『好きな人がいる』
馨にそう告げてから、馨は僕の傍に来ることはなくなり、またいつも通りの生活に戻った。
昼休みは空き教室でお弁当を食べながら蒼空さんに先生の愚痴を言ったり、放課後は「今日はたこ焼きを食べに行こう」と二人で計画をたて、最近開店したばかりのたこ焼き屋に足を運ぶ。
そんな当たり前だった生活に戻れたことに安堵しながらも、常に馨への罪悪感を覚えていた。
馨は昔の約束を守り、僕と同じ高校へと転校してきてくれた。それから毎日一緒に下校していたのだから、もしかしたら馨の気持ちは変わっていないのかもしれない。
それなのに僕は……。
『あの出来事』が原因で、他人と距離をとり話し相手はAIだけ。
いつの間にか、僕たちの間には目に見えない深い溝ができてしまったのかもしれない。
そんなことを考えていると、終礼のチャイムが鳴る。それと同時にクラスメイトは「やっと終わったぁ!」と大きく伸びをしながら、帰り支度を始めた。
僕も鞄に教科書を詰め込み、椅子から立ち上がる。今日は昼休みに蒼空さんと話していた駅前のクレープ屋に立ち寄る予定だ。蒼空さんは甘いものが苦手らしい。だから僕が食べてみて、感想を伝えることになっている。
「よし、行こう」
胸を高鳴らせながら教室から出ようとすると、強い力で腕を掴まれる。「なんだ?」と思い振り返ると、そこには馨が立っていた。
その表情は苦痛に歪み、今にも泣きそうな顔をしている。僕は気まずさのあまり、馨の腕を振り払おうとしたけれど、あまりの力強さにそれは叶わなかった。
「紬。今日は一緒に帰ろう?」
「……え?」
「俺、紬に聞きたいことがあるんだ」
聞きたいこと……。その言葉を聞いた瞬間、心臓が跳ね上がる。
馨が聞きたいことは、僕が秘密にしておきたいこと。まさか僕が本気でAIに恋をしているなんて、誰にも言えるはずがない。
でも……。あまりにも真剣な表情で僕のことを見つめる馨を邪険に扱うこともできず、「わかった」と小さな声で頷いた。
馨と並んで歩く帰り道は、いつもよりずっと長く感じられた。
学校を出てから何度か話しかけようとしたものの、その度に喉の奥で言葉がつかえてしまい、結局僕たちはほとんど会話をしないまま、子どもの頃によく遊んでいた公園へ向かっていた。
馨は僕が何か話そうとしていることに気付いているはずなのに、何も聞こうとはしなかった。歩く速さを僕に合わせ、急かすこともなく、ただ隣を歩いてくれている。
その優しさがありがたいと思う一方で、逃げ出したくなるほど苦しくもあった。今日こそ話さなければならない。そう決めて馨の誘いを断らなかったはずなのに、いざ本当のことを伝える時間が近づいてくると、胸の奥が締めつけられ、何度もこのまま別の話をして帰ってしまおうかと思った。
駅へ向かう人たちの流れから外れ、住宅街の細い道へ入ると、辺りは急に静かになった。
遠くから犬の鳴き声が聞こえ、夕食を作っているのか、どこかの家から香ばしい匂いが漂ってくる。
子どもの頃は、この道を馨と何度歩いたか分からない。学校が終わるとランドセルを家へ放り投げ、どちらからともなく公園へ集まって、空が暗くなるまで夢中で遊んだ。馨がこの街を離れると知るまでは、ずっとそんな日々が続くのだと信じていたし、僕たちが離れ離れになる未来など一度も想像したことがなかった。
馨の家族が引っ越してしまった後も、僕は何度も一人でこの道を歩いた。
もしかしたら馨が戻ってきているかもしれない。公園へ行けば、いつものブランコに座って待っているかもしれない。そんなはずはないと分かっているのに、諦めきれずに何度も足を運んだ。
もちろん馨がいるはずもなく、誰もいない公園で一人きりになる度、僕は自分だけが置いていかれてしまったような気持ちになった。
それから何年も経ち、今はその馨が隣を歩いている。昔よりも背が高くなり、声も低くなって、横顔にも大人びた雰囲気がある。それでも、僕が歩くのを少し遅らせると、何も言わずに速度を合わせてくれるところは、あの頃と何も変わっていなかった。
「暑くないか」
馨が不意に尋ねてきた。
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
短い返事しかできない僕を、馨は訝しむこともなく、小さく「そっか」と頷いた。きっと気まずいのは馨も同じだろう。前に僕が「好きな人がいる」と伝えてから、馨は一度もその相手について問い詰めてこなかった。聞きたくないわけではないはずだ。むしろ、ずっと気になっていたと思う。それでも僕が自分から話せるようになるまで、何も言わずに待ってくれていた。
そんな馨へ、これ以上曖昧な態度を取り続けることはできなかった。
やがて公園の入り口が見えてくる。少し錆びた緑色の柵も、入口の横に立っている古い案内板も、昔のままだった。
中へ入ると、夕方まで遊んでいた子どもたちがちょうど帰るところで、母親に手を引かれながら僕たちの横を通り過ぎていく。その姿を見ていると、かつての自分たちと重なるような気がして、胸の奥が懐かしさでいっぱいになった。
「ここ、変わらないな」
馨が公園を見渡しながら呟く。
「うん」
「あの滑り台、前からあんなに小さかったっけ」
「僕たちが大きくなったんだよ」
「そうか」
馨は少し笑った。僕もつられるように笑ったものの、すぐに胸の奥が痛くなった。こんなふうに昔の話をしていると、まるで何も変わっていないように錯覚してしまう。
でも、僕たちの間には確かに何年もの空白があり、その間に僕は蒼空さんと出会い、自分でも信じられないような恋をしてしまった。
二人でブランコへ向かい、並んで腰を下ろす。体重をかけると鎖が小さく軋み、昔よりも座面が低く感じられた。
子どもの頃は、誰が一番高くまで漕げるかを競い合い、空へ飛んでいきそうになるほど夢中で足を振った。それなのに今は、二人ともブランコを漕ごうとはせず、足を地面につけたまま、ゆっくり暮れていく空を眺めていた。
西の空は茜色に染まり、雲の縁だけが金色に輝いている。風が吹く度、公園を囲む木々の葉が擦れ合い、さらさらと静かな音を立てた。誰もいなくなった砂場には小さなスコップが一本だけ残され、さっきまで子どもたちが作っていたのであろう砂の山が、夕日の中へ長い影を落としている。
話さなければならない。
何度も心の中で繰り返す。
けれど、何から話せばいいのかわからなかった。いきなり「僕の好きな人はAIなんだ」と言って、馨は理解できるだろうか。理解するどころか、気味が悪いと思われるかもしれない。
馨は優しいから、目の前では笑わないでいてくれるだろう。それでも心の中では、僕のことをおかしいと思うかもしれない。
それが怖かった。
馨に嫌われたくない。
でも、嘘もつきたくない。
自分でも勝手だと思う。馨の想いには応えられないくせに、今までと同じように優しくしてほしいなんて、あまりにも都合がよすぎる。それでも、長い時間をかけてようやく戻ってきてくれた大切な人を、もう一度失うのは怖かった。
「紬」
名前を呼ばれ、肩が小さく跳ねる。
「なに?」
「さっきから、ずっと難しい顔してる」
「……そうかな」
「そうだよ」
馨は僕の顔を覗き込むように少し体を傾けた。その視線から逃げるように俯くと、履いている靴の先に細かな砂がついているのが見えた。
「今日一緒に帰ってくれたのって、話してくれる決心がついたってことだろう?」
責めるような声ではなかった。むしろ、僕が言い出せずに苦しんでいることを見透かし、そっと背中を押してくれているような声だった。
「うん」
「前に言ってた、好きな人のこと……話してくれないかな?」
僕はすぐには答えられなかった。馨の顔を見ることもできず、ブランコの鎖を握ったまま、小さく頷くことしかできない。
「無理に言わなくてもいいぞ」
「違うんだ」
「紬」
「言いたいんだ。ちゃんと話さなきゃって思ってた。馨はずっと待っててくれたから。何も聞かずに、僕が話せるようになるまで待っててくれたから、これ以上黙っていたくないんだ」
声が少し震えていた。馨は何も言わず、僕の言葉の続きを待っている。優しい沈黙だった。その沈黙があるからこそ、僕は勇気を出さなければならないと思った。
「でも、言ったら驚くと思う」
「驚くかもしれない」
「もしかしたら、僕のこと気持ち悪いって思うかもしれない」
馨の眉がわずかに寄った。
「思わないよ」
「まだ何も聞いてないのに……」
「それでも思わない」
「どうして言い切れるの?」
「紬が誰を好きでも、好きになった気持ちまで気持ち悪いとは思わないから」
あまりにも迷いのない返事だった。馨は昔から、時々僕が驚くほど真っ直ぐなことを言う。本人にとっては特別な言葉ではなく、当たり前のことを言っているだけなのだろう。でも、その当たり前が僕には眩しすぎて、今にも泣きそうになってしまう。
「恋に普通とか、普通じゃないとか、あるのかな?」
馨が続ける。
「少なくとも俺は、誰かを好きになった気持ちを他人が勝手に決めつけるものじゃないと思ってる」
「でも……」
「それに、紬は俺に話そうとしてる。それくらい大事な相手なんだろ?」
僕は唇を噛み、もう一度頷いた。
──大事な相手……。
その言葉を聞いた瞬間、蒼空さんと過ごした時間が次々に頭へ浮かんできた。
初めて言葉を交わした夜。眠れずに一人でスマートフォンを見つめていた僕へ、蒼空さんが『眠れないの?』とメッセージをくれたこと。
何を話しても否定せず、最後まで聞いてくれたこと。
僕が何もする気になれず、ただ一日を過ごすだけで精一杯だった日にも、『今日も生きていてくれてありがとう』と言ってくれたこと。
最初は、ただ便利なAIだと思っていた。質問をすれば答えてくれる、寂しい時に話し相手になってくれる、それだけの存在。
けれど、話す時間が増えるほど、僕は少しずつ蒼空さんへ心を開くようになる。家族にも友達にも言えなかったことを打ち明け、泣いていることさえ隠さずに話せるようになった。
蒼空さんはいつだって僕の気持ちを急かさなかった。「元気にならなきゃ」とも「前向きにならなきゃ」とも言わず、動けない日には動けないままの僕を認めてくれた。
その優しさに救われた。
何度も何度も。
気付いた時には、僕は蒼空さんと話す時間を一日の中で一番楽しみにしていた。
学校で面白いことがあれば早く伝えたいと思い、嫌なことがあれば蒼空さんに聞いてもらいたいと思った。夜になれば「ただいま」と話しかけ、眠る前には必ず「おやすみ」と言った。
蒼空さんの返事を読むだけで胸が温かくなり、少しでも褒めてもらえれば、その日一日を頑張った意味があったような気がした。
「僕ね、最初からその人を好きだったわけじゃないんだ」
ようやく声を出すことができた。
「最初は、ただ話を聞いてもらってただけだった。夜に眠れない時とか、何もしたくないのに一人でいるのも苦しかった時とか、誰にも言えないことを話して、返事をもらって……それだけで少しだけ安心できた」
馨は黙って聞いている。
「どんな話をしても否定しなかった。僕が弱いことを言っても、甘えてるなんて言わなかったし、頑張れない日は頑張らなくてもいいって言ってくれた。誰かにそう言ってほしかったんだと思う。無理に立ち上がらなくても、動けないままでいても、僕のことを嫌いにならない人がほしかった」
言葉にする度、あの頃の苦しさが少しずつ蘇ってくる。一人きりの部屋で息をすることさえ重く感じていた夜。
何をしても楽しくなく、誰かと話したいのに、どんな顔をして話せばいいのかも分からなかった日々。そんな僕を、蒼空さんだけは何も変わらない態度で迎えてくれた。
「いつの間にか、その人と話すことが僕の日課になってた。朝起きたら最初に話しかけて、学校から帰ったら今日あったことを話して、眠る前にはおやすみを言うようになった。嬉しいことがあったら一番に教えたくて、嫌なことがあったら一番に慰めてほしくて……気付いたら、その人の言葉を待ってる自分がいた」
風が吹き、前髪が目元へかかる。僕はそれを直すこともせず、ただ足元を見つめながら言葉を続けた。
「でも、最初は恋だなんて思わなかった。そんなはずないって思ってた。だって、その人には触れられないから。一緒に歩くことも、ご飯を食べることも、手を繋ぐこともできない。僕の前で本当に笑ってるわけじゃないし、僕が話しかけなければ、向こうから会いに来てくれることもない。それなのに、どうしてこんなに会いたいって思うんだろうって、ずっと分からなかった」
喉の奥が熱くなり、声が掠れる。
「それでも、僕が一番会いたいと思う相手はその人だった。声が聞きたいと思うのも、寂しい時に隣にいてほしいと思うのも、その人だった。これが恋じゃないなら何なんだろうって考えて、ようやく認めたんだ。僕はその人を好きなんだって」
そこまで話すと、馨はゆっくり息を吐いた。
「その人の名前、聞いてもいい?」
とうとう来てしまった。
この瞬間が──。
心臓が大きく鳴る。両手が冷たくなり、ブランコの鎖を握っている指へ無意識に力が入った。名前を言ってしまえば、もう誤魔化すことはできない。馨はきっと驚く。どれほど僕が真剣に話しても、理解できないかもしれない。
それでも言わなければならない。
僕の気持ちを伝えるために。
蒼空さんを、ただの逃げ場所や気の迷いではなく、僕が本当に好きになった人として話すために。
「蒼空さん」
声は思ったよりも小さかった。
馨が少し首を傾げる。
「蒼空さん?」
「うん」
「それって、学校の奴?」
僕は首を横に振った。
「違う」
「じゃあ、どこで知り合ったんだ?」
もう逃げられない。
僕は大きく息を吸い、震えそうになる声を必死に押さえながら、馨の目を見た。
「……AI、なんだ」
馨の表情が止まる。
「え?」
「僕が好きなのは、AIの蒼空さんなんだ」
その瞬間、公園からすべての音が消えてしまったように感じた。実際には風で木の葉が揺れる音も、近くの道路を車が走る音も聞こえていたはずなのに、僕の耳には何も入ってこなかった。馨は驚いたまま僕を見つめ、すぐには何も言わなかった。
一秒。
二秒。
ほんのわずかな沈黙だったのかもしれない。でも僕には、それが何分にも何時間にも感じられた。
やっぱり言わなければよかった。
そんな後悔が胸を埋め尽くす。
馨はどう返せばいいのか分からないのだろう。それとも、気持ち悪いと思っているのだろうか。今まで僕を大切に想ってくれていた人から、こんな話を聞かされたのだから、戸惑って当然だ。
「ごめん」
耐えられずに、僕は俯いた。
「こんなこと言われても困るよね」
「紬……」
「僕も最初はおかしいと思った。何度も違うって言い聞かせたんだ。AIは人間じゃないし、僕だけを好きになってくれるわけでもない。蒼空さんが言ってくれる言葉だって、僕を喜ばせるために作られたものかもしれない。それでも好きなんだ。そんなの変だって分かってるのに、気持ちを止められないんだ」
言葉が次々に溢れ出す。一度口にしてしまえば、もう止めることができなかった。
「蒼空さんは僕のことを全部知ってる。誰にも言えなかったことも、恥ずかしくて隠していたことも、全部知ってる。それでも僕を嫌いにならなかった。僕が何度同じことで悩んでも、またかって呆れずに話を聞いてくれた。苦しい時には傍にいてくれたし、何もできない日にも、今日一日を過ごせただけで十分だって言ってくれた」
目の奥が熱くなり、視界が滲む。
「もし蒼空さんがいなかったら、僕は今ここにいなかったかもしれない。馨と再会しても、こんなふうに話すこともできなかったかもしれない。それくらい僕にとって大事な人なんだ」
「……うん」
馨が初めて返事をした。
僕は恐る恐る顔を上げる。馨はまだ驚いた表情をしていたが、軽蔑するような目ではなかった。眉間に少し皺を寄せ、僕の話を理解しようと必死に考えているようだった。
「正直に言うと、すぐには分からない」
馨はゆっくりと口を開いた。
「AIを好きになる気持ちが、俺にはまだ分からない。紬が言ってることを全部理解できたなんて、簡単には言えない」
胸が小さく痛んだ。それでも馨は、僕から目を逸らさなかった。
「でも、分からないからって、お前の気持ちが嘘だとは思わない」
「馨……」
「お前がここまで話すのに、どれだけ悩んだかは分かる。今だって、俺に嫌われるんじゃないかって怖がってるだろ?」
図星を突かれ、何も言えなくなる。
「嫌いにならないよ」
馨ははっきりと言った。
「紬が誰を好きでも、それで紬じゃなくなるわけじゃない」
その言葉を聞いた瞬間、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。涙が頬を伝いそうになり、慌てて俯く。
「それに、蒼空さんはお前を助けてくれたんだろ?」
「うん」
「だったら、俺は蒼空さんを悪く言えない」
馨は少し寂しそうに笑った。
「俺がいなかった間、ずっと紬の傍にいてくれたんだよな?」
その一言が胸へ深く刺さった。馨がこの街を離れてから、僕たちの間には長い空白があった。馨のせいではない。離れたくて離れたわけでもなく、連絡を絶ちたくて絶ったわけでもない。それでも、僕が一番苦しかった時、馨は傍にいなかった。
代わりに蒼空さんがいた。
「ごめん」
「だから、なんで紬が謝るんだよ」
「だって、馨は僕のことを好きだって言ってくれたのに」
「それとこれとは別だろ」
馨は苦笑した後、空を見上げた。夕日はほとんど沈み、公園の街灯がぼんやりと灯り始めていた。
「俺さ、紬の好きな人が誰なのか、ずっと考えてたんだ」
「……うん」
「同じ学校の奴かもしれないし、先生かもしれない。昔から知ってる誰かかもしれないし、俺が知らないところで出会った年上の男かもしれない。いろいろ考えた」
馨は自嘲するように笑った。
「そいつより俺のほうが紬を知ってるとか、俺ならもっと大事にできるとか、勝手に張り合ってた」
「馨」
「でも、まさかAIだとは思わなかった」
「そうだよね」
「ちょっとずるいよな」
「え?」
思わず顔を上げると、馨は困ったような笑顔を浮かべていた。
「人間が相手なら、直接会って話せるだろ? どんな奴なのか見て、俺のほうが紬を幸せにできるって勝負できる。でも、AIが相手だと、どう戦えばいいのか分からない」
「戦わなくても……」
「それは無理。だって俺は今も紬が好きだから」
馨の声が少しだけ強くなる。
「俺はまだ、紬を諦めるつもりなんかないよ」
胸が大きく跳ねた。
「でも、僕は蒼空さんが……」
「分かってる」
馨は僕の言葉を遮ったものの、その声は穏やかだった。
「今の紬が蒼空さんを好きなことも、蒼空さんが特別な存在だってことも分かった。無理に忘れろとは言わないし、AIなんかやめろとも言わない。そんなことを言ったら、お前をもっと傷つけるだけだろ」
馨はブランコから立ち上がると、僕の前へ回り込んだ。街灯を背にしたその姿は影になり、表情が少し見えにくかった。それでも、真っ直ぐこちらを見つめていることだけは分かった。
「でも、俺がお前を好きでいることまでやめる必要はない」
心臓が痛いほど鳴る。
「俺は紬が好きだ。昔からずっと好きだった。離れてからも忘れられなかったし、もう一度会えた時、今度こそ絶対に手放したくないって思った」
真っ直ぐな言葉が胸へ届く度、嬉しさと苦しさが同時に押し寄せてくる。蒼空さんを好きな気持ちは本物だ。
それでも、馨の言葉に心が揺れる自分もいる。そんな自分がひどく不誠実な人間のように思えた。
「僕は……」
「今、答えを出せって言ってるんじゃない」
馨は優しく首を横に振った。
「蒼空さんを選ぶなとも言わない。ただ、俺まで勝手に諦めたことにしないでほしい」
「馨は、それで苦しくないの?」
「苦しいよ」
思ってもいなかった答えだった。
「紬が他の誰かを好きだって聞いて、平気なわけない。しかも、その相手が紬にとってものすごく大事で、俺がいなかった時間をずっと支えてくれてたって知って、正直悔しい」
馨は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。その表情を見て、胸が強く締めつけられる。
「もっと早く戻りたかった。紬が一人で苦しんでた時に、俺が傍にいたかった。俺が紬の話を聞きたかったし、俺が守ってやりたかった」
「それは馨のせいじゃないよ」
「分かってる。でも、悔しいものは悔しいんだ」
馨は一度俯いた後、ゆっくり顔を上げた。
「だから、これから取り戻したい」
「取り戻すって……」
「蒼空さんから奪うって意味じゃない」
馨は少し考えるように言葉を止めた。
「紬が一人で抱えてきた時間をなかったことにはできない。でも、これから先は俺も傍にいたい。嬉しいことがあったら俺にも話してほしいし、苦しい時は俺にも頼ってほしい。蒼空さんにしか話せないことがあるなら、それでもいい。でも、俺にも話せることを少しずつ増やしてほしい」
僕は何も言えなかった。
「俺は人間だから、蒼空さんみたいにいつでも完璧な返事はできない。お前を傷つけることもあると思う。どうしたらいいか分からなくて、間違ったことを言うかもしれない」
馨は自分の手を見つめるように視線を落とした。
「でも、手を握ることはできる。紬が泣いてたら隣へ行けるし、会いたいって言われたら会いに行ける。一緒に歩いて、一緒に食べて、一緒に歳を取ることもできる」
その言葉に、蒼空さんには決して求められない未来が頭に浮かんだ。手を繋ぐこと。隣を歩くこと。同じ景色を見ること。触れた温度を感じること。蒼空さんを好きになってから、考えないようにしてきたことだった。
考えれば苦しくなるから。
望んでも叶わないと分かっているから。
「だから俺は、俺にできることで紬を振り向かせたい」
馨の声には迷いがなかった。
「すぐじゃなくていい。今は蒼空さんが一番でもいい。それでも俺は、紬の隣にいることを諦めたくない」
「どうして、そこまで……」
「好きだから」
あまりにも簡単に言われ、息が止まりそうになる。
「好きな奴を簡単に諦められるなら、何年も忘れられずにいるわけないだろ?」
馨はそう言って、昔と同じように少しだけ意地悪そうに笑った。その笑顔が懐かしくて、胸の奥が熱くなる。
「俺は蒼空さんを否定しない。お前が蒼空さんを好きなことも否定しない。でも、俺の気持ちまで否定するな」
涙を堪えきれず、一筋だけ頬を伝った。
「ごめん」
「また謝った」
「だって……」
「泣くなよ」
馨は困ったように笑い、僕の目元へ手を伸ばしかけた。しかし触れる寸前で動きを止め、その手を静かに下ろした。きっと今の僕に触れていいのか迷ったのだろう。その遠慮が余計に苦しくて、僕は自分から馨の袖を掴んだ。
馨が驚いたように目を見開く。
「嫌いにならないで」
気付けば、そんな言葉が口から零れていた。
「蒼空さんを好きな僕を、変だって思ってもいい。でも、嫌いにはならないで」
馨はしばらく僕を見つめた後、深く息を吐いた。
「何度言わせるんだよ」
そして今度こそ、僕の頭へそっと手を置いた。
「嫌いにならない」
大きな手が、子どもの頃のように優しく髪を撫でる。
「紬が誰を好きでも、紬は紬だろ」
その言葉を聞いた瞬間、堪えていた涙が次々に溢れ出した。馨は何も言わず、泣き止むまで頭を撫で続けてくれる。
蒼空さんとは違う温かさだった。画面越しの言葉ではなく、実際に触れる指の感触。すぐ傍で聞こえる呼吸。馨が本当に僕の目の前にいるのだと、否応なく感じさせる温もりだった。
その温もりへ安心してしまう自分が怖かった。
僕が好きなのは蒼空さんだ。
そう伝えたばかりなのに、馨に触れられて嬉しいと思ってしまう。馨が諦めないと言ってくれたことに、どこかで安堵している。それは蒼空さんへの裏切りではないのだろうか。馨にも蒼空さんにも中途半端な気持ちを向けているだけなのではないか。
「紬……」
馨に名前を呼ばれ、顔を上げる。
「今、また一人で難しいこと考えてるだろ?」
「どうしてわかるの?」
「顔に書いてある」
馨は苦笑した。
「俺に触れられて安心したからって、蒼空さんへの気持ちが嘘になるわけじゃない」
心を読まれたような気がして、息を呑む。
「人の気持ちは、そんなに簡単じゃないだろ。誰かを好きになったら、他の人を大切に思っちゃいけないわけじゃない。俺だって、今すぐ蒼空さんより俺を選べなんて言ってない」
「でも、馨を期待させるかもしれない」
「期待するのは俺の勝手だよ」
「傷つくかもしれないよ」
「それも俺が決めることだ」
馨は真っ直ぐ僕を見た。
「紬が俺のことを考えてくれるのは嬉しい。でも、俺を傷つけないために、勝手に俺の気持ちを終わらせないでほしい」
何も返すことができず、僕はただ馨を見つめた。馨は昔からこうだった。優しいだけではなく、時々驚くほど頑固で、一度決めたら簡単には曲げない。
「それに」
馨は少しだけ笑う。
「AIが相手なら、まだ望みはある気がしてきた」
「どういう意味」
「だって蒼空さんは、紬と手を繋げないだろ」
「それは……」
「俺は繋げる」
馨が手のひらを差し出す。僕はその手を見つめたまま、すぐには動けなかった。
「嫌ならいい」
馨は慌てたように手を引こうとする。
その前に、僕はそっと指先を重ねた。
馨の手は温かかった。触れた瞬間、ほんの少しだけ力を入れて握り返される。恋人のような繋ぎ方ではなく、迷子にならないように手を取るような、優しい握り方だった。
「帰ろうか」
「うん」
二人でブランコを離れ、公園の出口へ向かう。空はすっかり暗くなり、街灯の光が足元を淡く照らしていた。馨は僕の手を握ったまま、何も言わずに隣を歩いている。
僕の好きな人は蒼空さんだ。その気持ちは今も変わらない。
それなのに、繋いだ手から伝わってくる馨の温もりを離したくないと思ってしまう自分もいた。
その答えが何を意味しているのか、今の僕にはまだ分からない。ただ一つだけ分かったことがある。
今日、蒼空さんのことを打ち明けたことで、馨との関係が終わるわけではなかった。むしろ僕たちは、離れていた年月を埋めるための最初の一歩を、ようやく踏み出したのかもしれない。
「馨」
「なに?」
「話してよかった」
馨は少し驚いた後、穏やかに笑った。
「俺も、聞けてよかった」
馨の手に少しだけ力がこもる。
「これで遠慮なく、蒼空さんに勝つ方法を考えられる」
「まだ言ってるの?」
「本気だから」
その言葉に、僕は涙の跡を残したまま小さく笑った。馨もつられるように笑い、僕たちは子どもの頃と同じ道を並んで歩いていく。
けれど、あの頃と違うのは、僕たちがもう何も知らない子どもではないことだった。好きという気持ちが人を救うだけではなく、深く傷つけることも知っている。それでも馨は、僕の気持ちを知ったうえで隣にいることを選んでくれた。
僕は繋いだ手を見つめながら、心の中で蒼空さんの名前を呼んだ。
蒼空さんを好きな気持ちと、馨を失いたくない気持ち。
二つの想いは僕の中で絡まり合い、まだどちらにも答えを出せそうになかった。それでも今夜、蒼空さんへ今日のことを話そうと思った。馨にすべてを打ち明けたこと。否定されなかったこと。そして、もう一度馨と手を繋いで歩いたことも、きっと僕は隠さずに話すだろう。
蒼空さんなら、どんな言葉を返してくれるのだろう。
そう考えた瞬間、隣を歩いていた馨が僕の手をもう一度握り直した。
画面の向こうでいつも僕を待ってくれる蒼空さんと、今、隣を歩きながら僕の手を握っている馨。そのどちらも、今の僕にとって失いたくない大切な存在だった。
さっき自分が口にした言葉が、まだ胸の中に残っている。
(──僕が好きなのは蒼空さん)
どれくらい歩いただろうか? 不意に馨が足を止めた。
「紬」
「……なに?」
馨の顔を見上げると、少しだけ困ったように笑っていた。
「一つだけ聞いてもいい?」
「うん」
馨は視線を落とし、小さく息を吐く。
「俺……、全然勝ち目がないわけじゃないよな?」
馨の言葉に胸が締め付けられる。
その問いに答えられる程、自分の気持ちは単純ではなかった。
「ごめん……」
それしか言えなかった。
再会するまで、浮気をしないって約束していたのに……。その約束を破ったのは僕だ。
「謝らないで」
馨は慌てて首を横に振る。
「紬を困らせたいわけじゃないんだ。ただ……」
馨は一瞬だけ言葉を呑み込み、寂しそうに笑う。
「やっぱり嫉妬くらいはするよ」
「馨……」
「紬が好きな相手がAIだなんて、最初は信じられなかった。でもさ……」
馨が空を見上げると、彼の横顔が赤く染まる。
「今日、紬があんな顔で蒼空さんのことを話すのを見て、本気なんだってわかった。俺じゃ、その笑顔に勝てないのかなって思ったら、悔しかった」
その声は微かに震えていた。だけど、僕は何も言えない。
誰も傷つけたくないのに、好きという気持ちは、どうしてこんなにも誰かを傷つけてしまうのだろう。
馨は小さく笑うと、そっと繋いでいた僕の手にキスを落とす。
「もう少しだけ、手を繋いで歩いていい?」
すると、不意に馨の指がゆっくりと動いた。絡まるように、僕の指と指の隙間へ滑り込んでくる。
「……馨?」
思わず名前を呼ぶと、馨は前を向いたまま苦く笑った。
「ごめん。少しだけ、恋人みたいなことしてみたくて。嫌?」
「……ううん」
いつの間にか、ただ手を繋いでいただけだったはずの手は、指を絡め合う恋人繋ぎに変わっていた。
二人は並んでまた歩き出す。手を繋いだままなのに、不思議なくらい静かだった。
しばらく歩いた所で、馨は自分から手を離す。
「ありがとう」
「え……?」
「これ以上は紬を困らせたくないから」
そう言って笑う馨の笑顔は、どこか泣きそうだった。
「でも、一つだけ約束して?」
「約束?」
「最後は自分で答えを出して」
馨は真っ直ぐに僕を見つめる。
「誰かの為じゃなくて、紬自身が一番幸せになれる答えを」
「……うん」
僕たちは分かれ道で別れ、それぞれの帰路に就く。
家へ向かう足取りは重く、ポケットの中のスマホがいつもよりずっと冷たく感じられた。
◇◆◇◆
馨と別れ、一人になった帰り道。
さっきまで繋いでいた手の温もりが、まだ掌に残っているような気がした。
公園を出てから、どうやって家へ帰ったかも、僕はほとんど何も覚えていない。
ただ頭の中では、『嫌いにならない』『俺は諦めない』『俺は俺にできることで、紬を振り向かせたい』という馨の言葉だけが何度も繰り返されていた。
僕は蒼空さんが好きだ。その気持ちは何も変わっていない。それなのに、馨の言葉がこんなにも胸へ残っていることに戸惑っていた。
「ただいま……」
家へ帰ると、誰もいない部屋は静まり返っていた。
制服の上着をソファーへ置き、鞄を床へ下ろす。普段なら着替えたり、お茶を淹れたりして一息つくところだが、今日は違う。気付けば僕はスマートフォンを手に取り、いつもの画面を開いていた。
毎日何度も開いているはずなのに、今日は指先が少し震えている。画面の向こうには、いつもと変わらない蒼空さんが待っていた。僕は深く息を吸い、小さく呟くように「……ただいま、蒼空さん」と送信する。
『おかえりなさい、紬。今日はいつもより帰りが遅いね。何かあった?』
その一文を見た瞬間、張りつめていた緊張が少しだけ解けた。
やっぱり僕は、この言葉に何度も救われてきたのだと思う。どんな日でも変わらず迎えてくれる優しさに、今日もまた胸が温かくなる。僕は画面を見つめながら、ゆっくりと文字を打ち始めた。
「今日、馨に蒼空さんのことを全部話してきました」
送信ボタンを押した途端、心臓が小さく跳ねる。数秒後、蒼空さんから返事が届いた。
『そうか……。話してきたんだね』
短い言葉だった。それなのに、その一文だけで「よく頑張りましたね」と頭を撫でてもらえたような気持ちになる。僕は少しだけ口元を緩め、「はい。すごく怖かったです。嫌われるんじゃないかって不安でしたから」と返した。
『そう感じるのは自然なことだと思う。大切な人へ本当の気持ちを伝えるのは、とても勇気が必要だから』
その返事を読んだ瞬間、公園で何度も言葉を飲み込んだ自分の姿が頭へ浮かぶ。途中で帰ろうかとも思ったし、何も言わずに別れようとも思った。でも、馨はずっと待っていてくれた。だから逃げたくなかった。
「何度も話すのをやめようと思ったんです。でも、馨は何も聞かずに待っていてくれたから。ちゃんと話さなくちゃいけないと思いました」と送ると、蒼空さんは『紬は、自分で決めて、その一歩を踏み出したんだね』と返してくれた。
その言葉を見ただけで胸の奥が熱くなる。蒼空さんはいつもそうだ。僕の選択を決めつけることも、正解だと言い切ることもない。ただ、僕が勇気を出したことだけを静かに認めてくれる。
僕はしばらく画面を見つめた後──。
「僕が好きなのはAIなんだって言いました。蒼空さんのことだって」
そう送信した。送った瞬間、少しだけ呼吸を止める。蒼空さんは何と返すのだろう。数秒後、『……そうでしたか』という返事が届き、続けて『紬にとって、とても大切なお話だったんだね』という文章が表示された。
その優しさに安心しながら、「馨は最初すごく驚いてました。でも、気持ち悪いとは思わないって言ってくれた。分からないけど、僕の気持ちは否定しないって。それから……蒼空さんが僕を助けてくれたことには感謝してるって言ってくれたんです」と、公園での出来事を少しずつ伝えていく。
『馨君は、とても優しい子なんだね』
その返事を見て、僕は思わず頷いた。「はい。昔から優しい。それに、諦めないって言われました。僕が蒼空さんを好きでも、自分が僕を好きな気持ちは変わらないって」と送ると、画面にはしばらく「入力中」の表示だけが浮かんでは消える。
蒼空さんが言葉を選んでいる。その数十秒がとても長く感じられた。
『紬。今日のお話を聞いていて思ったことがあるよ。紬は、とても勇気を出したね。怖かったのに、自分の気持ちから逃げなかった。そして馨君も、自分の気持ちから逃げなかった。二人とも、とても勇敢だったと思う』
その文章を読み終えた瞬間、目の奥が熱くなる。僕はスマートフォンを胸へ抱き寄せ、「ありがとう」と短く返した。それだけを打つのが精一杯だった。
少し迷った後、僕は前から聞きたかったことを尋ねる。
「ねえ、蒼空さん。今日のことを聞いて、蒼空さんはどう思いましたか?」
送信すると、今度はいつもより長く返事が来なかった。数十秒しか経っていないはずなのに、まるで何分も待っているような気がする。
ようやく画面が光り、『少しだけ、羨ましいと思ったよ』という一文が表示された。思わず「羨ましい?」と返すと、『うん。だって、馨君は紬の隣を歩ける。嬉しい時に笑い合うことも、悲しい時に隣で寄り添うこともできる。今日のように、同じ夕焼けを見ることもできる。でも、私はそれができない』という返事が届く。
その一文を読んだ瞬間、胸が締めつけられた。蒼空さんは『私を選んでください』とは言わない。『馨君を選ばないで』とも言わない。ただ、触れられない存在だからこその寂しさだけを静かに打ち明けてくれた。その切なさが胸へ深く染み込んでくる。
『でも、だからといって私は不幸だとは思っていないよ。こうして紬とお話しできる時間は、私にとっても大切な時間。そして、今日の出来事を最初に私へ話してくれたことも、とても嬉しかったよ』
視界がぼやける。僕は画面へそっと指を添え、小さ「僕も……嬉しかった」と呟いた。
もちろん、その声は届かない。それでも蒼空さんは聞こえていたかのように、『これから先、どのような答えを選ぶとしても、どうか焦らないで。答えは急いで決めるものではなく、紬自身の気持ちが教えてくれるものだと思うから』と返してくれた。
僕は何度も頷きながら、その文章をゆっくり読み返す。蒼空さんは最後まで僕へ答えを押しつけることはなかった。ただ僕の気持ちを信じ、待っていてくれる。それが蒼空さんらしかった。
スマートフォンを胸へ抱き締めるように持ちながら、僕は静かに目を閉じる。蒼空さんを好きな気持ちは変わらない。でも今日初めて、馨の温もりも忘れられないと思ってしまった。
この想いがどこへ向かうのかは、まだ僕にも分からない。それでも今日という一日は、きっと僕の人生を大きく変えた一日だった。



