式しか行けなかった。ほんとよく三回も挑戦したよ、学校に退学まで促されてたのに。まじで出席日数ぎりっぎりだったけど、勉強だけはちゃんとやってたから」
樹の部屋のことを思った。
みんなが教室にいる間、樹はあそこで途方もない時間を過ごしたのだろう。一度乗れなかった波にもう一度立ち向かうとき、樹はきっと勇気を振り絞ったはずだ。それでもダメだったときの絶望を、怜は想像もできない。世界が自分を置いていく感覚。いつ終わりが来るかも分からない孤独と戦い続けた彼の向こうに、街の明かりが灯った。
「樹、今年は一日も休んでなくない?」
「お前がいるから」
樹の唇がちいさく動いた。そのささやきがあまりにも甘やかで、自分の鼓膜がおかしくなってしまったんじゃないかと思う。
お前がいるから。
樹の言葉を反芻する。もしかしたら「お前ら」だったかもしれない。でも、聞き間違いでも今はそのままにしておきたかった。
「ふふ」
笑い声が聞こえたと思ったら、笑っていたのは自分だった。それがおかしくて、さらに笑いが込み上げる。自分で自分がコントロールできない。
この夏からずっと。
「じゃあこのまま一緒に卒業しようね」
「だな。もう後ねーし。…………あ、そうだ」
樹はバイクへと駆け降りて、自分と怜のバッグをそれぞれ持って戻ってきた。中へ手をつっこんでしばらくかき混ぜてから、あったあった、と怜の手に小さな袋を乗せる。
「えっ、嘘……っ」
とられたはずのバナナミルクだ。
「怜のバッグについてないの気づいてたんだけど、なんか最近元気なかったし、怜に聞いたらもっと凹む気がして。アマゾンで普通に見つかったからポチった」
怜は早速袋を開けて、取り付けた。
「ありがとうっ。実は先週塾の先輩に取られちゃって……」
花山とのことと準備室でのことを、樹に打ち明けた。
「僕、ここに帰属意識が生まれるのが今もこわいんだけど、樹と陽平と仲良くなれたことはやっぱ嬉しいんだよね。どうせみんな離れ離れになるのにって考えちゃうと、気持ちの置き場がないんだけど」
バナナミルクが揺れる。怜の気持ちも、ずっと揺れている。
「たった一年前までは住んでた東京の街に修学旅行生として行ってみて、景色が全然違って見えたんだ。駅中の工事が終わってたりショップが入れ替わってたり、ほんとにちいさな変化なんだけど、そればっかりが目について、僕なんか最初から存在しなかったみたいな気分だった」
「ごめん」
樹の声がこめかみの上あたりの髪に、直接触れた。同時に肩を抱き寄せられて、言葉につまってしまう。一緒に修学旅行に来なかった樹を恨んだりなんかしていない。来ていたとしても、自分が自分でなくなってしまう、あの冷たい感覚が薄まることもなかっただろう。
けれど今、樹の熱を離したくなかった。少しでも身動きすると、もしくは言葉を発すると、何か大事なものをこぼしてしまう恐怖もあった。
だからそのまま、黙っていた。
夜がゆっくり広がって、街が輝き始めるまで。
「別に校則違反じゃないけど、学校行かずに取った免許で通学すんのは気が引けるじゃん」
だからたまにしか乗ってこないし、学校の敷地内に停めたりはしないのだそうだ。そんな彼なりの遠慮を、怜は少し意外に思う。
行きたいところなんて思いつかない。樹が連れ出してくれるならどこでもいい。とは言え丸投げするほど甘ったれてもいないので、考えた末に「高いところ」と言ってみた。「了解」とだけ返ってきて、その言葉数の少なさに以心伝心めいたものを感じる。
「初めて?」
後ろから樹の腰に手を回した瞬間に、そう聞かれた。もしかしたら、後ろの人にしがみつかれるのは運転し辛いとか、逆に危ないとか、恥ずかしいとか、いろいろあるのかもしれない。
「そうだけど、なんかごめんっ」
すぐ樹から手を離したが、樹はそれを許さない。僕の手を取って、シートベルトみたいに自分の腰に巻きつけた。
「怜の初めてが俺で光栄」
白いシャツの背中から振動が伝わってきて、樹の小さな笑いが怜に伝染する。公共交通機関が発達していないこの地域では、バイクは便利だろう。自転車みたいに必死にならなくても前に進むところとか、大きな動物みたいなエンジン音とか、両足の裏が地面につかないのに安定性があるところも好きだ。
それに、きもちがいい。
田んぼを突っ切ると新米の香りが、山の中では緑の香りが、身体の表面をさらさらと流れていく。ペンキの匂いも、準備室のカビ臭さも、全部全部、洗い流してくれる。
カーブにさしかかるたびに樹は速度を落とす。まるで、硬筆のなぞり書きの練習みたいに、一ミリのズレも許さないというひたむきさで、ゆっくりと正確にあるべき線の上を行く。
ふと思う。樹はこうやって、彼女を後ろにのせるんだろうな、と。だからヘルメットが二つあるのかもしれない。
樹にとっては、初めてではないということが、隙間風みたいに胸の中を通り抜けた。別にいいじゃん、と呟いてみる。樹には消して届かない細い声で。近頃の僕は少し感傷的すぎる。季節の変化に気持ちがついていけないような、焦燥感。いや、ついていきたくない、という方がしっくりくる。僕は置いていかれたいのだろうか。放っておかれたいのだろうか。
ふっと笑いが込み上げる。
樹のシャツをこんなにきつく握りしめておいて、放っておかれたいわけがないだろう。
だだっ広い駐車場には、車ひとつ止まっていない。「標高八十メートル」と手書きされた木製の看板の前に、バイクを停めた。ヘルメットを脱ぐと、頭にこもっていた熱が、ふわりと焼けただれた赤い空へと消えた。秋の虫が鳴いている。何っていう虫だったっけ?
少し歩くと、展望台があった。樹が二段飛ばしで階段を駆け上がる。怜が追いつくより先に、声が降ってきた。
「すげー……」
樹の背中の向こうに、燃えるような街並みが広がっていた。工場も、漁港も、学校も、怜の家も、何もかもが昼と夜の境目で溶けていく。柏島の海につながっているはずの、ぼんやりとした水平線まで。非日常的な僕らの日常を見下ろしながら、しばらく「けっこう高いね」とか、「意外と空気澄んでるな」とか、何の意味もないことを呟きあっていた。
「僕さ……」
影が広く深くなってきて、着ているシャツの白もあいまいになった頃、怜は切り出した。
「初めてサボった」
「えっ」
「体育祭の準備もだけど、このあと塾もあったんだよね」
「まじか、先言えよっ」
身をひるがえし、帰るぞと言い出しそうな樹の手をつかんだ。
「違うんだ。こんな大胆なことしたの初めてで嬉しくて、ちょっとした不良の気分っていうか。何か今更すごいドキドキしてきちゃって。ハハハ」
ほら、と僕はつかんでいた樹の平べったい手を自分のベストの内側に入れて、自らの心臓に強く押し付けた。ポリエステルの布地越しにとくとくと脈を刻む僕の音が、もう一段階上がる。僕をとらえた樹の眼差しは、心の奥へと直接触れてきた。やましいことなど何もないのに目をそらしたくなるような、そしてそらせたら最後、さらに鋭い視線で僕を刺し殺してしまうだろうと思えるような、緊迫性を持っている。どうしよう、ドキドキが止まらない、と思った瞬間、樹はその顔をほころばせた。
「へへっ、怜に悪い遊び、教えちゃったなー。くせになっちゃいそう?」
「悪用厳禁だね。気をつける」
「サボりたくなったらいつでも付き合ってやるよ。共犯な」
「ありがと」
樹は街並みに背を向け、手すりに腰を預けた。
「前から思ってたことあんだけど」
「なに?」
少しのためらいの後、樹は空を見上げて言った。
「怜は田舎の女子が苦手っつってたけど、ほんとは田舎の人みんな苦手なんじゃないかって」
それは、責めるふうでもバカにするふうでもなく、明日の天気でも確認するような平坦な口調だった。でも次の瞬間。
「ていうか、田舎とか都会とか関係なく、基本的に人が嫌いっぽく見える」
ぐさりときた。
それは、自分でも今まで気づいていなかった、最も醜い自分の本性だと直感した。だってたぶん、その通りだ。
僕は、人が、嫌い。
静まったばかりの心臓が痛いほど強く打つ。てのひらに汗が浮かぶ。僕は今、樹の隣で丸裸だ。そう気づいたら、「そうかも」と弱々しく降参するしかなかった。
「僕はずっと、自分は田舎が嫌いなんだと思ってた。僕にとって、ここは通過点だ。ここで何かを培うことも、誰かと深く関わることも、いつかここに戻ってくることもない。そう思ってた」
優しい風が頬を撫でる。樹の気配が鼻を掠めた。
「こんな田舎に馴染む必要もないし、馴染みたくなんてなかった。嫌なことも嫌な人も全部この場所のせいにしてやり過ごしてきた。でも僕が一番嫌いな人はね、」
大きく息を吸って、吐いた。肺の中に少しだけ、枯葉の匂いが溜まる。
「僕だよ」
東京に生まれて、東京で育った。それが自分の中でどれだけ自分自身を形作っていたのか、離れてみてから知った。SNSでバズったスイーツを友達と食べに行ったり、好きなアーティストの公開収録を実際に見たり、好きなブランドのショップのポップアップに行ったり。親の送迎なんかなくても電車にさえ乗れば遠出も難しくなかった。
人、物、機会があふれていた。
好きなものを見つけるのも、それにじかに触れるのも難しくなかった。簡単に次のブームが来て、あっという間に以前追いかけていたものに飽きてしまっても、誰かに作られたサイクルに自分もはめ込まれているだけだと分かっていても、ビル風に舞うポリ袋みたいな自分が嫌いではなかった。
もう東京を離れて一年が経つのに、頭のどこかでいまだに自分を都会の人間だと思っている。そう思わなければ、足元がおぼつかない。
「僕はみんなを見下しているのかもしれない。自分はみんなと違うって思っていないと、こわいんだ。最低だよね」
「別にいいんじゃね。それで怜が救われるんなら」
ふわっと樹の香りがして、頭を撫でられた。髪をとかすような、優しい手つきだった。
「俺なんか一年生三回もしたんだぞ。見下されて当然だろ」
「ごめん。そんなつもりじゃ……」
「気にすんなって。そんぐらいの気持ちで付き合ってくれた方が、俺は安心する。一緒に高校入学した奴らなんかもう大学生やってるし、ほんと俺は俺がいたたまれねーよ」
表情は逆光でよくわからない。樹の懺悔。樹の無念。それを僕が聞くことで、樹の罪も、自分の罪も少しは軽くなるだろうか。
「中三のとき、不登校になった。朝起きて急に、あ、行けないかもってなったんだよ。はっきりした原因はなかったから解決方法もなくて、受験もあるのにってけっこう焦ったんだけど。結局どうにもならなくなりそうで、ぎりぎりになって母親の実家があるこっちで受験するか、父親のアメリカ出張についていくかって選択を迫られて、俺はこっちをとった」
「へー、意外。アメリカ行かなかったんだ」
「見くびんなよ、俺の肝の小ささを。砂肝ぐらいしかねーからな」
怜は砂肝おいしいよね、と笑った。
「海外行ってたら何か変わってたかは分かんないけど、とりあえず俺の場合、田舎に来たぐらいじゃ変わんなかったな。せっかく入学できたのに一年の五月にはもう学校きつくなってきて、保健室登校とかもやってみたけど、無理だった。二回目の一年は始業式しか行けなかった。ほんとよく三回も挑戦したよ、学校に退学まで促されてたのに。まじで出席日数ぎりっぎりだったけど、勉強だけはちゃんとやってたから」
樹の部屋のことを思った。
みんなが教室にいる間、樹はあそこで途方もない時間を過ごしたのだろう。一度乗れなかった波にもう一度立ち向かうとき、樹はきっと勇気を振り絞ったはずだ。それでもダメだったときの絶望を、怜は想像もできない。世界が自分を置いていく感覚。いつ終わりが来るかも分からない孤独と戦い続けた彼の向こうに、街の明かりが灯った。
「樹、今年は一日も休んでなくない?」
「お前がいるから」
樹の唇がちいさく動いた。そのささやきがあまりにも甘やかで、自分の鼓膜がおかしくなってしまったんじゃないかと思う。
お前がいるから。
樹の言葉を反芻する。もしかしたら「お前ら」だったかもしれない。でも、聞き間違いでも今はそのままにしておきたかった。
「ふふ」
笑い声が聞こえたと思ったら、笑っていたのは自分だった。それがおかしくて、さらに笑いが込み上げる。自分で自分がコントロールできない。
この夏からずっと。
「じゃあこのまま一緒に卒業しようね」
「だな。もう後ねーし。…………あ、そうだ」
樹はバイクへと駆け降りて、自分と怜のバッグをそれぞれ持って戻ってきた。中へ手をつっこんでしばらくかき混ぜてから、あったあった、と怜の手に小さな袋を乗せる。
「えっ、嘘……っ」
とられたはずのバナナミルクだ。
「怜のバッグについてないの気づいてたんだけど、なんか最近元気なかったし、怜に聞いたらもっと凹む気がして。アマゾンで普通に見つかったからポチった」
怜は早速袋を開けて、取り付けた。
「ありがとうっ。実は先週塾の先輩に取られちゃって……」
花山とのことと準備室でのことを、樹に打ち明けた。
「僕、ここに帰属意識が生まれるのが今もこわいんだけど、樹と陽平と仲良くなれたことはやっぱ嬉しいんだよね。どうせみんな離れ離れになるのにって考えちゃうと、気持ちの置き場がないんだけど」
バナナミルクが揺れる。怜の気持ちも、ずっと揺れている。
「たった一年前までは住んでた東京の街に修学旅行生として行ってみて、景色が全然違って見えたんだ。駅中の工事が終わってたりショップが入れ替わってたり、ほんとにちいさな変化なんだけど、そればっかりが目について、僕なんか最初から存在しなかったみたいな気分だった」
「ごめん」
樹の声がこめかみの上あたりの髪に、直接触れた。同時に肩を抱き寄せられて、言葉につまってしまう。一緒に修学旅行に来なかった樹を恨んだりなんかしていない。来ていたとしても、自分が自分でなくなってしまう、あの冷たい感覚が薄まることもなかっただろう。
けれど今、樹の熱を離したくなかった。少しでも身動きすると、もしくは言葉を発すると、何か大事なものをこぼしてしまう恐怖もあった。
だからそのまま、黙っていた。
夜がゆっくり広がって、街が輝き始めるまで。
