俺が生まれ育った土地は閉鎖的で、テレビやSNSで配信されるいわゆる『多様性』は、あくまでモニターの向こうの世界と線引きされていて。
高校でマイノリティな性嗜好を持つ人を差別をしてはならないという授業を受けた直後の休み時間。仲の良かったグループメンバーがさっそく面白おかしくネタにして笑っているのを見て、同調し、顔に笑みを貼り付けることでその場をしのいだ。だけど同時に強く、ここは自分の居場所ではないのだと思い知らされた。
嘲笑と侮蔑。
現実に自分に向けられたわけではないそれらに、過剰なほど怯えた。あの日『そういう人たち』を笑ったクラスメートに淡い恋心を抱きかけていた自分を、悟られないように。
都会は田舎と違って性的マイノリティに寛容だという言葉を信じて大学を受験し、逃げるように故郷を出た。
大学ではタレントみたいにオープンなゲイは見かけなかったものの、イベント参加やマチアプでの会いに行くアクセスの良さ、情報量の多さは田舎とは雲泥の差だ。
初めてマコトと出会ったのは、家族にも友人にも本当の自分をさらけ出すことができなかった俺が新しい世界に一歩踏み出したことが嬉しくて気が緩んできた頃だった。大学の空き時間に講堂の隅でマチアプ画面をチェックしていた時、不意に背後から声が降った。
「こういうのって、ヤリ捨てられたりするから気ぃつけた方がいいよ」
「!!?」
驚いて床に取り落としてしまったスマホを、拾って手渡される。
ヤバい! 終わったーー……!!
血の気が引き、唇をわななかせて硬直する俺に構わず、隣の席に座った男は自分のスマホをいじりながら何でもないことのように言った。
「俺の知り合いが被害に合って、泣きつかれたことあるんだよね。だから、身元がはっきりした人紹介してもらった方がいいんじゃない?」
…………。
あれ? 気持ち悪がられたり、ネタにされない……?
知り合いが被害に、って、この人の知り合いにゲイがいるってこと?
恐る恐る隣を窺い見ると、緩くパーマのかかった黒髪に耳元に光るピアス。あか抜けていて、俺が生まれ育ったところでは見たこともない人種だ。
柔らかな物腰に遊び慣れている気配を感じたけど、初めて理解者を見つけた興奮で胸が高鳴った。
「紹介とか、してくれる人、周りにいないから」
「ふぅん」
男はちら、とこちらに視線を寄越し、もったいない、と呟いて再びスマホ画面に視線を戻した。
もったいない。口には出さず、心の中で言葉を反芻する。
もったいない、とは、どういう意味だろう。
出会いが少ないなんてお可哀想、って思われた?
だって仕方ないじゃん。地元ではオープンにできないし、こっちに知り合いなんていない。そのためのマチアプも危険だからやめとけ、って言われてしまえば、孤独死するしかないってこと?
「だったら、」
ほぼ勢いだった。今でもなんで初対面の人にあそこまで言えたのか、自分でもよくわからない。
ともかく俺は、隣のスマホを弄る男の袖を掴んで言った。
「だったら、お兄さん、協力してもらえませんか?」
「…………」
しばしの沈黙の後、ふむ、と合意とも相槌ともとれる音を発した男は、俺の手を振り払いもせず画面に視線を落としたまま返す。
「さっきの話でわかると思うけど、俺の知り合いはネコだよ。あんたもネコでしょ? 合わないんじゃない?」
するりと専門用語が出たことで確信する。
「お兄さん自身は?」
スマホ画面から顔を上げた男は、俺に視線を移して再びふむ、と小さく発す。
息を呑み、合否発表を待つ心境で、気怠げな垂れ眼を見つめ返す。
「別にそういうの偏見はないけど、俺自身はノンケ」
「あ、そう……」
秒で振られた。
マイノリティがマイノリティたる所以だ。
そんなに簡単に見つかるくらいゲイが溢れているなら、つまはじきにされることもないし、相手探しに苦労はしない。
「でもいいか。あんた顔かわいいし。なんとかなるしょ」
「……え?」
机に置いた俺のスマホに、音もなく手が伸びてくる。
開きっぱなしになっていた画面を操作され、あれよという間にメッセージアプリに登録されて、ぽい、と手の中にスマホを返された。
「タメっしょ? お兄さん呼びはなしね」
男は遊び慣れていそうな垂れ眼を細めて笑う。
予想外の展開に、俺はスマホを両手でぎゅぅ、と握り締めて小刻みに何度も頷いた。
正直言って好みのタイプとは違っていたけど、ノンケの彼が女の子ではない俺で妥協してくれたように、俺の要望ばかり通すわけにもいかない。
何より自分を偽らなくてもいい相手がいる、という事実は、寄る辺のなかった俺の心に安寧を与えてくれた。
彼が連れて行ってくれるイベントや店は、閉鎖的で前時代的な田舎では体験することができない刺激的な物ばかりで、ゲイばかりでなく女装家や百合カップルにも会わせてくれたおかげでセクシャリティに悩んで孤独に感じていたのは自分だけではないことを知った。
ただ、それらの付き合いには、田舎の価格設定ではない金額が伴った。
さすが都会。アルコールが入っていないドリンク一つとっても、田舎の喫茶店とは桁が違う。
公務員の父とパートの母が捻出してくれる仕送りを遊びに浪費するわけにもいかず、バイトを始めた。
大学の講義とレポート、慣れない家事に追われ、疲弊する日々。
それでも上手く切り抜けてこられたのは、他でもない。世渡り上手なマコトが、先輩や友人の伝手を頼りに過去問の融通や人気のゼミへの口利きをしてくれた側面が大きかった。
知らない土地で友人らしい友人も作れず、右も左もわからない俺が、自力で上手く立ち回れたとは思えない。
目まぐるしく過ぎていく日々の中、サークルの交流会やゲイのイベントなんかには一緒に参加してくれるものの、マコトから手を出されることは無かった。彼はノンケを自称していたし、結局『そういう対象』に見られないのかと半ば諦めかけていたある日、うちに泊まりに来ていたマコトから「しよっか」と誘われた。
何の前置きも無い。
ただ俺の部屋で一緒に試験勉強をしてご飯を食べて、そろそろ寝ようかとしている時だった。
嬉しいとかより「え、今?」という感覚は拭えなかったけど、興味が無かったわけではないし。
「ゴム無いけど、女の子じゃないから別にいいよね」
俺がネット知識で準備をしている時に浴室の扉の向こうから言われ、ああ、そういうもんなんだ、と疑いもせずに受け入れた。
他に経験が無いからわからないけど、たぶん、上手な方だったんだと思う。
最初から気持ち良いとは程遠かったけど、ジェル代わりの台所から持ってきたサラダ油で時間をかけてほぐしてくれたおかげで出血することもなく『初めて』を終えられたし。
マコトには言えなかったけど、内臓がかき回される感覚。たぶんもう少し長く続いてたら、酔って吐いたかもしれない。
感想としては「ふぅん。こんな感じなんだ」。
たぶん彼の方もそう。
互いに好意からというより、純粋な好奇心での行為。それでも。
「なーんだ。ちゃんと気持ちいいね」
終わった後にそう言われて優しく髪を梳かれ、額にキスを落とされた瞬間、不安定だった自分の居場所ができたように感じた。
俺、ここにいていいんだ。
こういうのを少しずつ積み重ねて、好きになっていくのかな。なんて、甘い考えに浸って眠りについた。
ちなみに次からはマコトがゴムもローションもネットで注文して揃えてくれた。
初めての行為の翌日、俺が腹を壊したことと、シーツの洗濯が大変だということを学習した結果だ。
マコトとの付き合いは良い意味で気楽ではあった。
女の子になりたいわけではない俺を、そのまま受け入れてくれる。というよりも、性別などには無頓着なタイプなのかもしれない。
つかみどころのない彼は、一週間丸々連絡のつかない日があったかと思えば、深夜二時に終電がないから泊めてと香水と電子タバコのメンソールが混ざった匂いをまとって部屋に転がり込んでくることがあった。
お腹が減ったと言われて渋々作った切って和えただけの料理とも言えない簡単な物を絶賛し、キスの嵐を降らせてくる。かと思えば、約束していた時間を4時間すっぽかした上に『食べてきたからお腹いっぱい』と箸すら手にしない日もあった。
野良猫みたいだな。と思う。
気まぐれで、いい加減。でも、束縛なんかしないし、命令もしない。
マコトが怒ったことなんか一度も無くて、空気が悪くなりそうな気配を感じるなり、ぷい、と出ていっては何日も顔を見せず、それでいて気が向いた時には何事もなかったように甘えてくる。
部屋には歯ブラシや着替えなどマコトの私物が増えていき、バイトで遅くなったある日、彼が玄関前で電子タバコを銜えて座り込んでいたのを機に部屋の合い鍵を渡した。
俺が留守の間に『おみやげ』と書かれた高そうなケーキが冷蔵庫に入っている日もあれば、前日にはいなかったはずなのに、朝目覚めると隣で眠りこけている日もあった。
『彼女』の存在に、気付かなかったわけじゃない。
大学でもマコトが男女問わずサークル仲間に囲まれている姿をよく目にした。一人暮らしでバイトに追われる俺とは違って、実家住まいだという彼は時間にもお金にも余裕があり、イベントやライブにも行っているようで。
部屋にも時々彼の物ではない甘ったるい香水の匂いが残っていたり、枕元にヘアゴムが落ちていたり。洗面台に女性用のスキンケア用品が置いてあることもあった。
嫉妬でもしていれば、何かが変わったのかもしれない。
正規で揃えると数千円はくだらないゼミの教科書を『先輩から譲ってもらった』とくれたこともあるし、短時間で楽な隙間バイトを紹介してもらったり、マイノリティが集う夜のお店を教えてもらったりと充分過ぎるほど良くしてもらっていた。
何より同性の俺と付き合ってくれているという引け目が、彼を問いただすことを躊躇させた。
関係が壊れて、独りぼっちに戻るのが怖かった。
だから今日も、口をつぐんだ。
マコトの腕の中でのまどろみの中、枕元の彼のスマホが明滅した。程なくして響くインターホン。
あれ、こんな時間にも宅配ってやってるんだな……。
働かない頭でぼんやりとインターホンのモニター画面に視線を移そうとした瞬間、ぐい、と身体を抱き起された。
「どうしたの……?」
俺の問いかけは暗い室内に浮かんだまま、吐き出し窓が開かれ、吹き込んだ夜風に素肌を撫でられる。半ば抱えあげられるようにして素足のままベランダに放り出された。
なにこれ? どういうこと?
「ごめん。すぐ終わるから静かにしてて」
耳元で聞こえた声に問い返す間もなく吐き出し窓が閉められ、クレセント錠をかけられた。
あれ。ちょっと待って。
目の前で音を立ててカーテンが引かれる。遮光カーテンの隙間から室内灯の光が漏れた。
夜風に裸の背中を撫でられ、思わず身震いする。
中に入れてもらおうと窓に手を付き、反対の右手で緩く拳を作った時だった。
「ごめんね。こんな時間に」
窓越しに鼓膜を震わせた女の子の声に、手が止まる。
誰だろう。講堂でよくマコトに声を掛けてきてた子? サークルでマコトのこと囲んでた子かな?
いくつかの女の子の顔が浮かんでは消える。
なんで俺の家に?
疑問はすぐに確信へと変わった。枕の下に気付かれるよう、わざと置かれたヘアゴム。洗面台に見せつけるように置かれた化粧水。
名前も顔も知らない『彼女』は、何度も存在を主張していたじゃないか。
「いいよ別に。泣いてる子、追い出せないからね」
優しく返すマコトの言葉に耳を疑った。
泣いてなければ俺みたいに追い出してもいいってか?
さすがにむっとして窓にかけようとした手が止まった。
泣いていなかったからじゃない。『俺が男だったから』外に出されたのだ。
押しかけて来た女の子にどういう事情があるかは知らないし知りたいとも思わない。
ただ、世間一般に見て、泣いている女の子を夜中に一人歩きさせる危険性くらいは理解できる。
だからってさ……!
憤りと、困惑と、羨望と、寂しさと。綯い混ぜになった感情をぶつけることもできず、作った握りこぶしを力なく下げて、開くことの無い掃き出し窓に背を向けた。
いいよ。どうせ。
すぐ終わるって言ってたし。
少し待つだけ。
ここ5階でベランダもシースルーじゃないタイプの壁があるから、下からは見えにくいし。
腹を括って夜空を見上げた。場違いに明るく輝く月に時折薄い雲がかかる。
大丈夫。少し待つだけ。
すぐに終わって、ごめんって謝ってくれるはず。
心の中で自分自身に言い聞かせ、無意味に星を見つめる。
そうでもしなければ、自分を保つことができなかった。
彼からの、すぐに終わるから静かにしてて、という、命令ではない要請。
俺は、要らない存在なんかじゃない。
すぐに窓が開いて、抱きしめられて、ごめんねって言ってくれて、キスしてくれて……。
幸せなはずの妄想は、だけどそれを否定する自分もいて。
閉鎖的な故郷。傷つける意図無く笑顔で俺を否定した故郷を離れて得たはずの居場所が、これほどまでに脆く、不安定だったことを思い知らされる。
告げられた『静かにしてて』を守らずに、窓を叩いて部屋に入れてくれと騒ぐことで『俺』を否定されること。
不確定な可能性にさえ怯え、それを打ち消すために滲んだ星を数え続けた。
高校でマイノリティな性嗜好を持つ人を差別をしてはならないという授業を受けた直後の休み時間。仲の良かったグループメンバーがさっそく面白おかしくネタにして笑っているのを見て、同調し、顔に笑みを貼り付けることでその場をしのいだ。だけど同時に強く、ここは自分の居場所ではないのだと思い知らされた。
嘲笑と侮蔑。
現実に自分に向けられたわけではないそれらに、過剰なほど怯えた。あの日『そういう人たち』を笑ったクラスメートに淡い恋心を抱きかけていた自分を、悟られないように。
都会は田舎と違って性的マイノリティに寛容だという言葉を信じて大学を受験し、逃げるように故郷を出た。
大学ではタレントみたいにオープンなゲイは見かけなかったものの、イベント参加やマチアプでの会いに行くアクセスの良さ、情報量の多さは田舎とは雲泥の差だ。
初めてマコトと出会ったのは、家族にも友人にも本当の自分をさらけ出すことができなかった俺が新しい世界に一歩踏み出したことが嬉しくて気が緩んできた頃だった。大学の空き時間に講堂の隅でマチアプ画面をチェックしていた時、不意に背後から声が降った。
「こういうのって、ヤリ捨てられたりするから気ぃつけた方がいいよ」
「!!?」
驚いて床に取り落としてしまったスマホを、拾って手渡される。
ヤバい! 終わったーー……!!
血の気が引き、唇をわななかせて硬直する俺に構わず、隣の席に座った男は自分のスマホをいじりながら何でもないことのように言った。
「俺の知り合いが被害に合って、泣きつかれたことあるんだよね。だから、身元がはっきりした人紹介してもらった方がいいんじゃない?」
…………。
あれ? 気持ち悪がられたり、ネタにされない……?
知り合いが被害に、って、この人の知り合いにゲイがいるってこと?
恐る恐る隣を窺い見ると、緩くパーマのかかった黒髪に耳元に光るピアス。あか抜けていて、俺が生まれ育ったところでは見たこともない人種だ。
柔らかな物腰に遊び慣れている気配を感じたけど、初めて理解者を見つけた興奮で胸が高鳴った。
「紹介とか、してくれる人、周りにいないから」
「ふぅん」
男はちら、とこちらに視線を寄越し、もったいない、と呟いて再びスマホ画面に視線を戻した。
もったいない。口には出さず、心の中で言葉を反芻する。
もったいない、とは、どういう意味だろう。
出会いが少ないなんてお可哀想、って思われた?
だって仕方ないじゃん。地元ではオープンにできないし、こっちに知り合いなんていない。そのためのマチアプも危険だからやめとけ、って言われてしまえば、孤独死するしかないってこと?
「だったら、」
ほぼ勢いだった。今でもなんで初対面の人にあそこまで言えたのか、自分でもよくわからない。
ともかく俺は、隣のスマホを弄る男の袖を掴んで言った。
「だったら、お兄さん、協力してもらえませんか?」
「…………」
しばしの沈黙の後、ふむ、と合意とも相槌ともとれる音を発した男は、俺の手を振り払いもせず画面に視線を落としたまま返す。
「さっきの話でわかると思うけど、俺の知り合いはネコだよ。あんたもネコでしょ? 合わないんじゃない?」
するりと専門用語が出たことで確信する。
「お兄さん自身は?」
スマホ画面から顔を上げた男は、俺に視線を移して再びふむ、と小さく発す。
息を呑み、合否発表を待つ心境で、気怠げな垂れ眼を見つめ返す。
「別にそういうの偏見はないけど、俺自身はノンケ」
「あ、そう……」
秒で振られた。
マイノリティがマイノリティたる所以だ。
そんなに簡単に見つかるくらいゲイが溢れているなら、つまはじきにされることもないし、相手探しに苦労はしない。
「でもいいか。あんた顔かわいいし。なんとかなるしょ」
「……え?」
机に置いた俺のスマホに、音もなく手が伸びてくる。
開きっぱなしになっていた画面を操作され、あれよという間にメッセージアプリに登録されて、ぽい、と手の中にスマホを返された。
「タメっしょ? お兄さん呼びはなしね」
男は遊び慣れていそうな垂れ眼を細めて笑う。
予想外の展開に、俺はスマホを両手でぎゅぅ、と握り締めて小刻みに何度も頷いた。
正直言って好みのタイプとは違っていたけど、ノンケの彼が女の子ではない俺で妥協してくれたように、俺の要望ばかり通すわけにもいかない。
何より自分を偽らなくてもいい相手がいる、という事実は、寄る辺のなかった俺の心に安寧を与えてくれた。
彼が連れて行ってくれるイベントや店は、閉鎖的で前時代的な田舎では体験することができない刺激的な物ばかりで、ゲイばかりでなく女装家や百合カップルにも会わせてくれたおかげでセクシャリティに悩んで孤独に感じていたのは自分だけではないことを知った。
ただ、それらの付き合いには、田舎の価格設定ではない金額が伴った。
さすが都会。アルコールが入っていないドリンク一つとっても、田舎の喫茶店とは桁が違う。
公務員の父とパートの母が捻出してくれる仕送りを遊びに浪費するわけにもいかず、バイトを始めた。
大学の講義とレポート、慣れない家事に追われ、疲弊する日々。
それでも上手く切り抜けてこられたのは、他でもない。世渡り上手なマコトが、先輩や友人の伝手を頼りに過去問の融通や人気のゼミへの口利きをしてくれた側面が大きかった。
知らない土地で友人らしい友人も作れず、右も左もわからない俺が、自力で上手く立ち回れたとは思えない。
目まぐるしく過ぎていく日々の中、サークルの交流会やゲイのイベントなんかには一緒に参加してくれるものの、マコトから手を出されることは無かった。彼はノンケを自称していたし、結局『そういう対象』に見られないのかと半ば諦めかけていたある日、うちに泊まりに来ていたマコトから「しよっか」と誘われた。
何の前置きも無い。
ただ俺の部屋で一緒に試験勉強をしてご飯を食べて、そろそろ寝ようかとしている時だった。
嬉しいとかより「え、今?」という感覚は拭えなかったけど、興味が無かったわけではないし。
「ゴム無いけど、女の子じゃないから別にいいよね」
俺がネット知識で準備をしている時に浴室の扉の向こうから言われ、ああ、そういうもんなんだ、と疑いもせずに受け入れた。
他に経験が無いからわからないけど、たぶん、上手な方だったんだと思う。
最初から気持ち良いとは程遠かったけど、ジェル代わりの台所から持ってきたサラダ油で時間をかけてほぐしてくれたおかげで出血することもなく『初めて』を終えられたし。
マコトには言えなかったけど、内臓がかき回される感覚。たぶんもう少し長く続いてたら、酔って吐いたかもしれない。
感想としては「ふぅん。こんな感じなんだ」。
たぶん彼の方もそう。
互いに好意からというより、純粋な好奇心での行為。それでも。
「なーんだ。ちゃんと気持ちいいね」
終わった後にそう言われて優しく髪を梳かれ、額にキスを落とされた瞬間、不安定だった自分の居場所ができたように感じた。
俺、ここにいていいんだ。
こういうのを少しずつ積み重ねて、好きになっていくのかな。なんて、甘い考えに浸って眠りについた。
ちなみに次からはマコトがゴムもローションもネットで注文して揃えてくれた。
初めての行為の翌日、俺が腹を壊したことと、シーツの洗濯が大変だということを学習した結果だ。
マコトとの付き合いは良い意味で気楽ではあった。
女の子になりたいわけではない俺を、そのまま受け入れてくれる。というよりも、性別などには無頓着なタイプなのかもしれない。
つかみどころのない彼は、一週間丸々連絡のつかない日があったかと思えば、深夜二時に終電がないから泊めてと香水と電子タバコのメンソールが混ざった匂いをまとって部屋に転がり込んでくることがあった。
お腹が減ったと言われて渋々作った切って和えただけの料理とも言えない簡単な物を絶賛し、キスの嵐を降らせてくる。かと思えば、約束していた時間を4時間すっぽかした上に『食べてきたからお腹いっぱい』と箸すら手にしない日もあった。
野良猫みたいだな。と思う。
気まぐれで、いい加減。でも、束縛なんかしないし、命令もしない。
マコトが怒ったことなんか一度も無くて、空気が悪くなりそうな気配を感じるなり、ぷい、と出ていっては何日も顔を見せず、それでいて気が向いた時には何事もなかったように甘えてくる。
部屋には歯ブラシや着替えなどマコトの私物が増えていき、バイトで遅くなったある日、彼が玄関前で電子タバコを銜えて座り込んでいたのを機に部屋の合い鍵を渡した。
俺が留守の間に『おみやげ』と書かれた高そうなケーキが冷蔵庫に入っている日もあれば、前日にはいなかったはずなのに、朝目覚めると隣で眠りこけている日もあった。
『彼女』の存在に、気付かなかったわけじゃない。
大学でもマコトが男女問わずサークル仲間に囲まれている姿をよく目にした。一人暮らしでバイトに追われる俺とは違って、実家住まいだという彼は時間にもお金にも余裕があり、イベントやライブにも行っているようで。
部屋にも時々彼の物ではない甘ったるい香水の匂いが残っていたり、枕元にヘアゴムが落ちていたり。洗面台に女性用のスキンケア用品が置いてあることもあった。
嫉妬でもしていれば、何かが変わったのかもしれない。
正規で揃えると数千円はくだらないゼミの教科書を『先輩から譲ってもらった』とくれたこともあるし、短時間で楽な隙間バイトを紹介してもらったり、マイノリティが集う夜のお店を教えてもらったりと充分過ぎるほど良くしてもらっていた。
何より同性の俺と付き合ってくれているという引け目が、彼を問いただすことを躊躇させた。
関係が壊れて、独りぼっちに戻るのが怖かった。
だから今日も、口をつぐんだ。
マコトの腕の中でのまどろみの中、枕元の彼のスマホが明滅した。程なくして響くインターホン。
あれ、こんな時間にも宅配ってやってるんだな……。
働かない頭でぼんやりとインターホンのモニター画面に視線を移そうとした瞬間、ぐい、と身体を抱き起された。
「どうしたの……?」
俺の問いかけは暗い室内に浮かんだまま、吐き出し窓が開かれ、吹き込んだ夜風に素肌を撫でられる。半ば抱えあげられるようにして素足のままベランダに放り出された。
なにこれ? どういうこと?
「ごめん。すぐ終わるから静かにしてて」
耳元で聞こえた声に問い返す間もなく吐き出し窓が閉められ、クレセント錠をかけられた。
あれ。ちょっと待って。
目の前で音を立ててカーテンが引かれる。遮光カーテンの隙間から室内灯の光が漏れた。
夜風に裸の背中を撫でられ、思わず身震いする。
中に入れてもらおうと窓に手を付き、反対の右手で緩く拳を作った時だった。
「ごめんね。こんな時間に」
窓越しに鼓膜を震わせた女の子の声に、手が止まる。
誰だろう。講堂でよくマコトに声を掛けてきてた子? サークルでマコトのこと囲んでた子かな?
いくつかの女の子の顔が浮かんでは消える。
なんで俺の家に?
疑問はすぐに確信へと変わった。枕の下に気付かれるよう、わざと置かれたヘアゴム。洗面台に見せつけるように置かれた化粧水。
名前も顔も知らない『彼女』は、何度も存在を主張していたじゃないか。
「いいよ別に。泣いてる子、追い出せないからね」
優しく返すマコトの言葉に耳を疑った。
泣いてなければ俺みたいに追い出してもいいってか?
さすがにむっとして窓にかけようとした手が止まった。
泣いていなかったからじゃない。『俺が男だったから』外に出されたのだ。
押しかけて来た女の子にどういう事情があるかは知らないし知りたいとも思わない。
ただ、世間一般に見て、泣いている女の子を夜中に一人歩きさせる危険性くらいは理解できる。
だからってさ……!
憤りと、困惑と、羨望と、寂しさと。綯い混ぜになった感情をぶつけることもできず、作った握りこぶしを力なく下げて、開くことの無い掃き出し窓に背を向けた。
いいよ。どうせ。
すぐ終わるって言ってたし。
少し待つだけ。
ここ5階でベランダもシースルーじゃないタイプの壁があるから、下からは見えにくいし。
腹を括って夜空を見上げた。場違いに明るく輝く月に時折薄い雲がかかる。
大丈夫。少し待つだけ。
すぐに終わって、ごめんって謝ってくれるはず。
心の中で自分自身に言い聞かせ、無意味に星を見つめる。
そうでもしなければ、自分を保つことができなかった。
彼からの、すぐに終わるから静かにしてて、という、命令ではない要請。
俺は、要らない存在なんかじゃない。
すぐに窓が開いて、抱きしめられて、ごめんねって言ってくれて、キスしてくれて……。
幸せなはずの妄想は、だけどそれを否定する自分もいて。
閉鎖的な故郷。傷つける意図無く笑顔で俺を否定した故郷を離れて得たはずの居場所が、これほどまでに脆く、不安定だったことを思い知らされる。
告げられた『静かにしてて』を守らずに、窓を叩いて部屋に入れてくれと騒ぐことで『俺』を否定されること。
不確定な可能性にさえ怯え、それを打ち消すために滲んだ星を数え続けた。



