消滅の宇宙

石川県輪島市内、夜の二十三時ごろ。
袖ヶ浜(そでがはま)のキャンプ場には、とある二組の親子以外、人影はなかった。

穏やかな波音が打ち寄せる砂浜で、大人たちはラジオから流れるクラシック音楽に耳を傾けながら談笑している。
そこから少し離れた場所では、まだ小さな三人の子供たち――男の子と女の子、そして彼の幼い妹が天体観測を楽しんでいた。大人たちに組み立ててもらった本格的な天体望遠鏡を、夢中になって覗き込んでいるのだ。

楽しそうに声を掛け合いながら、望遠鏡の筒を夜空へ向ける子供たち。
その小さな瞳の中に、一体どんな広大で美しい宇宙が広がっているのかは、本人たちにしか分からない。

やがて、男の子と女の子の元へ幼い妹がトコトコと歩み寄ってきた。
それと入れ替わるように、望遠鏡を見るのに少し満足した男の子は、父親の目の前へと歩み寄る。そして、どこか不思議そうな顔で父親を見上げた。

「お父さん……何の曲を聞いてるの……?」

ラジオのスピーカーから流れていたのは、チャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲 op.35』。
どうやら男の子はこの曲の詳しいタイトルを知らないらしく、「ヴァイオリンの有名な曲」くらいの認識しかないようだ。

父親は優しく目を細めると、息子の頭をそっと撫でた。

「この曲かい? これはね――『星の音色』を聞いているんだよ」

「星の音色……?」

「今日は楽しかったか、奏護? たくさん遊んだから、ぐっすり眠れそうだな」

「うん……」

眠そうに目をこすりながら、奏護(そうご)と呼ばれた男の子は小さく頷いた。

楽しい時間というのは、どうしてこんなにも過ぎ去るのが早いのだろう。
幼い奏護は、この愛おしい時間をいつまでも忘れないよう、胸の奥に深く刻みつけながら明日を迎えようとしていた。

――だが、一生の思い出を失わずに持ち続けることが、どれほど難しいことなのか。
当時の彼は、まだ知る由もなかった。

・・・

・・

・

埼玉県所沢市にある巨大ゲーム会社『ソウルメア』社。
2025年に返還された元米軍通信基地の跡地に建てられた十階建ての本社ビルでは、地上階の各フロアで社員たちがパソコンに向かい、あわただしく作業に追われていた。時代を風靡した巨大VRゲーム『ラニアケア・オンライン』のサービス終了対応に追われているのだ。

――だが、その喧騒から遠く離れた、地下3階の厳重に遮蔽された特別会議室。
モニターの静かな光だけが照らす密室には、重苦しいまでの緊張感が立ち込めていた。

集まっているのは、役員や研究員ら二十名ほどの幹部たち。
ある者は手元の極秘資料を凝視して顔を強張らせ、またある者は圧迫感に耐かねたように、ペットボトルのお茶にしきりに口をつけている。

「……では、この手筈で進めます」

円卓の席についたスーツ姿の男が静かに切り出した。

「うむ」

恰幅の良い中年取締役が、神妙な面持ちで深々と頷く。

「マスコミや外部への対応は、すべて私が引き受けましょう」

「あぁ、頼むよ……」

「……しかし、本当によろしいのですか?」

不安を隠しきれない様子で尋ねたのは、白衣を纏った研究員だった。

「……心配いらん。政府の掲げる『ムーンショット目標』――2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現する前段階までのシステムは、すでに我々の手で完成している。今夜のゲームサービス終了も、すべてはこのために仕組んだことだ。ここまで来て後戻りなどできるか」

隣の男が、眼鏡のブリッジを押し上げながら冷ややかに笑う。

「政府が語る『目標』などただの綺麗事……だが、我々が果たす『ムーンショット計画』こそが真の変革だ。この計画に我が社のすべてを賭けてきたのだからな」

「ええ……今夜、サーバーが落ちる瞬間こそが最大の好機です」

長テーブルのトップに座る人物がゆっくりと立ち上がり、冷酷な眼差しで全員を見渡した。

「――勝利の女神は、我々に微笑んでいる……」

「――好機は我らにあり。……計画を開始しろ」

室内を満たす薄暗がりの中、集まった者たちの唇に、一斉に不敵で禍々しい笑みが浮かび上がった。

・・・

・・

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石川県加賀市にある百万石高校のグラウンド。夕暮れ時、下校する生徒たちの長い影がオレンジ色の地面に伸びていた。

静まりかえり始めた校舎の窓を覗けば、まだ残っている生徒たちの姿が見える。居残り勉強に励む者、談笑に花を咲かせるカップル、そして――部活動の練習に打ち込む者たちだ。

一階にある音楽室では、ひとりの男子高校生が熱心にヴァイオリンを奏でていた。
背が高く、短めの髪に整えられた男――天富奏護(あまとみそうご)だ。真剣な眼差しで譜面を見つめる彼の背後、椅子の背もたれには詰め襟の上着が掛けられている。練習に熱が入り、身体がすっかり火照ってしまったのだ。

音楽室に、重厚なヴァイオリンの低音が深く響き渡る。

曲は、フリッツ・クライスラーの『前奏曲とアレグロ』。

今度のコンクールで自由曲に選んだ、いまの奏護にとって高く壁のようにはだかる難曲だった。

前半の「前奏曲(プレリュード)」は、深く、厳かに、弓へしっかりと体重を乗せて弦を響かせていく。ここまでは悪くない。問題は、その後に訪れる破調だ。

――ここからだ。

奏護の脳内で重厚な前奏曲が終わりを告げ、後半の「アレグロ」へと拍子(テンポ)が一気に跳ね上がる。目の前の楽譜が、一瞬にして音符の嵐で埋め尽くされた。

「――っ!」

奏護の右腕が激しく上下し、弓(ボウ)を躍らせる。
十六分音符の超高速連打。細かく弓を刻む「デタシェ」の技法と、左指の目まぐるしい弦の押さえ(フィンガリング)が、怒濤の勢いで同時に押し寄せてきた。

頭では完璧に理解している。
なのに、どうしても右腕のボウイングと左指のフィンガリングが、コンマ数秒だけ噛み合わない。

――ギッ。

緊迫した旋律の真っ只中、弦が擦れた鈍い不快音が弾け、奏護の演奏はピタリと途切れた。

「……くそ、やっぱりアレグロに入ると、ボウイングの移弦(いげん)が追いつかない……」

ヴァイオリンを構えた姿のまま、奏護は大きく吐息を漏らした。

顎当てにあてていた首筋には、じっとりと汗が滲んでいる。何度も同じ難所を反復練習したせいで、指先は弦との摩擦で真っ赤に熱を持っていた。

クライスラーが残したこの「悪魔の技巧」は、ほんのわずかな迷いも、コンマ数秒のリズムの狂いも許してはくれない。

「金賞を獲るには、この速度(テンポ)を完璧に自分のものにしなきゃダメなのに……」

窓の外、夕日に向かって長い影を伸ばすグラウンドを見つめながら、奏護はもう一度、強く弓を握り直した。

――それから黙々と弦を鳴らし続けること、三十分。
すっかり茜色に染まった音楽室で、奏護はようやく弓を下ろし、汗を拭って片付けを始めた。

「谷内(やち)先生、本日もご指導ありがとうございました」

ケースに楽器を収め、奏護は教卓に立つ女性へ向けてペコリと頭を下げた。
谷内先生――百万石高校・管弦楽演奏部の顧問であり、部の指揮を担当している人物だ。
彼女は優しく目を細めると、奏護の元へ歩み寄り、譜面台の上に置かれた楽譜を手に取った。

「天富(あまとみ)くん」

「はい」

「練習していたクライスラーの『前奏曲とアレグロ』、やっぱり後半のアレグロ部分が肝(キモ)ね。ハイポジションばかりを弾くことになるから、常に次の音符を弾く準備をしておかないと出遅れてしまうわよ」

谷内先生は指先で、楽譜の二ページ目をトントンと叩いた。

「それから、フォルテとピアノが目まぐるしく交互に続くでしょ? ここをもっとはっきりとメリハリをつけて表現した方が、曲全体の出来がぐっと引き締まると思うわ」

「はい! ありがとうございます。家でも強弱の付け方をしっかり練習してきます」

谷内先生のアドバイスは、いつも奏護たち生徒の大きな支えになっていた。一人ひとりの苦手な部分や癖をよく観察し、その人に合った丁寧なフォローをしてくれるのだ。今日こうして遅くまで残って指導してくれたのも、金賞を目指す奏護の情熱に応えてのことだった。

「俺、もっと頑張ります。今度のコンクール、絶対に金賞を取りたいんです!」

奏護の目標は、間近に迫った県内コンクールでの優勝だ。ここで三位以内に入れば、秋の全国大会への切符を手に入れることができる。

「そうね。今回の大会は君たち三年生にとって最後のコンクールになるから、気合を入れないとね」

谷内先生は微笑みながら頷き、ふと教卓の端に手をついて視線を奏護に向けた。

「……ねえ天富くん。『音楽とは何のために存在するのか』……先生はね、ずっとこれを考え続けてきたの。天富くんは、何のためにヴァイオリンを弾くの?」

「自分ですか……? そうですね……最優秀賞とか、金賞を取るため、ですかね」

率直な奏護の答えに、谷内先生は「ふふっ」と優しく目を細めた。

「他の生徒も、大体みんな似たようなことを答えるわよ。毎年この時期になると、三年生に『音楽とは何か』を聞いているの」

谷内先生は一度言葉を切り、ゆっくりと窓際へ歩みを進めた。夕日に染まるガラス越しに、遥か遠くの空を見つめる。

「結局ね、それは『今の生徒たち』が出す答えであって、将来出す答えとは違うのよ。今はそれで良いのかもしれない。……でも先生はね」

帰る支度を終えた奏護は、鞄を肩に掛け、先生の隣へと歩み寄って一緒に窓の外を眺めた。

「『自分の心を現すもの』――それが音楽なのかなって思っているわ。人はみんな、自分の心に寄り添う音楽を聴くものでしょう? ……けれどね、これはあくまで先生が出した答えであって、本当の正解ではないの」

「じゃあ……先生、『本当の答え』って何なんですか?」

奏護の問いに、谷内先生はそっと振り返り、あたたかな眼差しを向けた。

「『本当の答え』なんてね……人それぞれ違って当たり前なのよ。各自の中にしかない答え――それこそが、音楽の正体なの」

先生は奏護の肩をぽんと優しく叩いた。

「だから日々の練習でも、そのことを少しだけ心に留めておきなさい。自分の心に素直になって演奏すれば、いつか見えてくるものがあるはずよ」

「……はい」

「今日もお疲れさま、天富くん。気をつけて帰りなさいね」

窓の外から運動部の威勢のいい声が響く中、先生の温かな労いを背に受けた。

「先生、また来週!」

奏護は元気よく挨拶を返すと、カチャリと音を立てて音楽室の扉を静かに閉めた。

・・・

・・

・

校舎を出て夕暮れの通学路を歩いていると、後ろから軽やかな足音がパタパタと近づいてきた。

「テ・ン・ゴ。今日の練習はどうだった?」

振り返ると、そこには見覚えのある太陽のような笑顔があった。
幼なじみの東矢千宙(とうや ちひろ)だ。

「なんだ、千宙か。……まあ、上出来だと思うよ」

「ふふ、やっぱりね! ヴァイオリンの音、外まで響いてたよ?」

「なんだ、お前見てたのか? ちっとも気づかなかったぞ」

「だって、練習聴きたかったんだもん♪ それに今日は一緒に帰ろうと思ってさ。ほら、奏護がログイン忘れてるかもしれないじゃん?」

千宙は部活で音楽をやっているわけではないが、ときどきこうして放課後の音楽室へ奏護の演奏を聴きにやってくるのだ。

「ははは、そうかよ。まあ、見られて困るもんでもないけどさ」

奏護と千宙には、共通の趣味がふたつあった。ひとつは音楽。奏護はヴァイオリンを、千宙は小学一年生の頃からピアノを弾いている。小学四年の秋、ふたりでコンクールに参加したのが急接近するきっかけだった。当時はケンカばかりしていたが、今ではすっかり気心の知れた幼なじみだ。そして、もうひとつの共通の趣味が――

「ヴァイオリンの練習も終わったことだし、今日は大切な日なんだから、ちゃんと来なよ? もう三週間も空いてるんだから」

千宙の言葉尻からは、どこか寂しげなニュアンスが滲み出ていた。

「大切な日……それって、『LKO』のことだよな」

「そうよ! 私たちがずっと遊んできた、あのゲーム。今日でサービス終了なのよ、テンゴ!」

――世界中で爆発的なブームを巻き起こしたフルダイブ型VRゲーム『ラニアケア・オンライン』、通称『LKO』。今日、七月六日の深夜を過ぎればサーバーは完全に停止し、アカウントは消滅する。二度とあの世界へログインすることはできないのだ。千宙が呼ぶ「テンゴ」という名前も、元々はゲームに疎い奏護のために彼女が「天富奏護」から取って名付けたアバターのニックネームだった。普段は本名で呼ぶ彼女だが、ゲーム内や、こうして二人だけの秘密の話題に触れるときは、親しみを込めて「テンゴ」と呼ぶのだ。

「忘れずにログインしなさいよ? ギルドの仲間とも最後のお集まりなんだから!」

「あぁ、分かってるって。久しぶりだし、あいつらちゃんと集まってんのかな……急に顔を出して何言われるか分からないけどな」

「ふふ、みんな今日は絶対に集まるよ。だから奏護も絶対に来てね」

「そういえばさ」ふと思い出し、奏護は隣を並んで歩く千宙へと視線を向けた。

「明日、千宙の誕生日だったよな。何か欲しいものとか用意しようか?」

「えっ……? あ、ううん、別に何でもいいよ! ……うん」

急に振られた話題に、千宙は一瞬だけ頬を朱に染め、照れ隠しするようにそっぽを向いた。やがて神社近くの丁字路に差し掛かり、ふたりは歩みを止める。ここから先は、お互いの自宅へと続く分かれ道だ。夏の夕暮れ特有の涼しい風が吹き抜け、境内に立つ大きな桜の葉をそよそよと揺らしていた。

「あ、それとね! ログアウトが終わったら……ちょっと電話できる……?」

「電話? ああ、全然大丈夫だぜ。長話じゃなければな」

「うん! じゃあ私、こっちだから!」

千宙はクルリと振り返ると、弾むような足取りで走り出しながら大きく手を振った。

「念を押しておくけど、絶対にログインしなさいよ! 待ってるからねー!」

「ああ、分かってる! 今日はみんなとお別れ会だからな!」

遠ざかっていく千宙の小さくなる背中に手を振り返しながら、奏護の胸には自然と抑えきれない高揚感がこみ上げていた。数週間ぶりに顔を合わせる、『LKO』の仲間たち。奏護は楽しみで居ても立っても居られない気持ちを抱えながら、茜色に染まる通学路を、笑顔で自宅へと急ぐのだった。