季節が変わって、冬になった。あと数か月もすれば中学校を卒業するけれど、陽菜のいじめは止むどころかエスカレートしていった。
ゴミ箱の中から発見された上履きを、陽菜は一生懸命汚れを落としていた。教科書はボロボロにされ、何度も自費で買い直していた。隠された体操着が見つからず、制服で体育に出席したところ、「どうして体育着を持ってきてないの?」と先生に怒られていた。お手洗いに向かった陽菜が、髪の毛を濡らして戻ってきた。
そんな陽菜に声をかけることも、笑っている立花さんたちを止めることも、私は依然としてできないままだった。
いよいよ、私は放課後さえ陽菜と過ごすことがなくなった。
お正月だけは一緒に過ごしたけれど、会話がうまくできず、それを見かねた両親たちが、今年は別々に過ごそうと提案してくれたおかげで、私も肩の荷が軽くなった気がした。本当にそう思ってしまっている自分が、だんだん嫌いになっていった。
変わらず、教室では立花さんたちによる陽菜の悪口が響きわたっていた。立花さんたちは先生たちの前ではいい子に振る舞っていたし、だれも告げ口なんてする人はいなかったから、いじめのことが先生たちに知られることはなかった。
「そーいえば、北条さんってずっと結城さんと一緒にいたよねー」
……え、私?
嫌な感じに語尾を伸ばす立花さんの声が、不意に私の名前を呼んだ。驚いて顔を上げると、口角をあげた立花さんたちと目が合ってしまって、慌てて目をそらす。
心臓が早鐘を鳴らす。次の言葉までの空白が、いつもの数倍長く感じた。
「北条さんと結城さんって釣り合ってなかったなー」
「あっ、もしかしてさ」
赤堀さんがなにかを思いついたように、人差し指をたてた。
「自分より弱い子近くに置いて、結城さんのこともバカにしてたんじゃない?」
「あーなるほど。そんな結城さんも離れて行っちゃったんだ」
「悲しいねー」
……バカになんてしてない、よね?
陽菜は私のこと、バカにしたりとかしない、よね?
信じていいんだよね?
席についたまま、自分の机の一点だけを見つめる。冷や汗が背中につうっと伝った。
ちがうよね?陽菜はそんなことしないよね?
陽菜に縋るように、心の中で陽菜に何度も何度も問いかける。
そのときだった。陽菜ががたっと音を立てて立ち上がった。その瞳はまっすぐに立花さんたちを見つめていて、ゆっくりとそちらへと歩を進める。
陽菜がなにをしようとしているか、すぐに分かった。やめて、と声をあげそうになって、すんでのところで止まる。
「千鶴が私より弱いとか言わないで!」
「……は?」
「そんなこと、一回も思ったことない!千鶴のこと悪く言ったりしないで!」
今までそんなこと一度もしなかったのに、大きな声で、陽菜が勢い込んで反論した。
……なにをしたの。陽菜は、今なにをしたの。
どうして私をかばうようなことをしたの。どうして反論したの。
これで私が、標的の的になってしまったらどうしてくれるの?
本心だった。本心で、そう思ってしまった。一度そう思ってしまったら、もう止められなかった。
勝手に私をかばう真似したりしないでよ。もし、これがきっかけで、私が立花さんから悪く言われるようになってしまったら、どうしたらいいの。
……陽菜は、私に標的を変えるために言い返したの?
そんなはずない。そんなはずがないと分かっているのに、マイナスな思考は止まらない。言葉にできずに、陽菜を責め続けてしまう。いちばん卑怯なやり方だ。
「歯向かったりするなよ!」
怒号と同時に、ぱんっと、乾いた音が響いた。驚いたように、陽菜が右頬を抑える。
立花さんが、陽菜を叩いたのだ。初めて手を出した様子に、一層空気が凍り付く。
陽菜じゃなくて、私がいじめられるようになったら、どうしたらいい?
立花さんが言っていることは、本当だと強く思う。私は陽菜より弱い。私より強い陽菜でさえこんな状態なのに、私が同じ目にあったらどうなっちゃうの?
その日の帰り道、家が見えてきたところで、ばったり陽菜と出くわした。陽菜の様子からして、多分おつかいにでも行くところだろう。
そのまますれ違うだけならよかった。それだけならよかったのに、陽菜を目にした瞬間、今朝の出来事が鮮明に頭によみがえった。陽菜がふっと目をそらす。すれ違う寸前、思わず声をあげてしまった。
「……陽菜!」
「……」
黙ったまま、なんの感情も読み取れない顔で、陽菜は私を見つめる。以前のように笑わなくなったなと、場違いなことを思った。
……なんで、いつも通りの顔なの。ちょっとは気まずいなとか、そういう感情はないわけ?
ダメ。そんなふうに思っちゃダメ。それなのに、意思に反してまた怒りがこみあげてくる。
「なんであんな勝手なことしたの!?」
自分でもびっくりするくらい、大きな声が出た。自分のこぶしをぎゅっと握る。陽菜は一瞬だけ驚いたような顔をしたあと、あの真面目な顔に戻った。
少しだけ、陽菜が観念したように微笑んだ気がした。気がしただけで、実際には微笑んでなんかいなかったのかもしれないけど。
「……自分は何されても構わないけど、千鶴がなにか言われるのだけは許せなかった」
「そんなのただの自己満足でしょ!?私のためなんかじゃない!」
そんなこと、言っちゃダメ。私まで、陽菜を傷つけちゃダメ。陽菜の味方でいなきゃ。この世界のみんなが陽菜の敵になったとしても、私だけは。
そう思うのに、私は今、確実に陽菜の敵になろうとしている。立花さんの味方に、なろうとしている。
「私はみじめになっただけだったよ……!私は陽菜より弱いんだって、思い知らされただけだった!」
止まらなきゃ。
ダメ、これ以上陽菜を傷つけちゃダメ。
「これで、私が標的になったらどうしてくれるの……⁉」
今、言っちゃいけないことを言おうとしている。
ごめんって言って。陽菜にちゃんと謝って。味方でいるって言って。
お願い、私。
「こんなの、親友でもなんでもないよ……っ!」
大きく肩で息をする。
……言ってしまった、と思った。
陽菜の瞳が、深い藍色で満たされていく。絶望と失望と悲しみと、もうなにが混ざっているのか分からないくらい、深い色をしていた。
でも、私たち、本当にずっと親友だったのかな。陽菜がいじめられるようになってから、もう親友じゃいられなくなっていたんじゃないかな。陽菜のこともかばえないで、こうやって傷つけて、それでも親友だったのかな。
ゆっくりと、陽菜はうつむいた。
「……ごめん」
悲痛に歪んだその顔と声を、私は一生忘れることなどできないだろう。
「でも、……が、私の……だよ」
陽菜がなにかをつぶやいていたような気がするけれど、うまく思い出すことはできない。
