「翠ちゃん、それ、さっきもう数えたよ?」
九条さんの声に、私はハッと意識を戻した。自分の手元には、文化祭に来てくれる一般参加者に渡すためのリーフレット。副委員長からの指示で、総合受付や校舎内のいくつかに設置するために、指定した枚数ごとに分けて欲しいと言われて、九条さんと一緒にその作業をしていたことを思い出す。
「あっ、本当だね。ごめん」
「体調悪い? 今日、ずっとぼーっとしてるから」
「ううん、全然。元気、元気!」
私はリーフレットを机の上に並べて、両手を握って元気のアピールをする。九条さんは、少しだけ目を細めて「本当に~?」と私の顔を覗き込んだ。
「本当、本当。だから、気にしないで。作業、続けよう」
「それならいいけど。じゃあ、さくっと終わらせちゃお」
「うん」
九条さんが作業を再開したのを見て、小さく肩の力を抜いた。
完全に意識が、昨日のカフェに飛んでいた。
少し気を抜くと、内海先輩を思い出してしまう。
私は自分の頬を冷ますために、軽く手の甲を当てた。これからも髪を切ってくれるって言ってくれたのは、すごく嬉しい。
けれど――。
――そうじゃなかったら、『可愛い』なんて言ってねぇよ、俺。
先輩と関わり出してからの思い出を、昨日からずっと脳内で漁っている。でも、先輩が「可愛い」って言ったのなんて、花火のあの瞬間しか思い当たらない。あれさえ、口が「可愛い」って動いたように見えただけだったのに。
あれは、本当に「可愛い」って言っていたってこと? しかも、それは近くの人が持っていた、射的の大きなクマの景品に対してじゃなくて……私に言っていたってこと?
あ、でも、髪をこれからも切る、切らないの流れで言われたってことは、私の髪型に対して……!? だって私に対して「可愛い」なんて先輩が言う理由、どこにもないし――。
昨日からずっと、そんな風に同じことばかり考えてしまっている。考えすぎて頭からぷすぷすと煙が上がってしまいそうで、自分を落ち着かせるために深く息を吐き出した。
これまでは午前中の会議のみで終わっていた実行委員も、文化祭が近付いているということもあり、今日は午後からも活動があった。
昼休み。九条さんと私は空き教室で一緒にお弁当を食べることにした。
「ねぇ、翠ちゃん。ちょっと聞いてもいい?」
向かい側の席。会話が途切れたタイミングで、どこか言いづらそうに吐き出された九条さんの声に、私は「うん?」と首を傾げた。九条さんは、手に持っていたお弁当箱に視線を落としたまま、
「翠ちゃんと、加納くんって付き合ってるの?」
そう、口を開いた。その言葉に、私は頬張っていた玉子焼きを誤って飲み込んでしまう。詰まりそうになったそれをお茶で流し込んで、「え!?」と聞き返した。
「なんか、お互いのこと、すごくよく知ってそうだなぁって」
仲も良さそうだし、加納くんは「翠」って呼び捨てだし、と九条さんは視線を軽く上げた。私は慌てて首を横に振る。
「違う、違う! 付き合ってないよ。ほら、前にも話したけど、幼稚園のころから知ってる幼馴染だからってだけで……」
と続けると、私の顔を見つめていた九条さんの眉が、へにゃりと下がった。
「……よかったぁ」
胸を撫で下ろすように吐き出された声。いつも溌剌とした明るさがある九条さんとは違う雰囲気に、私は小さく息を呑んだ。
ほんのりと赤く染まった九条さんの頬を見て、彼女は千昭のことが好きなんだと察する。
「あたし、加納くんのこと、好きで……。相手が翠ちゃんなら、絶対勝てないじゃんって思って」
どこか照れ臭そうに、九条さんは自分の頬を掻いた。
「千昭……じゃなくて、加納くん、良い人だもんね」
私がそう返すと、九条さんは「そうなの!」と瞳を輝かせて、私のほうへと身を乗り出した。
誰にでも分け隔てなく優しくて、話しやすくて……と、九条さんは楽しそうに千昭の魅力を語ってくれる。それはどれも、自分にも覚えがあるもので、どこか懐かしい。それと同時に、少しだけ自分の胸がちくりと痛んだ。九条さんが千昭に恋をしていると知ってとか、そんなのではなくて。
過去に私が、千昭に恋をしていて、振られたことがあると知ったら、きっと九条さんはとても気を遣う。私は、テーブルの上に置いていた手をぎゅっと一度、握りしめた。
「あ、あのね。九条さん」
「うん?」と、今度は九条さんが首を傾げた。
「私、昔、加納くんのことが好きだったことがあるの」
「……え?」
「で、でも、もう完全に終わってて。終わってるっていうか、過去にうっかり告白しちゃって、そのとき振られてて……っ」
「ええ!?」
九条さんは、前に乗り出していた体を今度は後ろに引いた。目を真ん丸に見開いて口元に両手を当てる彼女を見て、私は自嘲気味に笑い、続ける。
「だから、本当に何もないの。私ももう吹っ切れてるし……。後から九条さんが知って、気まずくなったら嫌だなって。九条さんが加納くんのこと好きって聞いて、嬉しかったくらいだよ。応援したい!」
九条さんはしばらく黙ったまま私の目を見つめたあと、小さく「そっか」と頷いてくれた。
「気まずくなんてならないよ、そんなことで」
そっかぁ、と続けながら九条さんは腕を組んで、ひとり考え込む仕草をする。
「通りで、ふたりの距離感ってちょっと不思議な感じするって思ってた」
「不思議な感じ……?」
「うん。近いのに遠い感じ。うまく言えないんだけどね。でも、今、翠ちゃんの話を聞いて納得した」
うんうん、と九条さんはひとり大きく頷く。
「……嫌な気持ちになっていない……?」
「どうして? なるわけない、ない。翠ちゃんもさっき言っていたけど、加納くん、良い人だもん。近くにいて好きにならないほうがおかしいって」
それに、と彼女はもう一度、私の顔を覗き込むように身を乗り出した。
「加納くんの魅力を分かってくれる人がいて、あたし、嬉しいよ?」
いっぱい話を聞いてくれたら嬉しい、と九条さんは可愛らしく笑った。私の肩からも力が抜ける。
「……九条さん、優しいね」
「そうかな?」
うん、と私は迷いなく頷く。自分の頬が自然と緩んでいるのが分かった。
「これからも九条さんの話、いっぱい聞かせて。楽しみにしてる」
「ありがとう」と返してくれた九条さんと私は、顔を見合わせてくすくすと笑い合った。
「そういえば、翠ちゃん。吹っ切れたって言っていたけど、それは新しい恋で?」
私も翠ちゃんの恋バナ聞きたい、と九条さんがお箸を持ち直しながら無邪気に言った。緩んだばかりの頬が、胸の鼓動をともに強張る。
「え、えっと……」
「翠ちゃんは今、好きな人いるの?」
ランランと輝いている九条さんの瞳。
好きな人と聞かれて、真っ先に頭に浮かぶのは、先輩の顔で――。
「……いる、よ」
詰まり気味になってしまった返事。
今まで先輩との関係を誰に聞かれてもはぐらかしてきた。自分の気持ちすら、誰にも話したことはなくて。初めて口にするその言葉は、自分でもびっくりするほど、情けないくらい小さい声になってしまった。
目の前の九条さんからだけではなくて、頭の中に浮かんでいる先輩からも目を逸らしたくて、私はミニトマトを摘まもうとしていた箸先へ視線を落とす。
「昔からお世話になってて……」
開けた窓から吹き込んだ風が、白いカーテンと私の毛先を揺らした。
「実は、髪、その人に切ってもらってて」
「髪を!? すごぉい! 美容師さんなの!?」
「う、ううん。この学校の先輩で……。お母さんが美容師さんなの」
「へぇ、そうなんだ!」
「それで、先輩も美容師を目指してるから、ずっと切ってもらってて……」
「……え?」
九条さんの表情が、不意に止まった。
「どうしたの?」
「……ねぇ、翠ちゃん」
一度、息を呑むように言葉を切った九条さんは、私の髪へと視線を移した。
「その先輩って……内海澄春先輩?」
九条さんの声に、私はハッと意識を戻した。自分の手元には、文化祭に来てくれる一般参加者に渡すためのリーフレット。副委員長からの指示で、総合受付や校舎内のいくつかに設置するために、指定した枚数ごとに分けて欲しいと言われて、九条さんと一緒にその作業をしていたことを思い出す。
「あっ、本当だね。ごめん」
「体調悪い? 今日、ずっとぼーっとしてるから」
「ううん、全然。元気、元気!」
私はリーフレットを机の上に並べて、両手を握って元気のアピールをする。九条さんは、少しだけ目を細めて「本当に~?」と私の顔を覗き込んだ。
「本当、本当。だから、気にしないで。作業、続けよう」
「それならいいけど。じゃあ、さくっと終わらせちゃお」
「うん」
九条さんが作業を再開したのを見て、小さく肩の力を抜いた。
完全に意識が、昨日のカフェに飛んでいた。
少し気を抜くと、内海先輩を思い出してしまう。
私は自分の頬を冷ますために、軽く手の甲を当てた。これからも髪を切ってくれるって言ってくれたのは、すごく嬉しい。
けれど――。
――そうじゃなかったら、『可愛い』なんて言ってねぇよ、俺。
先輩と関わり出してからの思い出を、昨日からずっと脳内で漁っている。でも、先輩が「可愛い」って言ったのなんて、花火のあの瞬間しか思い当たらない。あれさえ、口が「可愛い」って動いたように見えただけだったのに。
あれは、本当に「可愛い」って言っていたってこと? しかも、それは近くの人が持っていた、射的の大きなクマの景品に対してじゃなくて……私に言っていたってこと?
あ、でも、髪をこれからも切る、切らないの流れで言われたってことは、私の髪型に対して……!? だって私に対して「可愛い」なんて先輩が言う理由、どこにもないし――。
昨日からずっと、そんな風に同じことばかり考えてしまっている。考えすぎて頭からぷすぷすと煙が上がってしまいそうで、自分を落ち着かせるために深く息を吐き出した。
これまでは午前中の会議のみで終わっていた実行委員も、文化祭が近付いているということもあり、今日は午後からも活動があった。
昼休み。九条さんと私は空き教室で一緒にお弁当を食べることにした。
「ねぇ、翠ちゃん。ちょっと聞いてもいい?」
向かい側の席。会話が途切れたタイミングで、どこか言いづらそうに吐き出された九条さんの声に、私は「うん?」と首を傾げた。九条さんは、手に持っていたお弁当箱に視線を落としたまま、
「翠ちゃんと、加納くんって付き合ってるの?」
そう、口を開いた。その言葉に、私は頬張っていた玉子焼きを誤って飲み込んでしまう。詰まりそうになったそれをお茶で流し込んで、「え!?」と聞き返した。
「なんか、お互いのこと、すごくよく知ってそうだなぁって」
仲も良さそうだし、加納くんは「翠」って呼び捨てだし、と九条さんは視線を軽く上げた。私は慌てて首を横に振る。
「違う、違う! 付き合ってないよ。ほら、前にも話したけど、幼稚園のころから知ってる幼馴染だからってだけで……」
と続けると、私の顔を見つめていた九条さんの眉が、へにゃりと下がった。
「……よかったぁ」
胸を撫で下ろすように吐き出された声。いつも溌剌とした明るさがある九条さんとは違う雰囲気に、私は小さく息を呑んだ。
ほんのりと赤く染まった九条さんの頬を見て、彼女は千昭のことが好きなんだと察する。
「あたし、加納くんのこと、好きで……。相手が翠ちゃんなら、絶対勝てないじゃんって思って」
どこか照れ臭そうに、九条さんは自分の頬を掻いた。
「千昭……じゃなくて、加納くん、良い人だもんね」
私がそう返すと、九条さんは「そうなの!」と瞳を輝かせて、私のほうへと身を乗り出した。
誰にでも分け隔てなく優しくて、話しやすくて……と、九条さんは楽しそうに千昭の魅力を語ってくれる。それはどれも、自分にも覚えがあるもので、どこか懐かしい。それと同時に、少しだけ自分の胸がちくりと痛んだ。九条さんが千昭に恋をしていると知ってとか、そんなのではなくて。
過去に私が、千昭に恋をしていて、振られたことがあると知ったら、きっと九条さんはとても気を遣う。私は、テーブルの上に置いていた手をぎゅっと一度、握りしめた。
「あ、あのね。九条さん」
「うん?」と、今度は九条さんが首を傾げた。
「私、昔、加納くんのことが好きだったことがあるの」
「……え?」
「で、でも、もう完全に終わってて。終わってるっていうか、過去にうっかり告白しちゃって、そのとき振られてて……っ」
「ええ!?」
九条さんは、前に乗り出していた体を今度は後ろに引いた。目を真ん丸に見開いて口元に両手を当てる彼女を見て、私は自嘲気味に笑い、続ける。
「だから、本当に何もないの。私ももう吹っ切れてるし……。後から九条さんが知って、気まずくなったら嫌だなって。九条さんが加納くんのこと好きって聞いて、嬉しかったくらいだよ。応援したい!」
九条さんはしばらく黙ったまま私の目を見つめたあと、小さく「そっか」と頷いてくれた。
「気まずくなんてならないよ、そんなことで」
そっかぁ、と続けながら九条さんは腕を組んで、ひとり考え込む仕草をする。
「通りで、ふたりの距離感ってちょっと不思議な感じするって思ってた」
「不思議な感じ……?」
「うん。近いのに遠い感じ。うまく言えないんだけどね。でも、今、翠ちゃんの話を聞いて納得した」
うんうん、と九条さんはひとり大きく頷く。
「……嫌な気持ちになっていない……?」
「どうして? なるわけない、ない。翠ちゃんもさっき言っていたけど、加納くん、良い人だもん。近くにいて好きにならないほうがおかしいって」
それに、と彼女はもう一度、私の顔を覗き込むように身を乗り出した。
「加納くんの魅力を分かってくれる人がいて、あたし、嬉しいよ?」
いっぱい話を聞いてくれたら嬉しい、と九条さんは可愛らしく笑った。私の肩からも力が抜ける。
「……九条さん、優しいね」
「そうかな?」
うん、と私は迷いなく頷く。自分の頬が自然と緩んでいるのが分かった。
「これからも九条さんの話、いっぱい聞かせて。楽しみにしてる」
「ありがとう」と返してくれた九条さんと私は、顔を見合わせてくすくすと笑い合った。
「そういえば、翠ちゃん。吹っ切れたって言っていたけど、それは新しい恋で?」
私も翠ちゃんの恋バナ聞きたい、と九条さんがお箸を持ち直しながら無邪気に言った。緩んだばかりの頬が、胸の鼓動をともに強張る。
「え、えっと……」
「翠ちゃんは今、好きな人いるの?」
ランランと輝いている九条さんの瞳。
好きな人と聞かれて、真っ先に頭に浮かぶのは、先輩の顔で――。
「……いる、よ」
詰まり気味になってしまった返事。
今まで先輩との関係を誰に聞かれてもはぐらかしてきた。自分の気持ちすら、誰にも話したことはなくて。初めて口にするその言葉は、自分でもびっくりするほど、情けないくらい小さい声になってしまった。
目の前の九条さんからだけではなくて、頭の中に浮かんでいる先輩からも目を逸らしたくて、私はミニトマトを摘まもうとしていた箸先へ視線を落とす。
「昔からお世話になってて……」
開けた窓から吹き込んだ風が、白いカーテンと私の毛先を揺らした。
「実は、髪、その人に切ってもらってて」
「髪を!? すごぉい! 美容師さんなの!?」
「う、ううん。この学校の先輩で……。お母さんが美容師さんなの」
「へぇ、そうなんだ!」
「それで、先輩も美容師を目指してるから、ずっと切ってもらってて……」
「……え?」
九条さんの表情が、不意に止まった。
「どうしたの?」
「……ねぇ、翠ちゃん」
一度、息を呑むように言葉を切った九条さんは、私の髪へと視線を移した。
「その先輩って……内海澄春先輩?」

