草萌え月の夜に

 通された大学寮とは名ばかりの単身者用ワンルームは、鏡で映したように隣室とは真逆の配置だった。
 越してきたばかりなのか、未開封の段ボールが部屋の隅に積まれている。彼は油性ペンで大きく布類と書かれた段ボールからタオルを取り出し、ユニットバスのドアを開けて俺の手にタオルを乗せてくれた。彼自身がさっきまで入っていたのか、浴室からはシャンプーの残り香がした。

「ぬるかったらお湯、足してください。着替えも用意しときます」
「……あの、ありがとう」

 俯いて言うと、彼は白い歯を見せてにっ、と笑う。

「困った時は、お互いさまですけん」

 健康的に日灼けた顔は、人工的な灯火の下でも昼間の太陽を連想させた。

 勧められるままに風呂場のドアを閉め、脱衣所がないので洗面台の縁にタオルを置く。

「…………あ」

 ふと気付いて風呂場のドアを開け、段ボールを漁る彼に声をかける。

「ごめん。ちょっとゴミ、捨てたいんだけど」
「え? あ、こっち来たばかりで、まだ指定んゴミ袋ば買うとらんとですよ。ええと、これにでん入れてもろてよかですか?」

 半額と書かれた惣菜パックの空き容器が入ったスーパーのビニール袋。ご親切にもゴミを入れやすいように左右から両手で袋の口を広げたまま差し出される。
 逡巡して、ちら、と彼の顔を窺うと曇りのない笑顔を向けられた。

 ……あー。気まずいな、これ。

 2つ一緒に括った使用済みのコンドームを惣菜パックの上にそっと乗せた。顔も見ずに、ありがとう、とだけ告げて再び手早く風呂場のドアを閉める。

 羞恥と情けなさ、見世物になったような居心地の悪さが綯い交ぜになって胃の辺りを重くする。

 珍獣、とか、宇宙人とかを見る気分なんだろうな。いや、どちらかというと奇術ショーの類かも。口から万国旗とか、金魚飲みみたいな。
 まぁ、ベランダに全裸待機の時点で訳ありなのはまるわかりだけど。

 溜息をついて浴槽の蓋を開けると、昇る湯気が浴室を温め、満たしていく。
 置いてあったボディーソープを拝借し、全身を洗ってから浴槽に身を沈めた。掛け湯で少し温まってはいたものの、湯に浸かるのは全然別物だ。冷えて強張った身体がじんわりとほぐれていく。湯の中で手足の指をゆっくりと曲げ伸ばししながら鼻の下ギリギリまで湯に浸る。
 いつもとは違うボディーソープの匂い。違和感よりも、身体を包み込むのは、圧倒的な安堵感。バイト疲れも相まり、一瞬寝落ちしかけて慌てて上体を起こし直した。

 ベランダで凍死しかけた次は人様んちで溺死とか、俺は事故物件製造機か。

 笑えない冗談を脳内で繰り広げ、浴槽からあがってタオルで全身を拭いた。
 浴室のドアを開けると、ドアの前に厚手のトレーナーとジャージが畳んで重ねられていた。

「あの、この服ーー……」

 声を掛けたが返事はない。

 ここにあるってことは、着ていいってことだよな?

 確認したかったが廊下から見渡せるワンルームに彼の姿はなかった。玄関に視線をずらすと、靴が1足も置いていないからっぽの玄関。

 どこか出かけたのかな。
 初対面の素性も知れない人間を部屋にあげたまま? 不用心すぎやしないか?

 もぞもぞと厚手のトレーナーに袖を通し、使い込まれた感のある有名スポーツメーカーのロゴが入ったジャージを履いたところで玄関の扉が開いた。

「ええと、おかえりなさい」

 反射的にそう声を掛けると、彼は一瞬驚いた表情を浮かべた後、嬉しそうに、ぱぁっと相好を崩した。筆で描いたような目尻が上がった目元がきゅ、と細くなって口元から白い八重歯がのぞく。

「ただいまです」

 うわ。

 心の中で密かに悲鳴をあげる。

 ただでさえ好みの顔立ちなのに、窮地を救ってくれた上に屈託ない笑顔を向けてくるなんて。無意識タラシもいいとこだ。
 勝手にときめくな、俺の心臓よ。
 相手はおそらくノンケ。これはあくまで憐れな要救助者に対する一般的な善意だから。

「すみません。風呂あがる前に用意しようち思うとったとですけど」

 彼は、手にしていたパッケージをこちらに差し出す。新品のボクサーパンツだった。

「ありがとうございます」

 パンツを受け取ってから再び風呂場に引っ込み、パンツとジャージを履きなおす。

 ほんとに出かけてやがった。しかも、俺の着替えを買いに。
 さらに言えば玄関を開ける時に解錠音がしなかった。まさか無施錠で買い物に?
 人のことを言えた義理ではないけど、危機意識大丈夫かな、この人。

「すみません。後でお金返します。服も、クリーニングして返しますんで」

 パンツが入っていた空パッケージを手に風呂場を出ると、彼はごく自然な動作でそれを受け取り、再びゴミ袋代わりのスーパーの袋に詰め込んだ。

「俺が勝手にしたこってすけん、気にせんでよかですよ。あ、それより腹減っとらんですか? しもたな。さっき一緒に買うてくるとやった。すみません、気が回らんで。ちょっと買うてきますね」

 財布を手に今にも玄関を飛び出さんとする彼の手を両手で掴んで制止する。

「いやいやいや、それこそ大丈夫です。お腹減ってません。気にしないでください。大丈夫」
「そうですか? じゃあ飲み物でんいれますけん。あ、俺、経営学部1年の坂本といいます」

 食事の提供も門限などもない、ほぼ単身者用アパートだが、一応学生寮の体を取っているので住民はすべて同じ大学の学生だ。

「経済学部3年の月岡です。あの、ほんと、お構いなく」

 しばらく段ボールを漁っていた坂本と名乗った彼は、個包装のビニールを取り出して中身をマグカップにあけ、お湯を注ぐ。

「すみません。越してきたばかりで、嗜好品とかまだ買うとらんとですよ」
「いえ、お気持ちありがたいです」

 マグカップを受け取ってから気付く。

 ウエルカムドリンクならぬ、ウエルカムインスタント味噌汁ってはじめてだ。
 いや、まぁ、こういうのって、お気持ちがね。嬉しいやつだから。

 両手でマグカップを包み込むように持って湯気を吹き、一口飲む。温かさと味噌の塩味を感じた瞬間、時間差で空腹を思い出した。

 そういやマコトが来るからって、飯控えめにしてたんだっけ。

「あったあった。良かったらこれも食べてください」

 土産物っぽい包装紙をガサガサと破ってご当地キャラのプリントクッキーを出してくれる。

 誰かからもらった物、というより、誰かにあげるために購入した物かな。

 段ボールに同じ大きさの包装紙の箱が見えた。
 遠慮する間も無く個包装を手渡されたので、ありがたく頂戴する。

「えと……遠慮なく。いただきます」
「どうぞどうぞ」

 さく、と齧ると甘味が空腹に沁みた。

 こういうのって定番だけど、安定してうまいよな。マグカップの味噌汁の塩味と甘味の無限ループだ。
 ところで……。

「……『ぎゃん行ってぎゃん』?」

 気になって個包装の表面に書かれた文字を読み上げる。

 ご当地定番の『○○に行ってきましたクッキー』なんだろうけど、ヒステリックな犬の鳴き声みたいなのなんだ?

「『こう行って、こう』みたいな感じですね。じっちゃんばっちゃんらの喋りっぽかっちゅうか。『あいがさ』『こいがさ』みたいに。代名詞とか、こそあど言葉に近かです」
「なるほど……?」

 例にあげてくれた『あいがさ』に関しても、何を指しているのかちょっとよくわからないけども。傘の話ではないんだよな?

 もくもくと咀嚼していると、じっと見つめられて緊張する。

「あの、なにか……?」

 沈黙と凝視に耐え兼ねて質問すると、坂本くんは好奇心丸出しの表情でこちらを見つめたまま興奮気味に答えた。

「あ、いや。東京人ってほんにテレビんごたる喋り方ばするったいなーち思うて。あと、芸能人ごたる綺麗か人でびっくりしました」
「東京人って……俺もそこそこ地方出身者ですよ。別に普通でしょ?」
「いえ。実家ん近所には月岡さんごたる色白で綺麗か人はおらんやったです」

 ガチトーンで返されて口の中でもごもごと、ああ、そう、と濁した。
 別にトランスジェンダーとか嗜好として女性になりたいわけではないけど、汚いと言われるよりは悪い気はしない。が、面と向かって綺麗と形容されると、どう返していいものか困る。

「よかった。だいぶ顔色も良かごとなってきたですね」

 にこ、と屈託なく笑いかけられ、期せずして心臓が跳ねた。

「ああ、えーと、うん。お風呂あったかかったし、お味噌汁もぽっかぽかですから」

 恥ずかしいな。顔赤いのバレてたか。

 赤面の理由を風呂とウエルカム味噌汁のせいにして笑って誤魔化すが、彼の表情から心配の色は消えない。

「あの、どっか怪我したりとか、しとらんですか?」
「怪我?」
「はい。さっき、ベランダで動けんごとなっとったごと見えたけん、怪我か、具合でん悪かったとかなち思いまして」

 ああ、そうか。事情を知らない人から見れば、身ぐるみ剝がされてベランダに放置されたDV被害者のように映るんだろうな。
 部屋の窓を開けることを拒んだことも、中に加害者がいると勘違いさせたかもしれない。

「もし必要があれば、警察とか救急車ば呼びますけど」
「や。大丈夫。怪我もしてないし、少し経てば開けてくれると思うから。そしたら部屋に戻って買ってきてくれた分の下着のお金返します。服もクリーニングして返しますんで。あ、お邪魔なようでしたら外出てますから……」

 純朴そうなおのぼりさんを利用するようで申し訳ないけど、最後の一言はあえてわざとだ。

「いえ! せっかく温まったってすけん、ゆっくりしていってください! なんなら泊まっていってもよかですけん!」

 読み通り、坂本くんの善意全開で俺の滞在を許してくれる流れに、気付かれないよう安堵の息を吐く。
 ベランダで声をかけられた時はプライドが邪魔をして放っておいてほしい、なんて言ったけど、風呂で気持ち良く温まった今、外に裸足で放り出されるのは正直ツラい。

「ありがとうございます。助かります」

 笑顔で礼を言うと、彼は頬を紅潮させて嬉しそうにはにかんだ。

 わ。日焼けた肌に映える白い八重歯が表情に相まって、笑顔の黒柴ぽくてかわいい。

 状況もわきまえず、心臓が震えた。

 駄目だ駄目だ駄目だ。そういう状況じゃないんだってば。落ち着け心臓。俺が本来ドキドキする相手はこの人じゃなくてーー……。

「……中にいるの、恋人、なんです。隣の部屋の」

 動揺を誤魔化そうとして、聞かれてもいないのにその存在を明かしていた。

「恋人、さん?」

 きょとんとした顔でオウム返される。

 ちゃんと線引きしないと。
 いくら好みの顔立ちでも、坂本くんは俺のことを恋愛対象にはしてくれないだろう。
 少し優しくされたくらいで思い上がって勘違いするな、俺。

 自分自身に言い聞かせ、マグカップを握る手に力をこめる。

「そう。少なくとも俺は、そう、思ってました」
「えーと、それは……」

 坂本くんは視線をクッキーの空の包装用紙に移し、ベランダへ続く吐き出し窓に移し、まばらに封を切られた段ボールに移してから、俺の方へと着地させた。

「喧嘩、したとですか?」

 聞いていいのかわからない、と言いたげに、おずおずとした質問。俺は少しだけ笑って、首を横に振った。

「いえ。喧嘩とかではないんです」

 どこから説明したらいいのかな。まさかこんな形で他人にカムアウトする日がくるとは思わなかった。