君の生きる理由になりたかった



「──っ」
 

体の痛みや疲労なんて、なにひとつ感じなかった。ノートを手にしたまま勢いよく立ち上がって、病室を飛び出した。病院の外まで来て、祈里がどこにいるかなんて分からないことに気付く。
 
……ううん、分かる。絶対に、分かるはず。今度こそ、ちゃんと大切な人に、祈里に会いに行くんだ。
 
祈里がいそうな場所。祈里がいる場所。そんなの、一つしかない。
 
あの丘だ。私たちがたくさん話をして、たくさんの時間を過ごした、あの丘にいるにちがいない。
 
忘れたいことがあったら、辛いことがあったら、決まってあの丘に行くと言っていた。最近、祈里が丘に来なくなったのは、辛いことがなかったからじゃない。ただ、私とはもう会わないと、そう宣言してしまったからだ。
 
祈里はもしかしたら、知らないかもしれない。私が今、生きてここにいる事実を。それなら、丘に行っても私に会うことはない。
 
体が勝手に走りだしていた。あのときとはちがって、息苦しさなんかじゃなくて一種の爽快感を感じていた。大切で仕方がない人に会いに行くのは、こんなにうれしくて幸せで、それでいて怖くて痛い。


『私の言葉、思い出して』
 

陽菜の、言葉?
 
不意に、陽菜の声が頭に浮かんだ。
 
陽菜がくれた言葉。忘れちゃいけない言葉。陽菜が、今の私に伝えたかった言葉。
 
なんだ。なんの言葉だ。いつ、どこでくれたもの?
 
陽菜のもとへ行こうとした私に、陽菜は会いに来てくれたんだ。それはきっと、伝えたいことがあったから。私が大切なことを忘れていたから。


『でも、千鶴の幸せが、私の幸せだよ』

「……っ」
 

ふっと、頭のなかに降りてきた。陽菜がまるで、直接私に語りかけてくれているかのようだった。
 
自分の感情だけぶつけて、あのときの私が聞こうとしなかった言葉。陽菜がなんて言っていたか、ようやく分かったよ。
 
陽菜に、ひどい言葉をぶつけた日。どうして反論したのって、私が標的になったらどうするのって、自分勝手で最低なことを陽菜にぶつけたあの日だ。陽菜は、たしかにそう言っていた。陽菜は、どこまでも優しくてまっすぐで、ちゃんと私を好きでいてくれていた。
 
そっか、そうだったのか。
 
私がしなくちゃいけない、陽菜への罪滅ぼしは。
 
──私自身が、幸せになることだったのか。
 
涙があふれて止まらなかった。

都合のよすぎる幻だと思う。だけど、それはちがうと断言できる。理由は分からないけれど、陽菜の笑った声がたった今、聞こえた気がしたのだ。
 
ごめん、ごめん陽菜。ずっと、ごめん。あのときだけじゃなくて、今までずっと、ごめん。
 
私、陽菜が伝えたかったこと、なんにも分かってなかったんだね。私が私自身を許せずに責めて責めて追い詰め続けることは、陽菜のことも追い詰めることだったんだ。すでにボロボロだった陽菜を、また。
 
少し考えたら分かることだったのかもしれない。陽菜は自分のせいで、大切な人が苦しみ続けるのなんか見たくないはずだって。
 
私、今から大切な人に会いに行く。大切な人と、幸せになりに行く。この世界のだれよりも、幸せになってみせる。
 
だから、待っててほしい。いちばん遠くて、でもいちばん近い場所で、私のこともちゃんと見ていてほしい。
 
しばらく走って、ようやく丘にたどり着いた。歩を止めて、乱れた息を整える。ゆっくりと歩いて、祈里の姿を探した。祈里は絶対、ここにいる。そう信じて、あたりを見回す。
 
……いた、祈里だ。
 
たしかにそこに、祈里が立っていた。少し遠くにその姿はあるからはっきりとは見えないけれど、祈里だ。私が祈里を見間違えるはずがない。
 
声をかけに行こうと、もう一度歩を進める。
 
そのときだった。祈里の手元でなにかが、きらりと光るのが見えた。よく目を凝らして、じっとそれを見つめる。


「……っ!」
 

それを理解した途端、息ができなくなった。
 
刃物だ。
 
足がすくんで動かない。呆けたようにその手の行く末を見つめる。なにをしようとしているの、どうしてそんなものを持っているの。
 
……分かっていた。分かっていたから、怖くて動けなかった。
 
刃が、祈里の首元に向かっていく。
 
その瞬間、私は勢いよく走りだした。
 
なにが、起こっているの。
 
やめて。ダメ、ダメだよ。そんなことしないで。
 
恐怖で吐きそうだった。でも、もう二度と大切な人を失くしたくない。
 
世界がスローモーションに見える。
 
お願い、間に合って。間に合って。消えないで。行かないで。もう私の前からいなくならないで。お願いだから、どうか……!
 
間に合え……っ!
 
祈里の両手をぐっとつかんだ。その勢いで、祈里を地面へと押し倒す。刃物が祈里の手から離れて、ノートと一緒に少し離れたところへ飛んで行った。その隙に刃の先が私の左手に当たり、少しの血が流れる。
 
だけど、不思議と痛くなんてなかった。大好きな人を失うあの痛みより、はるかに易しいものだった。


「なにしようとしたの!!」
 

泣きながら、情けない声で叫んだ。
 
見たことないくらい、真っ黒な瞳だった。光を失って、闇に包まれたような、深い黒。その瞳が、大きく開かれる。
 
こんなになるほど、追いつめられていたのか。気づけなくてごめん。ずっと、私ばっかりでごめんね。
 
そらさずに、祈里をじっと見つめた。私の涙が落ちて、祈里の頬が濡れていく。


「千鶴……?なんで、ここにいんの?」

「そんなの、今はどうだっていいでしょ⁉」

「よくねえよ!」
 
祈里の大きな声に、少しだけ怯んだ。でも、そんなことで怖気づいているわけにはいかない。
 
私の想いを、どうにかして伝えたい。ぐちゃぐちゃでも、頼りなくてもいいから、どうしても伝えたい。祈里の心に、響かせたい。


「……左手、切れてんじゃん」
 

第一声がそれなんて、優しい祈里らしいなと思った。
 
どうして、私の心配が先なの。もっと他に、聞きたいことがあるんじゃないの? こんな状況になってまで、どうして自分より他人が先なの。
 
私は思い切りかぶりを振った。


「そんなことよりっ、なにしようとしたの……⁉」
 

聞かなくても、答えなんて分かっていた。分かっていたけど、聞かずにはいられなかった。
 
祈里は、バツが悪そうに私から目をそらした。それから、観念したようにぼそっと小さな声で言う。


「……千鶴だって、一緒だっただろ」
 

……やっぱり、そうだったのか。
 
祈里もこれで、命を絶とうとしていたんだ。どこか遠くて知らない場所へ、行こうとしたんだ。


「……っ」
 

分かりきっていた答えとはいえ、胸が詰まる。
 
こんなにボロボロにさせてごめん。私が飛び降りたりしなかったら、祈里はこんなことしなかったのかな。しようと、しなかったのかな。
 
小さく、首を横に振った。ちがう。今は、祈里と向き合うことが最優先だ。


「だから、千鶴が口出すことなんてできねえんだよ」

「できるよ……!だって私は、祈里に生きていてほしいんだもん……っ。たとえ、自分の命と取り替えになったって」
 

投げやりで突き放すようなこと、言わないで。
 
私の前からもう、いなくなろうとしないで。お願い。


「……俺だって、言っただろ。でも、千鶴は飛び降りた」

「俺のために生きてって言ってくれたとき、すごいうれしかったよ……!でも、そういったなら、離れないでそばにいてほしかった……!」
 

こんなどうしようもない私を、見捨てないでほしかった。
 
いなくなるくらいなら、優しくしないでほしかった。
 
私のなかで、大きすぎる存在にならないでほしかった。
 
でもやっぱり、いちばんは。
 
ちゃんとそばに、いてほしかった。


「……千鶴」
 

祈里の表情が、はっとしたような、苦いものに変わる。


「祈里の言ってたことは、正直ぐちゃぐちゃだったし、ちゃんと理解できなかった……。でも、私を壊したのは祈里でもいいから、それでもいいから……っ」
 
泣くな。祈里を救ってみせたいんでしょ。落ち着け、落ち着け、私。
 
自分にそっと言い聞かせる。祈里を縛っていた手を離し、ゆっくりと立ちあがった。祈里も、私と同じように立ち上がる。
 
祈里がもう刃物を手にしなかったことに、すごく安堵した。まだ私は、ちゃんと祈里と話ができる。


「……ごめん、取り乱しちゃって。あのさ、私が退院したら、ちょっと遠出でもしない?」

「遠出?」
 

そう、と私はうなずく。
 
この丘に向かうまでの間で、考えていたことだった。
 
私はたしかに、祈里に救われていた。優しい言葉に、私を見つめる瞳に、二人で過ごす時間に、救われていた。

まだ生きていたいと思えるくらい。この先も、祈里といられたらそれでいい、なんて思ってしまうくらい。


「そう、行きたい旅館があるの。何泊でも構わないから、そこで……、祈里のこと、ちゃんと教えてほしいの」
 

芝生の上に落ちたノートを、そっと拾い上げる。そのノートを、私はちらりと祈里に見せた。
 
祈里の目が、極限まで開かれた。その唇が小さく震える。もう、絶対にそらさない。祈里の目を、まっすぐに見つめる。


「なんで千鶴が、それ……」

「私の病室の前に、落ちてたんだって」

「……そっか」
 

観念したように、祈里がふっと笑った。今にも泣きだしそうで、弱々しい笑顔に、ぎゅっと胸がしめつけられる。私が目をそらしてしまえば、消えてしまいそうで怖かった。

「今度は、祈里が救われる旅に行こう」