こちらがほとんど情報を出していない中で、いきなり九条さんに先輩の名前を言い当てられて心臓が跳ねた。
「九条さん、内海先輩のこと知ってるの?」
「え? 本当に内海先輩なの?」
この教室に他には誰もいないのに、九条さんは内緒話をするように私に顔を近付けてから、声を潜めた。軽く自分の口元に手を当てながら聞いてくる九条さんに、私はぎこちなく頷く。彼女は、数回その瞳を瞬かせると「そっかぁ」と小さく息を吐いた。
その反応の意味がよく分からなくて黙ってしまっていると、九条さんは「あっ、違うの」と首を横に振った。
「内海先輩、あたしと中学一緒だったんだ。それで、ちょっとびっくりしちゃっただけで」
おうちが美容室って聞いてピンと来ただけなの、と九条さんは続ける。
「まさか、翠ちゃんと内海先輩が知り合いだったなんて。いつからの知り合いなの?」
「えっと、中学二年のときから、かな」
私は頬を掻く。「へぇ」と九条さんは興味深そうな表情で相槌を打った。
「でも、私、先輩が年上だってずっと知らなくて。高校入ってから知ったの」
入学式の日にからかわれたことを思い出して苦く笑う。
「あんまり学校とかの話もしたことなくって……」
九条さんと同じように、先輩と同じ学校に通っていたクラスメイトから、「先輩はモテる」という話は聞いたことがあったけれど、と続けると、九条さんは「あー……」と少しだけ考えるように頷いた。
「たしかに、人気はあったと思う。ほら。男子でヘアセットとかできる人って珍しいから。体育祭のときとか、女の先輩の髪とか結ってあげたりしてて……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がずんと重くなったような気がした。
「私、内海先輩のこと、女の子との距離が近い人っていう印象があって……」
九条さんは、パック入りのミルクティーにストローを挿しながら言う。
「だから翠ちゃんの好きな人だって聞いて、ちょっと驚いたっていうか、警戒しちゃっただけ」
頭の中に、一学期の間に学校で見かけた先輩の姿が浮かぶ。同じクラスなのか、そうじゃないのかは分からなかったけれど、廊下で女の人に話しかけられて、笑顔で答えて、腕を触られてもあまり気にしている様子はなかった。
それに、私とだって先輩は距離が近いし……。私は、後輩で、ずっと先輩のことを見ているわけではなくて。先輩と関わるときも、一対一なことが多いから、時々、それが自分にだけなんじゃないかって錯覚してしまいそうになっていた。今は夏休みだから、余計に。だから、九条さんの言葉で少しだけ冷静になった私もいて……。けれど、少しだけ傷ついている私もいる。
「先輩が、髪を……?」
九条さんがミルクティーを一口飲みながら軽く頷いた。
「うん。あ、でも、変な意味じゃないと思うよ? 頼まれてやってたことも多かったと思うし、美容師になりたいっていうのは、その頃からだったのかなぁって翠ちゃんの話を聞いてて思ったかな」
風が、まだ私の毛先を揺らす。それは少しだけ先輩に毛先を切りそろえてもらうときの感覚に似ていて、ときめくのと同時に胸が締め付けられる。
ああ、そうか。それも、私だけが特別なことではなかったんだ。
それは、そうだよね。イトコの髪も切ってあげているって言っていたし、先輩はプロを目指しているんだから、練習させてくれる人は多いほうがいい。ましてや私は、いつも同じショートカットにしてもらってばかりだし……。
それから、九条さんは、
「でも中学の頃の話だし、あたしも先輩と親しかったわけじゃないから。本当に、ただの印象」
と、眉を下げた。
「内海先輩のこと……っていうか、翠ちゃんの好きな人のこと、悪く言いたいわけじゃないし」
余計なこと話しすぎたかな、と声のトーンを落とす九条さんに、私は首を横に振る。
「そんなことないよ。先輩の話、聞けるの嬉しい」
「それなら良かった」
九条さんはそう笑ったあと、「そうだ!」と軽くこちらに身を乗り出す。
「内海先輩、中三くらいからヘアセット頼まれても断ってるって話も聞いたことあるよ。なんか、『良い人が見つかったから』って断られた女の先輩に愚痴られたことあってさ」
九条さんは口元を少し綻ばせた。
「もしかして、翠ちゃんと出会ったから……だったりして。ちょうど、期間も合うもんね」
中二のときに出会ってるんでしょ? と、目を細める九条さんに、私は少しの間固まってしまう。そして、みるみると顔に熱が集まって来る感覚。
「髪、だいぶ伸びたな」って、私の毛先を触る先輩の長い指。
失恋したことなんて関係なく、また私の髪を切ってくれるって言っていた先輩。
――そうじゃなかったら、『可愛い』なんて言ってねぇ。
先輩の言葉を思い出して、私は思わず自分の顔を手の甲で隠した。
「うわっ、翠ちゃん、顔真っ赤だよ!? 大丈夫!?」
「だ、大丈夫」
ねぇ、先輩。
九条さんの話が本当なら……私、自惚れてもいいやつですか?
「九条さん、内海先輩のこと知ってるの?」
「え? 本当に内海先輩なの?」
この教室に他には誰もいないのに、九条さんは内緒話をするように私に顔を近付けてから、声を潜めた。軽く自分の口元に手を当てながら聞いてくる九条さんに、私はぎこちなく頷く。彼女は、数回その瞳を瞬かせると「そっかぁ」と小さく息を吐いた。
その反応の意味がよく分からなくて黙ってしまっていると、九条さんは「あっ、違うの」と首を横に振った。
「内海先輩、あたしと中学一緒だったんだ。それで、ちょっとびっくりしちゃっただけで」
おうちが美容室って聞いてピンと来ただけなの、と九条さんは続ける。
「まさか、翠ちゃんと内海先輩が知り合いだったなんて。いつからの知り合いなの?」
「えっと、中学二年のときから、かな」
私は頬を掻く。「へぇ」と九条さんは興味深そうな表情で相槌を打った。
「でも、私、先輩が年上だってずっと知らなくて。高校入ってから知ったの」
入学式の日にからかわれたことを思い出して苦く笑う。
「あんまり学校とかの話もしたことなくって……」
九条さんと同じように、先輩と同じ学校に通っていたクラスメイトから、「先輩はモテる」という話は聞いたことがあったけれど、と続けると、九条さんは「あー……」と少しだけ考えるように頷いた。
「たしかに、人気はあったと思う。ほら。男子でヘアセットとかできる人って珍しいから。体育祭のときとか、女の先輩の髪とか結ってあげたりしてて……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がずんと重くなったような気がした。
「私、内海先輩のこと、女の子との距離が近い人っていう印象があって……」
九条さんは、パック入りのミルクティーにストローを挿しながら言う。
「だから翠ちゃんの好きな人だって聞いて、ちょっと驚いたっていうか、警戒しちゃっただけ」
頭の中に、一学期の間に学校で見かけた先輩の姿が浮かぶ。同じクラスなのか、そうじゃないのかは分からなかったけれど、廊下で女の人に話しかけられて、笑顔で答えて、腕を触られてもあまり気にしている様子はなかった。
それに、私とだって先輩は距離が近いし……。私は、後輩で、ずっと先輩のことを見ているわけではなくて。先輩と関わるときも、一対一なことが多いから、時々、それが自分にだけなんじゃないかって錯覚してしまいそうになっていた。今は夏休みだから、余計に。だから、九条さんの言葉で少しだけ冷静になった私もいて……。けれど、少しだけ傷ついている私もいる。
「先輩が、髪を……?」
九条さんがミルクティーを一口飲みながら軽く頷いた。
「うん。あ、でも、変な意味じゃないと思うよ? 頼まれてやってたことも多かったと思うし、美容師になりたいっていうのは、その頃からだったのかなぁって翠ちゃんの話を聞いてて思ったかな」
風が、まだ私の毛先を揺らす。それは少しだけ先輩に毛先を切りそろえてもらうときの感覚に似ていて、ときめくのと同時に胸が締め付けられる。
ああ、そうか。それも、私だけが特別なことではなかったんだ。
それは、そうだよね。イトコの髪も切ってあげているって言っていたし、先輩はプロを目指しているんだから、練習させてくれる人は多いほうがいい。ましてや私は、いつも同じショートカットにしてもらってばかりだし……。
それから、九条さんは、
「でも中学の頃の話だし、あたしも先輩と親しかったわけじゃないから。本当に、ただの印象」
と、眉を下げた。
「内海先輩のこと……っていうか、翠ちゃんの好きな人のこと、悪く言いたいわけじゃないし」
余計なこと話しすぎたかな、と声のトーンを落とす九条さんに、私は首を横に振る。
「そんなことないよ。先輩の話、聞けるの嬉しい」
「それなら良かった」
九条さんはそう笑ったあと、「そうだ!」と軽くこちらに身を乗り出す。
「内海先輩、中三くらいからヘアセット頼まれても断ってるって話も聞いたことあるよ。なんか、『良い人が見つかったから』って断られた女の先輩に愚痴られたことあってさ」
九条さんは口元を少し綻ばせた。
「もしかして、翠ちゃんと出会ったから……だったりして。ちょうど、期間も合うもんね」
中二のときに出会ってるんでしょ? と、目を細める九条さんに、私は少しの間固まってしまう。そして、みるみると顔に熱が集まって来る感覚。
「髪、だいぶ伸びたな」って、私の毛先を触る先輩の長い指。
失恋したことなんて関係なく、また私の髪を切ってくれるって言っていた先輩。
――そうじゃなかったら、『可愛い』なんて言ってねぇ。
先輩の言葉を思い出して、私は思わず自分の顔を手の甲で隠した。
「うわっ、翠ちゃん、顔真っ赤だよ!? 大丈夫!?」
「だ、大丈夫」
ねぇ、先輩。
九条さんの話が本当なら……私、自惚れてもいいやつですか?

