もの問いたげにこちらを見つめる夜空を溶かし込んだような澄んだ瞳は、質問をすることで、俺を傷つけてしまうのではと危惧しているかのように見えた。
そういえばマコトとは、こうして真っ直ぐ見つめ合う機会なんてほとんど無かったな。
いつもスマホの画面に視線を落とし、話しかけると一瞬こちらに視線を寄越すだけ。
比べるようなものではないんだろうけど、ずいぶん綺麗な目だな。
そう思って、少し笑った。
さて、どこから話そうか。
「さっき渡したゴミで薄々気が付いたかもしれないけど、俺、ゲイなんです」
マコトと出会った時とは事情が違う。自分の理想の仲間探しのためではなく、ノンケであろう優しい人に惹かれたりしないよう、線引きして自戒するためだ。
「……え?」
目の前の彼は意味が理解できなかったのか、目をしばたたかせる。
「すみません。気持ち悪いですよね。あの、ゲイとはいっても男性であれば誰彼構わずというわけではないですので、いきなり襲い掛かったりはしません。安全です」
警戒されないよう両手をあげて説明してみるものの、自分で言ってて何を伝えたいのかよくわからなくなってくる。自分、猛獣か何かか。
「あ、や。気持ち悪いとかはなかです。大丈夫」
引きもせず、笑ったり蔑んだりもしない。生真面目が全身からうかがえるぴしりと伸びた姿勢で向かい合ってくれる。
つくづく良い人だな。
「それより、恋人さん? に、あんな時間にベランダに出されたとですか? あの。もしかして、暴力とか、脅されたりとか……?」
眉根を寄せて心配そうに問われ、そういう風に誤解を受けているのだと気付く。
「全然。暴力振るわれたとかじゃないんです。あ、もちろん、そういう性癖とかいうわけでもないんですけど」
「性へ……」
オウム返しにしようとした言葉の意味に気付いたのか、言葉を詰まらせた彼は急に顔を赤らめて味噌汁の入ったマグカップに落とした。
反応かわいいな。耳まで真っ赤。
「元々、隣の部屋、俺が借りてまして。でもバイト掛け持ちしてるんで留守にしてることも多いから、彼に合い鍵渡してたんです。そしたら、知らない間に女の子連れ込んで、ラブホ代わりというか、ヤリ部屋にされてたみたいで」
重い響きにならないよう、努めてへらりと笑いながらしゃべる。
「え。ええ……?」
状況を受け止めきれないのか、坂本くんは困惑の表情を浮かべた。
「今日もその、女の子が急に訪ねてきたらしくて。『すぐ終わるから』って。俺も寝ぼけてはいたけど、脅されたわけじゃないし。それに、女の子、うちに来た時に泣いてたみたいで。さすがに夜にそんな状態の女の子一人で出歩かせるの危ないっていうのもわかるし……」
ああ、駄目だ。上手にまとめられないな。
「あの、」
投げかけられた存外強めの声に顔をあげると、澄んだ黒い瞳と目が合った。
「……あの。俺は、こぎゃんこと、ようわからんとですばってん、月岡さんが服も着らんまま外に追い出されるとは、おかしゅうなかですか?」
あれ? なんかちょっと、怒ってる?
「あの、俺が服着てなかったのは、ちょっとタイミングがアレだっただけで、普段はそんなことする奴じゃないし」
「ばってん、外に出されてだいぶ長か時間経っとったですよね」
「それはーー……」
寝ぼけてたしスマホも持っていなかったから、どれくらいの時間が経過していたのかはわからないけど。
「手も冷え切っとって、顔色も真っ白で。下手すっと低体温症とかなって死んどったかもしれんとですよ」
いや、まぁ、それは俺もちょっとは考えもしたけどさ。でも……。
「……言えるわけないじゃん。彼女より俺を優先して、とか。男女の普通の付き合いとかと違うんだからさ」
「それは……」
無意識に俺は自嘲気味な笑みが浮かべた。
「口ではみんな多様性とか言ってるけど、偏見とかやっぱりあるし。同性と付き合ってるなんてカムアウトするの、リスク高すぎるし」
口に出して初めて自分が恐れていた目に見えない何かと、自分自身の偏見に気付く。
遠い日の、好きだった人が放った言葉と嘲笑。不特定の誰かに向けられたそれが、直接俺に向かうのが怖くて。『こっち側』のフリをして一緒に笑ってごまかした、ちっぽけな自分。
ツケが回ってきたのだ。本当は『あっち側』の人間なのに、同調の笑顔で覆い隠してきた卑怯な俺自身に。
駄目だ。
こんなこと、ノンケに吐き出したところで理解してもらえるわけないだろ。
弱って、寂しくて、理解ってもらいたがる甘えたがりな自分を抑え込み、あえて軽いトーンで言う。
「大丈夫だよ。こう見えて結構バイトとかで鍛えてるし、女の子みたいに心配してもらわなくても……」
「そいでも」
目の前の彼から発せられたのは、大きい声ではなかった。だけどそれは、何事もなかったことにしようとする俺をとどまらせるには充分な声。
ひた、と見据えられ、静かで揺るぎない言葉がのらりくらりと笑って躱そうとする俺を捉える。
「そいでも、月岡さんば手酷く扱ってよか理由にはならんです」
「……それ、は」
「そぎゃん大事かですか? 月岡さんのこつば大切にせんごたる男の肩ば持つことが」
考えたことすらなかった。
だって、叩かれたり蹴られたりしたわけじゃない。
平和主義で困った人を放っておけなくて、ノンケなのに俺みたいなのと付き合ってくれて。大学でも過去問やゼミの教科書を優遇してくれて。
でも、心のどこかで気付いていた。
俺が『彼』の中での一番にはなれないこと。優しさが俺にだけ向けられる物ではないこと。
第三者に指摘されて、否応なしに向き合わされる。
俺、本当にこんな関係を望んでいたんだっけ……?
気がつくと、頬を涙が伝っていた。
自分の涙の理由に理解が追いつかず、きょとんと手の甲に落ちてゆく雫を視線で追いかける。
なにこれ。なんで俺、泣いてるんだ。
悲しくなんてない。
『彼』と喧嘩したわけでも、嫌われたわけでもない。
気まぐれに放っておかれるのは初めてじゃないし、そういう関係が自由で楽だとさえ思っていた。
だけどーー……。
涙はとどまることを知らず、次から次へと手の甲を、借りているジャージの膝を濡らしていく。
不意に視界が陰り、目元に充てられた布にごしごしと涙が拭われた。
「すみません!! あのっ、泣かすつもりとかはなかったとばって……!! あっ! ティッシュ! 持ってきますけん!」
「いいよ」
「いや、でも……」
「ティッシュはいらないから、もう少しだけ、これ、貸して?」
そう言って、俺の涙を拭ってくれた袖ごと彼の腕を握ってお願いする。腰を浮かしかけていた彼は少し顔を赤らめ、困ったように一瞬口を開きかけたけど、大人しくそのまま腕を貸してくれた。
反射的に袖口で涙を拭ってくれる世話焼き加減を見る限り、下に兄弟でもいるのかな。なんて、場違いな想像にこっそりと口元を綻ばせる。
「……ありがとう」
「……いえ」
ありがたく拝借した坂本くんのパーカーの袖口に頬を寄せる。温もりと微かに洗剤の香り。香水みたいに華やかさは無くても、家に帰ってきたみたいで安心する。
ちらりと横眼で見ると、少し赤みを帯びた頬のラインが大人と呼ぶには少し幼く、骨ばった大きな手とのアンバランス加減が微笑ましい。
この人は偶然俺のピンチを助けてくれただけで、きっと明日には何事もなかったかのように日常に戻っていってしまうんだろう。
だけど。今、この瞬間だけは。
『俺』の心配をしてくれる言葉が、心地いい。
貸してと頼んだら、困った顔をしながらでも素直に手を差し出してくれる優しさに、欠けていた心が満たされてゆく。
「……なんか。聞いとったら、段々、腹ん立ってきました」
「……ふぇ?」
不意に聞こえた声に顔をあげると、坂本くんは、まるでそこに憎むべき相手がいるかのように隣室との壁を睨みつけていた。
「せっかくですけん、今まで我慢しとったこつ、ぜーんぶぶちまけまっしょう!」
「……え? えと?」
「ここなら直接攻撃されることもなかですし、誰にも相談できんかったってしょう? 嫌だったこつ、みんな文句言って吐き出して、すっきりしまっしょ!!」
そう言って空いている方の手の平でばん、と壁を叩いた。
「壁に?」
「この向こうにおる相手に、です」
立ち上がった彼に手を取られて俺も立ち上がる。
「ええと……」
「遠慮はいらんです! ここ角部屋ですし!」
遠慮はいらないと言われてもな。何言えばいいんだろ。
俺がマコトに我慢してきたこと?
無意識すぎて考えたこともなかった。
初めて深い仲になった相手に嫌われないよう、喉の奥に飲み下せないわだかまりを抱いても怒りを覚えたことはなくて。
「えーと。不満、というか、ちょっともやもやするなぁ、くらいのことでもいい?」
「もちろんです」
壁、をマコトだと想定して。
坂本くんの手を握ったまま、壁に向かい合う。
今までは大したことない、下手に文句言って揉めるくらいならって、ずっと見て見ぬふりしてきたけど。
「……2人でいる時、ずっとスマホばっか見るの、ほんとはやめてほしい」
マルチタスクで俺の話を聞いていないわけではないことはわかってる。でも、たまにはでいいから、お互いの顔を見て話がしたい。
2人で過ごしてるのに、なんか寂しくなるんだ。
「なんてね。大したことじゃないんだけど」
笑って振り向くと、真っ直ぐに見つめる真剣な瞳と目が合った。
「いえ。大事かこつです。話ばする相手と、きちんと向き合うとは」
ああ。やっぱりいいな。
こんな風に真剣に話を聞いてもらいたかったんだ。
「他にはなかですか? どうせなら全部膿ば出しきった方がよかです」
「他? 他、は。ええと……」
普段マコトとどうしてるっけ?
「ええと。喧嘩を避けるため? だとは思うんだけど、ちょっと機嫌というか、空気が悪くなりそうな気配を感じたら、すぐどこかへ行っちゃうところかな。話し合いたいんだけど、いつも相手がいない状態っていうか。あ、でも、悪意があるわけじゃないと思うんだ。考える時間が欲しいんだろうな、とは思うし。自分が悪いと思ったことは後からでもきちんと謝ってくれるし」
「無理してそん人ば庇うこつはなかですよ。大事かこつは『月岡さんがどぎゃん思うたか』です」
俺が、どう思ったか。
言われて初めて、自分の心と向き合ってみる。
「……。きちんと、話し合いがしたい。こっちの気持ちを無視されてるみたいで寂しい」
言ったら重いって引かれるかも。追い詰めたら、もう部屋に戻ってこないかも。
起こってもいない可能性に怯えて、吐き出せなかった言葉。
「ちゃんと言えたじゃなかですか」
坂本くんが俺の言葉を肯定するように笑顔で頷いてから、急に表情を険しくして壁を手の平でぺちぺちと叩きながら言う。
「おい、聞いとっとか。逃げんで、ちゃんと月岡さんと話し合わんばいかんぞ」
真面目腐った説教じみたトーンに、つい吹き出す。
「何それ? 俺の代わりに叱ってくれてるの?」
「そぎゃん思うてもろてよかです。俺が勝手に腹ば立てとるだけですばってん」
そういえばマコトとは、こうして真っ直ぐ見つめ合う機会なんてほとんど無かったな。
いつもスマホの画面に視線を落とし、話しかけると一瞬こちらに視線を寄越すだけ。
比べるようなものではないんだろうけど、ずいぶん綺麗な目だな。
そう思って、少し笑った。
さて、どこから話そうか。
「さっき渡したゴミで薄々気が付いたかもしれないけど、俺、ゲイなんです」
マコトと出会った時とは事情が違う。自分の理想の仲間探しのためではなく、ノンケであろう優しい人に惹かれたりしないよう、線引きして自戒するためだ。
「……え?」
目の前の彼は意味が理解できなかったのか、目をしばたたかせる。
「すみません。気持ち悪いですよね。あの、ゲイとはいっても男性であれば誰彼構わずというわけではないですので、いきなり襲い掛かったりはしません。安全です」
警戒されないよう両手をあげて説明してみるものの、自分で言ってて何を伝えたいのかよくわからなくなってくる。自分、猛獣か何かか。
「あ、や。気持ち悪いとかはなかです。大丈夫」
引きもせず、笑ったり蔑んだりもしない。生真面目が全身からうかがえるぴしりと伸びた姿勢で向かい合ってくれる。
つくづく良い人だな。
「それより、恋人さん? に、あんな時間にベランダに出されたとですか? あの。もしかして、暴力とか、脅されたりとか……?」
眉根を寄せて心配そうに問われ、そういう風に誤解を受けているのだと気付く。
「全然。暴力振るわれたとかじゃないんです。あ、もちろん、そういう性癖とかいうわけでもないんですけど」
「性へ……」
オウム返しにしようとした言葉の意味に気付いたのか、言葉を詰まらせた彼は急に顔を赤らめて味噌汁の入ったマグカップに落とした。
反応かわいいな。耳まで真っ赤。
「元々、隣の部屋、俺が借りてまして。でもバイト掛け持ちしてるんで留守にしてることも多いから、彼に合い鍵渡してたんです。そしたら、知らない間に女の子連れ込んで、ラブホ代わりというか、ヤリ部屋にされてたみたいで」
重い響きにならないよう、努めてへらりと笑いながらしゃべる。
「え。ええ……?」
状況を受け止めきれないのか、坂本くんは困惑の表情を浮かべた。
「今日もその、女の子が急に訪ねてきたらしくて。『すぐ終わるから』って。俺も寝ぼけてはいたけど、脅されたわけじゃないし。それに、女の子、うちに来た時に泣いてたみたいで。さすがに夜にそんな状態の女の子一人で出歩かせるの危ないっていうのもわかるし……」
ああ、駄目だ。上手にまとめられないな。
「あの、」
投げかけられた存外強めの声に顔をあげると、澄んだ黒い瞳と目が合った。
「……あの。俺は、こぎゃんこと、ようわからんとですばってん、月岡さんが服も着らんまま外に追い出されるとは、おかしゅうなかですか?」
あれ? なんかちょっと、怒ってる?
「あの、俺が服着てなかったのは、ちょっとタイミングがアレだっただけで、普段はそんなことする奴じゃないし」
「ばってん、外に出されてだいぶ長か時間経っとったですよね」
「それはーー……」
寝ぼけてたしスマホも持っていなかったから、どれくらいの時間が経過していたのかはわからないけど。
「手も冷え切っとって、顔色も真っ白で。下手すっと低体温症とかなって死んどったかもしれんとですよ」
いや、まぁ、それは俺もちょっとは考えもしたけどさ。でも……。
「……言えるわけないじゃん。彼女より俺を優先して、とか。男女の普通の付き合いとかと違うんだからさ」
「それは……」
無意識に俺は自嘲気味な笑みが浮かべた。
「口ではみんな多様性とか言ってるけど、偏見とかやっぱりあるし。同性と付き合ってるなんてカムアウトするの、リスク高すぎるし」
口に出して初めて自分が恐れていた目に見えない何かと、自分自身の偏見に気付く。
遠い日の、好きだった人が放った言葉と嘲笑。不特定の誰かに向けられたそれが、直接俺に向かうのが怖くて。『こっち側』のフリをして一緒に笑ってごまかした、ちっぽけな自分。
ツケが回ってきたのだ。本当は『あっち側』の人間なのに、同調の笑顔で覆い隠してきた卑怯な俺自身に。
駄目だ。
こんなこと、ノンケに吐き出したところで理解してもらえるわけないだろ。
弱って、寂しくて、理解ってもらいたがる甘えたがりな自分を抑え込み、あえて軽いトーンで言う。
「大丈夫だよ。こう見えて結構バイトとかで鍛えてるし、女の子みたいに心配してもらわなくても……」
「そいでも」
目の前の彼から発せられたのは、大きい声ではなかった。だけどそれは、何事もなかったことにしようとする俺をとどまらせるには充分な声。
ひた、と見据えられ、静かで揺るぎない言葉がのらりくらりと笑って躱そうとする俺を捉える。
「そいでも、月岡さんば手酷く扱ってよか理由にはならんです」
「……それ、は」
「そぎゃん大事かですか? 月岡さんのこつば大切にせんごたる男の肩ば持つことが」
考えたことすらなかった。
だって、叩かれたり蹴られたりしたわけじゃない。
平和主義で困った人を放っておけなくて、ノンケなのに俺みたいなのと付き合ってくれて。大学でも過去問やゼミの教科書を優遇してくれて。
でも、心のどこかで気付いていた。
俺が『彼』の中での一番にはなれないこと。優しさが俺にだけ向けられる物ではないこと。
第三者に指摘されて、否応なしに向き合わされる。
俺、本当にこんな関係を望んでいたんだっけ……?
気がつくと、頬を涙が伝っていた。
自分の涙の理由に理解が追いつかず、きょとんと手の甲に落ちてゆく雫を視線で追いかける。
なにこれ。なんで俺、泣いてるんだ。
悲しくなんてない。
『彼』と喧嘩したわけでも、嫌われたわけでもない。
気まぐれに放っておかれるのは初めてじゃないし、そういう関係が自由で楽だとさえ思っていた。
だけどーー……。
涙はとどまることを知らず、次から次へと手の甲を、借りているジャージの膝を濡らしていく。
不意に視界が陰り、目元に充てられた布にごしごしと涙が拭われた。
「すみません!! あのっ、泣かすつもりとかはなかったとばって……!! あっ! ティッシュ! 持ってきますけん!」
「いいよ」
「いや、でも……」
「ティッシュはいらないから、もう少しだけ、これ、貸して?」
そう言って、俺の涙を拭ってくれた袖ごと彼の腕を握ってお願いする。腰を浮かしかけていた彼は少し顔を赤らめ、困ったように一瞬口を開きかけたけど、大人しくそのまま腕を貸してくれた。
反射的に袖口で涙を拭ってくれる世話焼き加減を見る限り、下に兄弟でもいるのかな。なんて、場違いな想像にこっそりと口元を綻ばせる。
「……ありがとう」
「……いえ」
ありがたく拝借した坂本くんのパーカーの袖口に頬を寄せる。温もりと微かに洗剤の香り。香水みたいに華やかさは無くても、家に帰ってきたみたいで安心する。
ちらりと横眼で見ると、少し赤みを帯びた頬のラインが大人と呼ぶには少し幼く、骨ばった大きな手とのアンバランス加減が微笑ましい。
この人は偶然俺のピンチを助けてくれただけで、きっと明日には何事もなかったかのように日常に戻っていってしまうんだろう。
だけど。今、この瞬間だけは。
『俺』の心配をしてくれる言葉が、心地いい。
貸してと頼んだら、困った顔をしながらでも素直に手を差し出してくれる優しさに、欠けていた心が満たされてゆく。
「……なんか。聞いとったら、段々、腹ん立ってきました」
「……ふぇ?」
不意に聞こえた声に顔をあげると、坂本くんは、まるでそこに憎むべき相手がいるかのように隣室との壁を睨みつけていた。
「せっかくですけん、今まで我慢しとったこつ、ぜーんぶぶちまけまっしょう!」
「……え? えと?」
「ここなら直接攻撃されることもなかですし、誰にも相談できんかったってしょう? 嫌だったこつ、みんな文句言って吐き出して、すっきりしまっしょ!!」
そう言って空いている方の手の平でばん、と壁を叩いた。
「壁に?」
「この向こうにおる相手に、です」
立ち上がった彼に手を取られて俺も立ち上がる。
「ええと……」
「遠慮はいらんです! ここ角部屋ですし!」
遠慮はいらないと言われてもな。何言えばいいんだろ。
俺がマコトに我慢してきたこと?
無意識すぎて考えたこともなかった。
初めて深い仲になった相手に嫌われないよう、喉の奥に飲み下せないわだかまりを抱いても怒りを覚えたことはなくて。
「えーと。不満、というか、ちょっともやもやするなぁ、くらいのことでもいい?」
「もちろんです」
壁、をマコトだと想定して。
坂本くんの手を握ったまま、壁に向かい合う。
今までは大したことない、下手に文句言って揉めるくらいならって、ずっと見て見ぬふりしてきたけど。
「……2人でいる時、ずっとスマホばっか見るの、ほんとはやめてほしい」
マルチタスクで俺の話を聞いていないわけではないことはわかってる。でも、たまにはでいいから、お互いの顔を見て話がしたい。
2人で過ごしてるのに、なんか寂しくなるんだ。
「なんてね。大したことじゃないんだけど」
笑って振り向くと、真っ直ぐに見つめる真剣な瞳と目が合った。
「いえ。大事かこつです。話ばする相手と、きちんと向き合うとは」
ああ。やっぱりいいな。
こんな風に真剣に話を聞いてもらいたかったんだ。
「他にはなかですか? どうせなら全部膿ば出しきった方がよかです」
「他? 他、は。ええと……」
普段マコトとどうしてるっけ?
「ええと。喧嘩を避けるため? だとは思うんだけど、ちょっと機嫌というか、空気が悪くなりそうな気配を感じたら、すぐどこかへ行っちゃうところかな。話し合いたいんだけど、いつも相手がいない状態っていうか。あ、でも、悪意があるわけじゃないと思うんだ。考える時間が欲しいんだろうな、とは思うし。自分が悪いと思ったことは後からでもきちんと謝ってくれるし」
「無理してそん人ば庇うこつはなかですよ。大事かこつは『月岡さんがどぎゃん思うたか』です」
俺が、どう思ったか。
言われて初めて、自分の心と向き合ってみる。
「……。きちんと、話し合いがしたい。こっちの気持ちを無視されてるみたいで寂しい」
言ったら重いって引かれるかも。追い詰めたら、もう部屋に戻ってこないかも。
起こってもいない可能性に怯えて、吐き出せなかった言葉。
「ちゃんと言えたじゃなかですか」
坂本くんが俺の言葉を肯定するように笑顔で頷いてから、急に表情を険しくして壁を手の平でぺちぺちと叩きながら言う。
「おい、聞いとっとか。逃げんで、ちゃんと月岡さんと話し合わんばいかんぞ」
真面目腐った説教じみたトーンに、つい吹き出す。
「何それ? 俺の代わりに叱ってくれてるの?」
「そぎゃん思うてもろてよかです。俺が勝手に腹ば立てとるだけですばってん」



