二か月ほどの月日が流れて、三月になった。春の陽気はいまだ訪れず、まだまだ冷たい空気が私を包む。でももう、息を吐いても白くならずに、見えないまま溶けて消えていくくらいには寒くはなくなった。
あれからずっと、祈里には会えていない。今頃どこで何をしているんだろう。だけど、祈里の家の場所すら知らない私には、それを確かめる術はなかった。
ただ毎日、祈里に会いたいと願いながら、学校に向かい、放課後には必ず日が暮れるまであの丘で過ごした。休日にも丘に向かったり、この街から隣街までいろいろなところをぶらぶら歩いてみたりしたけれど、祈里の姿を見ることは一度もなかった。
教室で一人で過ごす日々にも慣れてしまった。だれかと関わるにしても、結局顔色をうかがってばかりだったので、それがない一人は意外と心が軽い。一人になりたくないとあんなに怯えていたのが嘘みたいに、今はこの環境が心地よくなってしまっている。
私が一人にいることに対しての、周りの目もそんなに怖いものではなかった。でも、最初からずっと一人でいればよかったなんて思ったりはしない。今ならはっきりと言える。私はあの日々もちゃんと好きだったのだ。楽しいことばっかりじゃなかったけれど。
「千鶴、買い物行ってきてー」
休日、部屋でだらだらと過ごしていた私に、お母さんが私に買い物袋を差し出しながらそう頼んできた。これからどこかに出かけようと思っていたし、おつかいはちょうどいい。
分かった、と一言だけうなずいて、買い物袋を受け取った。それから、靴を履いて外に出る。穏やかな風を感じながら歩くのは気持ちいい。
きょろきょろと、歩きながらあたりを見回していることに気付いた。無意識に、祈里の姿を探している。もしかしたら近くにいるんじゃないかって、期待しては落ち込むことを繰り返している。
そのとき、よく見知った祈里とはちがう後ろ姿が目に留まった。心臓がひときわ大きく高鳴る。たった一人で、小さなカバンを手にこちらに向かって歩いてきている。どうやら、私には気づいていないようだ。
どうか、このまま気づかれませんように。
そう思ったのも束の間、不意に彼女が私を見つめた。パチッと、少し遠くで目が合う。その表情が、戸惑いに似たものに変わっていった。
陽彩ちゃんだ。
この間、祈里と一緒にいたときにカフェで鉢合わせて以来だ。陽菜が死んで数か月したのち、陽彩ちゃんたち家族は、同じ街のなかとは言えど、引っ越してしまったのだ。まるで、この場所から逃げるように。
少しピリッとした空気が漂うのを感じながら、私たちはすれ違った。そのまま歩を進めること数秒、後ろで私の名前を呼ぶ、人より少しだけ高い声が聞こえた。
「ねえ、千鶴ちゃん」
はっとして、勢いよくそちらを振り返る。まっすぐ私を射抜くような目で、陽彩ちゃんはこちらを見つめている。その目が陽菜とよく似ていて、思わずふっと目をそらした。
今初めて、陽彩ちゃんに気が付いたふりをしようと思った。それが難なくことを済ませられる、最善の方法だと即時に判断したのだ。
「……陽彩ちゃん。久しぶりだね、元気だった?」
そっと、笑顔を作ってみせた。
陽彩ちゃんは表情一つ変えることなく、私の目をじっと見ていた。それに、気まずさや居心地の悪さをどうしても感じてしまう。
私のせいで大切な姉がなくなった子と、どうやって話したらいいんだろう。
「どうしたの?」
いたたまれなくなって、私から話を切り出した。陽彩ちゃんがなにか言いたげなことは、言葉にしなくても伝わるから。
彼女は、ふっと小さく息を吐いてから、意を決したように口を開いた。
「この間ね、立花飛鳥さんが、家に来たの」
「えっ……」
立花さんが、家に来た?
予想外の言葉に、理解が追い付かない。
いよいよ、陽彩ちゃんは小さく下を向いた。
「私が、陽菜さんをいじめた張本人なんです、って。陽菜さんがなくなったのは、本当に、つい最近知りました。陽菜さんが亡くなったのは、紛れもなく私のせいだ……って」
言葉が、出てこなかった。にわかには信じることができない。
……なんで、今さら?
陽菜の辛さが立花さんに分かるわけない。そんな言葉で、罪滅ぼしができるわけがない。だって、直接陽菜をいじめて、傷つけたのは……立花さんだ。
私とはちがうやり方とはいえ、立花さんも陽菜を追い詰めた一人のはずで。あんな言葉や行動で、陽菜の心をボロボロにしておいて、今さら?
もう遅いと思った。でも、それからふと思い出す。
……私は、陽菜を殺したことに謝罪をしたことが、一度でもあっただろうか?
ずっと、心のなかであやまり続けていただけじゃなかった?行動にすることもなく、ただただ自分のなかだけに、その罪をとどめていただけじゃなかった?
……ああ、やっぱり、立花さんの方が一枚上手だった?
「ちゃんと後悔してるように見えた。すごく弱々しかった」
そんな立花さんの姿、想像もつかない。
あんなに堂々としていて、だれもを巻き込んでしまうような行動力があって。私が知っているのは、そういう立花さんだ。
だから、なんだと言うのだろう。立花さんが今さら謝罪をして、だからどうなったとでも言うのだろう。
自分のこぶしをぎゅっと握りしめた。じっとそのまま、陽彩ちゃんの言葉を待つ。
「もちろん、私は立花さんを許さなかった。許せなかったよ。だって、いじめのせいで、お姉ちゃんが死んじゃった」
「……うん」
いじめのせいで。
こんなときに、祈里の言葉を思い出した。
『陽菜を殺したのは、俺だ』
……どうして祈里なの?
今の陽彩ちゃんの言葉が、答えな気がする。
陽菜が死んだのは、間違いなくいじめのせいだ。
じゃあ、祈里はなにをしたって言うの?
「でもさ、千鶴ちゃん」
ここからが本題なのだ、とすぐに分かった。
陽彩ちゃんが私に伝えたかったのは、立花さんのことじゃない。
どんな言葉でも、受け止めなくちゃ。これは権利なんかじゃなくて、義務よりももっと強いもの。私が絶対に、しなくちゃいけないこと。
「千鶴ちゃんは、お姉ちゃんのいちばん近くにいたよね?どうして、いじめを止めなかったの。私たちに、教えてくれなかったの」
のどの奥になにかが詰まったように、うまく息ができなかった。
陽彩ちゃんの目に、じわじわと涙がたまっていく。その様を、私はただ眺めることしかできなかった。
「……っ、それ、は」
陽菜が望むことじゃないって、分かってたから。
すごくすごく、優しい陽菜のことだから、家族に心配なんてかけたくなかったはずだ。陽彩ちゃんたちに伝えることを、私だって考えなかったわけじゃない。
でも、陽菜はそんなことしてほしくないんじゃないかって、都合のいいことばかりを考えて私は結局いじめのことを伝えたりはしなかった。
こんなときまで、陽菜に嫌われるのが怖かったのかもしれない。
陽菜の望まないことをして、陽菜に突き放されることが怖かったのかもしれない。私がなにもできないで、陽菜が死んじゃうことの方が、何倍も何倍も怖いことだったのに。
「そうだったら、私たちだって、お姉ちゃんを救うために動けたのに……っ。もしかしたら、お姉ちゃんが死ぬこともなかったかもしれない」
形のいいその唇が、わなわなと震えだす。陽菜に似て端麗なその顔も、ぐしゃりと歪んだ。
そうだ。陽彩ちゃんだって、陽菜を救いたかったんだ。陽菜をいじめから、助けてあげたかったんだ。
なんで私は、そんな簡単なことにすら気づけなかったんだろう。
「それなのに、千鶴ちゃんは見て見ぬふりをした。逃げたんだ、お姉ちゃんを助けることから」
図星だった。私は陽菜を助けることより、自分の心や立場を守ることを優先した。陽菜に温かい言葉をかけるんじゃなくて、目を背けて傷つけることをした。
陽菜と一緒にいることが怖くなった。だから、見て見ぬふりをして一緒にいることをやめた。どうやって助けたらいいのか分からなかったから、陽菜をどん底から救う方法を探すのを諦めた。ただ傍観して、事が収まるのを待った。
少しでも触れたら切れてしまいそうなくらいの理性を、陽彩ちゃんはまだなんとか保っているようだった。必死に感情を抑えようとしながら言葉を紡ぐ姿に、思わず胸がぎゅっとなる。
こんなときまで他人事みたいで、なにしてるんだろう、私。
「そりゃ、いちばん悪いのは立花さんだよ。でも、千鶴ちゃんがいちばん、お姉ちゃんを追い詰めた。お姉ちゃんの味方はもう、千鶴ちゃんしかいなかったはずなのに……っ、千鶴ちゃんは、お姉ちゃんにトドメを刺した」
陽菜の味方はもう、私しかいなかった。
いなかった、はずだった。それなのに、私は裏切った。
本当はずっと分かっていた。陽菜は、私のことを信じてくれていた。立花さんや赤堀さんにどれだけひどい言葉を言われたって、ひどいことをされたって、私の前では安心しきった笑顔を見せていた。
私がいじめに対してなにもできなくたって、目を背けたって、陽菜と一緒にいることをやめたって、陽菜はずっと私を信じてくれていた。
私だけは、陽菜の味方であると。
ああ、どうして、裏切るような真似をしてしまったのだろう。
陽菜の唯一の救いは、きっと私だった。その救いを、一筋の光を、私は簡単に手放した。陽菜のもとからどこか遠い場所へ光を連れ去って、暗闇に包ませた。
やっぱり、そうだったんだよね?
立花さんじゃなかったんだよね?
祈里でもなかったんだよね?
……本当に、ここにいちゃいけなかったのは。
「千鶴ちゃんが……っ、千鶴ちゃんがお姉ちゃんを殺したんだ……っ‼」
──私だったんだよね?
そう叫んで、陽彩ちゃんはくるりと背を向けて走って行ってしまった。大きな瞳からは、大粒の涙がとめどなくあふれていたのに、彼女はぬぐうことさえしなかった。
「ははっ……そうだね、そうだよ……っ」
気がついたら、私の頬が涙で濡れていて、ためらうことなく思い切りそれをぬぐった。私に泣く資格なんてない。泣いて泣いて、この罪を流してしまってはいけない。
