君の生きる理由になりたかった

 

気がついたら、頬が濡れていた。ぼんやりとした視界に映るのは白い天井。規則正しい機械音が鳴り響いている。
 
ガラッと、音を立ててドアが開くような音がした。だんだん頭がはっきりとしてくるにつれ、自分がどうしてここにいるのか分からなくなる。ここがどこなのかさえよく分からない。さっきまで、なにをしていたんだっけ?
 
小さな足音が聞こえる。ゆっくりと首をそちらに動かすと、綺麗な見た目をした看護師さんが立っていた。


「目、覚めましたか?」

「えっと、ここは」
 

さっきまで寝ていたんだっけ?曖昧な記憶を辿ってみるけれど、いまだよく思い出せない。


「病院です。千鶴さん、海に転落したんですよ」
 

……そうだ。そうだった。
 
私、橋の上から飛び降りたんだ。私はここにいちゃいけない気がして、陽菜と同じところに行きたくて。
 
私、死んでいない?生きているの?助かったの?
 
よかった、と心の底から安堵した。生きていてよかった。死ななくてよかった。本当はまだ、ここにいたかった。陽菜に会いたい気持ちは嘘偽りないけれど、この世界から消えるのはどうしようもなく怖かった。
 
祈里が、助けようとしてくれたんだっけ。そうだ、私のところに来てくれたんだ。
 
どうして、あのとき祈里は現れたのだろう。ずっと姿を見せなかった祈里が、私のところに来て、手を差し伸べてくれたのだろう。もう会わないと、そう言ったのは祈里だったのに。


「それにしても不思議ですね……。千鶴さんは助からない、と言われていたんです。ですが、奇跡的に生還した」
 
不可解なものを前にしたように、看護師さんは首を傾げた。うーん、と彼女は小さくうなる。それほどまで、私は危険な状態だったのだろうか。


「海から引き上げられたとき、千鶴さんが生きて帰るのは絶望的な状態だったそうです。それなのに、ここの病院に到着した途端、急に息を吹き返したんですよ。致命傷もなく、けがも切り傷や打撲だけで済んでいます」
 

たしかに、多少体の痛みは感じるけれど、そこまでひどいものではない。
 
それなら、どうしてだ。どうして私は、助かったの?

死んでもおかしくない状況だった、ということだ。むしろ、今の状態が不思議に思えるくらいには。


「こんな事例、今までに見たことがないくらいなんですよね……」
 

……祈里はあのあと、どうしたのだろう?
 
あの場にいたのは私と祈里だけだ。救急車を呼んだりとかの作業をしてくれたのは、祈里しかいないはず。
 
もしかして、祈里がなにか関係してたりする?
 
ゆっくりと、横になっていた体を起こす。


「あの、すみません、柳瀬祈里さんを知らないですか」

「えっ……?」

「私のことを助けてくれたはずなんです……!」
 

看護師さんの瞳が、かすかに揺れた。じわじわと、その瞳に涙がたまっていき、やがて一粒の涙を流す。その様子を、驚いて見つめた。
 
その瞳は、まるで大切ななにかを見ているかのようだった。


「祈里くんが……、そっか、そうだったのね……」
 

明らかに、祈里を知っている口ぶりだ。点と点がつながって、すべてを理解したようだった。
 
看護師さんのなかで、なにが起きているのか、私には到底想像もつかない。ただ、やっぱり祈里が私を助けてくれたということだけは、確かなんだと思った。
 
その唇が、綺麗な弧を描いた。もう一粒、また一粒、その頬に涙が伝っていく。


「あなたは……千鶴ちゃんは、救われていたんだね……っ」
 

親しみを込めたような言い方に、妙に安心感を覚えた。
 
……救われていた?私が、祈里に?
 
ちょっと待ってて、と看護師さんは口にして、そそくさと病室を出て行った。それから数分もしないうちに、なにかを片手に私のもとに戻ってくる。


「これ、病室の前に落ちてたのよ。祈里くんのもののはずなのに、どうしてこんなところにって思ってた。千鶴ちゃんのおかげで、謎がぜんぶ解けた」
 

それは、一冊の小さなノートだった。
 
……祈里の、ノート。こんなもの、見たことない。祈里から一言でも聞いたことすらなかった。ここに、祈里の秘密がある。内容はなにかは分からないけれど、直感的にそう思った。


「これは、千鶴ちゃんに託したいと思うの」
 

看護師さんは、私にそのノートを差し出した。おそるおそる、それをそっと受け取る。


「病院からは、特別に許可を出すから。お願い、今すぐ祈里くんのところに行ってあげて。祈里くんは優しいから、だれかがそばにいないと……」
 

一瞬だけ、看護師さんは瞳に影を落とした。それはまるでなにかを懐かしむような、それでいて辛いことを思い出すような表情だった。
 
だけど、すぐに真剣な顔をして私を見つめる。これは、きっと私にしかできないことだ。看護師さんに向かって、大きくうなずいた。
 
……祈里のところに行こう。会って、話をしよう。他愛のない話でも、お互いを深く知るような話でも、そんなのなんでもいい。取り乱したことをあやまるのもいい。会いたかったと伝えてもいい。
 
とにかく、会いたい。声が聞きたい。姿を見たい。
 
こんなことを思ってしまうのは、やっぱりダメなこと?
 
陽菜を救えなかった私がそんなことを願うのは、いけないこと?


「このノートを読むかは……、うん、千鶴ちゃんに任せるね」
 

もっと祈里に近づきたい。もっと知りたい。私に祈里自身を見せてほしい。
 
覚悟を決めて、私はノートの一ページ目を開いた。