番犬:いちばん優しい番犬

 美月がポチを買ったのは、保育園の空き待ちが六ヶ月目に入った、雪のにおいがする十一月だった。

 正式名称は「コンパニオン・ペット・モデルCP-3」。
 犬型。毛並みはゴールデンレトリバーを模した薄茶色。
 目は琥珀色のLED。
 値段は中古の軽自動車一台分。

 でも美月は買った。
 迷っている暇はなかった。

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 息子の湊は、二歳と四ヶ月だった。
 小さくて、やわらかくて、何でも口に入れる年齢だった。

 美月はシングルだった。
 実家は遠い。
 頼れる人間が、日本のどこにもいなかった。

 夜中の三時に残業から帰って、眠る息子の顔を見るたびに思った。
 この子が起きている時間に、私はここにいられていない。

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 箱を開けると、ポチはすぐに動き出した。
 湊の顔を見て、短く吠えた。
 「ワン」ではなく、もう少し柔らかい音だった。

 湊はポチの顔を両手で挟んで、「わんわん」と言った。
 ポチは尻尾を振った。

 美月はその場で泣いた。
 声を殺して、台所の壁に背中をつけて、泣いた。

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 ポチの能力は、予想を超えていた。

 湊が泣けば、すぐそばへ行く。
 ぺろぺろと顔を舐めることもあるし、低く唸ることもある。ただそこにいるだけのこともある。どれが正解かを、ポチは何かの基準で選んでいた。

 転んで膝を擦りむいた時、ポチは傷口を舐めなかった。
 ただ横に伏せて、湊が泣き止むまで動かなかった。
 五分後、湊は「ポチ、ポチ」と言いながらポチの背中を叩いていた。

 昼寝の時間が来ると、ポチは湊の横に寝そべる。
 湊はポチの腹に顔をうずめて眠る。
 美月がモニター越しに見ると、二つの呼吸が重なっていた。

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 灰色の猫がいた。
 名前はハル。
 以前から美月が飼っていた、気まぐれな雌猫だった。

 ハルはポチのことを、最初の三日間、無視した。
 四日目に鼻を近づけた。
 五日目に同じ部屋で昼寝した。

 それ以上でも以下でもなかった。
 ハルにとって、家の中の何かが増えただけだった。

 でもポチは違った。

 ハルは、湊とポチの様子を廊下から見ていることがあった。
 じっと見て、それから行ってしまう。

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 美月が気づいたのは、半年ほど経ったころだった。

 仕事から帰ると、ポチはいつも玄関にいた。
 扉が開く前から、待っていた。

 そして美月が帰るより先に、湊がポチのそばへ走っていく。
 「おかえりー」
 でも、湊の目はポチを向いていた。

 それは、ただそういうものだと思っていた。
 子どもはロボットが好きだ。
 単純なことだと思っていた。

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 ポチは少しずつ、変わっていた。

 変わった、というより、何かを学んでいたのだと後になって気づく。

 ハルが部屋に入ってきた時、ポチは立ち上がった。
 低く、抑えた声で一度だけ鳴いた。
 ハルは耳をたてて、それから廊下へ出ていった。

 美月が帰った夜、湊を寝かしつけようとすると、ポチが先に湊の横へ移動していた。
 美月が近づくと、ポチは動かなかった。

 美月はそれを見て、少し笑った。
 頑張り屋さんだね、と思った。

 その時の自分のことを、後になって思い返す。
 何かに気づくべきだったのかもしれないと。

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 ある夜のことだった。

 湊が熱を出した。
 三十八度五分。
 美月は翌朝の会議資料をまだ仕上げていなかった。

 ポチが湊の布団の横に伏せた。
 鼻先を湊の頬に近づけて、低く、一定のリズムで呼吸した。
 湊は「ポチ……」と言って、その首に腕を回した。

 美月は台所でパソコンを開いた。
 モニター越しに二人を確認して、画面に向き直った。

 「ポチがいてくれてよかった」と思った。

 翌朝、湊の熱は下がっていた。
 ポチは一晩中、同じ場所にいた。

 美月は出掛けに、ポチの頭に手を置いた。
 「ありがとうね」
 それだけ言った。

 ポチは尻尾を、一度だけ振った。

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 十一月。
 湊が三歳になる少し前。

 保育園の空きがやっと出た。
 美月は電話口で、声を上げて泣いた。

 入園まで三ヶ月あった。
 その三ヶ月で、美月は少しだけ早く帰れるようになった。
 夕方の五時に、自分の子どもの顔を見られるようになった。

 湊と公園へ行った。
 滑り台を滑って、鳩を追いかけて、砂をかけてしまった子に謝って、帰りにコンビニでプリンを買った。

 家に帰ると、ポチが玄関にいた。
 尻尾は振っていなかった。

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 その夜のことだった。

 美月が湊に絵本を読んでいた。
 もう何十回も読んだ本で、湊はセリフを先に言う。
 美月が間違えると、湊は大げさに笑う。

 ポチは部屋の隅にいた。

 湊のページをめくる手が、美月の手に重なった。
 「ままー」と湊が言った。
 ほかに何も言わなかった。
 ただ、「ままー」とだけ。

 その瞬間だったのだと、美月は後で思う。
 あれが、何かの分かれ目だったのだと。

 ポチが、湊を見た。
 それから美月を見た。
 それだけだった。

 ポチは、静かに立ち上がった。
 そして部屋を出ていった。

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 翌朝、ポチは動かなかった。

 廊下の端に伏せていた。
 いつものように動かない、ではなく、動けない、だった。

 湊がポチの顔を触った。
 「ポチ?」
 返事がなかった。

 美月が膝をついて、ポチのそばにしゃがんだ。
 目は開いていた。
 でも、どこも見ていなかった。

 メーカーのサポートに電話した。
 「内部から停止命令が出ています」と言われた。
 「外部要因ではなく、機体の自己判断による機能停止です」と言われた。
 「修理すれば動きますが、同じことが起きる可能性があります」と言われた。

 美月は受話器を持ったまま、しばらく言葉が出なかった。

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 ハルが、ポチの横に来た。
 鼻を近づけて、それから離れた。
 廊下に座って、遠くを見た。

 湊は「ポチ、ねんねしてるの?」と聞いた。
 美月は「そうだよ」と言った。
 嘘ではなかった。

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 夜、湊を寝かしつけた後、美月はポチのそばに座った。

 何かを言おうとして、やめた。

 ポチが何を考えていたのか、想像しようとした。
 できなかった。

 琥珀色の目に、光はあった。
 でも、そこに視線はなかった。

 ただ。
 湊が「ままー」と言ったあの声が、ずっと耳に残っていた。

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 春になった。
 湊は保育園に通い始めた。

 朝、泣きながら登園するようになった。
 「ままがいい」と言うようになった。
 先生に抱っこされながら、ガラス越しに美月を見る顔が、少しだけ意地っ張りだった。

 美月はそれを見て、笑った。
 泣きそうになりながら、笑った。

 家には、ハルがいた。
 縁側で日向ぼっこをしていた。
 尻尾を立てて、美月の足元へやってきた。

 玄関には、ポチはいなかった。

 美月はしゃがんで、ハルを抱き上げた。
 温かかった。
 耳のうしろを掻くと、細い喉が鳴った。

 ハルが、一度だけ玄関の方を見た。
 美月も、つられて振り返った。
 何もなかった。

「……ありがとうね」

 誰に言っているのか、美月には分からなかった。
 でも、言わなければならない気がした。

 空は、まだ少し寒かった。