君の生きる理由になりたかった



その翌日は、いつもより一時間ほど早く目が覚めた。昨日の出来事でうまく寝付けなかったせいだ。

お母さんはいつもこのくらいの時間に起きているので、「早いね」と言われたけれど、変わらずお弁当を作ってもらってから、私はだいぶ早い時間に家を出た。
 
家にいたって、特にすることはない。むしろ、少しだけ居心地が悪いので、朝は学校で過ごす方がいい。朝なら、特段不思議に思われることもなく、教室でも一人で過ごすことができる。それは、みんなが学校に来るのが遅いのもあるし、課題を終わらせたりと、各々が自由に時間を使っているからだ。
 
いつもより一時間も早いのだ。教室に人なんているはずない。そんなことを考えながら、そっと教室のドアを開ける。
 
そのとき、教室に誰かがいるのに初めて気が付いた。一番窓側の列、前から三番目の席で、いつものように本を読んでいる、彼。


「祈里……?」
 

教室のドアを閉めながら、その名前を呼んだ。昨日の今日だからどう接すればいいのか、私にはよく分からなくて、少し緊張する。でも、それ以上に話したい衝動が勝ってしまった。
 
祈里が、ゆっくりと私の方を向く。それから、なにを考えているのか分からない表情で、私の名前を呼んだ。


「千鶴。おはよ」

「あっ、えっと、おはよう!」
 

か、変わらない?いつもとなんら変わらない祈里だ。少し不安だったから、その態度に余計に拍子抜けしてしまう。
 
……いや、もしかしたら、気を遣ってくれているだけかもしれない。私が祈里に気を遣わないように。
 
そうだったら申し訳ない、と思う気持ちもあるけど、ここは素直に甘えさせてもらおう。だって祈里が、それを望んでいるのかもしれないから。
 
私は自分の席に荷物を置きながら、祈里に声をかける。


「祈里、朝早いんだね」

「まあ、家にいたってすることないしな。千鶴の方こそ、今日早いじゃん」

「なんか、早く起きちゃって」
 

あっ、私と同じような理由だ。
 
新しい共通点に、また一つ祈里に親近感を覚えるものが増えた。同じことがあるって、やっぱり嬉しい。

「昨日はごめん」

「えっ……」
 

祈里がふと目に影を落とす。その様子に、息が詰まって何も言えなくなった。
 
気にしてたんだ、祈里も昨日のことを。やっぱり、気を遣ってくれていたんだ。祈里って本当に、どこまでも優しい人だ。
 
そう思うと同時に、祈里が昨日の話題を出したことに気まずさやマイナスの感情は湧いてこないことにびっくりする。祈里に言うべき言葉は分からないし、今だってどうしたらいいかすら分からないけど、それがとてつもなく嫌なわけではない。


「あのまま解散になっちゃって。まだどっか行けたかもだし、千鶴を家まで送りにも行けなかったし」

「へっ、私を送る……?な、なんで、そこまで」

「一応、俺は千鶴の彼氏でしょ」

「そ、そういう問題じゃ……!」
 

祈里、自分が〝彼氏〟だっていう自覚あったんだ。ち、ちがう、断じてバカにしたりしてるわけじゃなくて、ただちゃんとそう思ってたんだって感じただけであって。
 
一緒に帰る、名前呼びをすることが、私たちにとっての恋人らしいことになっていえるけれど、これって本当にそうのかな。今の私たちに恋人らしい雰囲気なんて到底あるとは思えないし。

ただ、一緒に時間を過ごして、普段より自分らしくいられて、相手を知りたいと思うだけ。だけど恋人らしいと言われれば、うーん、どうもしっくりこない。


「あ、あの……」
 

祈里を知りたい。
 
……だから、まずは、陽彩ちゃんとのことを知りたい。
 
聞くなら、今しかないと思った。どんな結果になるのかは分からない。結果によっては、祈里と一緒にいられなくなるかもしれないと分かっていながら、そうじゃないことを願って、祈里が当たり前のように否定してくれて、私が安心したかっただけだった。


「祈里って……、わっ!」
 

口を開きかけたその瞬間、腕が当たって机の上に置いていたお弁当袋が床に落ちた。急いで拾うと、祈里がははっ、と軽快に笑うのが聞こえて、思わずそちらの方を見る。


「案外危なっかしいよな、千鶴って」

「え?」

「修学旅行のときも、なにも言わずにどっか行くし」

「あ、あれは……!」
 

思わず、あっ、と声が漏れる。陽彩ちゃんとのこと、聞くタイミング逃しちゃった。今の状況で、聞くことなんてできない。
 
あーもう、なんでお弁当袋なんか落としちゃったんだろう。本当に、タイミングが悪い。落ちるにしても、もうちょっとタイミングを見計らってよ……。
 
ため息をつきながら、お弁当の中身が傾いていないかを確認するために、お弁当袋を開ける。お弁当箱の上には、小さな紙切れ。


『お友達と仲良くね』
 

丁寧なお母さんの字。こんな言葉、本来なら小さな子供がもらうものだ。それを、その年齢からかけ離れた高校二年生の私がもらっている。それが情けないし、心配をかけてしまっているのが申し訳ない。実来と梨紗とは、すごく仲良くできているわけではないから余計に、だ。


「お母さん……」
 

ぎゅっと唇をかむ。私のその一言だけで、祈里は何かを察したようにこちらをじっと見ていた。なんて言おうか考えているんだろうなと、なんとなく想像がついてしまい、それにまた申し訳なさを感じる。
 

……祈里に、話してもいいかな。


「お母さん、前よりも私に過保護になった気がするの」

「過保護?」
 

うん、と私はうなずく。


「私が笑えなくなったこと、まだ言われたことはないけど、やっぱり勘づかれてるのかな……」
 

私が笑う回数が少なくなった。中学生の頃、陽菜と一緒にいたときは私もよく笑っていた気がする。幼なじみでもあったから、陽菜のお母さんと私のお母さんも仲が良かったので、余計に安心だったのだろう。
 
だけど、今の私は笑顔をなくしているのだ。多分、お母さんも私が前より笑わなくなったことに気付いているのだと思う。だから、私に友達がいるかとか、そんなことを心配するようになったのだろうな。


「そっか」
 

祈里はそれだけつぶやいた。祈里と目を合わせると、やっぱり祈里は穏やかで優しい表情をしていた。そのことや、祈里が言及してこないことが私を落ち着かせてくれて、少しずつ気持ちが楽になっていく。
 
お弁当箱を開けると、案の定ぐちゃぐちゃになってしまっていた。思わず、あーあ、とつぶやく。


「お母さんがせっかく作ってくれたのに……」
 

でも、お母さんは私に精いっぱい尽くしてくれている。お弁当を作ってくれることにも、本当に感謝しているのだ。
 
祈里が頬杖をつきながら、口を開いた。


「千鶴の弁当は、いつも千鶴の母親が作ってくれてんの?」

「うん、そうだよ。えっと、祈里は?学食だっけ」
 

私の言葉に、祈里は首を縦に振った。
 
祈里の目が小さく泳ぐ。この間と同じ、迷っている表情だ。私が分かりやすいなら、祈里も案外分かりやすいと思う。意外と、表情に出るのだ。


「弁当、作れないから」

「……作れない?」

「俺、料理とかできないし。……それに、両親がいないんだ」

「えっ」
 

祈里はそっと目を伏せた。予想外のことに、言葉をなくす。
 
両親が、いない。祈里が初めて話してくれた、祈里の深いところだ。祈里が口を開こうとするのを見て、私はそっと口を閉じる。祈里自身のことを話してくれるのだから、私は一言一句聞き逃さずに耳を傾けよう。


「父さんは、俺が小さいときに病気で亡くなった」

「……病気」
 

寂しかっただろうな、と思う。小さいとき、ってことはきっとお父さんの死なんて理解しがたかったはずだ。もう会えないのだと、それを初めて理解したときの痛みは私には計り知れないものだったのだろう。


「母さんは、三年前に出て行った。……俺のせいで」

「祈里の、せいで……?」
 

祈里の言葉を復唱する。祈里はそうだとうなずいた。
 
頑なに私を見ないようにする様子、投げやりな言葉。そんなわけがないのに、今の祈里のいろんなところに私を重ねてしまう。
 
もし、祈里の言葉が本当なら、祈里は自分自身を責め続けているのではないだろうか。母が自分のせいでいなくなった……って。
 
それなら、祈里がしてくれたように、私も祈里を勇気づけたい。

確実にそんなことができる立場ではないと分かっているけど、それでも祈里には自分を責めてほしくない。後悔にさいなまれているなら、私がそれを少しでも和らげてあげられたらと切実に思う。


「私、何があったかは分からないけど……、でもね、祈里のせいじゃないと思う」

『千鶴は何も悪くない』

『それでいいんじゃねえの、千鶴』
 

すでにこんなに、祈里に助けられてきたんだから、祈里にとっての私もそうでありたい。
 
だけど、そんな願いも虚しく、祈里は大きくかぶりを振った。


「ちがう」

「……っ」

「千鶴、これは紛れもなく、俺のせいなんだよ」
 

祈里は傷ついたような寂しそうな顔で、自嘲気味に笑った。
 
……できなかった?私に祈里を励ましたり、元気づけたりすることはできなかった?
 
自分自身をすごく無力だと思った。祈里は今確実に、私と一線を引いた。
 
祈里に近づきたいと思うのは、やっぱり私だけなんだろうか。祈里を知りたいと思うのも、私を知ってほしいと思ってしまうのも。