君の生きる理由になりたかった

 
いつも通り、三人で机をくっつけてお弁当箱を広げた。お弁当の中身はいつもとなんら変わらない、温かいものだった。
 
朝ご飯を食べていない分おなかは空いているはずなのに、箸はなかなか進まない。午前中は授業の内容はよく頭に入ってこなかった。

その後、実来と梨紗に「お弁当食べよー」と声をかけられて、初めて昼休みになったことに気が付いた。
 
最後にお父さんとお母さんが喧嘩をしているところを見たのはいつだろう。曖昧だけど、多分私が小学生のときとか。あれ、中学生のときだったかな。

でも、普段は少し険悪な雰囲気になったとしても、それは本当に一時的なもので、気がついたらいつも通りの二人に戻っている。

例えば、お母さんが「ちゃんとお皿を洗ってほしい」と少し強く言ったとしても、「これから気を付ける」とお父さんがその場でお皿を洗い出して円満に解決したりしていた。その後も、きちんとお父さんは行動に移していたし。
 
こんなに二人が感情的になっているところは初めて見た。だからこそ、余計に不安になる。お父さんもお母さんも、平和主義って感じが強いうえ、基本的に穏やかで仲睦まじい夫婦に見える。
 
今日、家に帰ったらどんなふうに振る舞えばいいのだろう。私が帰ってくるときには、お父さんとお母さんはまだ家にはいない。私が祈里と放課後に時間をつぶしても、だ。どんな顔をして二人を待てばいいのだろう。最初になんて言えばいい? いつもなんて言ってるっけ?


「……千鶴。千鶴ってば!」

「……わっ!」
 

大きな声に、びくっと肩が震える。はっと我に返ると、実来がいぶかしげに私の方を見ていた。その隣で、梨紗も不審な顔をしている。


「ご、ごめん。どうしたの?」

「さっきから何回も呼んでるじゃん。だから、千鶴はあの俳優さん知ってるかなって」

「そうそう、最近流行りのドラマに出てる。超イケメンなんだよねー」
 

実来と梨紗の楽しそうな声が遠くに聞こえる感じがする。その内容さえ、右から左へと流れていって、私の頭にはよく入ってこない。


「あー……」
 

最近、お母さんに心配をかけてしまっているのも相まっていたのだろうか。そういえば、昨日もお弁当に小さな紙切れが入っていた。たしか、『学校楽しんでね』だった気がする。

私が笑えないことも原因?二人が言い合いをしている最中に、私の名前も出てきていた。


『こっちは千鶴のこともあるのに……』
 

ああ、やっぱりそういうこと?そんなに心配をかけてしまっている?
 
私のなかで話がちょっとずつちがう方向に進んで行っている気がするけど、でもそう考えずにはいられない。あの喧嘩は、お父さんとお母さんだけの問題じゃないはずだ。

だったら、私はどうしたらいいんだろう。


「千鶴、やっぱ今日変だよ」
 

やけにはっきりと、梨紗の声が聞こえた。
 
え、と情けない声が漏れる。どくん、と心臓が嫌な音を立てた。
 
あれ、さっきなんの話をしていたんだっけ?なんで実来たちは私の名前を呼んだんだっけ?そのあと、なんて言っていたっけ?
 
まったく記憶がない。今朝のことだけが頭をぐるぐる回って、二人とのことをないがしろにしてしまっていた気がする。
 
うんうん、と実来が私を見て大きくうなずいた。


「私たちが話しかけてもずっと上の空だし、思いつめた顔してるし」

「今だって、お弁当の中身ほとんど減ってないよ」

「あ……」
 

そんな顔、してしまっていたのだろうか。していたんだろうな、二人にも分かってしまうくらい。
 
ちゃんと話を聞いていればよかった。自分のことだけいっぱいにならずに、二人ともきちんと会話をするべきだった。いつも通りのことが、できていなかった。
 
見ると、梨紗と実来のお弁当箱はほとんど空になっているのに、私のものだけたくさん残ってしまっている。お昼休みが始まってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。


「ごめん……」

「なにかあったの?」

「あはは、えっと、そういうわけでは……」
 

梨紗の言葉に、私は苦笑いを顔に貼り付けて小さく手を振る。
 
そんなことで、って思われてしまうだろう。二人に話して、お母さんたちのことを否定されてしまったらどうしよう。私のことを否定されてしまったら、どうしよう。


「なんで千鶴は、そうやっていつもごまかすの?」

「……えっ」

「そんなに、私たちのこと信頼できない?」


実来が語尾を荒げてそう言った。
 
思わず、ぎゅっと唇をかむ。わざわざ考えたり、口にしたりしなくても、分かりきっていたことだった。
 
──私は二人が思っているより、ううん、私が思っているよりも、実来と梨紗のことを信頼できていない。
 
ああほら、また私は実来たちを利用している。信頼なんかしていないのに、私は二人といようとしている。私が一人にならないために。そこに、私が実来と梨紗といる意味がある。
 
……本当、どこまでも最低だ、私。


「……そんなこと、ない」
 
ここで否定しないと、二人といられなくなるような気がした。私は私を守るために、こうやって簡単に嘘をつけてしまうことなんて、知りたくなかった。こんな簡単に、誰かを利用できてしまうことも、ぜんぶぜんぶ。


「だったら、どうしてなにも言ってくれないの……!?」
 

がたん、と音を立てて実来が立ち上がった。教室中の人たちの視線が、一斉に私たちに集まる。思わず、ひゅっと息をのんだ。
 
実来は、しっかりと私を見て怒りをあらわにしている。
 
……間違えたんだ。
 
もう後には戻れないことを、一瞬にして理解した。


「ちょっと実来、落ち着いて……」

「梨紗、だって……!千鶴、もじもじしてばっかりで、見ててムカつくんだもん!」
 

ムカつく。
 
ずっと、そう思われていたのかな。どうしたらよかったんだろう。どんなふうに振る舞えていたら、間違えずに済んだのだろう。ううん、どこから間違っていた?
 
そんなことを考えている時点で、間違いだったのだと気づく。
 
祈里、やっぱり私、優しくなんてなかったよ。こんなに、最低だった。

傷ついていたのは、私だけなんかじゃなかった。私も、何回も何回も実来たちのことを傷つけていた。傷つけて、利用して、縛っていた。二人が私といることに不満を感じているのを分かっていながら、それでも無理やり引き留めて、私のそばにいてもらっていた。
 
どうして、どうして気づくことができなかったんだろう。


「……ごめん、私もう、千鶴の味方はできない」
 

声のトーンを落として、そっと梨紗が私に言った。


「……うん」
 

この瞬間が来ることは、きっと最初から決まっていたのかもしれない。私が実来たちを利用し始めたときから。自分を守るために、縛るようになってから。そんな醜い私に気付かないといけなかった。これは気づかせるための、罰みたいなものなのかもしれない。
 
なにもかも、私は気づくことができなかった。自分を閉じ込めて、自分だけ見て、いつだって周りのことは見えていなかった。


「千鶴のこと全然理解できないなって思ってる。なに考えてるのか分からないところも、なにも顔に出ないところも、ぜんぶ」
 

梨紗の言葉を強く胸に刻み付けるように、一言一句逃さず耳を傾ける。それでも、いたたまれなくなって、思わず下を向いてしまった。
 
そんな私を見てか、実来がはーっ、と大きくため息をついた。


「もうっ、この際はっきり言う!」
 

実来が私のことをぴんと指さしたのが、視界の端に映った。


「私、千鶴のそういうところが嫌い。自分を出さないとことか、なにも言ってくれないところとか……!今だって、そうやって下向いて、私たちだけ悪いみたいな感じ出さないでよ!」
 

教室中に響きわたった実来の声と、しんと静まり返っている空間が痛く私に突き刺さる。もう私は、ここで以前のように過ごすことはできないだろう。
 
顔を上げて、実来の顔を見る。怒りと悲しみに満ちたその表情が、胸をぎゅっと締め付けた。そんな顔をさせているのは、私の方なのに。
 
立ち上がって感情的に思いをぶつける実来と、座ったまま静かに思いをぶつける梨紗だけど、どちらも同じくらい私の心を揺さぶる。

ずっと、そんなことを思わせてしまっていたのかな。私が何度も嘘を重ねていたことも、二人と向き合おうとしていなかったのも、知っていたのかな。
 
本当にどうしようもない。全然、実来たちのこと考えられていなかった。やっぱり、私は自分のことだけだった。


「……この間、梨紗と二人で話してたんだよね」
 

これまでずっと声を荒げていた実来が、急に声のトーンを落とした。これでもう、私たちが本当に終わってしまうことがなんとなく察せられて、ぎゅっとこぶしを握った。


「千鶴といると、正直疲れるって」
 

静かに実来はそう告げた。まるで私の反応を待つかのように、私をじっと見つめている。きりきりと胃が痛んで、自己嫌悪で吐き気がした。
 
それでも、言葉はなにひとつ出てこなかった。なにを言ったらいいのか分からず、ただ時間だけが過ぎていく。思わずふっと目をそらすと、実来がまたため息をついた。


「……やっぱり、なんも言わないんだね」
 

実来はきっと、私が本音で話してくれるのを望んでいた。正面から二人にぶつかってくれるのを待っていたはずだ。
 
でも、そんなことをする権利は私にはない。二人にぶつかれるだけの正当性と真っ向な理由なんてものはどこにもないのだ。だって、非があるのは私の方だから。私の勝手なわがままで、二人を足止めさせてしまったのだから。