だから、あの丘に行きたい、と思った。
それから数週間経っても、私たちの関係は特に変わることはなかった。それでも、変わらず祈里のこと、実来と梨紗のことなどが、ずっと頭をぐるぐる回っていた。
……忘れたい。
実来たちに言われたこと。一緒にいられなくなるかも、なんて不安。そのほかの、私を縛るいろいろなことも。
おかしいな、と思う。ずっと忘れちゃいけないって、忘れようとしちゃいけないって、頑なにそう決めていたのに、もういいや、と思ってしまう。頭の片隅で私自身が私を引き留めようとしているけれど、それに反抗するように私はあの丘へと歩みを進めた。
休日に丘に向かおうとするのは初めてだった。
『もう、頼りにならないなあ』
その言葉がずっと、頭に焼き付いて離れない。時間が経っても、この間の痛みと情けなさは同じ鮮度を持って私のなかにあり続ける。
丘に行こうと思ったのは、ただの思い付きだ。もちろん、あの後も何度も祈里と一緒に丘に向かっている。でもそれは、明確に忘れたいことがあったから行ったわけじゃなくて、あくまで流れっていうか、いつも通りの放課後を過ごす場所だっただけっていうか。
丘に着いたら、すでに先客がいた。芝生に自分を預けるように座り、何をするわけでもなく目の前に広がる景色を眺めている。見慣れた後ろ姿に、なぜか少しだけ胸が高鳴った。
「……祈里?」
先客──祈里に近づいて、私はその名前を呼んだ。祈里は私に気付くと、一瞬だけ驚いた顔をした後、優しく目を細めた。
「あ、千鶴。忘れたいことでもできた?」
祈里にはまだ、実来たちとのことについて話していない。
いつもと変わらない、心地いい温度にじんわり目頭が熱くなるのを感じた。祈里のそばに、ゆっくりと腰を下ろす。投げやりに、そのままごろんと横になって、右腕をおでこの上にそっと添える。
「……本当は、祈里とのこと以外、全部忘れたいよ」
自分でも驚くくらい、震えた涙声だった。私の口から溢れたのは、どうしようもない本音。本当は私を取り巻くすべて、忘れてしまいたい。
それでも私のなかで、祈里の存在が大きくなりすぎてしまったみたいだ。忘れたくない、なんて思ったのは初めてかもしれない。忘れたくないことがあるだけで、少しだけ強くなれる気がした。
「俺も」
そう言って、祈里も私と同じように横になった。祈里が小さく微笑む声が聞こえる。
「ぜんぶ忘れたいけど、千鶴とのことだけは忘れたくない」
……そんなふうに言ってくれる人がいるなんて、だれが予想しただろう。
私もなにか、祈里に与えられたのかな。私は無力だって何度も何度も思ったけれど、ほんの少しでもいいからなにかをあげられた?
私を覚えていたいって、言ってくれるだけのなにかを。
そうだったらいいなと思う。そしたら、まだ祈里のそばにいられるかもしれない。私が祈里に与えたのは痛みじゃないかもって、そう思えるかもしれない。
「……話してもいい?」
「もちろん」
そんなふうに祈里がうなずくから、やっぱり話したいと思ってしまう。この人なら、私のこんなに弱いところも、受けとめてくれるんじゃないかって。
「私、一人になっちゃうかもしれない」
「一人?」
「うん。一人になるのが、怖い」
祈里の方に視線を向ける。たった数十センチの距離で祈里と目が合って、ほんの少しだけ心臓が高鳴った。
「……頼りにならないんだって、私」
ふと、この間のことがよみがえる。実来や梨紗たちにとっては、ただの軽口にすぎなかったはずなのに、私だけがこんなに引きずっている。それが、より一層私のダメなところを強調しているようで、嫌になる。
「そんなことでって思うでしょ? でも、私にとってはそうじゃなくて、一人にならないために作り上げたポジションがこの、人よりも頼りになる存在、ってやつで」
自分が何を話しているのか、もうよく分からない。ぐちゃぐちゃになりながら、それでも祈里に話してしまいたい。
「なのに、それがなくなっちゃった。みんなにとっては軽口にすぎないはずなのに、そうじゃないって分かってるはずなのに、真に受けてる自分が嫌だ」
「……うん」
「私、もう実来たちと一緒にいられないのかな……」
祈里が、小さく息をつく音が聞こえた。
……呆れられた?
たったそれだけの行動なのに、意味をつけてしまう自分に気付いて、また自己嫌悪に陥ってしまう。
「千鶴はさ、なんで寺岡たちと一緒にいんの?」
寺岡、というのは実来の名字だ。ちなみに梨紗は笹野。
私を責めるようなものじゃない、ただ本当に知りたいと思っているような物言いに安心する。純粋に私を知りたいと思ってくれてるからこその言葉だと、ちゃんと分かっているので、私はゆっくり口を開いた。
「二年生の最初のグループワークで、実来たちが一人だった私に声をかけてくれたから」
「じゃあ、千鶴は二人と一緒にいて楽しいの?」
「……分かんない」
私、実来と梨紗といて楽しいのかな。すぐにうなずけなかったことが、答えなんだろうか。じゃあ、私が実来たちといる理由ってなに?
……そっか。ずっと、そうだったのか。
私、ずっと目を背けてただけだったのか。
「……私、ずっと実来たちを利用してたんだ」
都合のいいように扱ってたのは、二人だけじゃなかった。私だって、ずっと二人を都合のいいように利用していた。
「一人になりたくないから。一緒にいて楽しいかすら分かんないのに、私の都合で二人を縛ってたのは私の方だったのかもしれない」
もしそうなら。そうだと気づいてしまったら、私は。
「私がここにいていいのかさえ、分かんなくなっちゃった……」
私がいる限り、二人を縛ってしまう。じゃあ、二人を縛るのをやめればいい。分かっているのに、臆病な私は簡単にそれができない。
じゃあ、どうしたらいいんだろう。情けなくて不甲斐なくて、臆病で。私って本当にどうしようもない。
「じゃあさ、千鶴」
祈里が私の名前を呼ぶ。うん、と私はうなずく。
「千鶴は、俺のために生きてよ」
「祈里の、ため……?」
寝転んだまま、祈里の方に顔を向ける。真剣で、それでいて柔らかい横顔が目に入った。
「そう。千鶴はそんなふうに思うかもしれないけど、俺は千鶴に生きていてほしい。そんな俺のわがままを聞く感じで」
「なんで……」
「その方が気が楽だろ。千鶴はここにいていい。他のだれが否定しても、千鶴が生きているのは俺のせいってことにしてもいい」
じんわりと胸が温かくなっていくのを感じる。
なんで、そんなことを言ってくれるの?
私、ここにいてもいいの?祈里は、私に生きていてほしいの?どうして?
でも、全部わざわざ聞く必要はないと思った。きっと、祈里がそう言ってくれるんだからそれでいい。それだけでいい。
「ありがとう」
私がここにいる理由が祈里だとするならば、祈里はこれからも私のそばにいてくれるんだろうか。
だけど、そこまで考えてはっとした。
祈里は別に、私を好きなわけじゃない。私に何か特別な感情があるわけじゃなくて、だから私たちがこれからも一緒にいられる保証なんてどこにもない。
それなのに優しくしてくれる。私がほしかった言葉を、いつだって当たり前のようにくれる。
……こんなの、ずるいじゃん。私だけ、こんなに祈里への想いが大きくなっていって、私のなかで祈里の存在が大きくなってしまって。
きっと、そういうことだ。私は祈里のことが好き。だから、こんなにも祈里のことを知りたいと思って、私のことも知ってほしいと思う。
「祈里には、そういう経験はある?」
「え、俺?」
「うん。こう、友達との関係に悩まされたりとか」
うーん、と祈里は首をひねった。
たしかに、祈里には普段から積極的にだれかと関わっているイメージがあまりない。声をかけられたら答えるけど、自分から誰かと距離を詰めるところは見たことがない気がする。
だからこそ、気になってしまう。もちろん今聞いてみた質問の答えもだけど、私に付き合おうなんて言ったこととか、私と一緒に時間を共にしてくれたりする理由とか。
でも、今の私にはまだそんなことを聞く勇気はない。なんとなくだけど、今じゃない気がしてしまう。
「……ある、けど、千鶴のそういう悩みとは種類がちがう、と思う」
「種類?」
「友達ってよりかは、もっと身近な存在だった」
身近な人と何かあった、ということだろうか。
はは、と祈里はお茶を濁すように苦笑いをした。
これも、きっと今じゃない。私がわざわざ首を突っ込んで聞くことじゃない。いつか、祈里が話してくれたときにちゃんと耳を傾ける。
それくらい、ゆったりした気持ちでいいはずなんだ。
そう思う反面、そんな日が本当に来るのだろうか、とも考えてしまう。私の一方通行じゃないかって、どうしても怖くなる。
「祈里は、大丈夫だよ」
「え?」
「絶対に、大丈夫だと思う。ありきたりな言葉だけど、私は好きな言葉なの」
祈里がその出来事を、どんなふうに捉えているのか、私には分からない。もしかしたら、当時から特段気にしていなかったかもしれないし、今でも引きずっているかもしれない。あるいは、当時は傷ついたけど、今はもう吹っ切れているのかもしれない。
分からないからこそ、伝えたくなった。
祈里の傷に触れないように、慎重に。それでも、私がしてあげられるなにかを、したいと思ってしまった。
「そうだ。ずっと気になってたんだけど、どうやってこの丘を見つけたの?」
「五、六年前に一人でぶらぶら散歩してたら発見したんだったと思う」
「……小学生のときってこと?」
「そう。……あっ、ちがう」
祈里は少し、寂しそうに眉を下げた。それから、まるで記憶の先を辿るようにゆっくり口を開く。
「幼馴染と夏祭りに行ったんだ。屋台が並ぶ会場からじゃよく花火が見えなくて、穴場を探そうと二人でかき氷食べながら歩いてたときに見つけた」
「夏祭り……」
「この辺で毎年やってるやつ。知らない?」
「ううん、知ってる。私も毎年行ってた」
今はもう、行っていない。
陽菜と毎年、一緒に夏祭りに出かけていた。二人きりで電車に乗るのも毎年その一回きりで、特別感があって好きだった。私が住む街じゃ夏祭りは行われないので、お祭り好きな陽菜の意見で、隣町まで足を運んでいたのだ。
行っていないんじゃなくて、行けない、の方が正しいかもしれない。だって、あの場所は陽菜の影が濃すぎるのだ。
「あれからも、なんとなくここに来てるうちに、夕焼けを見たんだ。それが綺麗で、本当にぜんぶ、忘れられた気がした。だから、それからはもっとここに来るようになった」
なんとなく目が離せなくて、祈里の横顔をまじまじと見つめる。
「やめられなくて、今になってもずっとここに来てる。今までのことから、逃げるように」
不意に、祈里が私の右手首を軽く掴んだ。え、とつぶやいたときには、祈里は私を見てふっと笑った。
その笑みは、自分を肯定するものではないものだということは、すぐに分かった。自嘲と諦めと寂しさと、いろいろが混じっている。
だから、私はそっと祈里の手を振りほどいて、代わりに滑らせるように指を絡めた。そして、ぎゅっと強く握る。
祈里の抱えるそれが、少しでも軽くなればいいのにと、そんなことを願いながら。
