その日もいつも通り過ごし、放課後になった。
「ばいばーい、千鶴」
教室から出るとき、梨紗に声をかけられたので、私も「またね」と小さく胸の前で手を振り返した。
教室には、祈里の姿は見当たらなかった。ホームルームが終わってから、まだ終えていない帰り支度をぱぱっと済ませてすぐに教室を出たので、私も早い方だと思うのだけど。もう祈里は教室を出てしまったのだろうか。
いつもより少し早足で校門に向かうと、すでに祈里が校門前に立っていた。ぴんと伸びた背筋、それなのに少し気だるげな雰囲気をもつ彼に近寄る。
「ごめん、待った……よね?」
「全然待ってないから気にしなくていいよ。付いてきて」
それだけ言って歩きだした祈里に、思わず声をかける。
「えっ、ちょ、ど、どこに?」
「着いたら分かるよ」
「ええ……?」
秘密、ということだろうか。祈里って秘密主義なのかな。私と付き合う理由さえ、教えてくれなかったし。あっ、それなら祈里が読めないのも必然なのかもしれない。
恋人らしいことの二つ目、一緒に帰る……って、こういうこと?これって一緒に帰ってると言っていいのかな。だって、帰路に就いているわけでもないし、会話もないし。
祈里の背中を見ながら、一生懸命頭を回転させる。それでもやっぱり、分からない。
「着いたよ」
歩き始めて十五分くらいだろうか。その間に、コンビニに寄ったりしたからもう少しかかっているかもしれない。
多分、隣町との境目くらいの場所。祈里が立ち止まったのは、人気のない緑が映える丘だった。祈里が芝生の上に腰を下ろしたので、それにならって私もそっと腰を下ろす。
「……なんで、丘?」
「千鶴、ここ来たことある?」
「ない、けど」
「前見てみてよ」
祈里が指をさした先を見て、思わず息をのむ。
遠くに見える海。そして、海に沈みそうな夕日。空はオレンジ色に染まってとても綺麗で、ところどころにピンクや紫が滲んでいる。夕日が優しく目を刺激して、まぶしさのあまり目を細めた。空に浮かぶ雲さえ、この夕焼けを形作っていて綺麗に見える。
「……すごい」
無意識に、そうつぶやいていた。こんな場所があったなんて、知らなかったな。確実なのは、今までに見たどの夕焼けよりも、今見ている夕焼けが一番綺麗だということ。もっと、もっと早く知りたかった。連れてきてくれた祈里には、感謝でしかない。
「だろ?」
得意気な祈里の声がして、そちらを見やる。今度は、満足そうに歯を見せて笑う祈里に目を奪われた。
……祈里って、こんな顔をして笑うんだ。
ちょっとだけ幼く見える笑顔も、同じくらいまぶしい。
「なにかあったとき、俺は決まってここに来る。そしたら、この一瞬だけは何もかも忘れられる気がするんだ」
この一瞬だけは何もかも、忘れられる。確かに、そうだったかもしれない。目の前にある景色に目を奪われて、頭が空っぽになっていた気がする。忘れられた。忘れていた。そのことに安堵すると同時に、激しい自己嫌悪が募る。
……忘れてしまいたかった。
そう思ってしまう自分が、とてつもなく嫌。
祈里の忘れたいことってなんだろう。頭の片隅に、そんなことが浮かんだ。
「千鶴はいつも、なんでそんな思いつめた顔してんの?」
「……えっ」
「ほら、今も」
なんで祈里は分かってしまうのだろう。だれの気にも留まらないような、私のこんな、些細な変化でさえ。やっぱり祈里には、全部お見通しなんだろうか。それでも、なにも言うことができなくて、軽く唇をかむ。
「……別に今はいいけどさ」
祈里の、こういうところ。こういう、無理に詮索しようとしてこないところに、私は妙な安心感を抱くのだ。きっとこの間も、だ。だから私は、祈里といると落ち着くのだろう。
「全部忘れたくなったら、千鶴もここに来れば?」
少しぶっきらぼうな言い方。うん、と小さくうなずく。
もう、いいかな。少しくらい、忘れたいと思ってしまっても。
そう思えた途端、ふっと心が軽くなるのを感じた。これもぜんぶ、祈里のおかげだ。きっと、これでいいんだ。
「また、一緒に来て」
「じゃあ、近いうちにね」
優しくほほえんだ祈里に、少しだけ心が満たされる感覚がした。
「祈里は、なんでこの丘に来るの?」
「……え?」
予想外のことを聞かれた、とでも言いたげな表情。ただ純粋に、祈里のことを知りたかった。私のことを知ろうとして、受け入れようとする素振りを見せる、祈里のことを。
「なにかあったとき……って、祈里にも、忘れたいことがあるの……?」
だれかに踏み入るのは怖い。私だけが踏み入ろうとして、拒絶されるのを恐れてしまうから。それでも、私は祈里の心を覗いてみたい。
祈里は私から視線を外し、口元に薄ら笑みを浮かべながら夕日を眺めていた。ああ、本当に、なにを考えて、なにを抱えているのだろう。
「……あるよ。だから、ここに来る。忘れたいと思ってしまったときに来る」
忘れたいと思って〝しまった〟ときに来る。
もしかしたら、祈里ってどこか私と似ているのかもしれない。だから、こんなにも知りたいと思うの?
「千鶴もそうだろ?」
「……うん」
私ばっかり、見透かされている気がするな。私は祈里のこと、なんにも分からないのに。
「私、祈里のことが知りたい」
「俺のこと? なんで……?」
「なんでって、理由なんかないよ。それなのに、どうしようもなく知りたいって思う」
「……」
今度こそ祈里は、私の方を見た。そして、口を開きかけて、ぎゅっと閉じる。
「知ったって、なにも面白いことないよ」
「面白いとか面白くないとか、そういうことじゃないよ」
ちがうんだよ、祈里。
「ただ、祈里っていう一人の人間を知りたい……って言った方が正しい、かな」
こんなに自分の思っていることを、素直に丁寧に話せたのは、こんなに自分の気持ちを伝えたいと思ったのは、いつぶりだろう。修学旅行のときとは、ちがう感覚で。
祈里が私といようとしてくれるから、ただそれだけのことなのに、私がここにいる意味さえあるような気がしてしまう。
「……ありがとう」
なにに対する感謝なのかは分からない。
ちょっとずつ、祈里のことを知れたらいいな。祈里が私に、もっと自分を見せてくれるようになったらうれしい。
それから、ただ肩を並べる時間が続いた。ただ夕焼けの行く末を見守るだけのような時間を過ごしただけだったが、これ以上にないくらい満たされていた。
