「そいじゃ、行きましょうか」
「うん」
先に靴を履いた坂本くんがドアを開けると、早朝の冷たい風が玄関へと流れ込んできた。借りたクロックスを引っ掛け、彼の後ろに続いて外に出る。
「更夜!!」
瞬間、声が響いた。
驚いて坂本くんの肩越しにまだ薄暗いの廊下の先に視線を移すと、エレベーターホールの前でマコトが驚愕に目を見開いていた。
スニーカーのラバーソールの音を響かせて走り寄ってくるマコトから遮るように、坂本くんの背中が俺の前に立ちはだかる。
「……月岡さん。こん人ですか? 月岡さんば追い出したとは」
地を這うような声で坂本くんが問う。俺はこくん、と頷いた。
空気がぴりっと張り詰めたが、気付いていないのか、マコトは構わずに続ける。
「ベランダにいないし、スマホ繋がらないし……」
繋がらないっていうか、部屋に置きっぱだしな。
「もしかしたら下に落ちたのかもって。駐車場とか、植え込みとかも何回も見にいって、でもいないから、近所とかずっと歩き回って探して……」
珍しく焦った様子で、いつも綺麗にセットしている前髪を乱し、苛立ちを含んだようなため息をついたマコトはポツリと言った。
「こっちは心配して探し回ってたってのに。なんだよ、生きてんじゃん」
「なんば言いよっとか! 月岡さんば追い出したとは、あんたやなかね!!」
食って掛かろうとする坂本くんを、マコトは悪意など微塵も見せずにきょとん、と見つめ返す。
「誰だ? お前」
「俺が誰かなんて今どぎゃんでんよか!! 我がで月岡さんば追い出しといて『生きとった』ち何ば考えとっとや!!」
「え? え? ちょっと、何? 更夜、こいつ誰?」
馴染みのないイントネーションと方言が聞き取れないのか、状況が理解できないのか、マコトは坂本くんと俺の顔を忙しなく交互に見る。目の下にできた隈を見る限り、俺を探し回っていたのは嘘ではないらしい。
「昨日一晩泊めてくれたんだ」
今にもマコトに嚙みつかんばかりの勢いの坂本くんの肩越しに説明すると、マコトは訝し気に俺の顔を見た後で、坂本くんに視線を移し、表情を歪めて言った。
「ああ、あんたも『ソッチ』の人間?」
薄ら笑いを浮かべてマコトが言い放った侮蔑的な言い回しに、脳がカッと灼けた。
さも異常者だと線引きするような響きに、握った拳が震える。
そう、思ってたんだ。俺のこと。
優しいから、じゃない。俺のこと利用するために優しさを装っていただけで、腹の中では、ずっと異質な生き物扱いされてたんだ。
しかもそんな目を、坂本くんにまで向けるなんて。
言い返そうと顔を上げた瞬間、俺の前に立つ坂本くんが静かに答えた。
「俺はゲイとかそぎゃんこつは、ようわからんばってん」
坂本くんの言葉に、喉の奥がすっ、と冷える。
すでにアウティングしていたし、拒絶されるのも覚悟の上だったはずだ。
だけど。
俺の悩みを聞いてくれて、何気ないことで一緒に笑ってくれて。
距離が近づいたと思っていた今、坂本くんに存在を否定されるのは、マコトに侮蔑的な眼差しを向けられるのより、ずっとキツい。
「あんたんごたる人にゃ、いっちょん興味なんて湧かんし」
マコトの言葉で発した熱が、冷水を浴びせられたように一気に身体から引いてゆく。
これ以上聞きたくない。
そう思うのに、耳を塞ぐことも、逃げ出すこともできなかった。
だから、その後に続いた坂本くんの言葉を理解するのに数秒要した。
「ばってん、俺にとっちゃ月岡さんだけは、特別な人ったい」
特別、という響きに、心臓がどくり、と呼応した。
それってどういう……。
不意にマコトが鼻で笑うのが聞こえた。
「好きにしろよ。せっかく心配してやったっていうのに」
言い捨てて背中を向けたマコトを、咄嗟に呼び止める。
「待って、マコト!」
ああ、マコトと目を合わせるの、久しぶりだな。なんて、頭の片隅で思った。
振り向いたマコトに、手を差し出す。
「……鍵。返して」
マコトは俺の顔を見て何か言いたげに微かに口を歪めたが、結局すぐに視線を逸らし、キーケースからスペアキーを取り外して、俺の手にそっと乗せた。
「着替えとか荷物は、後でまとめて返すから」
「……いらない。捨てといて」
不貞腐れたように言い置いて、今度こそ振り返ることなく遠ざかっていく背中。その後ろ姿を鍵を握り締めたまま見つめていたが、マコトの姿がエレベーターのドアの向こうに消えた途端、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
あれだけ縋るように迎えに来ることを望んでいたマコトを失ったのに。俺は欠けていた自分の一部を取り戻したように安堵の気持ちを抱いていた。
「月岡さん。大丈夫ですか?」
心配そうに聞いてくれる坂本くんに、笑顔で返す。
「巻き込んでごめん。あと、俺の代わりに怒ってくれてありがとう。昨日俺のことを見つけてくれたのが、坂本くんで良かった」
驚いたように漆黒の双眸が見開かれる。
「ごめん。急にこんなこと言われても意味わかんないよな。でも、本当に嬉しいんだ。坂本くんのおかげで自分のこと大事にできるようになった。あんなこと言わせて、気を使わせて本当にごめん」
「……あん人ば追い返すためだけに、あぎゃんこつば言うたと思うとるとですか?」
珍しく坂本くんが不満げな表情を浮かべる。
「どういう意味?」
問い返すと、坂本くんは目を閉じて、一度深呼吸してから、じっと俺を見つめた。
「嫌やったら、殴ってもろてよかですけん」
伸びてきた手が優しく頬に触れ、目が痛くなるほど至近距離に近づいてきた坂本くんの唇が、そっと俺の唇に重なる。
「……こいでもまだ、ノンケとかゲイとか、線引きするとですか?」
困ったように問う坂本くんに、信じられない思いで首を横に振る。
まさか、そんな。でも、本当に?
「俺も、です」
筆で描いたように目尻が上がった坂本くんの瞳がきゅ、と細くなり、照れたような笑みを浮かべる。
「昨日、外から帰ってきた時に、月岡さん『お帰りなさい』って言うてくれたやなかですか。家族も友達もおらん所で、ちゃんと家に帰ってきたっちゃなぁって思えて、ほんに嬉しかったとです」
恐る恐る手を伸ばす。と、躊躇なくその腕の中に抱き寄せられた。
「好きです。月岡さん。こいからも、もっとたくさん、おかえりとただいまば言いたかです」
耳元で紡がれる優しい声音に、嬉しくて、混乱して、ドキドキして。
こんなこと、現実に起きてもいいのかな。
坂本くんの向こうの空の端に、昨夜の満月が名残惜し気に沈もうとしていた。廊下は少しずつ朝の光に柔らかく照らされていく。
なんて優しい夜明けなんだろう。
夜明けを見ることなんて何度もあったのに、こんなに綺麗だと感じたのは初めてだ。草木が萌えて朝日に光る。
大袈裟なようだけど、あの時坂本くんに声をかけてもらえなかったら見ることはなかったかもしれない景色。
すっ、と肺に清冽な空気を吸い込んで坂本くんの体に回した手にそっと力をこめ、顔をあげると、坂本くんが優しく微笑み返してくれた。
夜見た時は夜空を溶かしたような瞳だと思ったけど、黒い瞳に朝の光が躍る。
「俺も。話したいことが、たくさんあるんだ」
「聞かせてはいよ。もっと、月岡さんのこつば。味噌汁のおかわり、いれますけん」
顔を見合わせて、同時に噴き出す。
きっと俺は、この朝の景色を、この先一生忘れることはない。
「うん」
先に靴を履いた坂本くんがドアを開けると、早朝の冷たい風が玄関へと流れ込んできた。借りたクロックスを引っ掛け、彼の後ろに続いて外に出る。
「更夜!!」
瞬間、声が響いた。
驚いて坂本くんの肩越しにまだ薄暗いの廊下の先に視線を移すと、エレベーターホールの前でマコトが驚愕に目を見開いていた。
スニーカーのラバーソールの音を響かせて走り寄ってくるマコトから遮るように、坂本くんの背中が俺の前に立ちはだかる。
「……月岡さん。こん人ですか? 月岡さんば追い出したとは」
地を這うような声で坂本くんが問う。俺はこくん、と頷いた。
空気がぴりっと張り詰めたが、気付いていないのか、マコトは構わずに続ける。
「ベランダにいないし、スマホ繋がらないし……」
繋がらないっていうか、部屋に置きっぱだしな。
「もしかしたら下に落ちたのかもって。駐車場とか、植え込みとかも何回も見にいって、でもいないから、近所とかずっと歩き回って探して……」
珍しく焦った様子で、いつも綺麗にセットしている前髪を乱し、苛立ちを含んだようなため息をついたマコトはポツリと言った。
「こっちは心配して探し回ってたってのに。なんだよ、生きてんじゃん」
「なんば言いよっとか! 月岡さんば追い出したとは、あんたやなかね!!」
食って掛かろうとする坂本くんを、マコトは悪意など微塵も見せずにきょとん、と見つめ返す。
「誰だ? お前」
「俺が誰かなんて今どぎゃんでんよか!! 我がで月岡さんば追い出しといて『生きとった』ち何ば考えとっとや!!」
「え? え? ちょっと、何? 更夜、こいつ誰?」
馴染みのないイントネーションと方言が聞き取れないのか、状況が理解できないのか、マコトは坂本くんと俺の顔を忙しなく交互に見る。目の下にできた隈を見る限り、俺を探し回っていたのは嘘ではないらしい。
「昨日一晩泊めてくれたんだ」
今にもマコトに嚙みつかんばかりの勢いの坂本くんの肩越しに説明すると、マコトは訝し気に俺の顔を見た後で、坂本くんに視線を移し、表情を歪めて言った。
「ああ、あんたも『ソッチ』の人間?」
薄ら笑いを浮かべてマコトが言い放った侮蔑的な言い回しに、脳がカッと灼けた。
さも異常者だと線引きするような響きに、握った拳が震える。
そう、思ってたんだ。俺のこと。
優しいから、じゃない。俺のこと利用するために優しさを装っていただけで、腹の中では、ずっと異質な生き物扱いされてたんだ。
しかもそんな目を、坂本くんにまで向けるなんて。
言い返そうと顔を上げた瞬間、俺の前に立つ坂本くんが静かに答えた。
「俺はゲイとかそぎゃんこつは、ようわからんばってん」
坂本くんの言葉に、喉の奥がすっ、と冷える。
すでにアウティングしていたし、拒絶されるのも覚悟の上だったはずだ。
だけど。
俺の悩みを聞いてくれて、何気ないことで一緒に笑ってくれて。
距離が近づいたと思っていた今、坂本くんに存在を否定されるのは、マコトに侮蔑的な眼差しを向けられるのより、ずっとキツい。
「あんたんごたる人にゃ、いっちょん興味なんて湧かんし」
マコトの言葉で発した熱が、冷水を浴びせられたように一気に身体から引いてゆく。
これ以上聞きたくない。
そう思うのに、耳を塞ぐことも、逃げ出すこともできなかった。
だから、その後に続いた坂本くんの言葉を理解するのに数秒要した。
「ばってん、俺にとっちゃ月岡さんだけは、特別な人ったい」
特別、という響きに、心臓がどくり、と呼応した。
それってどういう……。
不意にマコトが鼻で笑うのが聞こえた。
「好きにしろよ。せっかく心配してやったっていうのに」
言い捨てて背中を向けたマコトを、咄嗟に呼び止める。
「待って、マコト!」
ああ、マコトと目を合わせるの、久しぶりだな。なんて、頭の片隅で思った。
振り向いたマコトに、手を差し出す。
「……鍵。返して」
マコトは俺の顔を見て何か言いたげに微かに口を歪めたが、結局すぐに視線を逸らし、キーケースからスペアキーを取り外して、俺の手にそっと乗せた。
「着替えとか荷物は、後でまとめて返すから」
「……いらない。捨てといて」
不貞腐れたように言い置いて、今度こそ振り返ることなく遠ざかっていく背中。その後ろ姿を鍵を握り締めたまま見つめていたが、マコトの姿がエレベーターのドアの向こうに消えた途端、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
あれだけ縋るように迎えに来ることを望んでいたマコトを失ったのに。俺は欠けていた自分の一部を取り戻したように安堵の気持ちを抱いていた。
「月岡さん。大丈夫ですか?」
心配そうに聞いてくれる坂本くんに、笑顔で返す。
「巻き込んでごめん。あと、俺の代わりに怒ってくれてありがとう。昨日俺のことを見つけてくれたのが、坂本くんで良かった」
驚いたように漆黒の双眸が見開かれる。
「ごめん。急にこんなこと言われても意味わかんないよな。でも、本当に嬉しいんだ。坂本くんのおかげで自分のこと大事にできるようになった。あんなこと言わせて、気を使わせて本当にごめん」
「……あん人ば追い返すためだけに、あぎゃんこつば言うたと思うとるとですか?」
珍しく坂本くんが不満げな表情を浮かべる。
「どういう意味?」
問い返すと、坂本くんは目を閉じて、一度深呼吸してから、じっと俺を見つめた。
「嫌やったら、殴ってもろてよかですけん」
伸びてきた手が優しく頬に触れ、目が痛くなるほど至近距離に近づいてきた坂本くんの唇が、そっと俺の唇に重なる。
「……こいでもまだ、ノンケとかゲイとか、線引きするとですか?」
困ったように問う坂本くんに、信じられない思いで首を横に振る。
まさか、そんな。でも、本当に?
「俺も、です」
筆で描いたように目尻が上がった坂本くんの瞳がきゅ、と細くなり、照れたような笑みを浮かべる。
「昨日、外から帰ってきた時に、月岡さん『お帰りなさい』って言うてくれたやなかですか。家族も友達もおらん所で、ちゃんと家に帰ってきたっちゃなぁって思えて、ほんに嬉しかったとです」
恐る恐る手を伸ばす。と、躊躇なくその腕の中に抱き寄せられた。
「好きです。月岡さん。こいからも、もっとたくさん、おかえりとただいまば言いたかです」
耳元で紡がれる優しい声音に、嬉しくて、混乱して、ドキドキして。
こんなこと、現実に起きてもいいのかな。
坂本くんの向こうの空の端に、昨夜の満月が名残惜し気に沈もうとしていた。廊下は少しずつ朝の光に柔らかく照らされていく。
なんて優しい夜明けなんだろう。
夜明けを見ることなんて何度もあったのに、こんなに綺麗だと感じたのは初めてだ。草木が萌えて朝日に光る。
大袈裟なようだけど、あの時坂本くんに声をかけてもらえなかったら見ることはなかったかもしれない景色。
すっ、と肺に清冽な空気を吸い込んで坂本くんの体に回した手にそっと力をこめ、顔をあげると、坂本くんが優しく微笑み返してくれた。
夜見た時は夜空を溶かしたような瞳だと思ったけど、黒い瞳に朝の光が躍る。
「俺も。話したいことが、たくさんあるんだ」
「聞かせてはいよ。もっと、月岡さんのこつば。味噌汁のおかわり、いれますけん」
顔を見合わせて、同時に噴き出す。
きっと俺は、この朝の景色を、この先一生忘れることはない。



