それから一年が経ち、中学一年生になった秋だった。休日、家で仕事をしている母さんに、あのオレンジの光が現れたのだ。頭を巡ったのは、〝絶望〟の二文字だった。
母さんは、優しく穏やかで、人情深い性格だった。父さんが病気で亡くなったとき、俺の前だけでなくだれの前でも、気丈に振る舞っていた。そんな母さんだけど、夜になると部屋からすすり泣く声が聞こえていた。
専業主婦だった母さんは、父さんが亡くなったことを機に会社で働き始めた。母さんは朝から夜遅くまで働いていたので、平日にはほとんど顔を合わせることはなかった。かと言って、休日も家で仕事をしていたので、俺と母さんが関わったり話をすることは少なかった。
そんな母さんは、シングルマザーであることや、一日中働いていること、それに対して俺がかわいそうだの、ひどい言葉を近所の人たちから言われていた。ほかに男がいるんじゃないかとか、ありもしない噂まで流れているのを知っている。
会社の人と電話越しに話しているときの母さんは、決まって怯えたような顔をする。家で仕事をしているときも、切羽づまったような顔を見せていた。
もしかしたら、会社でうまくいっていないんじゃないか。パワハラとか、そんなものを受けているんじゃないか。
今度こそ、発光した人を救わなければ。母さんのことを俺が救わなければ、母さんは……。
そこまで考えて悪寒がした。母さんまで姿を消すなんて、考えたくもない。
母さんを救うために、まず初めに俺は、母さんに対する近所の人たちからの攻撃的な視線をなくすために動くことにした。
「あんなに働いてなにになるんだか……」
「祈里くんがかわいそうよね。子供を思うなら、もっと子供と一緒にいる時間を作ればいいのに……」
「我慢ばっかりさせているんじゃないかしら。ちゃんとごはんも食べられているのか……」
ある日の帰り道、母さんに付いて話している、見知ったおばさんたちを見かけた。
……今だ。行動に出るしかない。
まずは目の前の陰口を、止めなければ。
「あの」
俺が声をかけると、おばさんたちはたいそう驚いた顔をした。目をぱちくりしばたいて、焦った表情を見せた。
まさか聞かれているとは思わなかったのだろう。俺に話を聞かれたくらいで焦るおばさんたちに、心底嫌気がさした。
「……母さんは、俺を育てるために必死になって働いているんです。バカにしたり、しないでください」
俺は、驚くおばさんたちの目を一人一人しっかり見つめて。
「母さんのことを悪く言うのは、俺を悪く言うのと同じです……!」
俺の言葉に、おばさんたちは一斉に顔を見合わせた。そ
れから、俺を見て苦笑いを浮かべる。
「ご、ごめんなさいね、そういうつもりじゃなかったのよ」
「祈里くんが気にすることじゃないわ」
それからも、母さんのことを悪く言う現場を見つけては、母を擁護する言葉をかけた。これで、陰口や噂が収まるなんて考えは、到底甘すぎるものだった。
俺の行動は、かえって事態を悪化させることとなってしまったのだ。
「祈里くんにあんなことを言わせるなんて、かわいそうね……」
「反論するようなことを、祈里くんに言わせているんじゃないかしら」
……どうしてこうなってしまうのだろう。これじゃ、母さんを余計に苦しめる結果となってしまった。
母さんに対する批判は、ますます殺到していった。ここでまた、俺がなにかを言えば、さらに陰口が止まらなくなってしまうだろう。そう分かっていたから、俺はまたなにもすることができなかった。
次に、俺は母さんの会社でのストレスをなくすために動くことにした。
だけど、会社の根本的な問題については、子供である俺にはどうすることもできない。だから、母さんを会社から遠ざけることにした。
母さんは、俺が起きる前に家を出ていくけれど、それに合わせて俺も早く起きるようになった。バタバタとせわしなく準備をする母さんだけど、少しだけそれが落ち着く朝食時に、俺は行動に出ることにした。
「母さん、今日は会社休んだら? 疲れてるでしょ」
「……えっ」
ごはんを食べる手を止めて、母さんはまじまじと俺を見つめた。その目は極限まで見開かれている。そんなことを言われるなんて、想像すらしていなかったのだろう。
スーツ姿の母さんは、いかにも仕事ができそうな感じがする。どうしてそんなに怯えいているのか、不思議になってしまうくらい。
「うーん、さすがに休むわけにはいかないかな。ごめんね祈里」
申し訳なさそうに、母さんが微笑んだ。
この一回だけで、事態がいい方向に進まないことは百も承知だった。だから、こつこつと実行し続けることにした。だけど、さすがに毎日言うのは気が引けたので、三日から一週間に一回くらいのペースで伝え続けた。
「転勤とかどう?」
視点を変えて、そんなことを進めてみたり。
「明日、授業参観があるんだ。だから、会社休んで来てよ」
授業参観を、友達みんなが嫌がるのが俺には理解できなかった。一度も来てもらったことのないイベントだから、ただ寂しくなるだけで。来てほしいと、ひそかにずっと願っていたことを、伝えてみたりもした。
だけど、母さんが会社を休んでくれたことは一度もなかった。俺の言葉には、毎回へらっと笑ってやんわりと断り続け、スルーしていた。
事態はなにも変わらず、季節は移り変わっていく。だんだんと焦りがわいてきた、そんなある日のことだった。俺は、いつも通り会社から距離を取るよう助言をする。
「母さん、今日こそ会社……」
「うるさいっ!!」
「──っ!」
ひゅっと、息をのんだ。今までお茶を濁し続けてきた母さんが、突然大きな声を出したのだ。どくどくと、心臓が早鐘を鳴らす。また、間違えてしまったのかと、一瞬にして察した。
「私は祈里を……あなたを育てるために一生懸命働いてるの! あなたのため……あなたのためだけに……っ」
名前じゃなくて、〝あなた〟という俺から距離をおくような言い方に、母さんが見知らぬ人みたいに思えてしまった。
母さんが手に持っていた箸を、ばんっと床に落としてたたきつける。その様子を、呆けたように俺は眺めた。
「それなのに、休め休めまんて簡単に言わないで!私がどんな思いをして会社に行ってるかなんて知らないでしょう!?そりゃ、できることなら行きたくなんてないわよ……っ」
優しい母さんだったから、怒られた記憶なんてほとんどなかった。俺が悪いことをしたら、和やかに諭すだけだった。だから俺も、悪いことをきちんとやってはいけないんだと、思うことができた。
初めて見る、母さんの表情だった。母さんが感情的になることがあるなんて知らなかったし、ましてや自分の思いをすごい剣幕で伝えるなんて。
「それに、近所の人たちになにか言ったんでしょう!?事をこれ以上荒立てないでよ、どこにいたって息苦しい……」
母さんは、鋭く俺をにらんだ。
俺のしてきたことは、ぜんぶ間違いだった。母さんを救おうと動いてきたことは、ぜんぶ母さんを追い詰めることだったのだ。じゃあ、どうしたらよかったのだろう。
どうしたら、母さんを救える?
「あなたが、あなたさえいなければ、こんな思いをする必要なんてなかったのに……っ!!」
そう吐き捨てて、母さんはカバンを持って勢いよく家を出た。
急に静かになった部屋で、俺はただ茫然としていた。
『あなたさえいなければ』
生まれて初めて向けられた、完全なる敵意に、ただただ混乱していた。でも、傷ついている場合じゃなかった。だってそれは、紛れもない事実なのだ。
俺が存在している限り、俺が誰かを救えない限り、この能力は発動し続けるのだ。つまり、俺がいる以上は、たくさんの人を苦しめてしまうということで。俺のせいで、苦しんで傷つく人が、いなくならないわけで。
この日がちょうど、能力が発動してから半年だったことに、しばらくして気づいた。その日、俺は学校に行くことができなかった。脱力感にさいなまれて、部屋でぼんやりとしているうちに、日は傾き始め、やがて夜になった。
いつもまだ帰ってこない時間とはいえ、母さんが帰ってこないことにだんだん恐怖を覚えるようになった。
俺は、母さんを救えただろうか。答えはノーだ。でも、母さんがいつも通り帰ってくることを願っていた。
そのとき、玄関の扉があく音がした。はっとして、俺は急いで玄関に向かう。母さんが帰ってきたのだ。よかった……。
安心して、玄関につながるドアを開けたときだった。そこにいたのは、母さんではなかった。母さんの弟の、叔父さんだった。
「叔父さん……? か、母さんは……?」
震える声で、叔父さんに尋ねる。動揺を隠せなかった。嫌な予感に、心臓がばくばくと暴れている。
叔父さんは、そっと俺を抱きしめた。叔父さんの体もかすかに震えていることに気付く。
「ごめんなあ、祈里。今日からお前は、俺の息子だ」
「え……?」
なんで、どうして。母さんは?母さんはどこに行ったの?俺は母さんの息子でしょう。なんで、そんなことを言うの。
分かってる。信じたくないだけだ。叔父さんが嘘をついていないことなんて、分かり切っている。
「姉さんは、どこかで生きているはずだ。ごめんなあ、ごめんなあ、祈里……」
「……どうして、叔父さんがあやまるの?」
ごめんなあ、と叔父さんは繰り返す。何度も何度も、俺にあやまっていた。
母さんとは音信不通になり、それから会うことはなかった。利都のときよりもっと鮮明に、俺が母さんを追い詰めたという罪意識を覚えるようになった。
俺の願いは何も届かない。それなのに、〝祈里〟なんて矛盾するような名前が、嫌になった。
