確かに幸福を感じていた。
ほんの30分ほど前までは。
それが泡沫だと、疑うこともなしに。
四月とはいえ、早春の夜はまだ冷え込む。吹きさらしの5階のベランダで、全裸でといえばなおのこと。
「ふぃくしっ!!」
情けないくしゃみを発しながら、自分の身体を膝ごと抱く。
少しでも体の表面積を減らして体温低下を防ぐ作戦。だけど、果たしてこれが正しいのかどうかもわからなくなってくる。
ベランダ床のコンクリートは着実に体温を奪い、足首から先は冷えて感覚がない。
大きい動脈とかも冷やしちゃ駄目だよな。
腋窩動脈、膝下動脈。
腋を締めて膝に顔を埋め、自分の吐く息で体温確保を図る。
朝までこのままだったら、さすがにヤバいかな。
全身の震えが止まらない。
けど、カーテンを引かれたサッシ窓を叩く気力なんか残っていなかった。
「なんで、おれんちなのにさぁ……」
ため息さえ、情けなく震えた。
「あの」
不意に心地よいバリトンが鼓膜を揺らした。
なんだろう。
もうお迎えが来たのかな。
真冬でもないのに自宅のベランダで全裸で凍死とかあるんだ。
ぼんやり馬鹿みたいなことを考えていると、今度はもう少しはっきりした声が聞こえた。
「あの、大丈夫ですか?」
膝に埋めていた顔をあげると、明るい月を背景に、こちらを覗き込む男と目が合った。
「すみません。覗いたりして。でも、さっきからくしゃみが聞こえて、……その、寒そうですし」
ああ、俺、何か徳でも積んだかな。
死の間際に、好みの顔のイケメンが迎えに来てくれるだなんて。
鈍った思考のままぼんやりと見つめ返すと、男はベランダの仕切り板の縁に手を掛けてこちらに身を乗り出す。
「鍵閉じ込みとかですか? 良かったら管理会社に連絡しますけど」
いや、違うわ。お迎えの人は管理会社とか言わないよな。
首を横に振る。
騒ぎになると厄介だ。
「……だ、だいじょぶ、だから、ほうっておいて」
寒さで呂律がだいぶ怪しいが、小声でなんとかそれだけを伝える。
大丈夫。たぶん。あとどれくらいかかるかわからないけど、待っていれば開けてくれるはず。ここで大人しく待っていればーー……。
不意に聞こえた衣擦れの音と共に月明かりが陰ったかと思うと、俯いた視界の端に黒い靴下が見えた。
肩に温かい物が触れる。
顔をあげると、夜空を溶かしたような黒い瞳がこちらを見つめ返す。
「……やっぱり。大丈夫じゃなかですよね。冷え切っとる」
俺の背後の掃き出し窓に手を掛けた男は、鍵がかかっていること気付いたのか、ノックをしようと片手をあげたので、慌ててその手を取って小声で制止する。
「……だめ。おねがい、やめて」
彼は精悍な顔に困惑の色を浮かべたが、やがて俺の言葉を受け入れ、黙ったまま手を降ろす。俺は気付かれないように、ふ、と安堵の息を吐いた。
「せめて、温かい場所に移動せんですか? このままだと、ほんと、風邪ひきます」
そう言った男は、ベランダの仕切り板を軽く握った拳の背でコンコンと叩きながら「非常時だけん、蹴破ってよかとよな……?」と独り言ちた。
この人、仕切り壊すって言ってんの?
そんなことされたら……。
「べんしょうとか、むり。はらえない」
混乱したまま必死に首を横に振って小声で懇願する。
男はしばしの沈黙の後、そっと俺の頬に温かい手を滑らせて顔を近づけた。ふわ、と首筋に息がかかって、思わず身を強張らせる。
何、されるんだろう。
初対面にしては近過ぎる距離に動転する俺をよそに、男は頷いてから、俺の手を取った。
「ええくろうとらすわけじゃなかごたっし、おいが、ちゃんと支えますけん」
……え? え、何語?
耳に馴染みのないイントネーション。
問い返す間も無く、手を引かれて立たされる。そのままベランダの端まで手を引かれたかと思うと、彼はごく自然に腰壁に足を掛けて猫のようにするりと仕切り板の向こうへと降り立った。
「大丈夫。ほら、こっち」
伸びてきた温かい手は、強引ではない。あくまで優しい力加減で俺の手を夜の先へといざなう。
一瞬振り返って掃き出し窓を見つめた。窓の向こうは紺色の遮光カーテンに固く閉ざされたまま。
視線を戻すと、俺を安心させるためか、意志の強そうな瞳が少しだけ柔らかく細められた。冷えて固まりかけていた俺の心臓が、ことり、と反応する。
伸ばした手の平は金属の手すりと同じ温度に冷え切っていた。腰壁のザラザラとした感触を足の裏に感じながら、手を引かれるまま仕切り板の向こうへと身を乗り出した。仕切り板の縁を支えに重心を向こうのベランダへと移動させる。不意に手すりの金属に直接膝の外側がひやりと触れて反射的に身を捩る。瞬間、バランスを欠いてぐらりと景色が揺れた。
落ちるーーーー……!!
ぎゅっと目を閉じたまま腕をぐっと引っ張られ、彼の腕の中へと着地する。ふわりと鼻を掠めるボディーソープの香り。厚手のパーカー越しにバランス良くついた筋肉を感じて、こんな状況にも拘わらず浅ましくそういうことばかり気付く自分を呪った。
心臓が全力疾走したかのように脈打つ。寒さで思考力が落ち、手を引かれるまま手すりを乗り越えてベランダを移動したが、よく考えたらほとんど虫も上がってこない5階だ。落ちたら怪我どころでは済まない高さに、今更ながらなんて無茶をしたのかと足が竦んだ。
「よう頑張らしたですね」
優しい声音が鼓膜を揺らし、大きくて温かい手にぽんぽん、と背中を軽く叩かれた。
「やっぱりだいぶ身体ん冷えとりますね。残り湯で申し訳なかばって、風呂、使うてください」
彼は俺の背中に手を添えて、開かれた吐き出し窓へと誘導する。窓から零れる光に誘われるように、俺は一歩を踏み出した。
足の裏にざらりとコンクリートの感触を確かめながら、改めて生還したことを実感した。
ほんの30分ほど前までは。
それが泡沫だと、疑うこともなしに。
四月とはいえ、早春の夜はまだ冷え込む。吹きさらしの5階のベランダで、全裸でといえばなおのこと。
「ふぃくしっ!!」
情けないくしゃみを発しながら、自分の身体を膝ごと抱く。
少しでも体の表面積を減らして体温低下を防ぐ作戦。だけど、果たしてこれが正しいのかどうかもわからなくなってくる。
ベランダ床のコンクリートは着実に体温を奪い、足首から先は冷えて感覚がない。
大きい動脈とかも冷やしちゃ駄目だよな。
腋窩動脈、膝下動脈。
腋を締めて膝に顔を埋め、自分の吐く息で体温確保を図る。
朝までこのままだったら、さすがにヤバいかな。
全身の震えが止まらない。
けど、カーテンを引かれたサッシ窓を叩く気力なんか残っていなかった。
「なんで、おれんちなのにさぁ……」
ため息さえ、情けなく震えた。
「あの」
不意に心地よいバリトンが鼓膜を揺らした。
なんだろう。
もうお迎えが来たのかな。
真冬でもないのに自宅のベランダで全裸で凍死とかあるんだ。
ぼんやり馬鹿みたいなことを考えていると、今度はもう少しはっきりした声が聞こえた。
「あの、大丈夫ですか?」
膝に埋めていた顔をあげると、明るい月を背景に、こちらを覗き込む男と目が合った。
「すみません。覗いたりして。でも、さっきからくしゃみが聞こえて、……その、寒そうですし」
ああ、俺、何か徳でも積んだかな。
死の間際に、好みの顔のイケメンが迎えに来てくれるだなんて。
鈍った思考のままぼんやりと見つめ返すと、男はベランダの仕切り板の縁に手を掛けてこちらに身を乗り出す。
「鍵閉じ込みとかですか? 良かったら管理会社に連絡しますけど」
いや、違うわ。お迎えの人は管理会社とか言わないよな。
首を横に振る。
騒ぎになると厄介だ。
「……だ、だいじょぶ、だから、ほうっておいて」
寒さで呂律がだいぶ怪しいが、小声でなんとかそれだけを伝える。
大丈夫。たぶん。あとどれくらいかかるかわからないけど、待っていれば開けてくれるはず。ここで大人しく待っていればーー……。
不意に聞こえた衣擦れの音と共に月明かりが陰ったかと思うと、俯いた視界の端に黒い靴下が見えた。
肩に温かい物が触れる。
顔をあげると、夜空を溶かしたような黒い瞳がこちらを見つめ返す。
「……やっぱり。大丈夫じゃなかですよね。冷え切っとる」
俺の背後の掃き出し窓に手を掛けた男は、鍵がかかっていること気付いたのか、ノックをしようと片手をあげたので、慌ててその手を取って小声で制止する。
「……だめ。おねがい、やめて」
彼は精悍な顔に困惑の色を浮かべたが、やがて俺の言葉を受け入れ、黙ったまま手を降ろす。俺は気付かれないように、ふ、と安堵の息を吐いた。
「せめて、温かい場所に移動せんですか? このままだと、ほんと、風邪ひきます」
そう言った男は、ベランダの仕切り板を軽く握った拳の背でコンコンと叩きながら「非常時だけん、蹴破ってよかとよな……?」と独り言ちた。
この人、仕切り壊すって言ってんの?
そんなことされたら……。
「べんしょうとか、むり。はらえない」
混乱したまま必死に首を横に振って小声で懇願する。
男はしばしの沈黙の後、そっと俺の頬に温かい手を滑らせて顔を近づけた。ふわ、と首筋に息がかかって、思わず身を強張らせる。
何、されるんだろう。
初対面にしては近過ぎる距離に動転する俺をよそに、男は頷いてから、俺の手を取った。
「ええくろうとらすわけじゃなかごたっし、おいが、ちゃんと支えますけん」
……え? え、何語?
耳に馴染みのないイントネーション。
問い返す間も無く、手を引かれて立たされる。そのままベランダの端まで手を引かれたかと思うと、彼はごく自然に腰壁に足を掛けて猫のようにするりと仕切り板の向こうへと降り立った。
「大丈夫。ほら、こっち」
伸びてきた温かい手は、強引ではない。あくまで優しい力加減で俺の手を夜の先へといざなう。
一瞬振り返って掃き出し窓を見つめた。窓の向こうは紺色の遮光カーテンに固く閉ざされたまま。
視線を戻すと、俺を安心させるためか、意志の強そうな瞳が少しだけ柔らかく細められた。冷えて固まりかけていた俺の心臓が、ことり、と反応する。
伸ばした手の平は金属の手すりと同じ温度に冷え切っていた。腰壁のザラザラとした感触を足の裏に感じながら、手を引かれるまま仕切り板の向こうへと身を乗り出した。仕切り板の縁を支えに重心を向こうのベランダへと移動させる。不意に手すりの金属に直接膝の外側がひやりと触れて反射的に身を捩る。瞬間、バランスを欠いてぐらりと景色が揺れた。
落ちるーーーー……!!
ぎゅっと目を閉じたまま腕をぐっと引っ張られ、彼の腕の中へと着地する。ふわりと鼻を掠めるボディーソープの香り。厚手のパーカー越しにバランス良くついた筋肉を感じて、こんな状況にも拘わらず浅ましくそういうことばかり気付く自分を呪った。
心臓が全力疾走したかのように脈打つ。寒さで思考力が落ち、手を引かれるまま手すりを乗り越えてベランダを移動したが、よく考えたらほとんど虫も上がってこない5階だ。落ちたら怪我どころでは済まない高さに、今更ながらなんて無茶をしたのかと足が竦んだ。
「よう頑張らしたですね」
優しい声音が鼓膜を揺らし、大きくて温かい手にぽんぽん、と背中を軽く叩かれた。
「やっぱりだいぶ身体ん冷えとりますね。残り湯で申し訳なかばって、風呂、使うてください」
彼は俺の背中に手を添えて、開かれた吐き出し窓へと誘導する。窓から零れる光に誘われるように、俺は一歩を踏み出した。
足の裏にざらりとコンクリートの感触を確かめながら、改めて生還したことを実感した。



